「サイン……会……?」
「と、いうと?」
その結果、全体的にポカーンとされた。
どうやらリコリス・ラジアータにはサイン会が存在しないらしい。
よかった、予想通りだ。
「口で説明するより実物見せた方がいいと思って、描いてきた。要はこういうのをその場で描いて、手渡しする催しなんだけど」
マンガ家やイラストレーターの標準的なサインは、サイン+ペン入れレベルの自キャラの顔。
……だと思う、多分。
気合い入れて本気描きする場合もあるにはあるけど、それは例えばキャンペーンの景品用や個人的な依頼などの特別なケースのみ。
サイン会の場合は、そこまで時間をかけて描く事は殆どない。
「わ、ボクこれ欲しいです! ちょっと雑な感じが逆にいいですよね!」
「こんな描き方があるんスね……勉強になるッス」
クレイン少年とフリーダさんが食い入るように俺のサイン色紙(実際には色紙じゃなくて羊皮紙っぽい厚紙)を眺めている一方、ルカとエミリオちゃんは顔を見合わせ、小さく頷き合っていた。
「もしかして……国王のサイン入り立ち退き状から着想を得た……?」
「ま、まあね」
「ひあああ、やっぱりです! ユーリ先生のそういう発想力、スゴいと思います」
実際には元いた世界では当然のように存在していた催しだけに、エミリオちゃんの褒め言葉は素直に喜べない……けど、今は俺のチンケな矜持なんてどうでもいい。
「取り敢えず、今後《絵ギルド》を売り出そうと考えている地域に俺が直接出向いて、こういうのを描いて手渡すゲリライベントを仕掛けようと思う。そうすれば《絵ギルド》の宣伝になるし、妨害も受けない筈」
クレイン達を妨害したのがリチャードの雇った輩なのは確定済み。
恐らく《絵ギルド》を売っている行商を片っ端から脅せって感じの指示を受けてるんだろう。
なら、《絵ギルド》を直接売らずに違う形でプロモーションを仕掛ければいい。
そう考えた結果、サイン会を閃いたってワケだ。
元いた世界では、サイン会はファンとの結びつきを強化する為のイベントだ。
ファンがいない段階でサイン会を開いても意味がないか、限りなく薄い。
今俺がしようとしている事も、それに近いだろう。
《絵ギルド》が全く広まっていない地域でサイン会を開こうとしてるんだから。
でも、こっちではサインは未知の物。
それを描き配る行為もまた、未知のイベント。
『なんか変なコトやってんなー』と興味を持って貰えば、多分人は集まる。
そこで宣伝をすれば、いずれ妨害の件をクリアして真打ちとなる《絵ギルド》販売時に必ず大きな効果を発揮してくる。
問題は、その妨害の件だ。
リチャードのウイークポイントはわかった。
それをつついて、精神的に参らせる方法も実はちょっと考えたりした。
でもなあ……コンプレックスをつつかれる苦痛を死ぬほど味わってきた俺にとって、それは鬼門というか、やっちゃいけない事のように思う。
俺の目的の到達点は、過去の自分への報復だ。
リチャードの劣等感を攻撃するのは、報復どころか寧ろ結託。
自分がやられて嫌だった事を他者へ行うんだから、当然そうなる。
そう考えると、相手があの憎らしいリチャードでも二の足を踏まざるを得ない。
「とにかく、今は《絵ギルド》の潜在的な需要を膨らませようと思う。リチャードからの妨害への対策は、その間に色々考えてみるよ」
「あのう」
そう結論付けた俺に、エミリオちゃんがおずおずと挙手。
控えめな所作の割に、目はギラギラしている。
「わたし思うんですが、国王陛下のサイン入り立ち退き状がニセモノとわかれば、それを使って徹底的に脅せるんじゃないでしょうか。潰してしまえばいいとわたし思います」
うーん……リチャード絡みになるとこの子、色々ぶっちぎるなあ。
とはいえ、悪事の証拠を暴いての取引なら、因果応報というか、まあ心も痛まないよな。
でもニセモノの証拠なんて何もないのが実状。
仮にあったとしても『そんな事言った覚えはないな』と、すっ惚けられて終わる。
とはいえ、彼女の目は本気だ。
下手に受け流すとその怨念の一部がこっちに向きそうで怖い。
「そうだな……それじゃエミリオちゃんに頼もうか。証拠集め」
「ひあっ?」
「そうね……そこまで言うのだから自分でやるのが筋……筋……ただしやるからには徹底的に……リチャードが偽造した立ち退き状を極秘入手するとか……とっくに燃やすか破り捨てるかしてそうだけど……」
「ひああ!? そんな最難関クエスト、わたし無理ですよう!」
だから、その無理を理解させる為の俺とルカの発言なんだけど……酌み取って貰えないか。
それでも、万が一って事もあるし、彼女にはこの方向で動いて貰おう。
「とにかく、サイン会を始めるんで。クレイン君、各地域のイベントが出来そうな広い場所をピックアップして貰えるかな。フリーダさんにはサインを描く紙を用意して欲しいんだ。そのサインを描いてる厚い紙と同じくらいのを、五〇〇枚ほど」
「わかりました! お任せ下さい!」
「了解ッス! それくらいおやすい御用ッス!」
まだウンウン唸っているエミリオちゃんを尻目に、二人は気持ちのいい返事を残し、ランタナ印刷工房を後にした。
さて、俺もサイン会の為の準備をしておかないと。
何しろ、サイン会だ。
心を完璧に仕上げておかないと、死ぬからな。
サイン会。
それは俺のような三下クリエイターにとって非常に恐ろしいファン交流イベント。
本当なら、こんな手は使いたくなかったってのが本音だ。
かつて、一度だけサイン会に参加した事がある。
俺がイラストを手がけた三作目となるラノベの第二巻の発売日だ。
その時のラノベの作者はまだ新人さんで、それがデビュー作だった。
とても意気込んでて、俺がイラストを担当すると決まった時、何度も熱いメールを貰ったのを覚えている。
ツイッターでも頻繁に俺のイラストを褒めてくれた。
でも一巻があんまり部数出なくて、とりあえず二巻は出せる事になったけど、よっぽど頑張らないと三巻を出すのは難しいかなー、くらいのラインだったらしい。
そういう時って、二巻で完結させるか、三巻に続くとするかで相当迷うみたいで、イラストの指定もかなり遅れたっけ。
で、結局三巻を出す予定で二巻を執筆し、促売の為にサイン会を開く形をとった。
正直気乗りはしなかったけど、自分の関わった作品の為だし、協力は当然。
サイン会への参加を受理する事になった。
問題はここからだ。
まずそのサイン会、『来栖結理』の名前が先に表記されていた。
一応その時点では俺の方が有名だったから、少しでも多くの人に集まって貰う為にそうしたんだろうけど、作者にとっちゃ面白くない話だ。
その時点でもう気まずくて、サイン会の会場に到着した時点で空気が悪い事を察知した。
それでも、両者にとって初めてのサイン会。
本番が迫れば空気は緊張の方へ傾いていく。
淡い期待もあった。
多くの読者が駆けつけてくれて、チヤホヤされるという。
でも――――集まったのは〇名。
伏せ字じゃない。
ゼロだ。
サクラすらいなかった。
通常、駆け出しのラノベ作家やイラストレーターのサイン会なんて、そうそう人は集まらない。
ある程度売れてる人でも、告知のタイミング次第では閑古鳥が鳴くという。
ニッチな商売だから仕方ないのよ。
だからレーベル全体でサイン会をするケースの方が今は多いのかもしれない。
それでも、イラストレーターと作者が合同で行えば、最低限の人数は集まるのが普通。
イラスト付のサインが貰える上、プチトークショーみたいな事も出来るしね。
けど、結果はゼロ。
誰もいない中、パイプ椅子に座ってじっとしているだけの時間、それすなわち"地獄"。
冬だったら寒風吹き荒ぶ光景が哀愁を誘って絵になったかもしれないけど、春の陽気に誘われ街中を歩く人々の顔が妙に幸せそうに見える季節だったから、この上なく自分達が惨めな存在に思えて仕方なかった。
その後の事は、よく覚えていない。
記憶に残ってるのは、作者の方の『あー、終わった』という投げやりな一言。
勿論、イベントの終了を意味する言葉じゃない。
いろんなものが終わりを告げた、そんな瞬間だったに違いない。
当時、あれは作者の方と俺に現実を見せる為のイベントだったんじゃないかと勘ぐっていた。
もうこの作品に次はないよ、需要ないのわかったでしょ、と思い知らせる為の。
でも、そんな事の為にいちいちイベントを打つだけの価値は俺にもあの作者の方にもない――――今ならそれがわかる。
あのサイン会は、担当編集が『これだけやったんだよ』と上の人に示したポーズかもしれない。
あのラノベを続けさせたくて、どうにかしたいという一心で打った愛情の一手だったのかもしれない。
いずれにしても……あの件が俺のその後の転落人生に影響したか――――というと、多分してない。
落ち目の自分を自覚するきっかけにはなったけど。
要するに、ただ地獄のような時間を過ごすだけの、地獄見物ツアーだった。
でも今、別の世界にいる俺は自らそのサイン会を開こうとしている。
二度と味わいたくない時間だったにも拘わらず、とても参考になってしまっている。
人生わからないもんだ。
なんにせよ、当時の経験を活かしてガッチリ心構えをしておかないとな。
今回はあの時と違って作品そのものは売れてるんだから、例え人が集まらなくても腐る必要はない。
悟りを開いた仙人のようなゆとりを持って望むとしよう。
「老いぼれた……オーラを感じる……枯渇……枯渇……」
結果、ルカから老衰間近のジジイを見るような目で見られた。
その後、サイン色紙と会場の確保に無事成功した俺は、今後《絵ギルド》を売り出す予定の地域へと遠征し、ゲリラサイン会を各所で実施した。
会場は、街中にある広場が主。
そこに木製の看板と机と椅子を持ち込み、机上でサインを描くだけの簡単なイベントだ。
最初は予想通り食いつきが悪く、奇異の目で見られるだけだったけど、俺が少し大げさなジェスチャーを交えてサインとイラストを描いていると、子供を中心に人だかりが生まれ、どの地域でも予定していた全てのサインを配る事が出来た。
物珍しさ以上のものはなかっただろうけど、今はそれでいい。
いずれ、そこで《絵ギルド》を売り出す時に、『あの時の絵と同じだ!』と思って貰えれば、手に取りやすくなるだろうから。
そんな一心で強行日程のサイン会を消化し、最終日――――
「サイン、絵付きで欲しい」
潰れた夕日が漂う茜色の空の下、残り数枚となったサイン色紙の数を数えている所に、そんなぶっきらぼうな女声でリクエストが来た。
「いいですよ。どんな絵を描きますか? 男の子の絵、女の子の絵、青年の絵、老人の絵……何でもいいですよ」
「亜獣の絵を」
人間以外のリクエストが来た!
亜獣か……一度だけ描いた事あるんだよな。
あのフクロウもどきの亜獣の子供。
動物の絵は苦手だから、もう見たまんまって感じの絵になっちゃったんだっけ。
ま、それでいいか。
「了解しました。少し待ってて下さい」
《絵ギルド》で描いた時の絵柄を思い出しつつ、どうにか完成。
最後に自分のサインを添え、俺はリクエストをくれた人の顔を見るべく視線を上に向け――――
「……な」
そこにいた黒ずくめの女性、宮廷絵師"黒の画家"イヴ=マグリットの姿に絶句した。
な、なんでこの人が、ここにいるんだ……?
「ありがとう」
俺の驚愕と困惑をまるで無視し、出来上がったサインを受け取ったイヴさんは、俺が描いた亜獣を睨むように細目で見続け、そして――――
「……」
何も言わず背を向けた。
「ちょ、ちょっと……!」
「貴方の絵には、無限の可能性がある。この絵にもその片鱗が見える」
思わず呼び止めようとした俺に、背中越しに語りかけてくるその声は、一切の淀みなく澄んだ小川のせせらぎと同じように、スッと耳に入ってきた。
「それでも、私は負けない」
再度の宣戦布告もまた、同じ。
どうして――――彼女の声は、こうも俺の耳に馴染むのだろう。
俺は彼女が怖くて仕方がない。
俺の秘密を知っているような、全てを見透かしたようなあの目が恐ろしくて仕方ない。
その筈なのに、その存在を無意識の内に受け入れているような気さえする。
一体、あの人は何なんだ?
俺をどうしたいんだ?
俺は、彼女にどういう感情を抱いているんだ……?
「……」
考えがまとまる事はなく、俺は意図も目的もまるで理解出来ないままでありながら、彼女の後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。
けれど、混乱はまだ終わらない。
「案の定、接触しましたわね」
イヴさんの姿が街中へと消えていった頃合いを見計らったかのように、今度はお嬢様口調の女声が俺へと向けられた。
その声には、聞き覚えがハッキリとあった。
でも、ここにいる筈のない人物という点では、さっきと共通している。
寧ろ、本来ならこっちの方を驚くべきかもしれない。
「……メアリー姫?」
「お久しぶりですわね、ユーリ。精力的に活動していて何よりですわ」
このカメリア王国の第一王女、メアリー殿下が腰かける俺を悠然と見下している。
……奇妙な仮面を被って。
「何ですか? 顔のそれ」
「変装に決まっているでしょ? 仮にも王女なのだから、素顔を晒して一般市民の住まう街中を出歩く訳にはいきませんのよ」
「それはわかるんですが、仮面のチョイスに甚だ疑問が」
元いた世界では〈マスカレード〉と呼ばれるタイプの、目だけを覆うやたらハデな装飾の仮面。
仮装パーティーで使うヤツだろ、それ。
「王家の変装ともなれば、これくらいはしなくてはなりませんの」
「変装に格を求められても……目立つだけで何も得しないでしょ」
「それはある意味、王族の真理ですわね。流石ユーリ」
なんか深い事を言ったようにされた。
こういう過大評価、嫌なんですけど。
「それより、こんな所で何をなさっているの?」
「俺は《絵ギルド》の営業というか、流通経路拡大の為の下準備みたいな事をやってるだけですけど……ちょっと上手くいってなくて」
「あら。《絵ギルド》の流通が妨害されているという話は本当でしたのね」
「え……」
どうしてそれをメアリー姫が知っている?
俺がその疑問を口にしようとしたその時――――
「ところで……一体いつまで隠れていますの? とっとと出て来なさいな」
メアリー姫が唐突にそんな事を叫ぶ。
まさか、イヴさんがメアリー姫に気付いて引き返してきたのか?
「し、失礼します……」
そんな俺の懸念は、俺が持ち込んだサイン会の看板の陰から現れた人物によって一瞬にしてかき消された。
メアリー姫と同じ種類のマスカレードで目元を隠しており、その時点でイヴさんとは別人だとわかる。
というか、一目で誰かわかった。
「全く、ユーリに会いたくてわたくしの護衛を買って出たのでしょう? 恥ずかしがる必要はなくてよ?」
「ち、違いますよ! メアリー殿下がムリヤリ連れて……」
「ともかく、挨拶なさい。騎士なら騎士らしく」
「うう……はい」
そんな主従関係とは違う関係が見え隠れするやり取りもそこそこに、彼女は俺の前におずおずと歩み寄り――――名乗りあげる。
「ご無沙汰しています、ユーリ先生。白の騎士会所属、リエル=ジェンティーレです」
「……変装、お疲れ様です」
「私はその必要ないんです……うう……」
約半年ぶりに再会したリエルさんは、やっぱり今日も王女に可愛がられていた。
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