「見えるか、湯哉」
「そりゃ見えるよ、目の前だもん」
あれは、何年前の事だったか。
少なくとも、特別な日だって事は今でも覚えてる。
僕等、親子の他にも、沢山の人だかりが出来ていたから。
皆、その顔には寂寞感を携え、とても名残惜しそうに、その風景を眺めていた。
そこは、工事現場。
数多の建設機械と、黄色いヘルメットを被った作業員が、かつて『共命温泉』
として栄華を極めていた温泉宿の解体を行っている場所。
そして今、まさにその象徴とも言うべき巨大看板が、取り外されようとしていた。
けど、当時の僕にとって、その儀式は何の興味も関心もない、ただの日常だった。
それより、早く帰ってテレビを見たい。
そんな年頃だった。
だから、その瞬間に大人達が歓声とも悲鳴とも付かない声を上げた理由も、
今一つわかってはいなかった。
ただ、これだけはハッキリと覚えている。
「良く見ておけ。この温泉宿はな、俺達が壊したんだ」
「そうなの? でも、壊してるのはあのオジちゃん達だよ?」
「いや、俺達だ。そしてこれから、俺達はここに、新しいお店を作るんだ」
僕を肩車しながら、父はそう言い切った。
その時の顔は、僕からは見えない場所にあった。
ただ、声だけでも、表情を汲み取れる――――そう言う、決意に満ちた声だった。
「だから、俺達は絶対に、この光景を忘れちゃいけないんだ。絶対に覚えておけよ」
沢山の、大きな音に紛れて、父の声は明瞭には聞こえなかった。
それなのに。
僕はその声を、その場面を、何時でも再生できる。
不思議だと思った。
こことは違う、別の場所の記憶は、まるで思い出せないのに。
「イヤな事は全部、忘れろ。今日この日からの事を覚えておけば良いんだ」
それは、今までにない、優しい声だった。
そこにはきっと、理由があるんだろう。
なんとなく僕は、そう思っていた。
それが何なのかは――――わからないけど。
それは扨置き。
――――――――――――
4月21日(土) 14:56
――――――――――――
「いらっしゃいませ。ようこそお越し下さいました」
この日は、意外と客入りが良く、僕は接客業に追われ、息も付けない忙しさに
その身を委ねていた。
当たり前の事だけど、スパの稼ぎ時は、冬場。
春の陽気が本格的に日本全土を覆うこの時期は、実は最も観光客が少ない。
夏は温泉なんて暑苦しいだけ……と思われがちだけど、夏休みの時期は
子供連れやカップルで賑わう日も多い。
花見の時期や紅葉の時期は、本格的な温泉宿の方に人気が集まるんで、
ウチみたいな所は厳しい季節だったりする。
だから、この日の入りは僥倖だった。
同時に――――考え事が出来ないコトに、少しだけ焦りを覚える。
『アンタの遺伝子をちょうだい』
ふとした瞬間に過ぎるのは、さっきの城崎の言葉。
遺伝子。
それは生体の設計図。
生物が生物である事を証明する情報、と言っても良いだろう。
そして同時に、それは親から子、子から孫へと受け継がれる『証』でもある。
では、その遺伝子がどう言った経緯で受け継がれるか。
言うまでもなく、説明するのも小っ恥ずかしい、アレだ。
ならば、『アンタの遺伝子をちょうだい』と言うリクエストに、
一体何の意味があるのか。
これも言うまでもない。
言うまでもないが――――ムチャクチャな事でもあった。
尚、その問題発言の直後、城崎は
『今のなし! 今の言い間違い! 違うのよ、絶対違うんだから聞かなかった事にして!』
と、必死で取り繕っていたけど、後の祭。
僕は一つの結論を導き出した。
「あの女……エロかったんだなあ」
思い起こせば、突然露天風呂にテレポートしてくるような女子だ。
しかも男湯。
エロくない訳がない。
成程……そう言う事か。
どうして彼女等が、こんなマイナーなスパ施設に飛んできたのか。
エロいからなんだ。
初めてインターネットの検索ってのをやってみた時、多くの男子は何かしら
エロいキーワードを入れてみたりするもの。
女子でもそうなんだろう。
きっと、アイツもそうだったに違いない。
『露出』とか。
この町の住所+露出辺りを検索したら、この施設が一番目に出てきても
おかしくはない。
うん、納得。
……納得はしたけど、ただでさえ厄介な状況が更に悪化したような気がする。
なんか僕、痴女に狙われてる?
しかも、テレポートが得意技と言うオマケつき。
困った事に、既に僕は本名を名乗っている。
もし、城崎がその名で検索したら、どうなるんだろう?
僕の傍に突然、現れたりするんだろうか?
うわ……プライバシーも何もあったモンじゃない。
瞬間移動できるストーカーとか、想像するだけでもおぞましい。
最悪だ。
人生最悪の展開だ。
僕にとって、女子とはすなわち『未知の生物』。
母はあんなだし、唯一付き合った女子は一言もなく他の男に乗り換えるし。
父ですら、常識人に思えるくらいだ。
「あの……」
「あ、すいません! ようこそお越し下さいました!」
そんな事を考える余裕すらないくらい、忙しい時間は続く。
午後のスパ施設は、暇を持て余した奥方様の集いの場。
宿泊客は殆どいないけど、サウナで一汗流して井戸端会議をしたい有閑マダムや
日々の疲れを温泉でサッと流したい絶賛子育て中のママさんで賑わう。
にしても……異様なくらい今日はお客様が多い。
普段の3倍……いや、4倍以上だ。
しかも、客層が若い。
若奥様ばかりが次々に訪れて来る。
しかも、僕の顔をジロジロと嘗め回すように眺めて来る。
一体……何が起こってるんだ?
「ちわーっす。修理に伺いに来ましたーっ」
「あ、武さん。早かったですね」
混乱の最中、軽快な声と共にやって来た彼は、嬉野武雄。
福祉機器の専門店『ウレシックス』の店員さんだ。
介護福祉施設の慰安旅行的な形でお越しになるお客様も多いと言う仕事柄、
彼等との付き合いは長い。
特にこの人は、今年で20歳とかなり若く、僕にとっては一番接しやすい店員さんだ。
まあ……大き過ぎて、並ぶと僕が異様に小さく見えるのがタマに傷だけど。
190cmは反則だ。
しかも、車椅子を片手で担げる程の腕力の持ち主。
凄まじい筋肉をしている。
僕の貧相な身体が……ま、これはもう良いや。
兎に角、羨ましい身体をしておられる。
「やー、駐車場で猫見つけたんで捕まえようって思って全力疾走したら
職質受けちゃいました。たははーっ」
ただ、行動は基本、小学生。
190cmの筋肉ムキムキな男が、童心を剥き出しにする様は、周囲から見ると
『奇行』に映るらしい。
でも、年下の僕にも敬語を使ったり、仕事に対する姿勢は丁寧。
そう言うところもあって、彼は町の人気者だ。
「あ、そう言えば湯ちゃん。ホストになったんだって? スゲーねー。
俺、湯ちゃんならきっとやっていけると思うなー。イケメンだもんね」
「……はい?」
「あれ? 違うの? ホラ、コレ」
あどけない顔で、武さんはビシッと何かの紙をかざした。
身長差あり過ぎて全く見えません。
……うわーん!
「あ、ゴメンゴメン。これ」
「うう……って、コレ……何?」
それは。
【 本日はスペシャルデー!
4月21日(土)にお越しの女性客には、イケメン従業員からカクテルの
プレゼントがあります。
ホスト顔負け、我が店自慢のイケメン従業員をご堪能下さい!
スパでは潤せない、貴女の心の渇きを…… 】
バラを咥えた僕の写真を無断で使ったビラだった。
って言うか、完全なる合成だった。
「……父コラーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
最低最悪の突発イベントだった。
って言うか、昨日のホスト云々の件はコレが目的か!
あのクソ父……どうしてくれよう。
「でも、スゴいですよ。それでこんなにお客さんが来るんだから」
「いや……冷やかし半分で来てる人が大半でしょ」
「そんなに謙遜しなくても。あ、それで修理したい車椅子なんですけど」
頭痛が止まらない頭部を抑えつつ、再度母さんに接客を変わって貰い、
倉庫へと移動。
例の車椅子は、ここで静かに眠っていた。
「……あー、電動ですか。これは厳しいかもしれませんねー」
検査の結果、見積もり以前の問題だった。
まあ、ほぼ完全に水没してたからな……雨くらいなら防水加工で
どうとでもなるんだろうけど。
「バッテリー交換とかでも無理ですか?」
「無理っす。電気系統ほぼ全滅っぽいし、新品買った方が安く済むくらいですねー」
武さんの見る目は確かだ。
恐らく、もうこの車椅子が再稼働する事はないんだろう。
城崎がエロい検索したばっかりに……不憫な。
とは言え、伝えない訳には行かない。
武さんにお礼を言って別れた後、僕は三人が宿泊している部屋に向かった。
――――――――――――
4月21日(土) 15:32
――――――――――――
「……修理不能、と言う事ですか?」
幸いにも、室内に城崎の姿はなく、文奈さんもベッドで眠っている為、
対応可能なのは、当の本人である鳴子さんのみ。
その彼女に対し、僕は特に謝る理由もないけれど、深々と頭を下げた。
「はい。検査の結果、電気系統がほぼ全滅との事でした。詳しい事は
こちらの携帯電話でお話頂けますが……」
通常なら、検査の時に彼女にも立ち合って貰うべきだったんだけど、
武さんがいつ来れるかハッキリしなかった上に、一旦彼女をここへ迎えに来て
その後担いで行く……となると、結構な時間が掛かる。
武さんも忙しい身なんで、結果こんな対応になった。
「いえ。そこまで疑ってはいませんけど。そうじゃないか、って思ってましたし」
「そう言って貰えると……でも、どうします? 修理は無理との事でしたけど」
「仕方ありません。買い換える他ないでしょう」
嘆息混じりに、鳴子さんはベッドに腰掛けながら、そう呟いた。
落胆するのも無理はない。
こう言うのって、スゲー高そうだし。
福祉系の機器って保障が充実してるモノなんだけど、流石に水没事故となると
保障の対象にはならないだろう。
気の毒だが、他に方法はない。
「ただ、一つ問題が」
「何ですか?」
「手元にお金がありません」
……方法以前の問題だった。
「修理代も?」
「予定外のテレポートでしたので、財布を持っていなかったんです。
ホテルに帰れば、恐らくまだあると思うんですけど」
「なら、テレポートで帰れば良いんじゃ」
こっちとしては、お札が乾くのを待つまでもなく、
そうして貰っても一向に構わないんだけど……
「いえ。実は、あの子のサーチ・テレポートは連続で実行できないんです。
一度飛ぶと、一定の待機時間が必要になります」
「……意外と不便な能力なんですね」
ちなみにその待機時間とやらは、丸一日との事。
だったら、こっちでわざわざ購入しなくても、テレポートで
お帰り頂いて、そっちで買って貰った方が良いだろう。
――――と言う訳で。
テレポートが実行可能となるのは今日の深夜。
でも、流石にその時間帯に女の子が移動するのは色々問題なんで、
今日までは宿泊して貰って、明日早朝にテレポートで帰還。
取り敢えず、今後の方針は決定した。
「では、今日までこの部屋にお泊まり頂くと言う事で、宜しいでしょうか」
「それでお願いします」
こちらとしては、三人の宿泊客をもう一日確保できた訳で、願ったり叶ったり
ではあった。
ただ――――やっぱり、得体の知れない『異能力者』ってのが引っ掛かる。
目の前の、この鳴子さんにしてもそうだ。
僕に見せたあのレーザーを、他のお客様に目撃された日には、
とんでもない事になりかねない。
彼女達は全員、紛れもないトラブルメーカーだ。
本音を言えば、直ぐにでも離れて欲しい。
勿論、彼女達もお客様である以上、それを表面に出す訳にはいかない。
「ありがとうございます。それでは明日までの間、精一杯のおもてなしを
させて頂きます」
僕は極上の営業スマイルで、深々と頭を垂れた。
「……どうしてですか?」
そんな接客が気に入らなかったのか。
鳴子さんが当然、訝しげな声を上げる。
「どうして、私達をそんな風に丁寧に扱えるんですか?」
「……う。やっぱり事務的すぎましたか」
「そうじゃなくて!」
今度は突然、大声。
僕は思わず身を竦めてしまった。
小動物みたいな女子だと思ってたけど……激情家なのか?
けど、僕も接客業の専門家。
クレーム処理くらいは余裕でこなす自信がある。
さあ、何でも言って来い!
「どうして、私達みたいな異端を、普通に接客できるんですか?」
……クレーム、じゃないのか?
鳴子さんの声は、若干震えていた。
「当たり前の事ですが、私達みたいな人間は、何処でも奇異の目で見られます。
今回のように、心ならずも、目撃されてしまう事も少なくないので」
「あのテレポート、着地点指定できないんですか?」
「生憎。ですから、初対面で不審者扱いはザラです」
無理もない話ではあった。
僕も実際、そう言う目で未だに見てるし。
ただ、それでも、彼女達がお客様であるならば、それが最優先。
「お客様がどう言った事情や力をお持ちになっていようと、私どもにとっては
お客様はお客様。それ以外の何者でもありません。全てのお客様に対して、
それは同じ事です」
だから、こう答えるしかない。
でも、もしかしたら――――こう言う所が、父は気にくわないのかもしれない。
それで、僕にホストだなんだと強要しているのかも。
実際、評判悪いみたいだし。
僕としては、接客って言うのはこう言う事だと思ってるんだけど……
「……ありがとうございます」
深々と、鳴子さんは腰掛けたまま頭を下げる。
意外な反応だった。
少なくとも、彼女にとっては、僕の接客は間違いじゃなかったんだろう。
「これまで、私達を気味悪がった人とほぼ同じ数だけ、好意的な接し方を
してくる人を見てきました。ですが、その根底にあるのは、『こんな特殊な
連中に善意を向ける僕達私達、偉い』って言う自己陶酔や、未知のモノに
対する好奇心でした。でも……他の人と同じように接して貰ったのは、
初めてです。それが本当に嬉しかったです」
「そんな大げさな……」
「あと一日ですが、宜しくお願いします」
再び、ペコリと頭を下げ――――顔を上げた鳴子さんは、微笑んでいた。
その顔は、やっぱり『鳴子さん』ってより、『璃栖ちゃん』だった。
自分のやって来た事は間違ってなかった。
そう思える瞬間だった。
「たっ……たいへーーーーーーーーーーーーーーん!」
そんなしっとりとした感想で締めようとした最中、大音量の叫び声と共に
城崎が飛び込んで来た。
「あの……他のお客様にご迷惑が掛かりますので、大声は……」
「乾かしてたお札がなくなった! なくなったの!」
それは予想に反し、割と真っ当なトラブルだった。
――――――――――――
4月21日(土) 17:33
――――――――――――
夕方になると、客足は更に加速し、間違いなく4月期最大の忙しさと言えるくらいの
勢いになっていた。
その要因が、あのビラかと思うと、少し複雑。
とは言え、従業員である以上は、宣伝の道具に使われても文句は言えない。
いや、実際には散々言ったけど、最終的には受け入れなくちゃならない。
事後報告だろうと。
何にしても、僕は割といっぱいいっぱいだった。
だから、今この宿に異能力者がいるって事も、その異能力者の宿代が消えた事も、
正直あんまり構ってられないのが実状だ。
とは言え――――金銭トラブルは最大の厄介事。
当然、放置する訳にはいかない。
なので、少ない暇を見つけては、落とし物として届いていないかチェックする。
ま、お金の紛失で、そう言う所に届けられる可能性は、殆どないんだけど。
「やっぱり……たはー」
案の定、一切届いていない旨を廊下で伝えると、城崎は脱力感一杯の声と共に、
その場にしゃがみ込んだ。
施設中をくまなく探してたんだろう。
息も絶え絶えになっている。
「と言うか、幾ら乾かす為とは言え、どうして外にお札を放置しておくんですか。
幾らなんでも、それではこちらも責任を負いかねます」
「だ、だって……今日中に乾かさないと、って思って……」
このスパリゾート施設『CSPA』は、都心でよく見かける、ビルの中の数フロアを
借りて――――と言う形態の施設じゃなく、一軒の店舗が独立した形の建物となっている。
外見は、一軒コンテナハウスやユースホステルみたいな、ちょっとこぢんまりと
した建物だけど、割と中は広い。
そして、露天風呂を持ってる為、必然的に中庭も存在している。
その中庭の岩の上に、このお馬鹿さんはお札を置いていたらしい。
確かに、あそこは熱を持ってる分、乾きやすくはある。
けど、お札を野外に置いたままにしておくと言う発想が、まずあり得ない。
常識がないのか?
……いや、待て。
常識以前に、この女子には大きな問題があった筈だ。
『6日間の事しか覚えられない、って事よ』
確かに、城崎はそう言っていた。
もしかして……副作用の所為で常識が欠如してる?
だとしたら、余りそこを強く言うべきじゃないのかもしれない。
と言うか、言っても無駄だ。
それこそ、『記憶にない』のなら。
「まあ、仕方ありません。過去の事をどうこう言うより、見つける方に
神経を注ぎましょう」
僕は建設的な提案と共に、紛失した経緯を探った。
この中庭、露天風呂と繋がってるから、お客様の出入りは自由に出来る。
つまり、盗まれた可能性も十分にある、って事。
乾いたお札が風で飛んでいった、って線もあり得る。
現在、南南西にやや強い風。
風向きはここ数時間で特に大きく変わってない。
近頃の携帯って、こんな事も直ぐわかるから助かる。
ただ、その風向きの先にあるのは、まさしく露天風呂。
急にお札が飛んできて、盗むと言う感覚じゃなく『ラッキー♪』ってなノリで
誰かに持って行かれた可能性が高い。
そうなって来ると、もう手の施しようがない。
諦めて貰うしかないだろう。
敢えて可能性を模索するとすれば――――
「露天風呂の中にまた落ちて、そのままと言う可能性が、僅かにあります」
仮に、お札が風呂の中に風で飛ばされて入った場合、お札は水を吸い込み、
風呂の底に沈む。
その現場に偶々誰もお客様がいなかったなら、気付かれる事なく今も
底に沈んでいるだろう。
ただ、『星風の湯』は中々の広さの上、微白濁の温泉だから、底がはっきりとは
見えない。
沈んでいる場合、手探りで探す必要がある。
「なら……探すしかない、って訳ね」
「そう言う事になります」
幸い、対象となるのは女湯。
昨日、僕が浸かってた男湯は、中庭の北側にある。
つまり――――僕は手伝えない、って事だ。
「他のお客様にご迷惑をお掛けしないようにお願いしますね」
「わかった」
なんとなく悲壮感を携え、浴衣姿の城崎は脱衣所へと向かった。
遺伝子なんて欲しがる痴女を自由にするのは少々気が引けるけど、
お客様なんで仕方ない。
さて……僕は接客業を再開しないと。
って言うか、本当にするんだろうか、あの『カクテルのプレゼント』っての。
そもそも、カクテルなんて置いてないんだけどな、ウチ。
「あの、このビラを見て……」
ん、お客様か。
あのビラでの勧誘は不本意だが、もうそれは仕方ない。
「はい。ようこそお越し下さいました……って」
「ビックリしたんですけど」
「いや、こっちも驚きましたよ。起きてたんですか」
振り向くと、そこには浴衣姿の文奈さんの姿があった。
そう言えば、そろそろ夕食時か。
この頃に合わせて起床したとなると、起きる時間をコントロール出来るのか?
「……って、何で貴女がそんなの持ってるんですか!?」
「お父様が部屋に持っていらしたので」
「あのアホ、そこまで僕に殺されたいのか! あー上等だ! 殺しに行ってやる!」
壊れたロボットみたいな思考回路になった僕は、手をバキバキ鳴らして
父のいそうな場所に目星を付け――――
「あの、折角なので、頂いても宜しいでしょうか?」
そのまま、数秒ほど固まった。
「……はい?」
「いえ、だから、カクテル。貰えるんですよね?」
「いや、貰えますけど……って言うか、20歳越えてるん……ですか?」
「ふふ。幾つに見えますか?」
長髪をサラッと揺らし、文奈さんは微笑んだ。
その表情は決して明るくはなく、何処か陰を含んだような、大人の笑顔。
改めて見ると、20を越えてても何ら不思議じゃない。
「20……3歳?」
「ふふ」
あれ……陰が増えて、なんか邪悪な感じに。
もしかして僕、地雷踏んだ?
「て、訂正します。21歳で」
「ふふ」
ああっ、顔の7割が闇に!
「20歳!」
「ふふ」
未成年かい!
あの流れでそれじゃ、当たる訳ないだろ!?
って言うか、何で自分から『幾つに見えます』って振っといて、
実年齢より上だったらキレるんだよ……どんな罠だ。
やっぱり女って怖い。
苦手だ。
この世で一番苦手だ。
「取り敢えず、お部屋に人数分頂ければ。宜しいですか?」
「いや、その……はい、わかりました」
断れない迫力に負け、僕は素直に応じてしまった。
とは言え、未成年飲酒禁止法でも明記している通り、20歳未満の人が
飲むとわかり切ってる状況で、酒を飲ませるのはNG。
ノンアルコールのカクテルにしよう。
便利な世の中になったもんだ。
「では、お待ちしていますね。出来れば、9時〜11時の間にお願いします。
その時間は起きていますので」
「は、はあ……」
「ありがとうございます。とても楽しみです」
曖昧な返事だったものの、文奈さんは嬉しそうな顔で頷き、
僕の手を取って、両手でギュッと包むように握って来る。
その意外な所作に、僕はドキッと……はせず、直ぐに手を引いた。
いかん、いかんぞ。
女子への興味や興奮を、忌避感や不信感が上回ってる。
スキンシップにときめかない10代男子って、色々ダメだろ!
母や元恋人によって、理想の女性像が崩壊した事。
こう言う施設で働く手前、女性と接する機会が多く、その中には
目を覆いたくなるような現実が数多くあった事。
それが、僕から異性への関心を、意欲を奪っている。
って言うか、このままじゃ10代にして性欲枯れて、最終的には……
ホモになっちゃうんじゃないのか?
それは嫌だ!
流石に嫌すぎる!
そっちの道に進む気はこれっぽっちもないから!
「あの……?」
「あ、いえ、なんでもありません。では、指定された時間に持って行きますんで」
「宜しくお願いしますね」
文奈さんは満足げに微笑み、足取りも軽やかに、パタパタと廊下を歩いて行った。
一方、こっちはこんな短い間に疲労困憊だ。
って言うか……そんなにカクテルが飲みたかったのかな?
まあ、一日4時間しか起きられないと言うのなら、幾ら異能力者とは言え、
あんまりスペシャル感に慣れてないのかもしれない。
「あの、すいません」
「はい! ようこそお越し下さいました!」
考察する余裕もなく、新しいお客様の来訪。
暫しの間、僕は何も頭に入れる事なく、労働に勤しんだ。
――――――――――――
4月21日(土) 21:10
――――――――――――
「ようこそお越し下さいました。どうぞ、カクテルのプレゼントです」
本日42組目のお客様に歓声で迎えられ、僕は引きつりそうな笑顔を
どうにか繕い、渾身の営業スマイルでグラスに液体を注いだ。
ちなみにこのカクテル、一月前に『大人のスパ』と称した企画を
実施した際に、大量入荷したシロモノ。
つまりは在庫処理だ。
一見、行き当たりばったりの突発的な今回の試みだけど、実際には
そう言う裏の事情があったりする。
勿論、そんな事は表に出せる筈もないんで、あくまで今回のサービスの
為のカクテルと言うスペシャル感を、表情なり受け答えなりで演出しなくちゃ
ならない。
「あら、素敵な店員さんじゃない。どう? 一緒に飲まない?」
「仕事中なので、申し訳ありません」
アダルティなお客様のお誘いにも、嫌悪感を微塵も見せず、事務的に回避。
本来なら、ここでホストよろしく、気の利いた、若しくはウィットに富んだ
切り返しが出来れば好ましいんだろう。
でも、僕にはそれは出来ない。
お客様を楽しませると言うのは、サービス業の基本。
それはわかってる。
わかってるけど……どうしても、不誠実な感じに思えてならない。
今の時代、僕のこう言う考えは不適合なんだろうか。
「……あっそ」
きっと、そうなんだろう。
その妖艶とは違う意味でアダルティな女性は、露骨に白けた顔で
僕から顔を背けた。
仕方ない。
これが、僕の限界だ。
「失礼します」
一礼し、離れる。
きっと彼女は、例の目安箱ノートに僕の事を悪く書くんだろう。
そして、リピーターとなる事なく、記憶の中からもこのスパランドの事を
消していく。
そう考えると、僕はなんとなく、自分が罪を犯しているような気になった。
「……次は何処かな」
それを認めたくなくて、敢えて独り言を呟いて、打ち消す。
次は……最後か。
あの異能力者3人娘の部屋。
指定された時間にも十分間に合うタイミングだ。
そう言えば……お札、見つかったんだろうか。
忙しさもあって、あれ以降全く確認できなかったけど、可能性としては
薄いだろなあ。
もし見つからなかったら、どうしよう。
一旦城崎ともう一人にテレポートで戻って貰って、お金を持った状態で
再度テレポートで戻ってきて貰う、ってのが妥当かな。
幾らなんでも、初対面のお客様にツケ扱いは出来ないし。
ただ、そうなると――――
テレポート(家へ) → 1日待機 → テレポート(ここへ) → 1日待機 → テレポート(家へ)
って言う流れになるから、2日も余計に掛かる事になる。
当然、最低一人はここに人質として残って貰わないといけないから、
宿泊費も嵩む。
後は向こうの時間と予算次第、だな。
取り敢えず、まずはカクテルをお持ちしよう。
「お待たせ致しました。カクテルをお持ち……」
ノックした後、入室した僕の目には――――
「イノブタ頂き! 猪鹿蝶ゲットだぜー!」
「んむーあーあー! やられましたーっ」
4人で花札に情熱を漲らせている女共の姿が映った。
って言うか……一人、身内がいるんだけど。
「コラ彩莉! お客様の部屋で何してんだ!」
「あうっ」
目の合った彩莉は、バツの悪そうな顔で縮こまった。
その様子に、傍にいた文奈さんが瞬時に反応する。
「ロリちゃんを責めないで下さい。悪いのは誘った私なんです」
「人の身内に勝手なニックネームを付けないで下さい」
「すす、すいません」
僕は努めて冷静に話したつもりだったが、何故か文奈さんや城崎が震え出した。
「で、でも、そんなに怒る事ないでしょ? ただ遊んでただけじゃない」
「いえ。こう言う事はちゃんと叱らないとダメなんです。彩莉、幾ら
お客様に誘われても、ホイホイついて行っちゃダメだろ?
お前は可愛いんだから下手したら誘拐されて一生モノの傷を負うんだぞ?」
「そっちかいっ!」
城崎の妙にキレのあるツッコミはさておき。
酒も入ってないのに、妙にテンションが高いな。
もしかして、お札見つかったのか?
「よーし、これで150点突破。いいよいいよー。あともうちょっとで
お宿代の半分は稼げる計算に……」
「ほう」
聞き捨てならない言葉を発したバカツインテ女を前に、僕は氷の入った
カクテル用ボックスをそっと床に置き。
「アホかーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
全力でチョップをくれてやった。
「いったーーーーっ! 何すんのよ!」
「そりゃこっちのセリフだ! 小学生を食い物にすんな!」
「小学生でも、負けは負けです。彩莉、お年玉で貯めたお貯金を明日……」
「だーっ! お前もお前で簡単に払おうとすんな!」
この明らかにおかしな空間を本来取り仕切るべき年長者……と思しき
文奈さんに、視線を向ける。
「くー」
座ったまま寝ていた!
って言うか、この時間は起きてるんじゃなかったんかい!
仕方なく、今度はもう一人の常識人であろう鳴子さんに目を――――
「……」
向けた瞬間、死んだ目と視線が合ってしまった。
ふと、傍にある『スコア表』が目に入る。
……15戦やって、全敗とは。
しかも、2位なし、3位3回、4位12回。
これは……尋常じゃない弱さだな。
彩莉もいるってのに。
「って言うか、なんか右手の人差し指をプルプル震わせてるんだけど、
まさかレーザーで花札燃やす気じゃないでしょうね」
「そんな事はしません。見くびらないで下さい。これから……これからです勝負は」
そう言いながらも、表情は明らかに追い込まれていた。
そもそも、一人寝てる時点でもう中断だろうに。
「……はっ。あれ、私寝てた? 寝てました?」
と思ったら、文奈さんは突然覚醒した。
何だかな……ま、良いけど。
「えっと、カクテルお持ちしたんですけど、花札続行します?」
「カクテル最優先でお願いします」
ズイッとそう申し出たのは、言うまでもなく鳴子さんだった。
その後、圧倒的に稼いでた城崎を何度かチョップで諫めつつ、花札はお開き。
当然、賭け金も全部ナシで、カクテルの量に比例させると言うところで落ち着いた。
「ちぇーっ……折角のバカヅキがこんなシケた飲み物になるなんて」
「当店自慢のカクテルですから」
実際には、格安の飲みやすいノンアルコールなヤツ。
とは言え、それでも注ぎ方次第では高級そうに見えるもの。
僕は昨日死ぬほど眺めたホストDVDを手本に、ドンペリを注ぐような所作で
3人にカクテルを注いだ。
ホストと一言で言っても、キャラは十人十色。
バーのマスターみたいな上品さで注ぐホストもいたりしたんで、その点は
中々参考になった。
「へぇ……結構美味しそう」
「楽しみね。カクテルなんて初めて」
城崎と文奈さんが、ワクワクしながら赤い半透明な液体を眺めている。
一方、鳴子さんだけは、我関せずと言う表情でそっぽを向いていた――――
が、チラチラと横目でこっちの様子を窺っていた。
どうにも、素直じゃない性格らしい。
そんな鳴子さんのグラスにも、波打つような仕草でカクテルを注ぐ。
「どうぞ」
言葉短に誘った結果、鳴子さんは微妙に赤面しつつ、グラスを手に取った。
「彩莉も飲んで良いですか?」
「ダメ。って言うか、部屋に戻りなさい」
「えーっ……」
ゲージに入れられた子犬のような顔で不満を訴えていた彩莉を
部屋から廊下に出し、兄代わりの身内としてじゃなく、店員として諭す。
この姿はお客様には見せちゃいけない。
「ダメだろ? 特定のお客様と仲良くしちゃ」
「すいません……でも」
彩莉は基本、聞き分けの良い子。
普段は説教すると、自分の悪い所を直ぐに理解し、受け入れる。
でも、今回は珍しく『でも』が続いた。
「せっかくお声を掛けて頂いたので……」
「それでもダメ。お店にいる以上は、お客様は皆平等。必要以上に
深入りしてたら、それが出来ないだろ?」
「でも……」
こんなに聞き分けの悪い彩莉は初めてかもしれない。
それで腹が立つ……なんて事は一切ないけど、ちょっと驚いた。
けど、直ぐに理解する。
「……大勢で遊びたかった、のか?」
僕の言葉に、彩莉は困ったように俯いてしまった。
こう言う時は、決まって図星。
そうか……寂しかったのか。
そうだよな。
家を手伝う為に、いつも早く帰って来て、週末も出かける事はなくて。
友達はいるみたいだけど、放課後や休みの日を共有しない友達は、
どうしても重要度が低く設定されてしまう。
今時の小学生なら、それを理由にハブったりする可能性だってある。
実際、そうされてるのかもしれない。
彩莉の性格は、危険だ。
年上には確実に好感を持たれる。
でも、同世代にとっては、『良い子ちゃん』に映ってしまう。
付き合いの悪い良い子ちゃん――――それは一番虐められ易い。
僕は、こんな事にすら懸念を抱けなかった自分を恥じた。
自分の将来も大事だけど、まだ先の事。
両親と離ればなれになって、親戚の家に住まう事になって、
学校生活より住処を優先しているこの子の事を、もっと労るべきだった。
「そうか。そうだよな。ゴメン、彩莉」
「そんな……悪いのは彩莉なんです」
「いや、僕が無神経だった。今度、どっか遊びに行こう。買い物もいいな」
『CSPA』は365日、年中無休。
しかも、早朝から夜まで店を開けなくちゃならない。
それでも、宿泊客のいない日なら、朝や夕方に時間はとれる。
この子に必要なのは、遊園地やテーマパークじゃない。
自分へ向けられる時間と笑顔だ。
僕は、下がりそうな眉尻を強引に抑え、笑顔を作った。
「はいっ」
彩莉は、僕よりずっと上手な笑顔を返してくれた。
救われる。
僕はまだまだ子供だ。
「それじゃ、最後に挨拶してから部屋に戻るか」
「わかりました」
明日以降、3人娘がどうなるかはわからないけど、もしお札が見つかって
宿泊費が払えるのなら、明日の早朝には帰る事になるだろう。
彩莉とは、これで最後になるかもしれない。
たった一日の出会い――――それも、とんでもない出会いだったけど、
彩莉の中に燻ってた感情を僕に気付かせてくれたんだから、
感謝しなくちゃいけないな。
そこんトコも踏まえて、改めて挨拶しよう。
「失礼します。あの……」
「きゃーっはっはっはっはっはっはっは!」
扉を再度開けた僕に飛び込んで来た声は、明らかに素面のそれじゃなかった。
「これ美味しーっ! もっとちょーだい! もっとちょーーーだいっ!」
そう連呼するのは、城崎……じゃなく、文奈さんだった。
キャラ崩壊してんがな。
カクテルの瓶を振り回す勢いで、ケタケタ笑いながらこっちを見てる。
「なんですか? その目は。もしかして私の事をイヤらしい目で見てるんですか?」
据わった目の文奈さんが、僕ににじり寄って来た。
うわ、いかん!
彩莉の情操教育に良くない!
他の連中は何してんだ!?
「うえーん。あたしがの所為で車椅子壊してごめんなさーい」
「許す訳にはいきません。今すぐ、各温泉を全て巡り、そこにある『聖なる薬湯』を
全て集めて来なさい」
「わかりましたーうえーん」
城崎が泣きながら部屋を飛び出していった。
こっちは泣き上戸と怒り上戸かよ。
って、おい……全員漏れなく酔ってるけど、ノンアルコールじゃなかったのか?
そうオーダーした筈だぞ?
「反論がないと言う事は、やっぱりイヤらしい目で見てるんですね!」
ちょっと考え事してる隙に、選択肢が消えた!
って言うか、近!
いつの間にか目の前にいるし!
「そう言うイケない子には……こうです!」
「へ……? ちょっ……うわーーーーーーーっ!?」
突然、文奈さんが抱きついて来た!
って言うか、これはそんな甘いモノじゃない……ベアハッグだ!
「どう? 私をイヤらしい目で見るの、止める?」
「見ようにもこの距離じゃ見えないですし、それ以前にギブギブギブギブ!」
鎖骨が……鎖骨が折れる!
文奈さんの豊満な胸が当たってるけど、そう言うの全然楽しめないくらい
鎖骨がヤバい!
「ギブ? 与える? カクテルのお代わりをギブするのなら離します」
「全然違う……ってか、ホントにヤバい……鎖骨が折れて内臓に刺さる……」
なんて腕力だ……
僕の全身から、血の気が引いていく。
死ぬ……のか?
まさか、こんなとある日に、女性に抱きしめ殺されるとは……
彩莉、ゴメン。
約束、守れそうにな……い……
「ダメーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
刹那。
耳をつんざくような声が、室内に響き渡った。
「お兄さんが死んじゃいます! お兄さんが死んじゃったら、彩莉、彩莉……」
「……あ」
その鼓膜への衝撃が、酔いを覚ましたのか。
文奈さんの腕から力が抜ける。
そして――――
「ぱたんきゅー」
そのまま床に倒れ、すやすやと寝息を立て出した。
……例の副作用か。
何にしても、助かった。
まさかここまで酒乱とは……
って、待てよ。
アルコールの匂い、全然しないぞ。
「あの……鳴子さん」
この場に唯一いる容疑者に、僕は視線を向ける。
その人は寝る訳でもなく、覚めた訳でもなく、ベッドに腰掛けて
虚空をじっと眺めていた。
僕もかなり小柄だけど、それに輪を掛けて小さい身体は、
文奈さんとは正反対。
彩莉と10cmも違わないだろう。
そんな彼女の――――指が、なんか光ってるんですけど!?
「災いをもたらす悪しき存在、我が『時の収束線』の前に滅するが良いのです」
「怒り上戸じゃなくて厨二上戸!?」
そんなんあんのかよ、と叫ぶ間もなく、レーザーは容赦なく射出され――――
僕はその瞬間、意識を失った。
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