「ハァ……ハァ……ハァ……ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
……えー。
わたくし、はざま探偵事務所所長、狭間十色と申します。以後お見知りおきを。
普段はこんな騒音を撒き散らすような事は決してないし、なんだったら余りにも依頼がなくて電話の音もメール通知音もメシの咀嚼音さえもしない、それはもう環境に優しくSDGsにも理解のある模範的な探偵事務所なんですけど、今日のところは御勘弁願いたい。
依頼人だって発狂くらいするさ。人間だもの。
そう。彼女は依頼人。本当に、超々久々に依頼が舞い込んできたのです。料金が発生する新規の依頼なんて一体いつ以来だろう……振り返るだけで寒気がする。よく潰れないよな……この事務所。
現実を生きる探偵にとって、密室殺人や大がかりなトリックなんて所詮は絵空事。我々の食い扶持を稼ぐ為のお仕事は、浮気調査と素行調査、そして逃げたペットの捜索が大半を占める。実入りの良い仕事は大手が全部持っていくし、大手になるには相応のコネクションが必要。高校中退した20歳未満の新米探偵がゲットできる道理はない。
だから自然と処世術も身に付く。最近は意識を宇宙に飛ばす事で空腹の上ブレから逃れる術も会得したから、一ヶ月の食費を5000円以内に抑える事も難しい事じゃなくなった。人間、積み重ねが大事よ。
「うああああああああああああああああ!! うあああああああああああああああああああああ!!」
これは別に俺の心の声じゃない。電話の向こうにいる依頼人が先程から発狂しているだけだ。ちなみに初対面。しかも電話かけて来たのは3分前。ウルトラマンの怪獣より早く断末魔の叫声をあげる人間なんて普通なら関わり合いになりたくはないが、依頼人なら仕方がない。それを受け止める肝要さも探偵の責務であり技術だ。
「どうぞご自身で納得されるまで発狂して下さい。そうすれば多少は気も晴れますので」
「キィィィィィィィィィヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」
それにしてもこの依頼人、人語を操らないな。ムンクの声優でも目指してるのか?
しかし何事も根気だ。根気強く、彼女が人間に戻るのを待つ。この依頼人……絶対に逃がさない。絶対にだ。
もう……食費がないんだよ。
幾ら俺でも、最寄りのコンビニのアルバイト店員と故意に懇意になって、破棄される弁当やおにぎりをこっそり分けて貰うという荒行にだけは手を染めたくない。あれは何というか、社会からズリ落ちた感が半端ないんでね。
正規のルートでッ! 正規のルートで生命を維持できる人生を送りたい。
「ハァ……ハァ……ハァ……ふぅ……」
そんな俺の願いが届いたのか、依頼人はようやく悲鳴なのか威嚇なのかわからない叫びを止めた。
「すみません、少し落ち着きました」
そう若干震える声で話してきたこの依頼人、俺と同世代の女性だ。
正確な年齢は18歳。そして今、国公立大学の二次試験が行われている期間。つまり彼女は受験生だ。
そんな彼女が暫く発狂していたのには、この件が大きく関係している。そして、そうなるのもやむなしと納得するだけの理由がある。ストレスも多分にあるだろうけど、それは主因じゃない。
彼女がこの俺に、探偵に電話をかけてきた理由は――――
「落ち着き……落ち……いやああああああああああああああああああああ!!」
「自分で言った言葉で発狂しないで下さい」
「あ、ごめんなさい」
情緒不安定なのは受験生だから仕方がない。『落ちる』という言葉に過敏なのも然り。ただ、彼女の場合は今更ビクついても無意味なんだ。
というのも、もう不合格が決定してるから。
昨日、この依頼人はとある大学の二次試験を受ける予定だった。が――――残念ながら受けられなかった。
理由は風邪、との事。
病気によって入試試験を受けられない状態の生徒に対する救済措置の有無は学校によって様々だけど、大抵の学校では何かしら用意している。インフルエンザやコロナの場合は、他の生徒と同じ教室で受ける訳にはいかない為、別日に追試を受けさせる事が多い。体調が悪い生徒を一旦別の教室で休ませ、回復次第別室で再開させるケースもある。
なので、病気を理由に受験に失敗する生徒は少ない。それでも彼女の場合はアウトだった。
というのも……風邪は引いたものの、当日には治っていたからだ。
発病は入試の三日前。最初はダルい程度で、勉強の追い込みで疲労が蓄積しているだけと思っていたが、徐々に寒気や具合の悪さが前景となり、病院に行った結果、風邪と判明した。
コロナやインフルエンザじゃなかった事に安堵しつつ、3日もあれば治るだろうという油断もあった。だが中々完治とはいかず、コンディション不良のまま受験前日を迎え、不安による睡眠不足を懸念した依頼人の親は、風邪薬に加えて睡眠導入剤を彼女に飲ませてしまった。
この2つの薬を併用すると、稀に薬の作用が極めて強くなってしまう事がある。最悪な事に、依頼人にその作用が働いてしまった。
一度は親に叩き起こされ、フラ付きながら会場へ向かったものの――――途中の電車内で熟睡してしまい、気が付いたら試験は終わっていたそうだ。
一応、学校に事情を話してはみたものの、既に風邪が治ってしまっている以上は病気が欠席の理由とはし難く、放棄と見なされてしまった。
幸い、受験できなかったのは前期の試験で、後期は共通テスト利用入試だから既に合格はほぼ決まっている。ただし第一志望の大学ではないそうで、ワンランク下の大学に通う事が確定してしまった。
「私、悔しくて……」
「お気持ちはお察しします。さぞ辛かった事でしょう」
「はい。それで、探偵さんに依頼したいのですが――――」
これだけ事前情報が揃っていれば、依頼内容を予想するのはそう難しくない。恐らく……どうすれば学校側に『病気によるやむを得ない欠席』だったと認めて貰えるか、ってとこか。
本来なら法律に詳しい弁護士とかに依頼するのがベストだろうが、違法性の存在しないこの案件で弁護士を頼るのは抵抗があったのかもしれない。その点、探偵は現代の便利屋的な職業だし、知恵を授けてくれという依頼も実際にあったりする。間違いないだろう。
さて、どういうアプローチで対策を……
「――――私は誰を一生憎めばいいんでしょうか」
……う、ううん。
今何か、すっごい野蛮な言葉を聞いたような。
「どうか探偵さんの知恵を貸して下さい」
「いやね、まずは落ち着いて下さい」
「いやああああああああああああああ!! 落ちる!! 違う落ちた!! 私もう落ちてもうた! 落ちてもうたああああああああああああああ!!」
発狂が再燃! 今まで色んな歪んだ性格の依頼人と接してきたけど、こんな扱い辛い人初めて! ヤダもう!
しかし探偵たるもの、依頼人の事情や性格を理由に仕事を断ってはならない。
……この御時世、お金を払ってまで探偵に仕事くれる人、中々いないからね。
「とにかくですね、まずは平穏を。心に一滴の水を注ぎましょう。ええと、まだ名前すら伺ってなかったですね。お聞きして良いですか?」
「落合です。イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「自分の苗字で発狂しないで下さい!」
これは困った……苗字で呼ぶ事すら出来んのか。まるで大御所に何振られても叫ぶしか能のないハイテンション芸人のようだ。
だが、そこは俺。なんとか彼女の苦悩を取り除かなければ、狭間探偵事務所の名が廃る。廃ったところで何がどうなる訳でもないけれども。
「わかりました。今後は貴女をOさんと呼びますから。イニシャルトークってやつです」
「ありがとうございます。それでお願いします。それで、私は誰を恨んで死ねばいいんでしょう」
「人生の最終日まで思考をすっ飛ばさないで! 戻ってきて今日に!」
「でも私……! もう私受験に失敗しちゃったんですよ!? 負け犬確定なんですよ!? 後期は余裕で通ると思います。だって共通テスト完璧でしたから。それに私の事だからきっと、多少大学のレベルが低くても就職も問題ないです。勤め先でもうまく上司を転がして出世できます。だって私だから。どうせ私の事だから!」
……この依頼人、人格的に結構ヤバい気がする。まあ、自信家だからこそ受験失敗という現実が受け入れられないんだろうけどさ。
「今後の人生に悲観してる訳じゃないんです。でも、第一志望の大学に入れなかった事実は一生消えません。その屈辱を背負ったままこれからも生きていくのは苦痛です。想像するだけで目の前のスマホの液晶を……粉々にしたくなる衝動がッ……!」
「落ち着……クールに。そう、クールダウンです。クールダウンしましょう。冷静にならないと物事は前に進みませんよ。ホラ、深呼吸して」
「ヒュゥゥゥゥゥゥゥ、ヒィィィィィィィィ」
人間の呼吸音とは思えない声が受話器から聞こえて来た。
依頼人は神様……とは言え、可能なら直接会わずこの電話で解決したい案件だ。なんつーかアレだね、アームチェア・ディテクティブって今の時代に向いてるよね。リモート探偵なんて映画もあったしね。
「あの、根本的な事をお聞きしますけど、どうしても憎まなくちゃダメですか?」
「ダメです。そうしないと……誰かを憎む事で現実逃避しないと、現実が私を殺します。現に今も、受験に失敗した負け犬は一生幸せになれないと、もう一人の私が囁くんです。『だってお前は人生で一番大事な試合に負けたんだよ? そんなお前にどんな立派な事が出来るんだい?』そう囁いてくるんです!」
……重症だ。
けど現実逃避を秘技とする俺には、彼女の言っている事はわからなくもない。誰かを憎む事で、嫌悪の対象を自己から他者へ向けるという心の動きも、理解は出来る。彼女のような素直に吐露するケースは稀だろうけど、同じような心境の人間は受験失敗に限らず様々なケースで存在するだろう。
だとしたら俺は、彼女に対して何が出来るだろう? 同じ思いをしている人は大勢いると、正論と同情のミックスで諭すか?
でもそれじゃ、解決には繋がりそうにない。
だったらここは……力業の小細工しかない。一件矛盾するこの手法、実は割と有用だったりする。一歩間違えば詐欺師だけど、依頼人に納得して貰うにはこれしかない。手段を選ぶ余裕はないんだ、経済的にも。
「恨み。憎しみ。それで己の人生を支えますか。わかりました、それもいいでしょう。この狭間十色が全面的に協力して、憎むべき相手を特定しましょう」
「探偵さん……! 私のこの歪んだ人生観を全面的に肯定してくれるんですね!? ありがとうございます! よろしくお願いします!」
「了解しました。それでは早速本題に入りましょう」
という訳で、ザ・検証。
この狭間十色の探偵としての最大の特徴は――――推理しない事。
あくまでも手元にある情報や材料をもとに、検証をもって依頼人の悩みを解決する。この探偵事務所の基本スタンスだ。
「まずはOさん、貴女が憎むべき候補をピックアップしましょう。貴女自身は誰が相応しいと考えていますか?」
「それはやっぱり、病欠と認めてくれなかった試験官の……」
「ダメです」
バチッと否定。依頼人が思わず絶句する中、俺はその理由を淡々と語る。
「貴女は先程言いましたね。『私は誰を一生憎めばいい』と。これを実現するには、最低条件として貴女が今回の憎しみを一生持続する必要があります。ここまではいいですか?」
「は、はい。わかります」
「という事はですね、憎む相手とは定期的に顔を合わせる必要があります。滅多に会わない、或いはもう会う事が出来ない相手を憎めば、その憎しみはやがて風化します。いいですか、恨みや憎しみという負の感情は、意外と長続きしないんです。何故かというと、精神に負担が掛かるからです。人間の心理には必ず防衛が働きます。一定以上の負荷がかかれば、心を守る為に忘却という力が作用するんです。並大抵の憎しみでは、忘却に負けて消え失せてしまうでしょう」
「は、はあ」
「要するに、試験官という今後顔を合わせる機会がまずない相手を恨んでも、その憎しみを今後持続させるのは難しいんです。日常的に、それも受動的に憎しみを想起させなくては」
仮に、能動的――――要するに自らの意思で過去の嫌な記憶を思いだそうと努力すれば、それは大きな精神的負荷になる。よって長続きしない。だから、生活の中で不意に思い出させてくれる相手が望ましい。
「なら、両親……でしょうか。知らない事とは言え、睡眠薬と風邪薬を私に併用させて、当日の強烈な眠気を呼び込んだ原因を作ったのは両親ですから。実家暮らししている間は毎日顔を合わせますし、一人暮らしを始めたとしても定期的に顔を合わせる相手です」
「親を恨めますか? 一生」
「それは……」
女子高生という、比較的まだ両親への感謝や理解が薄い今でも、依頼人は躊躇してしまった。
これから彼女がどういう人生を歩むかはわからないけど、年齢を重ねればそれだけ親の心境へ近付いていくだろう。その年月、憎しみを保持し続ける事は難しい。
「だったら誰を憎めば……最後の追い込みをしなくていいレベルにまで私の学力を上げきれなかった学校の先生? 中学時代の塾の講師? それとも小学生の時に私を校舎の裏に呼び出して告白した所を他の女子に見られて身の程知らずと陰口を叩かれていた五味君?」
「最後の五味君は可哀想なだけじゃ……」
「でも他に思い当たる人が……あ、そうか!」
きっと彼女はこう言うだろう。
自分に風邪を――――
「私に風邪を伝染した人! その人が一番の元凶です!」
そう。
風邪さえ引かなければ、依頼人に不幸は訪れなかった。ならこの結論は当然、予見されたもの。推理なんて呼べる代物じゃない。
ただしこの案には、これも当然だけど穴がある。
「風邪はウイルスを伝染されて発病するケースもあれば、疲労などで免疫力がお……低下して、自分が持っている細菌が増殖する事で発症するケースもあります。人間は元々、風邪の原因を身体の中に持ってるんです」
「そ、そうなんですか? それじゃ私はどっちの……」
「多分今から特定するのは不可能です。近くに風邪を引いている人がいれば怪しいけど、少なくとも証拠はない。そして確証のない相手を一生恨むなんて、出来る筈もありません」
「なら私は一体誰を憎んで生きていけばいいんでしょうか!? 憎しみに依存しないとッ! これから先、生きていく自信ありません! だってホラ私、出来る子じゃないですか! 子供の頃からピアノを弾けば神童扱い! FPSでは毎回大量虐殺! そんな私が受験に失敗したんですよ!? 誰かの所為に決まってるじゃないですか! その真実をちゃんと自覚して生きていかないと私ダメになると思うんです! “ホントは弱い自分”とかないから! “陰で嘲笑われる自分”とかあり得ないから!“受験に失敗したのは他人の所為で、それを周りに同情される私”だけが正しいんです!」
……ここまで自分をさらけ出せる人、そうそういないと思います。ご立派です。
さて、そんな彼女に対し、探偵である俺には何が出来るのか。何をするのがベストなのか。
もし俺が彼女の友人なら"同調"がベストセレクション。彼女の言葉を全肯定し、憎むべき対象を適当に挙げてやれば、納得はされるだろう。
また、俺が彼女の肉親や教育者なら"説教"もアリだ。憎しみで実りある人生は送れない、憎むのではなく現実と弱い自分を受け入れ、この失敗を今後に活かすように諭す。今はウザがられても、依頼人が20代、30代となった時にその説教を思い出し、もしかしたら感謝してくれるかもしれない。
そして、もし――――俺が詐欺師ならば、こう言うだろう。
『君が憎むべき相手は人間じゃない。風邪だよ。君はこれからも風邪を引くし、身近な人が風邪を引く姿を目の当たりにしていくだろう。だから君は風邪を憎むんだ。別に医学の道に進んで今尚開発されていない風邪の特効薬を発明してノーベル賞を受賞しろとは言わない。ただ、風邪を引かないよう最大限の努力をする。仮に引いても最短時間で治す。引いた人が周りにいたら直ぐに治るよう手助けする。君は誰も憎まなくていいんだよ。風邪が悪い。日頃どんなに自分を律しても風邪は引く。プロのスポーツマンやミュージシャンだって、引く時は引くんだ。だから"受験を前に風邪を引いてしまった自分"を責める必要はないんだよ』
……何故、この回答が詐欺師のそれかというと、論点をすり替えているからだ。
依頼人は誰かを憎む事で、受験失敗という汚点を自分の所為ではないと認識したがっている。要は他人の所為であれば良いという考えだ。その責任の所在を『風邪』という病気全般に委ねる事で、逃げ道はちゃんと用意しつつ、なるべく健全に生きていけるように――――といった意図がこの回答にはある。良い話でまとめているところも含めて、優等生的な答えのように一瞬思えるけど、実のところは誰の何も解決しちゃいない。
というのも、風邪は憎しみの対象には出来ないからだ。
風邪という余りにありふれた病気は、悲劇の対象としては弱い。"風邪を引いた自分"を、周囲に同情を買うツールとして使う事は出来ないだろう。
そう。
彼女が欲しているのは、まさにそれだ。『憎む事で現実逃避する』なんてのは副産物に過ぎない。
本命は、周囲への言い訳。そしてその言い訳の対象は自分自身も含まれる。自分をも誤魔化す為に、憎しみという強い表現を用いているんだ。
だから詐欺師の言葉は、その場でなんとなくフワッとした納得は得られても、彼女の今後の人生に役立つ可能性は皆無。俺が依頼料を受け取る為の、体の良い回答に過ぎない。
まさにペテン師のやり口。そんな言葉を依頼人に伝える訳にはいかない。
「お願いです、探偵さん……私が憎む相手を教えて下さい。私は誰を恨んで生きていけばいいんでしょうか」
依頼人は一刻も早く答えを欲しがっている。けれど、試験官も彼女の両親も憎むべき相手じゃない。彼女自身も、或いは神様や病気も恨むべき対象にはなり得ない。
なら、どうすればいい?
探偵である俺に言えるのは、たった二つの冴えた屁理屈しかない。
「貴女が憎むべきは、睡眠導入剤を処方した医者です」
依頼人と関わった人間の中で唯一、恨まれる事に一定の許容が認められるのは、その医者のみだ。
「話の流れから、睡眠導入剤を処方した医者は、貴女を風邪と診断した医者だと推察できます。ならその医者は、貴女が風邪を引いている事を知っていて、尚且つ睡眠導入剤を処方した。当然、飲み合わせについて十分な説明が必要です。その説明をちゃんとしたんでしょうか? もししていないのなら問題です。貴女の受験失敗には、その医者の軽率な処方が関与した可能性があります」
……実際のところ、その医者がちゃんと説明したかどうかは俺にはわからないし、現時点では知りようもない。それに普通は、薬を購入した際に薬局の薬剤師が飲み合わせについては説明する。
医者か薬剤師のどちらかが両親に警告していたのかもしれない。寧ろその可能性の方がずっと高いだろう。
でも今回、その正否は問題じゃない。俺は探偵。『誰を憎めば良いか』という依頼人のリクエストに対し、客観性をもって憎しみを抱く事が可能な相手がいるかどうかを精査し、その相手をリストアップする――――それが今回俺の果たすべき仕事だ。
「あ……」
依頼人のその呻き声にも似た呟きは、大いに納得したという響きを含んでいた。恐らく家のすぐ傍の病院だろうから、近くを通りかかる度に思い出す筈。恨みを持続することも難しくない。条件は満たしている。
ただし、ここで終わらせてはいけない。
「真実を明らかにする必要があるでしょう。もしその気があるのなら、私が調査します。病院という機関はその性質上、患者からのクレームに対しては過剰に防衛策を試みますし、専門の部署も設けているでしょう。貴女や貴女の家族が聞いても、上手く言いくるめられてしまうかもしれません」
――――そう。
その調査こそが探偵の本分。勿論、ここまで依頼人を導くのもまた探偵の仕事の一部ではあるけれども。
「お願いします! もしあの医者が説明してなかったのなら、絶対そいつの所為ですよね!」
「そう言い切っていいと思います。ただし、しっかりと説明していたという証拠があった場合は別です。その時はOさん、貴女の受験失敗の原因は別のところにあったと断定されます」
「え……それは何ですか?」
「御両親の、貴女への愛情です。貴女に万全の体制で受験して欲しいという想いが、風邪薬と睡眠導入剤の併用というミスを生んだ。貴女はその愛情を憎んで生きなければならないでしょうね」
両親そのものを憎むのは難しい。でも、彼等が自分に向けた過度な愛情――――実際、睡眠導入剤を飲ませるのは若干行き過ぎた行為だろう――――であれば、憎みやすい。
憎んでも倫理的観点から自己嫌悪に陥る事もないし、精神を磨り減らす必要もない。当然、対象とは頻繁に顔を合わせるから、憎しみの持続も問題なし。そして何より『両親の過保護が招いた悲劇』はエピソードとして中々の求心力があり、同情を買うツールになり得る。
医者。若しくは御両親の愛。
依頼人が憎むべき相手はどっちでも良い。前者の場合は一応正当な理由があるし、後者なら御両親本人を憎む訳じゃないから不幸にはならない。過剰な愛や甘やかしは、寧ろ忌避された方が健全ってもんだ。
「わかりました。全て探偵さんにお任せします。よろしくお願いします」
倫理観や道徳心という観点で言えば、別の模範解答があっただろう。でも俺は、最後まで彼女を依頼人として扱った。
Oさんは俺の身内でも肉親でもない。勿論金づるなんかじゃない。
彼女の要望に応え、仕事を全うし、納得と満足を得て貰う。それがプロの探偵である俺の成すべき事だ。
今回の件で、依頼人が人間として成長するのか、それとも見下げ果てた人物となるのか――――その未来は、彼女と彼女の周囲の人間が見つめれば良い。
「承りました。では早速、準備に掛かりましょう。まずは病院名と、覚えているなら医者の名前を――――」
はざま探偵事務所は、どのような依頼であってもお断りは致しません。例え依頼人御本人が自分の依頼したい内容を把握していなくとも、必ず探り当ててみせます。
是非、ご連絡を。
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