僕は泣いていた。
悔しくて。悲しくて。惨めで。
当たり前のものが当たり前でない理不尽な現実が許せなくて。
『ははっ! 泣いてやんの!』 『よえ〜な〜!』 『ばっかじゃねーのー?』
うるさい。僕だって、好きでこんな境遇になった訳じゃないんだ。
僕が悪い訳じゃないんだ。
なのにどうして僕がこんな目に合うんだ。
ちくしょう……ちくしょう!
「……どうしたの?」
誰かの声がする。
多分、かーさんの声。
一人公園のブランコを揺らす僕を迎えに来たんだろう。
「ねえ、かーさん」
いつもは泣き顔を見せたくないから顔を見ないようにするんだけど、この日はじっと
かーさんの顔を見て聞いてみた。
多分、聞いちゃいけないのに。
「どうして、僕にはおとーさんがいないのかな?」
かーさんはそれを聞いた途端今まで見た事のないような、悲しい顔をした。
やっぱり言わなきゃよかった……
「そうね……」
でも、かーさんはすぐいつものかーさんの顔になった。
よかった。あんなかーさんの顔、見たくない。
「きっと、大人になったらわかるよ」
「えっ?」
「祐一がさ、大人になったら、判るんじゃないかな」
かーさんは優しい声でそう言った。
だから。
その日、その時、僕は初めて、この疑問を口にした。
「……大人って、何なの?」
ミルクセーキとアイスコーヒー
「ご注文は以上でしょうか?」
「はい」
僕が頷いて見せると、ウェイトレスのおねーちゃんはそれまでの営業スマイルを
一瞬にして『無』に変え、テーブルから離れて行った。
その接客態度に、プロフェッショナルとしての誇りを感じずにはいられない。
「……なあ」
そんな事に感心する僕を、蔑むかのような目で見る男が一人。
向かいの席に座っているこいつは、友人でクラスメートの結城一哉(ゆうきかずや)だ。
受験生の癖に、茶髪にロンゲのホスト面という、団塊の世代の嫌悪を
一手に引き受けるような外見をしている色々と面倒な奴だ。
「何だよ。別に『ウェイトレスをいかがわしい目で見る事を禁ず』ってな法律はないぞ」
「いや、そうじゃなくて。それだよ、それ」
一哉が指差したそれは、僕が注文したドリンクに他ならない。
美しいクリーム色と表面の泡が食指を誘う一品、その名も『ミルクセーキ』だ。
「いい加減、それやめろよ。みっともねー」
呆れを前面に押し出しつつ、一哉が嘆息する。いつもの風景だった。
「……うるさいな。放っておいてよ」
「全く……」
目を瞑って額に手を置き、首を横に振る。そのリアクションはさながら
坂道発進を何度も失敗した生徒に呆れる教習所のじじいのようだった。
……いや、本気でムカつくらしいんだよ、あれ。
「いつまで経ってもガキだな、お前は」
「飲み物の嗜好だけで決め付けんな」
「やだねえ、向上する精神を放棄した人間は。お前みたいな奴が、子供が泣いてるのに
ゲームばっかしてるような『チャイルドファーザー』になるんだろうな。
そして、『最近の若いのはいかんですな』とかワイドショーで言われるんだろう」
……夏休みの度にワイドショーに取り上げられてる『最近の若者』の
代表のような奴に言われてしまった。
「ちゃんとしなくちゃ駄目じゃない、もう」
「うるせえ! ムカつくイントネーションで諭すんじゃねえ!」
「大声出すなよ。恥ずかしい」
「く……」
こいつとはもう十年来の付き合いになるが、どうにも口では勝てない。
日頃ナンパしまくって鍛えてるからなのか、主導権を取るのがやたらうまいのだ。
「まあとにかく、もう少し年相応の好みに変えろよな。来年は運が良ければ大学生なんだから
そろそろちゃんとした大人の味覚にならねーと」
運が良ければは余計だ、と言おうとした瞬間、一哉は席を立った。
「何だよ。もう出るのか?」
「これからデートなのだよ」
そう言って伝票をさりげない仕草で手に取る。
「お。奢りか?」
「次はお前の番だからな」
……通りでドリンクしか頼まなかった訳だ。
「じゃあなぁ〜」
非常にムカつく足取りで一哉は店を出てった。
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「年相応、か」
翌日。
朝の補習が終わって一段楽した教室は、緩やかに漂う睡魔の吐息をかき消すかのように
喧騒に包まれていた。
そんな中、僕は昨日一哉に言われた事を反芻中。
年相応。
ちゃんとした大人。
そりゃ、ね。
なれるもんならなりたいさ。
もし、『立派な大人になるための一〇八つの方法』みたいなマニュアル本があるのなら
小遣い全部叩いてでも買うさ。
でも、現実にはそんなものはなくて、僕らは親やメディア等から大人の偶像を
捕らえながら生きて行く。
その事に不満はない。でも、不安はいつだって募る。
僕は、ちゃんとした大人になれるのだろうか……
「ようし、席に着け。お前が席に着け。お前も席に着け」
担任の声が僕を急速に現実へと引き戻す。
ついでに、妙に緊張感を含んだ空気が漂う。
何だ……?
僕はその奇妙な雰囲気に誘われるかのように、顔を上げた。
そこには……
「ちょっと時期外れだけど、転校生が我がクラスにやってきました。それじゃ自己紹介して」
「はい」
清楚な声。
優雅な仕草。
そして、端正さと愛らしさを兼ね備えた顔。
「酒井優歌(さかいゆうか)です。こんな時期ですけど、皆さんよろしくお願いします」
僕は、至極あっさりと魂を奪われた。
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