「夜逃げって……どうするんだろ」

 翌日、早くもそんな呟きが口から出てくる。
 俺はカメリア国王杯に応募するイラストの構想を練りながら、早くも途方に暮れていた。
 ついでに日も暮れつつある。
 半日考えても、構想の入り口にすら辿り着けていなかった。

 まあ、この展開も毎度の事だから、まだそんなに追い詰められてはいないんだけど、ちょっと困った事がある。
 一枚絵を描くプロセスにどうも上手く入り切れていない。
 これまでちょくちょく《絵ギルド》以外にも色んな絵を描いてきたんだけど、あれらはあくまでインスピレーションの赴くままに描いただけ。
 明確な目的があり依頼された一枚絵を作成するとなると、全くフィーリングが違う。

 そして、そんな一枚絵を描くのは、この世界に来て恐らく初めて。
 ルカやエミリオちゃんにお願いされて描く絵とは訳が違う。

 それに《絵ギルド》とも全く違う。
 これは半分マンガのようなもの。
 今回のはストーリーに沿う事もない、完全な一枚絵だ。

 一枚絵はイラストレーターにとって、基本であり、必殺技であり、切り札であり、王道。
 これをちゃんと描けないと、イラストレーターとしてはやっていけない。

 何せ一枚絵には誤魔化しが利かない。
 画力、構図、発想力、技量……それらが全てシンプルに出る。
 その一枚に集中する分、見る方の目もシビアになる。
 そういう意味では、最も難しい作品かもしれない。

 まずテーマの表現が難しい。
 一枚絵は、そのテーマをバシッと一つの平面空間に出さなきゃならない。
 マンガや《絵ギルド》みたいにストーリーによる奥行きがない。
 深く掘り下げられない分、テーマがどうしても剥き出しになる。
 そこに明らかなクドさがあれば、たちまち絵はチープになってしまうだろう。

 逆にチープなくらいで丁度いいケースもままある。
 テーマが野晒しになった一枚絵は、それはそれで見やすいしわかりやすい。
 ただ、今回のメアリー王女からの依頼はそれじゃダメだろう。

 国王の目を覚まさせる絵。
 つまりそれは、国王に強い興味を持って貰い、かつ感動などの大きな心の動きを生じさせ、亜獣への執着心を削らないといけない。
 俺がアニュアス宮殿で見たあの男性が国王だとしたら、かなり精神的に特殊な状況下にあると見ていい。
 相当な難題だ。

 一枚絵に、一体どうすればそんなマルチな効果を付随出来るのか。
 そもそも一枚絵ってどうすりゃ上手く描けるんだ。
 それ以前に、絵とは――――

「ん……?」

 完全に袋小路に迷い込みそうになった俺の耳を、控えめなノック音が小突く。

「ユーリ先生、いらっしゃいますか?」

 宿の窓から差し込む薄紅色の光を浴びていたこの部屋に、リエルさんが扉越しに声を掛けてきた。
 開いている旨を告げると、静かに扉を開けるリエルさんの姿が俺の視界に入ってくる。
 不意打ちの休憩タイムに、俺はなんとなく安堵していた。

 彼女とメアリー姫は元々総合ギルドにも用事があったらしく、当初からその流れで俺を訪ねてくる予定だったという。
 なので宿も予約済みだったようだけど、なんとその宿は俺がルカに紹介されて現在寝泊まりしているこの〈コロナリア〉だったそうな。
 お忍びとはいえ、王族が泊まるような宿を紹介するとは……ルカの奴、相当紹介料ボッタくりやがったな。

「どうですか? コンテストの絵の進捗具合は」

「正直、まだ構想の段階です。流石に普段の創作活動のようにはいきませんね」

「あ、す、すいません! 急かしてしまったみたいで……お邪魔、ですよね?」

「いえいえ。気分転換したかった頃合いなんで、丁度よかったです」

 そう答えたものの、リエルさんは申し訳なさそうに身を小さくし、所在なさげに部屋の中央に突っ立ったまま。
 騎士というと相当偉い身分の筈なのに、彼女は常に奥ゆかしいというか、遠慮深い。
 単にそう感じるような距離感の関係ってだけかもしれないが。

「あの、あらためてユーリ先生にお礼を言わせて貰いたくて」

 微妙に不満を抱いていた俺に、リエルさんがおずおずとそんな事を伝えてくる。

「メアリー殿下のご依頼を受けて頂き、ありがとうございます」

「そんな……まだ受けただけで、なんにもしてませんから」

「でも私、本当に嬉しかったんです」

 そう言いながらも、リエルさんの表情は次第に曇っていく。

「両殿下は……陛下の事でずっと、心を痛めておられましたから。ユーリ先生の《絵ギルド》の件がなければ、お二人は今以上に追い詰められていたかもしれません」

「そんなに、国王様の状態は深刻なんですか?」 

「……ほぼ自我を失っておられます。毒を盛られたかのような状態で……《絵ギルド》に関心を示されたのが奇跡と言っていいほど」

 やっぱり……アニュアス宮殿で見たあの男性が国王で間違いなさそうだ。
 幾ら変な物好きで、その嗜好が亜獣とフィットしたといっても、そこまで入れ込むものなのか?
 そりゃ、元いた世界にも特定の分野に傾倒しすぎて変わり者の枠を飛び越えた人もいたけど……

「この話をユーリ先生にするべきかどうか、悩んでいたんですが……私とメアリー殿下は三つの目的を持って、王都を出て来たんです」

 呆然としていた俺に、畳みかけるように――――というよりは丁寧に積み重ねるように、リエルさんが言葉を続ける。
 そういえば、最初に来た時も三つの目的があるって言ってたな。
 なんとなく、当時を懐かしむ。
 まだ一年も経ってないんだけど。

「一つはユーリ先生に今回の件を依頼する事。一つはメアリー殿下が来年から指揮を執られる〈亜獣被害対策検討委員会〉の根回し。そして、もう一つは……古典派の動きを把握する為です」

 古典派……というと真っ先に思い浮かぶのが、俺の絵を酷評したあの宮廷絵師ベンヴェヌート=ヴァスィリキーウシクィイと、その師匠ジャック=ジェラール。
 絵の印象だけを見れば"頑固一徹"とか"四角四面"とか、そういう人物像を想像しそうなものだけど、実際にはナルシストと変人という割と残念な人達だった。

「彼らはどうやら、陛下が現在の状態でおられる事を把握しているようです。表立って陛下を批判する事はありませんが、少しずつ不穏な動きをし始めているみたいで……」

「古典派の絵って、今はあんまり勢いがないんでしたよね」

「元々、古典という分野は時代に左右されず、流行とは一線を画す存在でした。でも、幻想派の台頭や陛下の嗜好とズレてしまった為、難しい立場にいるのは確かです」

 となると、連中にとっては国王が変わった方が都合がいいのか。
 王位継承の候補は三人。
 その中で古典派を支持しているのは確か……ゴットフリート=カミーユ=サージェント殿下だったっけ。

 古典派にとっては、一日でも早く彼に国王の座へ就いて欲しいに違いない。
 現国王が、国民を脅かす存在である亜獣に魅入られているという情報は、連中にとって格好のスキャンダルって訳か。

「案の定、彼らは各地で陛下と幻想派を貶める為の準備をしていました。特に、今後古典派を脅かす存在として《絵ギルド》はかなり目を付けられているみたいです。何か妨害のような事をされませんでしたか?」

「……されましたね」

 エロ同人とか、行商への妨害とか。
 ま、前者は古典派とはあんまり関係なさそうだし、後者の方はリチャードの仕業だと判明したばかりだけど……

「やっぱりそうでしたか。メアリー殿下の情報網によると、どうも古典派の方々が《絵ギルド》の販売を妨害しているという話でしたので」

「え?」

「え?」

 二人して疑問符を頭の上に浮かべる。

「それ、確かな情報なんですか?」

「は、はい。王家の情報網は国内最高の精度と速度でなければ務まりませんから」

 ですよね。
 となると、考えられるのは……リチャードが古典派と繋がっている、ってシナリオ。
 でも市長は総合ギルド推進派だから、完全に国王寄りだよな。

 いやでも今の国王の状態で、国政を正常に運営出来てるのかも疑問だよな。
 そもそも、ハイドランジアを潰そうとしていたのは本当に国王なのかって話だ。

「リエルさん。ハイドランジアの吸収合併って、やっぱり国王様の意向なんですか?」

「それは……私にはわかりません。冒険者ギルドをなくすという話は以前からありました。陽性亜獣が滅んで以降、目立った活動の場がありませんでしたから」

 その話はジャンもしていた。
 加えて、亜獣キラー的な存在の冒険者は亜獣好きの国王にとって邪魔なのは間違いない。
 俺の考え過ぎだったのかもしれない。
 妨害の一件だって、偶々古典派の方針とリチャードの行動が一致しただけかもしれないし。

「なんにしても、古典派の動きには要注意です。今のところ、それほど過激な動きをしていくるとは思いませんけど……もし遠くへ移動する時は、護衛を付けて下さい」

「護衛……ですか」

 なんとなく、目の前のリエルさんを眺める。
 責任感が強いこの人が護衛してくれるのなら安心なんだけど……

「わ、私はメアリー殿下の護衛がありますから!」

「あ……そうですよね。すいません」 

「でも、もし許可が下りれば、私……」

 急に小声になった為、リエルさんの言葉は後半殆ど聞こえなかった。

「えっと、今何を……」

「なんでもありません! とにかく、そういうことですから、どうかご自愛下さい!」 

 なんか勢いで話を逸らされてしまった。
 とても凛としているのに、妙に打たれ弱いというか動揺しやすいというか……彼女といると、つい困らせたくなってしまう。
 小学生が気のある子にそうしてしまうように。

 ……両殿下が彼女を弄り倒す気持ち、わかるなあ。

「やっぱり、ユーリ先生は凄いですね」

「え? な、なんですかいきなり」

「護衛を付けなければならないと言われても、まるで動じていませんから。この街での亜獣騒動の時もそうでしたけど、本当に心が強いです」

 言われてみれば――――確かに俺、結構危ない状況なんだよな。
 とはいえ、自分の命が狙われるとか、そんなの実感沸かないって。

「それに、今回の件も」

「今回の件って……メアリー姫の?」

「そうです。私はてっきり、お引き受けする代わりに何か条件を出すんじゃないかって思っていました。ハイドランジアを再独立させるとか、《絵ギルド》を全国に広めるとか」

 ああ、確かにその手はあった。
 王女の頼みを聞くとなれば、それくらいのご褒美は貰って然るべきだろう。
 他にも、《絵ギルド》の紹介文を頼むとか。
『あの××先生も推薦!』みたいな帯を付ける感じで。

 実際、そんな邪な気持ちがなかった訳じゃない。
 いや……ジャンを助けてハイドランジアを復活させるという目標に真摯であるなら、例えメアリー殿下とリエルさんにどう思われようと、交換条件を出すべきだった。

 寄付金を集めてもダメ、ギルドごと買い取ろうにも何年かかるかわからないという状況にあって、今回のメアリー姫の依頼は最大のチャンスだ。
 そしてこれが最後のチャンスかもしれない。

 けどなあ……父親を助けたいというお姫様相手に、交換条件なんて出せないよ。
 例えご褒美の為に依頼を受けたとしても、結果的に二人の王女を助けられるのなら何の問題もないかもしれない。
 だけど――――

「でも、ユーリ先生は何も条件を出しませんでした。ご自分も難題を幾つも抱えていらっしゃるのに……本当に凄い人なんだなと再確認しました」

「そ、そんなに大層な事じゃないんですけど……」 

「ご謙遜なさらないで下さい。とても強い意志を持ってて……私とは大違いです」

 不意に、リエルさんの顔に陰が差す。
 直ぐにでも反論しようと思ったけど、続きを聞くべきという警鐘のような声が頭に響いてきたんで、口を噤んで次の言葉を待った。

「以前、王城のアニュアス宮殿で私とお話した事、覚えていますか?」

「勿論ですよ。遊歩道の件ですよね。俺としては珍しく気の利いた事を言えた自負がありましたから」

「そ、そうだったんですか。でも、そういう事をサラッと言えるのも羨ましいです」

 ……冗談を真に受けられてしまった。
 リエルさん相手にカッコ付けた言い回しするのは控えよう。

「あの、少しだけ私の事をお話ししてもいいですか? 退屈かもしれませんけど……」

「いえ。正直、興味あります。聞かせて下さい」

「わ、わかりました。御期待に添えるよう頑張ってお話しします」

 真面目なリエルさんらしい、ちょっと奇妙な力の入れ方に苦笑しながらも、俺は完全に机に背を向け、話を聞く態勢を整えた。 

「実は私、ほんの一時期だけですけど……画家を目指した事があったんです」









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