小さい頃は、女の子と接する事に抵抗はなかった。
あ、『接する』ってのは飽くまでも応対って意味の方ね。
少なくとも、小学生になって、ランドセルの色で性別が明確化しても、
その感覚に特段、変化はなかった。
仲の良い子とは普通に話して、笑って、バイバイして。
ちょっと良くわからない話題には、小首を傾げて。
そう言う子供だった。
そんなだったから――――自分が割とモテる方らしい、と言う事を知ったのは、
小学生も後半に差し掛かる頃合いだった。
「私とつき合ってください」
放課後の裏庭。
拙い物言いで、僕は女子に告白を受けた。
一番仲の良い子だった。
気が合う、って訳じゃないけど、良く笑い、良く怒る子。
彼女と雑談する事は、嫌いじゃなかった。
でも――――この頃の僕は、女の子と付き合うと言う行為自体、
まるで興味がなかった。
だから、正直に『良くわかんないから、ゴメン』と答えた。
他に答えようがなかった。
翌日から、その女子や、その女子と仲の良かった女子が
僕に話しかけてこなくなった。
僕は友達を失った。
同時に――――男女間にある難問の一つを知った。
2度目の告白は、中学に上がって直ぐの頃。
クラスメートでもなければ、小学校以前の知り合いでもない。
全く知らない女子だった。
この頃になると、第二次性徴真っ直中で、顔の好みとか、性に対する
知識とか、そう言うのもかなり固まって来てたから、告白と言うモノに
対する認識も、以前とは大きく変わっていた。
それでも――――いや、だからこそ、僕は断った。
少なくとも、初対面の相手と付き合うと言う発想がなかったから。
結果、僕の周囲に不穏な噂が流れる事になった。
恐らく、彼女が流したモノなんだろう。
ただ、確実な証拠はなかったし、それを糾弾する勇気もなかったから、
『人の噂も75日』を信じて、ただ静観するしかなかった。
3度目の告白は、1年後。
今度は知り合いの子だった。
中1の時に同じクラスで、同じ保健委員だった事もあって、接する機会は多かった。
正直、交際相手として意識した事はなかったけど――――
『この子も、ここでOKしないと、僕の事を陰で悪く言うのか?』
そう言う恐怖があったから、僕は3度目にして初めて、告白を受け入れた。
最初は良かった。
初めての男女交際は、色々緊張したし、色々ぎこちなかったけど、
毎日が新鮮だった。
幸い、彼女は僕の苦手な『ギャル』ってタイプじゃなかったし、
寧ろ大人しい性格の女の子で、休みの日にはお弁当を持って
家まで遊びに来てくれた。
この頃には、家の手伝いをさせられるようになってたから、
遊びに出かける事が難しい中、彼女の気遣いは嬉しかった。
その頃には――――僕はもう、彼女の事が好きになっていた……と思う。
だから、ある日突然連絡が取れなくなったのは、本当に驚いたし、
彼女が何の断りもなく、別の男と付き合っていると言う事を知った時は
これ以上ないくらいの欠落感と絶望感を覚えた。
理由は今もわからないし、わかりたくもない。
僕にも、原因はあったんだと思う。
素っ気ない態度を取った事もあったし、素直に感情を伝えられない時もあった。
それでも。
それでも――――黙って他の男に乗り換えられたら、そう言う事を反省する
気にもなれない。
僕はあの日から、女子とは距離を取るようになった。
そうする事でしか、心身のバランスを保つ事ができなかったから。
そして、時は流れ――――
今の僕はと言うと、女子から裸を見られたり、抱きつかれたり、
そして――――
「……って、言ってる場合か」
取り敢えず、そう言う判断が出来るまでに回復した事を自覚した僕は、
ボーッとする頭を抑えながら、上半身を起こした。
――――――――――――
4月21日(土) 22:29
――――――――――――
壁に掛かった時計で時刻を確認した瞬間、顔がサーッと青褪めて行く
自分を自覚した。
一時間くらい経過してるぞ……まだ営業中なのに。
幸い、カクテルサービスはここで終了してるから、やる事と言えば
後片付けくらいなんだけど。
何にしても、無事で良かった。
でも……僕は何で倒れてたんだ?
って言うか、倒れたまま一時間、放置状態だったのか?
良くなんともなかったもんだ……
「くー」
突如、寝息が聞こえて来た。
思わずビクッと震わせた身を硬直させ、恐る恐る振り向くと――――
そこには彩莉が横たわっていた。
……なんでコイツ、寝てんの?
「すー」
しかも、その隣で眠る文奈さんの腕に絡まって。
……こっちは例の副作用か。
にしても、こうして寝てる姿を見ると、さっきの酒乱状態が嘘みたいだ。
って言うか、ホントに20歳以上じゃないのか?
彩莉がくっついている所為か、なんとなく母性すら感じさせる。
そう言えば……結局、この人がどんな能力を持ってるのか、聞かず仕舞いだったな。
ま、良いか。
お客様として再度来てくれる可能性もあるにはあるけど、基本は他人。
まして女性。
深入りする理由はない。
自分が倒れてた理由も気になるところだけど……
「彩莉、起きろ。彩莉」
「むにゃむにゃ」
「……ったく」
まずはこの子を部屋に戻そう。
更にその前に、文奈さんをベッドの上に運んで……と。
「すー」
……浴衣って、胸の谷間見え過ぎなんだよな。
女性不信とは言え、女嫌いとか無関心ってのとも違う僕にとって、
その光景は目に毒だった。
たわわだし!
……見ないようにしよう。
そーっと抱きかかえて……
「んーっ」
……抱きつかれて。
いや、運びやすい事は運びやすいんだけど……もしや、起きた?
「すー」
寝てるみたいだ。
心臓に悪いな、全く!
兎に角、心を静めて、凍てつかせて――――と。
どうにかベッドへの運搬に成功。
色々ヤバい所が見えたり見えなかったりしたけど、忘れよう。
すいません、正直女子へのスタンスが自分自身でも掴めてないんで、
勘弁して下さい。
と言う訳で、今度は彩莉を抱きかかえて、部屋へと移動。
「くー」
幸せそうな寝顔しやがって。
お前の所為で、えらい目に遭ったぞ。
ま……お陰で色々思い改めるべき事にも気付いたけど。
さて。
取り敢えず、仕事へ戻ろう。
脱衣所や浴室の後片付けをしないと。
この時間帯に腰を屈めて作業するのは、正直しんどいんだけど、我慢。
ここを乗り切れば、今日は終わりだ。
後は温泉に浸かって一日の疲れを癒やし、就寝。
その瞬間が一番幸せだ。
「おう、湯哉。今日はご苦労だったな。お陰で今月前半の不調を一気に取り返したぞ」
……父か。
そう言えば、言っておきたい事があったんだ。
「あの3人娘へのカクテル、なんでノンアルコールじゃなかったんだよ。
そうオーダーした筈だろ?」
「ん? 突然の言いがかりだな。間違いなくノンアルコールで出したぞ?」
何だって……?
だったら何で、全員が全員酔ってんだよ。
でも……そう言えば、アルコールの匂いがしなかったんだよな。
……雰囲気酔い?
そう言う事、あると言えばあるけど、あそこまで極端なのは聞いた事ない。
でも、他に思いつかない。
「疲れてるんだろう。今日はもう休め。残りの片付けは俺がしておくから」
「良いの?」
「一生懸命仕事をしている様を母さんに見せないと、許して貰えそうにないんでな。
出来れば、『今日の父、超がんばってたよ。あんな誠実な人が母を裏切るなんて
考えられないなあ』って感じでさり気なくアピールしてくれると嬉しい」
全くさり気なくはない提案だけど、仕事から解放されるのはありがたい。
僕は親指を立てて了承の意を示し、露天風呂へと向かった。
――――――――――――
4月21日(土) 23:54
――――――――――――
昨日と同じ形の月が見える中、僕は深い深い溜息と共に、湯に浸かる。
あれから丁度一日が経過。
ホントに密度の濃い一日だった。
最後まで無駄にドタバタしたし。
にしても……結局、あの連中とはあんまり話しなかったな。
城崎がお札を見つけたかどうかも、確かめてないし。
文奈さんの能力もわからず仕舞い。
鳴子さんの車椅子に関しても、力になれなかった。
あんな、エスパーみたいな力をもった連中が現れたってのに、
殆ど絡まないまま一日が過ぎるってのも、ある意味異常だな。
それくらい、今日が忙しかったんだけど。
これがもし、ロクにお客様の来ない平日だったら、また違った出会いに
なってたのかもしれないな。
ま、苦手な女子と積極的に絡む自分ってのも、想像できないけど。
さて……そろそろ上がるか。
濡れた前髪を手で掻き上げ、僕は星空を一瞥――――
「……!?」
しようとした刹那、視界が闇に閉ざされた。
それも一瞬。
直ぐに、顔面を衝撃が襲う。
潰される形で僕は、湯に押し込まれ――――
「って、またかよ!」
今回は強引に、乗っかってきた『何か』を押しのけた。
デジャブというには、余りに近場過ぎる過去。
僕はその正体を、直ぐに確信した。
「……いった〜い」
それは、女の子の声。
今度は、しっかり聞き覚えのある女声。
案の定、城崎水歌だった。
一瞬、これはループ現象なのかと言うゾッとする空想に片足を突っ込んだけど、
城崎の格好が浴衣だった事で、それは消える。
これは確実に、今日だけの出来事。
つまり――――再度彼女がテレポートをしてきた、って事になる。
……何の為に?
正直、行動理念が全く読めない。
幾ら痴女でも、ここまで堂々と能力を使って男風呂に飛ぶほど
欲望に忠実って訳じゃないだろうに。
「あーもう……またやっちゃった」
「あん?」
『また』。
城崎は今、確かにそう言った。
つまり、前回と同じ目的だったって事になる。
前回は、確か遠い場所から検索した結果、偶々この施設に飛んできた……筈。
だけど、その施設内にいる今、同じミスをする事はあり得ない。
そもそも、こんな時間にテレポートするのは変だ。
だとしたら――――答えは一つ。
最初のテレポートの理由が嘘だった……?
「……流石に、気付いてるでしょうね」
僕の表情の変化を見抜いたのか、城崎はバツの悪そうな顔で
湯から腰を上げた。
その身体は全身ずぶ濡れ。
浴衣が水の力によって、全体的にずり下がってる。
……うわ、これまた目に毒。
「そりゃ、流石に二日連続ってなると、な」
この状況でわかる事は、一つ。
テレポートの標的が『僕』である事。
だとしたら、やっぱり……
「驚いたよ……まさかアンタが、ストーカーだったなんて」
これしか考えられない。
僕を狙って、しかも深夜にテレポートしてるんだから。
僕の痴態を狙っての狼藉としか……
「…………………………………………は?」
思えなかったんだけど、城崎の顔は完全に『コイツ何言ってんの?』だった。
「あたしが……ストーカー? ストーカーってあの、犯罪者のアレ?」
「他にどんなストーカーがあるんだ」
「……ストーカー?」
城崎は自分を指差し、問い掛けてくる。
僕は当然、しっかりと頷いた。
結果。
「………………フザっけんなああああああああっ!」
夜空に浮かぶ月を身震いさせる程の大音量が、僕の鼓膜を殴った。
「なんであたしがアンタをストーキングしなきゃなんないのよ! アホかっ!」
「じゃあ他にどんな理由があんだよ」
「そ、それは……」
「言い淀むって事は、事実なんだろ? 素直に白状すれば、警察には……」
「だから違うっての! わかったわよ! 本当の事言うから、まずその
ヘンテコな先入観を取っ払って!」
余程不本意だったのか、城崎はずぶ濡れになった犬がブルブルするように
全身を震わせ、怒りを露わにしていた。
そして、その所為で浴衣がハラリとはだけ、全身もくまなく露わになった。
「……」
流石の僕も、これにはドッキリ。
どうすりゃいいのか、わからない。
「………………ひっ……ひきゃーーーーーーーっ!」
湯に浸かればいいのに、城崎は混乱してるのか、バタバタと暴れ出す。
うわ、ホントにヤバい!
見えるって!
「もーっ! 一体なんなのよーっ! 何であたしがこんな目に
遭わなきゃなんないのーっ!?」
「そりゃ僕のセリフだ! こっちは何も悪い事してないのに!」
「は? 何その被害者面? あたし、裸見られてるのよ!? こっちが
被害者じゃなきゃ変でしょ!?」
「僕だって見られてるだろーが! 勝手に侵入してきて何が被害者だ!」
「男と女じゃ裸の価値は全然違うでしょ!? って言うか……さっきからアンタ、
あたしの裸見た割になんか平然としてない? あたしの裸って、そんなに
どーでもいーモノなの!? 女としての魅力が皆無って事!?」
城崎は訳のわからない方向に暴走し始めた。
……裸のまんまで。
幾らスパランド経営者の一人息子とは言え、銭湯で言うところの『番台』
がある訳でもないから、女性のハダカを見慣れてるって訳でもない。
目のやりどころに困る。
「いや、なんて言うか」
「あたしのどこが女らしくないって言うのよ! 髪型だってツインテールだし、
好きな食べ物だってアボカドだし、趣味はスノードーム集めだし、好きな色は
ピンクだし! それに、身体だって……」
そこでようやく、城崎は自分の状況に気付いた。
「……うぎゃーっ!」
「その悲鳴は女らしくはない」
「う、うっさい! うっさいうっさい! あーもうイヤーっ!」
ついには泣き出した城崎は、ようやく身体を湯で隠してくれた。
泣きたいのはこっちなんだが。
って言うか、精神的には女性不信なのに、肉体的にはどうやら違うらしい
このジレンマの空しさよ。
赤面なしには語れない。
「うーっ……」
「あの、提案なんだけど」
「あによ」
「取り敢えず、いっせーのせ、で後ろ向いてくんないかな。
そしたら僕、先に出ていくから。その後は、替えの浴衣持って脱衣所に
置いておくから、勝手に出てってよ。合図するから」
「……何その『こんな事これまでに何度もあったぜ』的な冷静さ。
うわー、もーなんかカチンって来る」
「あった事も冷静でもねーよ。だからとっとと状況を変えたいの。早く後ろ向け」
そんな僕の建設的な提案に、城崎は一向に従おうとしない。
「おい、早くしろって」
「イヤよ。後ろ向いた途端、襲われたら堪ったモンじゃないもん」
「痴女相手にそんな事しないっての。だから……」
「……痴女?」
あ、失言。
「ストーカー呼ばわりに飽き足らず……痴女?」
「待て。今のは違う。思ってた事をつい口に出しちゃっただけだ」
「何が違うかーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
スゴい勢いで、城崎が立ち上がる。
って……また。
「……うあっ……ああああああーーーーーーーっ!」
僕は流石に居たたまれなくなったんで、目を伏せて惨状から目を逸らした。
――――――――――――
4月22日(日) 00:50
――――――――――――
世の中には、奇々怪々な事がごまんとあるらしい。
とても説明が付かないような、不可解で不条理な出来事。
僕にとってそれは、ある種の絵空事だった。
実際、人間の持つ生々しい部分を何度も見てきたから、
常識や現像から逸脱した事に関しては、どうしても信じられなかった。
ただ、二日連続で入浴中にテレポートして来られたとなると、
そう言う認識を改めなきゃならない、と思ってしまう。
世の中には、信じ難い事が現実として存在するんだ。
痴女が現存する、とか。
「だから痴女じゃない、って言ってんでしょーがっ!」
取り敢えず、ここは何処かと言うと……昨日と同じく、応接室。
騒ぎを聞きつけてやって来た母が、ここへ来るようにと命じた為だ。
で、事情徴収を受けている――――というのが現状。
「そもそも、何で深夜の時間帯を狙って、僕にテレポートで近付いてくるんだよ」
「それは……」
「その前に」
言い合う僕等の間に、母が割り込んでくる。
例の発作さえなければ、母は基本、厳しく優しい普通の母親。
僕に接客の基本を教えたのは、何を隠そう、この母だ。
常に無難であれ。
常に妥協せよ。
そんな僕のポリシーは、一部母から受け継いだものでもある。
一人称や三人称も、そうだ。
何故――――僕が『僕』と言う一人称を使っているか。
それは、万が一仕事中に『素』が出てしまった時の為。
その時に『俺』だと、かなり悪い印象を与えてしまう。
かと言って、流石に日常で『私』は使えない。
その妥協点としての『僕』だ。
『父』、『母』も同様。
だから、母は僕にとって頭の上がらない存在でもある。
「お客様が訪れたと言う露天風呂は、男性用でございます。
それも、二日連続です。何故、そのような事に?」
「あう……それは」
流石、母。
鼻の下伸ばしてデレーっとした挙げ句、特に何の対処もしなかった
父とは大違いだ。
生真面目な母と、緩んだ父。
ある意味、良い組み合わせなんだろうけど。
「二日連続でお間違えになられたのですか? それとも、故意に?」
「えっと、その……」
「どうなんでしょう」
母は、僕以上に異能力者の存在なんて信じないだろう。
だから、僕も父もその件は一切言っていない。
城崎の方も、それをなんとなく感じてるのか、テレポートの件は
口にせず、僕の方にヘルプを求める視線ばかりを向けている。
仕方ないな……
「そう言えば……お金を探してたんだっけ」
「お金を?」
「あ! はい、そうなんです! 昨日、間違えてお財布を温泉の中に
落としちゃったんですけど、それを乾かしてる最中に失くしちゃって……」
僕の助け船に乗っかった城崎は、怒濤の勢いで言い訳を展開した。
この件に関しては、一部を除いて報告済み。
整合性に関しては問題ない筈だ。
「……そうでしたか。わかりました。理由がハッキリしましたので、
今回の件もここだけの事として処理致します」
「あ、ありがとうございます」
「それで、お金は見つかりましたか? こちらには届いていませんでしたが……」
「いえ……」
城崎は、身を小さくしてそう答えた。
見つかってなかったか。
つまり、宿代は彼女達の手の中にはない、って事になる。
「あの、でも、宿泊料金は必ず払いますから! ですから、その……」
「はい。では、ここに一筆をお願いします」
母は嫌悪感を示すでもなく、温かく受け入れるでもなく、
努めて事務的に『誓約書』と書かれた書類をスッと出してきた。
「へ……?」
「私共『CSPA』では、料金の延滞を希望する方に対しては、こう言った
書類で誓約をして頂いております。お願い出来ますでしょうか」
その誓約書には、『一ヶ月以内に支払いが確認できなかった場合、
法的な手段に訴える』と言う事をお堅い文章で記したもの。
実際問題、誓約書に確実な法的効果がある訳じゃない。
ただ、それを知るお客様も少なく、このケースでは大抵ビビッて
次の給料日に支払ってくれる。
ま……この3人娘は、恐らく仕事をしてる訳じゃないし、
お小遣いを貰ってると言う感じでもない。
一月と言う期間には余り意味がないだろう。
あくまでも、プレッシャーを与える為のもの。
「う……わ、わかりました」
案の定、城崎は完全にビビッてしまい、他の二人と相談する事なく、
流されるままに必要事項を記入し始めた。
なんとなく、コイツの将来が心配だ。
「ありがとうございました。では、今後も『CSPA』をよろしくお願い致します」
僕より数段、綺麗な姿勢で母は一礼し――――僕に『後はそっちでフォローしなさい』
と言う目を向け、応接室を出て行った。
さっさと寝たいんだろな……
「ふぅ……あー、緊張した……」
母のプレッシャーから解放された城崎が、途端に姿勢を崩す。
嘗められてるな、僕。
ここは店員としての威厳を示さんと。
「ここに書かれてる事は、遵守して下さい。でないと、本当に警察沙汰に
なりますから。相応の覚悟はしておいて下さい」
「な、なによ。急にまた敬語になって……」
「じゃ、仕事はここまでとして。さっき話すって言ってた、例の理由について
話して貰おうか」
僕は目を据えて、城崎を睨み付けた。
同時に――――
「どうやら、失敗したみたいね」
再び応接室の扉が開き、声の主が現れる。
文奈さんだ。
しかも、鳴子さんを背負っている。
「だ、だって……」
「仕方ないでしょう。元々、分の悪い賭けだったから」
賭け――――確かに文奈さんはそう言った。
つまり、僕に対して、何らかの目的を持って仕掛けてきた、と言う事。
失敗するリスクを含んだ、何かを。
「有馬湯哉さん」
その文奈さんに背負われた鳴子さんが、こっちを眺めながら
フルネームで呼んでくる。
それは、ある種の覚悟の証だった。
「こうなった以上、全てをお話しします。私達がここへ来た、本当の理由を」
――――――――――――
4月22日(日) 09:20
――――――――――――
スパ施設『CSPA』の開店時間まで、あと10分。
ディズニーランドみたいな大人気の施設って訳でもないから、
開店と同時にお客様が飛び込んで来る……と言う事もなく、日曜でも
割と静かな始まりだ。
だから、特に慌てる必要はない時間帯。
寧ろ、落ち着いた雰囲気で、本日初めてのお客様を待つ方が良い。
「……そわそわ」
なのに、僕の隣で薄いグレーの制服に身を包んだ新入りは、一人で
浮ついた空気を出しまくっていた。
「おい、落ち着きがないぞ。もっとドッシリ構えてろ」
「そ、そんな事言ったって……って言うか、何でそんなトゲのある言い方なのよ?
昨日までこっちが散々言っても敬語止めなかったのに!」
「もうお客様じゃないんだから当然だ。余所見するな。入り口を凝視してろ」
「くっ……この男……」
プルプル震える新入り――――城崎を横目で眺め、僕はこっそりと苦笑した。
――――――――――――
4月22日(日) 01:08
――――――――――――
何故、城崎が『CSPA』の店員となったのか。
その経緯は、昨日の告白後にあった。
勿論、ここで言う告白ってのは、恋愛感情を伝えるって意味合いじゃなく、
隠していた事実を暴露するって意味だから、間違えないように。
「以前も話した通り、私達の目的は、この異能力と副作用の除去です」
昨夜、応接室を訪れた鳴子さんは、微かに吊り上がった目を更に
鋭くしつつ、『ここを訪れた理由』を話し始めた。
「これに関しては本当ですが、ここに飛んで来たのが『不慮の事故』と言う事は
嘘です。もう気付いていらっしゃると思いますが」
「最初から、僕が目的だった、って事だよな」
「はい。有馬湯哉さん、貴方が目的でした」
それは、流石にわかる。
問題は――――どうして僕が目的にされているか、だ。
ストーカーじゃないのなら、他にどんな理由があるってんだ?
……待てよ。
目的。
彼女等の目的は『異能力の除去』。
彼女等の目的は『僕』。
となると、この二つは、等号で繋がる……?
「僕が、その異能力の除去を達成する為の、鍵……」
「ええ、その通りです」
そう肯定したのは、文奈さんだった。
「貴方は、私達にとっての希望。唯一の希望なんですよ。有馬湯哉さん」
「……わからないな。僕の何処に、そんな要素があるってんだ?」
「はい。貴方はわからないと思います。『そう結果に出ましたから』」
……結果?
どう言う事だ?
「私の能力は『サイコメトリング』。他人や物を『リングのように囲む』
事で、その中のモノの残留思念を読み取ります」
「囲む……?」
残留思念よりも、そっちの方に意識が向いたのは、なんとなく心当たりがあったから。
確かに、僕は囲まれた事があった。
「はい。例えば、誰かに両手で抱きつくとか」
やっぱりあの時か……!
幾らなんでも不自然だと思ったんだ。
「最初は、握手に見せかけて、読み取ろうとしたんですけどね。
直ぐに離すんですもの」
「握手……あ」
それも記憶にある。
だから、やけに積極的にボディタッチしてきたのか。
「それで、お酒に酔った勢いで、ごく自然に抱きつく事にしたんです。
カクテルを出すって聞いたもので……」
「けど、アレってノンアルコールのカクテルだったんだけど」
「……」
文奈さんをはじめ、3人全員がぎこちないリアクションを見せる。
……あの酔いどれ状態、演技だったのか。
って言うかコイツ等、僕を騙す為にずーっと演技してたんじゃないのか?
「で、結局のところ、僕の何が『唯一の希望』なんだよ。自覚ゼロなんだけど」
「アンタは、あたし達と同じなのよ」
その城崎の言葉を――――僕は暫くの間、理解できずにいた。
でも、冷静になれば直ぐに意味の把握は出来る。
ジェネド、とか言ってたっけ。
僕がその異能力者軍団の一員、と言いたいんだろう。
でも、僕にそんな能力はないし、一度も使った試しはない。
「何言ってんだ。僕の何処が異能力者だってんだよ」
「それに関しては、間違いありません。ジェネドを収容していた研究所の
リストに、貴方の名前はありましたから」
「は?」
「……どうやら、ジェネドの事を少し説明した方が良いですね」
僕の訝しがる顔を眺めていた鳴子さんが、落ち着いた様子で口を開いた。
「ジェネド、すなわち『genetically
doll』。遺伝子改変によって生み出された、
異能力者達を指す言葉です。つまり、人工的に作られた存在なんです。私達は」
「そんな事できるのかよ。聞いた事ないぞ」
それが可能となれば、間違いなく大ニュース。
僕の耳にだって届く筈だ。
「出来ます。ただし、社会的、道徳的な問題から、遺伝子操作は様々な宗教、
思想家からタブー視されています。表面化できる技術ではないんです」
「それは……そうかもしれないけど」
「ここで引っ掛かられると長くなるんで、半信半疑でも良いので取り敢えず
信じて下さい」
「疑り深い男って、モテないわよ?」
特にモテたくもない僕は、場に合わない茶々を入れてくる城崎を
ジト目で睨んだ。
「……仮に、それが本当だとして、何の為に異能力者を何人も作ってんだ? 実験か?」
「まさにそうです。実験です」
半ば冗談のつもりだったんだけど、図星だったらしい。
人体実験……って事か?
そんなの許されるのかよ、今の時代に。
「遺伝子の操作は、世界中の生物学者にとって、『絵に描いた命題』だそうです。
それが大きな革命をもたらす事は、誰にでもわかってる。でも、誰もが
手を出せない。そう言う分野ですから、核開発以上に各国が隠れて進めている
研究……だそうです」
「とても信じられない話だな」
「そうですね。私も信じられません。人の道を外れています」
そっちにそう言われると、二の句が繋げないんだが。
何にしても、鳴子さんの話は総じて、俄に信じ難い内容だった。
「ある研究者は『人間が別の何かに進化する為』、ある研究者は『不治の病を
治す為』……理由は様々ですが、いずれにしても、私達はそのモルモットとして
生み出され、経過を観察され続けました。足枷を付けられたまま」
「足枷……?」
「副作用の事です」
その補足は、文奈さんの言葉だった。
「私の『20時間睡眠』、水歌の『記憶制限』、そして璃栖の『歩行不能』。
これらは、意図して生み出された副作用なんです。自由に行動する事が
難しいと言う点で、共通しているでしょう?」
確かに……そうだ。
副作用って言うと、頭痛とか眠気とか、そう言うのをイメージするけど、
彼女達のは全部、行動や思考を制限するモノだ。
自分だけでは、社会の中で生きていけない。
紛れもなく『足枷』だ。
「水歌の能力に代表されるように、逃げようと思えば逃げられる能力も
あるんです。ですから、このような処置を行ったのでしょう。
でも……一人だけ、研究所から離れる事ができたジェネドがいます」
文奈さんのその言葉が、僕を指しているのは明白だった。
ただ、僕はそんな研究所とやらにいた記憶は――――
「……?」
ユラリと、記憶が揺れる。
視界を掠めるように現れたのは、暗くて小さな部屋。
耳を撫でるのは、水の流れる音。
でも、そこが何なのか、それが何なのかは、全くわからない。
「いたのよ。アンタは。あたし達がいた、あの研究所に」
「……」
城崎の言葉が、これまで常に曖昧だった僕の中の『あの映像』を、
少しだけ鮮明にした。
見えるのは……鉄格子。
窓に付いている。
普通の家の、普通の部屋の筈がない。
僕は……そこにいたのか?
「そしてアンタはジェネドの中で唯一、無事に異能力を除去できた人間なのよ」
不意に、城崎と視線がぶつかる。
「僕が……?」
「そ。だから、アンタは唯一の希望なの。あたし達の夢を先に叶えた、『前例』
なんだから」
そう言われても……全く実感がない。
異能力とやらがあった事も、それが消えた事も、一切体感してないんだから。
そんな狼狽する僕に、文奈さんは真剣な顔を向けた。
「私達はずっと、研究所で暮らしていながら、この能力と副作用を消して、
普通に生きられるようになる方法を模索してたの。脱出だけなら、
水歌のテレポートで簡単にできるから。でも、それだけじゃ意味がなかった。
能力の除去方法を探る手掛かりがあるとすれば、あの研究所が一番可能性が
高いって言うのはわかってたから、それを暴くまでは逃げられなかったの」
「その手掛かりが……僕の名前?」
「そうです」
既に椅子の上に下ろされている鳴子さんは、瞬時に首肯した。
「文奈のサイコメトリングで、研究所のあらゆるモノの残留思念を調べました。
勿論、監視の目があったので、簡単ではありませんでしたが……」
「最終的には、アンタのレーザーで時間をすっ飛ばしたもんね」
「時間をすっ飛ばす?」
聞き慣れない表現に、僕は思わず首を傾げる。
「私の『タイム・レーザー』は、普通の熱線ではありません。私の中の
時間と引き替えに、射出したレーザーが当たった箇所の『時間を奪う』
と言う効果があります」
「え? でも、前に説明した時は……」
「あれは嘘です」
気持ちの良いくらいにキッパリと、鳴子さんは断言した。
「最初に見せたレーザーでは、貴方の右頬を掠めました。暫くその右頬は
時間を奪われた筈です。そうなると、以前説明したように、時間を奪われると
その間はそこから『存在しなく』なります。あの時、貴方は右頬の存在を
暫く忘れていた筈です。例えば、虫に刺されて痒くなっていても、
その間はそれすら忘れているんです。正確には『最初からないもの』と認識が
書き換えられるんです」
そう……だったっけ?
正直、全然そんな認識はない。
いや、そもそも頬の存在を意識した事もまずないんだけど。
「二度目は、貴方の脳を撃ちました。ですから、暫くの間は完全に
意識がなかった筈です。同時に、暫く私の存在も忘れていたと思います。
私の時間も、対価として失われていましたから」
「あの時か……!」
こっちはハッキリ覚えていた。
コイツ等の宿泊してる部屋での出来事だ。
あの時、僕は確かに意識を失っていた。
それは、脳の時間をすっ飛ばされてた、って言うのか?
「って言うか、何でそんな嘘を吐く必要があったんだよ」
「その二度目の時の為ですよ。警戒されても困りますから。熱線程度なら、
直撃する瞬間まで、そこまで危機感を抱かないでしょう?」
そうか……?
ビンタ程度の威力とか言ってた気はするけど、十分怖いんだが。
「本来、あの時は文奈が貴方の『遺伝子』の残像思念を完全に読み込むつもりでした。
時間を奪ったのは、それを実行する為です」
「ちょっと待て。しれっとトンデモない事を言ってやがるけど、
一体何をするつもりだったんだよ。遺伝子って……」
「普通に、頬内側粘膜の摂取ですが」
……あ、そうなんだ。
遺伝子なんて言うモンだから、てっきり……うわ、恥ずかし。
って言うか、俺だけじゃなく城崎まで赤面してるのは、どう言う事だ?
意思の疎通、出来てなかったんじゃないのか……?
「遺伝子情報を読み込めば、生物学的な観点の万事がわかります。ですから、
能力を除去した貴方の、性質や過去を全て知る事が出来る筈でした。ですが……」
鳴子さんはジト目でチラリ、と文奈さんの方を見た。
どうやら、その目論見は失敗したらしい。
あの抱きしめた時も、完全には読み切れてなかったって事か。
「あれは、ロ……彩莉ちゃんがいた手前、中々チャンスがなくて、先に
寝付かせようって思ったら、私の方も時間切れで……そもそも、最初に
テレポートした時点で、水歌が直接見つからないような場所に着地
してくれてれば、こんな事には……!」
「何で今更そこ責められなきゃなんないのよ! 仕方ないじゃない、サーチ・
テレポートは着地地点に関してはアバウトなんだから!」
なんかケンカが始まった。
仲介する義理もないけど、近くでギャーギャー騒がれるのも不愉快だ。
「そう言えば、1回目のテレポートは『予定外』って言ってたな。
何でそんな無謀な事したんだよ」
「無謀じゃなくてナイス判断だったのよ。あと一秒飛ぶのが遅れてたら、
見回りの職員に見つかってたんだから」
つまり――――書類か何かを盗み見してた、って訳か。
それで慌てて僕の名前を入力して、飛んだ。
まあ、それに関しては一応辻褄は合っている。
「でも、今日のテレポートは深夜である必要はないだろ。やっぱり、
入浴中を狙って……」
「違うって言ってるでしょ!? もう寝てるって思ったのよ!
大体、その年齢で毎日温泉とか、枯れ過ぎじゃないの!?」
最終的に、僕が詰られる事になった。
「そもそも、なんで文奈さんは出てこなかったのよ! 一緒にテレポートしたのに!」
……そうなのか?
二度目の時は、この城崎しか確認できなかったんだけど。
まあ、サイコメトリングとやらが目的なら、当然彼女も一緒じゃないと
意味ないんだけど。
「だ、だって……そんな、ハダカの男の人の前に出るなんて」
「今更それ言う!? ってか、あたしが男のハダカ平気みたいになるじゃない!」
なんか、僕を無視して二人は再度言い争いを始めてしまった。
完全にグダグダだ。
「と言う訳で、あらゆる面で失敗の連続でした。この一日は」
「みたいだな……」
鳴子さんのジト目に、僕も思わずつられてしまった。
なんて言うか……色々無計画すぎる。
行き当たりばったりだ。
まるで、ウチの父。
僕よりよっぽど、彼女等の方が父の子供みたいだ。
「それで、モノは相談ですが」
呆れる僕に、鳴子さんは若干身を屈め、問い掛けてくる。
「何?」
「協力……して貰えませんか?」
ついには直球勝負。
散々変化球を見せてからのストレートは、それなりに威力はあった。
とは言え、サイコメトリングとか言うのをされて、僕の残留思念とか言うのを
見られるのは、余り気持ちの良い物じゃない。
要は、過去の記憶とか見られる訳だろ?
初めての精通とか、その辺の記憶も。
「それは絶対イヤだ」
「……なら仕方ありません。その気になって頂くまで、ここに留まらせて貰います」
「はい?」
「手掛かりは貴方だけなので。必然的にそうなります」
しれっと断言する鳴子さんの言葉に、醜い言い争いを続けていた二人が
ピタッと口を止め、同時に視線を向ける。
「ちょっと、璃栖! そんな勝手に……」
「代案がある場合は聞きます。ないのなら黙ってて下さい」
「う……」
二人は同時に黙り込む。
なんて言うか……この3人の主導権を握ってるのは、鳴子さんっぽいな。
外見に見合わず、年長者なんだろうか?
早くから『さん付け』してた僕の目に狂いはなかった。
「なさそうなので、今後もお世話になります。よろしくお願いします」
「いや……お客様なら歓迎だけど、結局お金、なかったんでしょ?
その研究所とやらに一旦取りに帰るにしても、所持金には限度があるでしょうに」
「その点は心配要りません。水歌が宿泊費用の分、しっかり働きますから」
更に追い打ち。
城崎のツインテールが、ビーンと横に伸びた。
スゲー、こんなん初めて見た。
「ちょっ、璃栖! 幾らなんでもそれは無茶ブリでしょ!?」
「水歌、いつも言ってるじゃないですか。女の子らしくなりたい、
可愛いお嫁さんになりたいって。花嫁修業のチャンスですよ?」
「余計なコト言うなーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
全力での憤慨は、図星の証。
アボカド好きとか言ってたのは、女子ぶりたかっただけか……
「私からもお願いします。水歌を馬車馬のようにコキ使って良いので、
貴方の気構えが出来るまで、ここに居させて下さい」
「コラーーーーーっ! あたしの意見を無視すんなーーーーーっ!」
城崎が吠える中、僕は採算の面で熟考し――――結果、受理した。
――――――――――――
4月22日(日) 09:27
――――――――――――
と言う訳で、回想終了。
そんなこんなで、今はこう言う状況だ。
「仕方ないだろ。湯布院さんは4時間しか起きれないし、鳴子さんは
足が不自由なんだから。戦力になるのはアンタだけしかいない」
「あたしだって、6日経てば覚えた事全部忘れるのよ? 社会不適合者に
決まってるじゃない!」
「でも、今まで覚えた事をガッツリ書き込んでるんだろ? それと
同じようにすりゃ良いだろ」
そう。
失われた記憶は戻らないけど、『再認識』は出来る。
覚えた事の中で、特に重要な事だけをピックアップし、それを
メモ帳に書き記していれば、それを見る事でまた覚える事ができる。
実際、城崎はその繰り返しで、生活をしているらしい。
彼女の日課は、そのメモ帳――――正確にはあのテレポートの検索入力を
する端末に重要事項を書き込み、次の朝にそれをチェックする事。
そうする事で、忘れた分の記憶は保持できるらしい。
流石に、歩き方や箸の持ち方なんかの記憶は保持されているらしいから、
言うほど不便でもないみたいだ。
「こんなに覚える事が増えたら、作業メンドいってのに……」
ブツブツ言いつつも、城崎は何度も時間を確認し、開店の瞬間を
待ち侘びている。
まあ、不安ばっかりなんだろうけど。
「大体、ここでアルバイトする事が、女の子らしさの修行になるの?」
「それは、僕の口からは何とも。まあ、気の配り方とか、正しい姿勢とか、
そう言うのは身につくけど」
「む……」
なんとなくピンと来るモノがあったのか、城崎は少し溜飲を下げていた。
さて、開店時間まであと1分。
今日はある意味、昨日より疲れる一日になりそうだ。
素人に接客業を叩き込むんだから。
「ねぇ」
「何だよ。もうすぐ開店だぞ。私語は……」
「アンタって、女に興味ないの?」
いきなりのフザけた問いに、僕は思わず首ごと城崎の方を向く。
「そ、そんなに睨まないでよ。だって、その……あたしのハダカ見た癖に
あんまり動揺してなかったし。もしかして、そっち系の人かな、って思って」
「そっち系って何だよ」
「そっち系はそっち系よ。だってホラ、ここってサウナもあるでしょ?
なんとなく、そう言う人達が集まる場所なのかなー、って……」
「お前、それ本気で言ってるなら、ブッ飛ばすぞ」
とんでもない偏見だった。
「ご、ゴメンなさい。別にそう言うのに興味があるって訳じゃないんだけど、
なんとなーく、そうなのかなーって」
「違うに決まってんだろ。何で僕が、遺伝子欲しがる変態に変態呼ばわり
されなきゃならんの」
「変態って……あ、あれはそう言う目的だったんだから仕方ないでしょ!?」
「それをストレートに言うか、普通……」
呆れつつ、僕は時計を確認し、気を引き締めた。
いよいよ開店時間だ。
そんな最中――――後ろからバタバタと足音が聞こえて来た。
「湯哉! 俺が貸した『イケメンホストのあんな事やこんな事をタップリ収録したDVD』は
全部見終えたか? 今日はもっと濃いヤツを持って……ん、どうした。
何か地雷でも踏んだか? 俺」
大量のホストDVDを抱えて来た父が、満面の笑みを浮かべる中、
城崎はスゴい勢いで僕から遠ざかっていった。
「……やっぱり」
「ち、違うっ! そんな訳ないだろーがっ!」
「近寄らないでっ! お、お……犯されるっ!」
「誰が女なんて(怖い生き物)犯すか!」
思わず出てしまった女性不信からの一言。
城崎の顔から、血の気が引いていく。
「う、う……うわーーーーーーーーーん! もうヤダーーーーーーーーっ!」
「待て、城崎! いや待って下さい城崎さん! 違うんだってば!
僕は……僕はノーマルだーーーーーーーーーーーーっ!」
案の定、昨日よりよっぽど疲れる一日となった、この日。
スパランド『CSPA』に、一人の従業員と、二人の長期宿泊客と、
一つの大いなる誤解が誕生した。
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