――――――――――――
  6月30日(日) 0:04
 ――――――――――――

 スパという遊興施設は、日本古来より長らく愛され続けた温泉施設の現代版であり、
 圧倒的な普遍性を持った、老若男女に愛されるべき存在――――とは、
 我が父たる有馬卓哉の弁。
 
 まあ実際、広い範囲に受ける商売ではある……と思う。
 なのに、今週の売上げは予想を遥かに下回るものとなったのは、どういうわけか。
 梅雨明け宣言はまだもう少し先で、夏休みもまだもう少し先というこの時期は
 確かに客足は穏やかなのが普通なんだけど、それにしても今年の閑古鳥の鳴きっぷりたるや
 真夏の蝉もビックリなくらい。
 具体的にいうと、今週の売上げは(今日を残しているとはいえ)
 目標の10分の1にも届いていない有様だ。

 そんなワケで、緊急ミーティングが開かれてるワケだけど、父はさっきから
 一言も発していない。
 いよいよこの【CSPA】もヤバい……そう思わざるを得ない状況だ。

 それでもなんとか今月を乗り切れたのは、日比野君の企画が大当たりした為だ。
 だけどそれは、彼女の妹の異能力によるもの。
 しかもそれは、そうそういつも都合のいい結果を教えてくれるとは
 限らない能力だと判明した。
 そして彼の企画による利益も、あっという間に食いつぶしてしまった。
 結局、自力で新しい企画を立ち上げなくちゃならない。
 
「なあ、父。いつまで黙ったままでいるんだよ。いい加減何か話せって」
 
 流石に痺れを切らし、僕は父を急かした。
 従業員としてこのミーティングに参加している城崎も、疲れた顔で
 小さく頷いている。
 早く寝たいんだ、要するに。
 なお、ここに寝泊まりしてる訳でもない日比野君にはさすがに帰って貰った。

「……湯哉よ。時は来た」
「いきなり何だ」
「切り札を使う時が来た、と言っているのだよ。息子」
 
 いつになく鬼気迫る雰囲気を醸しだし、父はユラリと身体をくねらせた。
 何で、まるで妖怪か何かのような不気味な動きをするのかは、この際置いておこう。
 それくらい眠い。
 とっととこの時間を終わらせなければ。

「今週の売上げが絶望的なのは、知っての通りだ。何しろ1週間でお客様が
 3人しかお越しになられなかったからな」
 
 そう。
 今週は6日で3人しか集客できなかった。
 理由はちゃんとある。
 豪雨続きだったからだ。
 普通、梅雨の時期ってしとしと降る雨が多いんだけど、
 今週は低気圧がにょーんと伸びてきた所為でやたら大雨になってしまい、
 窓を開けるとそこはスコールだった状態。
 それでも、さすがに毎日豪雨って訳じゃなかったんだけど、
 月、水、金と豪雨が一日おきにやってきたもんで、誰も頭の中が
 レジャーモードにならなかったのが大きな要因だろうと思う。

 まあ、さすがに来週はここまで酷くはないと思うけど、まだ梅雨が明けきって
 いないのは現実だし、今週の売上げが壊滅的だったのもまた現実。
 取り返さなきゃ、【CSPA】に来年はない。
 だからこそ、こうやってミーティングを開いてるんだ。

「なので、【CSPA】の切り札をここで切ろうと思う」
「……さっきも聞いたけど、具体的に切り札って何なんだよ。僕、これまで
 一度も見た事ないぞ」
「うむ。これは本当に最終手段だったからな。出来れば、俺の代では
 使いたくなかった。先祖代々より伝わる、最強の危機回避手段なのだっ!」

 マントを翻すような仕草で、特にマントなどしていない父が
 仰々しく発言する――――も、特にすべきリアクションは何もない。
 だってウチ、先祖代々より伝わる温泉宿とかじゃないし……
 過去のノウハウなんて一切ない。
 どうやって御先祖様からアドバイスを受けるってんだ。

「くー」

 そして隣の城崎がいつの間にか長机に突っ伏しておねむ。
 なんてミーティングだ。
 ほぼ家族会議じゃないか。

「そんな訳で、来月からこの【CSPA】の正式名称を変更だ」
「……は?」

 突然の意味不明な決定に、僕は思わず無の深淵を見た。
 いや、よくわからないんだけど、そんな心境になった。

「現在、【CSPA】の正式名称はCosmopolitan SPALAND(コスモポリタン・スパランド)
 だが、それを変えると言っているんだ。城崎君、君はこの案に賛同してくれるね」
「くー」
「うむ。では可決と見なし、本日のミーティングを終了とする。ではまた会おう」

 僕が質問をする暇さえくれず、父は軟体動物が地を這うような動きで
 会議室から出て行った。
 ……何だったんだ、このミーティングは。
 まあいいか。
 終わったんだし、とっとと寝よう。

「くー」

 机に涎を垂らして眠りこけている城崎を残し、僕は部屋の電気を消して
 自室へと引き返した。





 ――――――――――――
  7月1日(月) 15:40
 ――――――――――――

 どうにか雨も止み、曇り空の月曜日。
 真面目に学業と家業を両立させている僕にとって、月曜の憂鬱感は
 他の生徒と比べると少ない……と思う。
 日曜も一日中仕事だしな。
 だから、この日の放課後にみんなが味わっている解放感にも似た
『終わったーっ!』っていう心の声は、僕の中には響かない。
 
 それより、気になるのは父の一昨日の……日にち的には昨日の発言。
 深夜のミーティングで父は来月から【CSPA】の名前を変えるとか言っていた。
 けれど、昨日はごく普通の営業だったし、例によって客足は鈍いまま。
 今日から何かをはじめるつもりなんだろうけど、全くピンとこない。
 名前を変えてどうにかなる段階でもないと思うんだけどな。

「有馬君」

 首を捻ったまま机の上で腕組みしていた僕に、日比野君が近付いて来た。
 アルバイトとして僕の家で働くようになってから、彼とはかなり親しくなった。
 正確には、彼の妹である千里ちゃんが助かってから、だけど。

 千里ちゃんは、城崎たちと同じ『ジェネド』と呼ばれる異能力者だった。
 このジェネドってのは、常人が持ち得ない特殊な能力を一つ持つ代わりに、
 日常生活が困難になる副作用を一つ持っている。
 城崎も、城崎と同じ境遇の湯布院さんと鳴子さんも、ついでにイカも、
 この副作用によって苦しめられている。
 だから、異能力を除去したいと思っていて、その目的を叶える可能性が
 唯一あるという僕の従妹、彩莉を訪ねて我が【CSPA】にやって来た。

 今、鳴子さんはどうして彩莉が能力除去を可能としているのか、
 どうやったらそれが発動するのか、という分析を毎日行っているらしい。
 とはいえ、彩莉は小学生なんで、一日中って訳にはいかない。
 午前中は学校があるし、寝るのも早い。
 それに、鳴子さんは彩莉に出来るだけ負担をかけないようにと
 一日一時間のみ、彩莉に協力して貰う形で分析を行っているそうだ。
 でも、現時点では進展は見られない。

 わかっているのは――――彩莉がこの世から消えたら、異能力も消えるという事。
 鳴子さんの能力『タイム・レーザー』によって彩莉が一時この世から
 存在しなくなった際に、全員のジェネドが能力と副作用を失った。
 彩莉の存在と異能力が連動しているのは間違いない。

 だからといって、彩莉を殺すという選択肢は当然ない。
 そんなの僕が許さないとかそういう以前に、あり得ない選択だ。
 彼女達は日常を得る為に能力の除去を願っている。
 小学生の少女を殺して日常が得られる筈がない。
 だからこそ、僕は倫理的な面じゃなく道理的な面で彼女達を信用し、
 彩莉が協力するのを黙認しているんだ。

 それに、彩莉の存在が消失した事と、彩莉の命がなくなる事が
 必ずしもイコールとは限らない。
 つまり、彩莉が死ねばジェネド達の能力が消えるとは限らない。
 もっと事は複雑……のような気がする。

「有馬君はこれから真っ直ぐ帰るの? もしそうなら一緒に行かない?」
「あ、ああ。いいけど」

 彼にとって、僕の家は職場。
 一緒に帰るのは自然な事だ。
 一方――――僕にとっては不自然すぎる状況。
 何しろ、友達がいた例しがない。
 子供の頃から家を手伝う為に放課後になると即帰宅だったもんで、
 友達を作る機会が極端に少なかった。
 日比野君が僕の事をどう認識しているかは知らないが、僕にとっては
 はじめて出来た友達……なのかもしれない。

「それじゃ行こうか。実は昨日、千里の病室に彩莉さんが来てくれたんだ。
 そのお礼に、何か買っていこうかと思うんだけど、何がいいか教えてくれないかな」

 ……ああ、そういう事か。
 とはいえ、中々いい心がけだ。
 彩莉を『さん』付けで呼ぶのもいい。
 日比野君は相手がどうすれば自分を不快に思わないか、という事を
 とてもよく考えて行動している……気がする。
 僕より遥かに多くの種類のアルバイトを経験している彼は、
 もう社会人として生き抜く力を得ているんだろう。
 コレもその一つ。
 大した男だ。
 だが、彩莉が彼になつくのは余り僕としては面白くない。
 無理難題で茶を濁そう。

「彩莉は甘いモノはなんでも好きだけど、特に
『ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ』の苺ショートは好きみたいだ」

『ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ』はこの共命町で一番人気の洋菓子店。
 特に店名の由来、苺ショートは絶品で、毎日100コしか作らないせいで
 平日でも昼過ぎには完売。
 しかも週末は朝から行列が出来るらしく、滅多に買えない幻のデザートだ。
 ここ1年で人気が更に上がっているって話も聞くし、まず買えないだろう。

「ああ、そこなら1年前にバイトで少しだけお世話になったから、
 都合がつくと思うよ。何か不備があった時の為に、特別に2〜3個とってあるんだ」

 ……なんてこったい。

「それなら、彩莉も喜ぶと思うよ……フフハ……フフハハ……」
「な、なんか変な笑い方だね」

 何とも複雑な心境で、僕は日比野君と一緒に学校を出た。
 ただ――――この時に味わった複雑感は、その後に味わう複雑感に比べれば
 大した混沌でもなかった。

 


 ――――――――――――
  7月1日(月) 16:50
 ――――――――――――

 結論から言うと――――【CSPA】の名前は確かに変わっていた。
 ただ、これまで仰々しく入り口の真上に立てかけられていた看板の記載に
 変更はなく、そのまま『CSPA』という文字がブリッジ状に弧を描いている。
 問題はそこじゃない。
 入り口の傍に追加されたメニューボードにチョークで書かれた文字だ。

CSPA -CoSPlAy SPALAND- 近日OPEN!』

 ……こ、これは……
 これはっ……!

「コスプレ……スパランド?」

 隣の日比野君も、顔をしかめつつ唖然としている。
 冷静な普段の彼からは想像もつかない顔だ。
 そして僕はというと――――

「あ、あの……アホ父ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」

 ワナワナ震える身体を自覚しながら、体育祭でも見せない限界オーバーの
 ダッシュで店内へと直行した。
 こういう時、人間は知らず知らずの内に限界を超える。
 僕は直感だけで父の居場所を突き止めた。
 会議室。
 そこに父はいた。

「……」

 青緑色の髪とネクタイをした城崎と一緒に。
 あと、変な形の四角い髪留めとか、グレーの袖なしシャツとか、
 格好がいちいちおかしい。
 多分何らかのコスプレだ。

oh my god!」

 突然、日比野君がネイティブ発音で頭を抱えた。
 彼なりに動揺しまくってるらしい。
 いや、気持ちはよくわかる。
 僕も頭がどうにかなりそうだ。
 ただ、色々考える前に言う事がある。

「……城崎、大丈夫?」

 目の前の城崎はなんか目が死んでいた。
 自分の格好を僕らに見られた事で、心の色々な箇所が壊死したらしい。
 反応がまるでない。

「おう、息子よ。帰ったか」
「息子よ、じゃないだろ……何がどうなってるんだよ」

 一方、父は10歳ほど若返ったかのように目がキラキラしていた。

「言っただろう、切り札を使うとな……」

 そしてその顔のまま、不気味なえくぼを作ってニヤリと微笑んだ。

「共命町のスパ施設【CSPA】は、これからコスプレスパ施設【CSPA】へと
 生まれ変わるのだッッッ!」
「やかましいわっ!」
「ブフッ!?」

 普段温厚な僕でも、キレる時は必要だ。
 今がその時なんで、僕は全力で父の顔面に肘打ちをかました。

「何をする湯哉……この父はやったのだぞ。常人には超えられない一線を
 超えたのだ。普通の決断力では決して超えられない一線をな……
 褒められこそすれ、ドラゴンボールみたいな肘打ちをかまされる謂われはない」
「あるに決まってるだろーが! つーかなんでコスプレ!? ここに来て
 なんで風営法の超えちゃいけないラインに挑戦しようとすんだよ!」
「そんなつもりはない。別に彼女にいかがわしいサービスをさせようとか、
 そういうつもりじゃあないんだ」
「あったりまえだろーが!」

 鼻血をポタポタ落としながらもやたらイイ笑顔の父を、僕は生まれて初めて
 殺すべきかどうか悩んだ。
 だって……そうだろう?
 実家がコスプレパーティー会場って……ムリだろ色々。
 
「あくまでも、コスプレした店員が接客する、それだけの変更だ。
 問題ないだろう? 制服が替わるだけの事だ。何も問題はない」
「ありまくりだ! 店員にコスプレさせてるスパ施設なんて、
 もうそれだけでいかがわし過ぎるじゃないか!」
「……そうか?」

 父はピンときてなかった!

「冷静に考えてみると、そうかもしれん。だがな湯哉、最初にメイドカフェを
 考えついた経営者も、きっと最初はそんな反対を受けながら我を通したに
 違いないんだ。結果を見てみろ。流行のピークは過ぎたが、十分に一時代を
 築いたじゃあないか。一時代を築くのがどれだけ大変かお前にわかるか?」

 顔を抑えながら冷静に語る父に、僕は目眩を覚えた。
 一理ある、と言いたくなる自分もいないわけじゃない。
 だけど、この父の詭弁は世迷い言だ。
 
「いや、別に流行なんて作る必要ないし」
「夢がないヤツだな、お前は!」

 何故か一喝された。
 息子と同い年の女子を辱めた中年男に夢がないと罵られた。
 なんて屈辱だ……

「湯哉。お前ももうわかっているだろう。スパは普遍性の高い遊興だが、
 それだけに競争相手も多い。高齢層は由緒ある温泉に奪われ、若年層は
 次々と生み出されるエンターテイメントとコミュニケーションツールに
 少ない時間と金を削り、俺たちが得られる客層は狭い狭い範囲なんだ。
 俺たちの未来は、それはもうちっぽけで頼りないモノなんだ」
「な、何ィ……まさか父からそんな現実的な話を聞く事になるなんて」

 僕は戦慄すら覚えた。
 もしかして……今、【CSPA】は僕が思っている以上にヤバいんじゃないか?
 これまで何度も経営難だ危機だと慌てふためいてきたけど、
 今回……先週の客離れは致命的だったんじゃないか?

 今年に入ってから、【CSPA】にはいろんな事が起こった。
 非現実的な異能力者の女どもが何人も押し寄せて、トラブルも頻出した。
 施設の一部が手榴弾で吹っ飛んだりもした。
 僕自身がこの世から消されそうにもなった。
 でも、その度にどうにかこうにか切り抜けてきた。

 けど……今回は本当にどうしようもないんじゃないか?
 だって、コスプレスパなんて成功しないよ?
 どんな国でも、どんな次元に行っても、コスプレスパが流行ってる
 世界なんてないよ絶対。

 もし、ここが潰れたら……僕はどうなるんだろう。
 実家が破産したとなると、大学進学は奨励金頼りになる。
 いや、それ以前に高校の学費を払えるかどうかも疑問だ。

 そうなったら、僕はこれからどうすればいいんだ……?
 技術があるわけでもない。
 夢があるわけでもない。
 そんな僕が突然、両親の経済力を失ってしまったら……
 どうやって生きていけばいいんだ?

「あ、あの……」

 それまで気絶してたんじゃないかってくらい黙ってた日比野君が、
 恐る恐る父に話しかけた。

「一応、ビジョンを聞いておきたいんですけど。このコスプレで
 どういった客層を狙おうと思っているんですか……?」
「うむ、さすがスーパー店員日比野君。イイ質問だ」

 スパとスーパーをかけているらしい。
 いっそここでツッコミするフリして喉を潰すか……?
 本気でそんな暗黒めいた発想が出てくるくらい、僕は追い込まれていた。

「無論、コスプレというモノはいわゆるヲタク産業と呼ばれている分野に
 属する為、そういう方々を……と思っているのだろう。だが日比野君、
 この有馬卓哉を侮って貰っちゃあ困るぜ。そんな事をすれば、従来の
 お客様との軋轢は必至! 周囲の環境ともマッチせず、早期衰退するのは
 目に見えている」
「だったら、一体どんな客層を想定して……?」

 日比野君の問いに、父は裂けそうなくらいに口の端を吊り上げ、
 不気味なえくぼをより不気味にして答えた。

「狙いは一つ! 補助金だ!」
「……は?」
「いいか湯哉。安定とは何か。それは公務員のように、国に守られた存在だ。
 国家が守るのだから、そこには常に絶対的な安寧が存在する。
 つまり……国に守られる事こそが、この【CSPA】史上最大の危機を
 乗り切る唯一の鳳凰だと知れ!」

 父は方法を鳳凰と……フェニックスとあえて表現した。
 言いたい事はわかるが、ダサいんで放置。
 それより問題は、補助金とやらだ。
 なんでコスプレスパに補助金が出る?
 いよいよ頭の方も末期なのか……

「その親に対して失礼極まりない目はさておき、だ。城崎君、そろそろ
 意識を取りもどしてくれたまえ。君にも話があるのだからな」
「……はっ」

 ずっと意識がブラックアウトしていたらしき城崎が、我に返った。

「い、い、い、い……いっっっっっっやーーーーーーーーーーーーーっ!」

 と思ったら、突然発狂した!

「見ないで! こんな汚れたあたしを見ないでーーーーーーーーーーーっ!」

 そして絶叫。
 まるで犯されたかのような物言いだった。

「いや……恥ずかしいのはわかるけど、誤解を招く発言は控えてよ。
 いくらお客様がいないとはいえ」
「見られるなんてぇ……こんな格好をオーナー以外に見られるなんてぇ……」

 父には見られてもいいのか。
 その基準、よくわからないな……

「では、話を進めるぞ。3人とも、クールジャパンという言葉に聞き覚えはあるかね」

 父は突然どこかの教授にでもなったかのような上からの物言いで
 妙な単語を発してきた。
 いや、待て。
 クールジャパン……聞いた事があるような。
 確か深夜のニュース番組で。

「確か、日本のポップカルチャー……もっと範囲を狭めてアニメやゲームなんかに
 関して、国際社会からそう呼ばれてる……というより、そう呼ばれていると
 誇張気味に伝えられている用語だったかと思います」

 日比野君、物知りだな。
 ああ、そういえばそんな感じだった。
 アニメとか、マンガとか、そういうのが『クールジャパン』とか
 呼ばれてヨーロッパか何処かで持て囃されてる、ってのを聞いた記憶ある。
 
「うむ。今や産業政策の一つとして、国家レベルでの戦略、展開が伝えられている。
 クールジャパン関連予算なるものまで用意されているらしいぞ」
「……つまり、政府がクールジャパンの為に予算の枠を取ったって事?」
「そうだ。媒体によって予算額の算出基準はまちまちだが、一説には
 数百億円とも言われている」

 すうひゃくおくえん。
 ……世も末だな。

「当然、そこにはクールジャパンを宣伝、推進する事業への補助金も
 含まれる。これをゲットできれば、我が【CSPA】は安泰だ」
「な、なんか話が壮大すぎてついていけないんですけど……
 その前に、もう着替えていいですか?」

 ニヒルに笑う父に、城崎は顔を真っ赤にしたまま訴えた。

「いや、ダメだね! これからが大事なトコロなんだ。いいかい、城崎君。
 城崎水歌という君の名前……実にイイ。実にコスプレ文化に抵抗なく
 溶け込める名前。キラキラネームと言ってもいい範疇だ」
「あたしの名前はキラキラネームじゃなーーーーーーーい!」

 城崎の絶叫に対し、同意は――――ない。
 悪い、城崎。
 僕もギリアウトだと思う。

「そして、君は容姿もイイ。だから、君がコスプレイヤー店員として
 海外の観光客に人気を集める可能性は十分にある。今やフェイスブックだ
 ラインだといったソーシャルメディアの普及、発達によってブームが
 とても起こりやすい状況にある。もし君が海外のソーシャルメディアで
 有名な存在になれば、国内の注目度も増す。そうすれば、この【CSPA】……
CoSPlAy SPALAND】がクールジャパン推進事業として認められる!
 どうだ、これが俺の戦略だッッッ!」

 父は――――俺を見ろと言わんばかりに両手の親指で自分の顔を指し、
 次にGLAYのTERUがよくやるポースで自分をアピールした。

 ……なんかもう……疲れたよ。

「僕は外の掃除するんで、適当に話進めててよ。じゃ」
「待て待て待て待てィ! 湯哉よ、そんな冷めきった反応では海外のお客様に
 受けが悪いぞ! クールジャパンとはそういう事じゃあないんだ!」
「日比野君、あとは任せた。可能性あるようなら、適当にブラッシュアップして
 使えそうな案にしてくれるかな」
「あ、う、うん……それはいいけど。大丈夫?」

 父を無視して日比野君に託した僕は、割と深刻に心配された。
 多分、今の僕はそれくらいやつれ切ってるんだと思う。

 一体――――いつまで僕は、この家に振り回されるんだろう。
 実家が商売をしている、あらゆる家庭の子供に問いたい。
 君達に不安はないのか、と。
 店が潰れたら、自分の一生が粉々になりかねないという状況に翻弄され、
 それでもどうする事もできない自分への歯がゆさと、どうやって
 向き合っているのか……と。

「ちょ、ちょっと有馬! あたしをここに置いていかないでよ!
 ってか、こんな格好したって他の二人に話したらコロすからね!」

 後ろから、城崎の罵声が聞こえる。
 でも、いちいち反応する気にすらなれないくらい疲労していたから、
 振り返りもせず会議室をあとにした。

 ……今から何をするんだったっけ。
 ああ、そうか、店の前の掃除だ。
 あの部屋を出て行くだけの単なる口実だったんだけど、
 どうせ必要な事だし、やっておこう。

 本当に、疲れた。
 精神的に。
 父のムチャな発案は大して珍しくもないし、それに対して
 不満だ絶望だってのを感じるのも、割と日常茶飯事だから
 いちいち堪えてちゃやってられないんだけど、今日はなんか異様に疲れた。
 この店が潰れるビジョンがリアルに見えたからかも知れない。
 
 父が『廃業の危機』だの『最後のチャンス』だの叫ぶのは、
 そんなにデカい不安にはならない。
 あの父の発言に信憑性を見出せるはずもないから。
 でも、父は明らかに焦っていた……ように思えた。
 いつもと毛色が違う発想だったし、何より僕自身が『そろそろ本気で
 ヤバイんじゃないか』って思い始めている。
 
 本気で考えておいたほうがいいのかもしれない。
 今後の自分の身の振り方を。
 一人で生きていく可能性を。

 もし、この【CSPA】が潰れたら、僕が働きに出る必要はあるだろう。
 少なくとも、僕は彩莉に不自由はさせたくない。
 彩莉が大学を卒業するまでの資金は僕が意地でも捻出する。
 つまり……その時点で、僕の一生の目的が変わる。
 それ自体には何の迷いもない。
 でも、変化を受け入れるには覚悟が必要だ。
 相当な覚悟が。
 今の僕に、それが出来るんだろうか。
 この生活を捨てて――――学校生活を全て捨てて、社会人になる勇気が
 僕にはあるんだろうか。

 僕は学校内でいつも、『自分は他の生徒とは違う』って感じていた。
 見下してる訳じゃないし、寧ろ見下される立場とさえ思ってるけど、
 社会人に片足突っ込んでる気になって、何処か得意げな自分もいた。
 でも、違うんだ。
 社会人になるってのは、自分や自分の大切な人を食べさせていく事なんだ。
 今の僕は、ただ実家の手伝いをしているに過ぎない。
 家の中で両親の肩を揉んでるようなもの。
 そんな浅はかな僕に――――覚悟なんて出来るんだろうか。

 ……この共命町には、僕と同じくらいの歳で自立している探偵さんがいる。
 彼に話を聞きたい。
 確か、相談に乗ってくれるはずだ。
 探偵ってのは、そういう仕事も引き受けてくれるって聞いた。
 ただ相談するだけ。
 それでも、料金は発生するんだろう。
 でも、いい。
 彼の意見を聞きたい。
 生きざまを聞いてみたい。
 僕はずっとそう思っていた。
 今回、よりそれが身近に、クリアになった。
 今週中に、時間を作って【はざま探偵事務所】に行ってみよう。

「あの……」

 ふと気づくと、僕はいつの間にか店の前まで来ていた。
 考え事しながらだったから、ショートカットしたような気分。
 そこで、誰かに話しかけられた。

「はい。いかがなされましたか?」

 瞬時に、身に染みついた営業スマイルで対応。
 僕の中にある唯一の武器だ。
 その作り物だけどめいっぱいの笑顔を向けた相手は――――

「胡桃沢さん……?」
「へ? どうして私の名前を……あ」

 クラスメートの女子だった。
 向こうもこっちに気づいたみたいだ。
 それはいい。
 同じ学校の生徒に声をかけられたのは、別にいい。
 ブレザー型の制服姿なのも、学生なんだから当然だ。
 で、普段から付けているネコ耳みたいなのも健在。
 ……あれ?
 まさか。
 まさかこの耳って、コスプレの道具……?
 つまり、彼女は……コスプレ好き?
 だとしたら、ここで働くつもりで訪ねてきたのか?

 あり得る。
 父は月初めの今日がスタートだって言ってた。
 でも、城崎一人にコスプレさせても、コスプレスパって雰囲気にはならない。
 企画の一つとしか思われないだろう。
 複数の店員によるコスプレが必要だ。

 でも、城崎以外のジェネド連中にはムリだ。
 湯布院さんは日中ほとんど起きてないし、鳴子さんは車椅子。
 どっちも接客業は不可能だ。
 イカは……あんな周りを不幸にする異能力を持ってるヤツを
 店員にできるはずもないんで、やはりボツ。
 当然、新しい店員を迎える必要がある。
 それも、若くて可愛い、コスプレ店員向きな外見の。

「……」

 不安そうにしている彼女は――――可愛い顔をしている。
 間違いない。
 恐らく、既に父は従業員募集の張り紙か何かを作っていて、
 何処かで募集をかけていたんだろう。 
 もし胡桃沢さんがコスプレ好きだとしたら、
 彼女にとってまさに天職だ。
 
「とりあえず、中に入って下さい」
「あ、は、はい。あの……ここって宿泊とか、できるんでしょうか」
「宿泊も承っています。あ、でも就業時間ギリギリまで働いて頂く必要はないですよ。
 そのあたりも含めて、説明致します」
「へ? え、えっと……」

 いつまでも店の前にいたんじゃ気の毒だ。
 こんな格好、いつまでも通行人に見られたくはないだろう。
 そんな訳で、僕は面接にやって来たクラスメート、胡桃沢さんを店へと招き入れた。

 


 ――――――――――――
  7月1日(月) 17:32
 ――――――――――――

「ふむ……君が面接希望者かね」

 応接室に現れた父は、威厳を見せたいのかさっき見せた教授キャラで
 胡桃沢さんに偉そうな微笑みを向けた。

「い、いえ、あの……」
「フッ、合格だって」

 そして四秒で合格した。
 早っ!

「へ?」
「ようこそ【CSPA】へ。今日から君は俺たちの仲間だ。頑張ってくれたまえ」
「へ? へ?」
「何より気に入ったのは、その猫耳。実にコスプレ魂を感じる。
 やる気に漲っていると見なした! ささ、こっちへ。君向けのいい
 コスチュームがあるんだ!」
「へ? へ? へ? あの、これネコ耳じゃ……あーれー」

 終始キョトンとしたままの胡桃沢さんは、名前も名乗らせて貰えないまま
 廊下へ引っ張り出されていった。
 ……ま、いっか。
 あんな耳つけてるくらいだ。
 やる気があるのは確かだろう。
 にしても、本当にやるつもりだったんだな、コスプレスパ。
 一体どうなるんだ、ここ……

「失礼します」

 不安で胸が一杯の僕の目に、器用に電動車椅子を操って
 室内に入ってきた鳴子さんの姿が映る。
 その顔は少しやつれていた。

「疲れてるみたいだね」
「はい。徹夜で作業していましたので」

 彼女は今、彩莉の『異能力除去能力』の解析を行っている。
 その作業が難航しているんだろう。

「一度書き始めると、中々止めどころが難しくて」
「あ……小説の方だったの」

 彼女には小説家になるという夢がある。
 才能は……ン、ン。

「どうして咳払いをするような仕草を?」
「気にしないで。で、ここに何か用?」
「ええと、オーナーに呼ばれて来たんですが……いないみたいですね」

 父が鳴子さんを応接間に呼び出し?
 なんでまた、そんな事を。
 まさか……鳴子さんにまでコスプレ接待をさせようってんじゃないだろな。

「父なら、面接に来た子を連れてどっか行ったよ。しばらく戻って
 こないんじゃないかな」
「コスプレ、ですか。それで補助金を勝ち取れるとは思えませんが」

 既に城崎から話はいっているらしく、鳴子さんは呆れ気味にため息をついた。

「とはいえ、水歌が変な格好をして接客する姿は結構笑えるので、よしとしましょう。
 もしオーナーが私にも同様の行為を強要するようなら、この電動車椅子で
 はね飛ばしてやろうと思っていたんですが」
「……鳴子さんって結構、毒吐きだよね」

 今、この施設にいる三人のジェネドの中では、彼女が一番冷静で
 同時に彼女が一番荒んでいる。
 なんとなく、僕の中でそういう評価が固まりつつあった。

「で、彩莉の調査は進んでるの?」
「……残念ながら」

 鳴子さんは少し落ち込んだ様子で俯きながら、首を左右に振った。

「彩莉さんの様々な行動、言動、反応と能力の変化の連動性を調査しましたが、
 特に際立った変化はありませんでした。睡眠時も同様です。
 存在そのものが能力と連動している可能性が高くなってきました」
「つまり、彩莉がこの世に存在する限り、異能力は消えない?」

 鳴子さんは小さく頷く。
 って事は、彼女達がまっとうな生活を送れるようになるには、
 彩莉が死ぬしかない、って事なのか……?

「心配しなくても、彼女をどうにかするつもりはありません。それ以前に
 できませんから。法的にも、倫理的にも、個人的な感情においても」
「鳴子さんのそういうところは、全面的に信用してるよ」

 彼女は感情論では動かない。
 ……小説の事以外は。
 殺人者になってまで、異能力を消すのはデメリットが大きすぎるという
 当たり前の判断がちゃんとできる人だ。
 少なくとも、彩莉が通り魔にあって殺される確率と、彼女ら三人が
 異能力を消す為に彩莉を殺そうとする確率は、似たようなものだと思う。
 なんで、通り魔を怖がって彩莉を外に出さないっていう病的に過保護な
 事はしないのと同様に、ジェネド三人から彩莉を遠ざける事もしない。

「では、今後も彩莉さんの事を調べてもいいんですね?」
「本人が嫌がらない範囲でね」
「……ありがとうございます」

 ペコリと素直に頭を下げられた。
 なんか照れるな。

「では、私は水歌の接客姿を携帯電話に保存しにいきますので、これで」

 一生笑いものにする気だ!

「それは止めてやってよ。アイツの肩を持つ気はないけど、
 ウチの店の為に働いているのにそんな事されたんじゃ目覚めが悪い」
「でも、こんな美味しいネタはそうないですし……いつ使えるかわかりませんから」
「いやいや、でも……」
「小説家を目指すなら、日常の些細な事でも記録しておくべきだと思うんです」

 ……あ、そっちか。
 いや、どっちでもダメだけど。

「では失礼します」

 僕の意向を無視して、鳴子さんは車椅子に乗ったままドアの開閉を行い
 廊下へ出て行ってしまった。
 器用なヤツ……なんて言ってる場合じゃない。

「鳴子さん、ちょっと待った――――」
「へぶっ」

 慌てて追いかけようとしたのがよくなかった。
 僕は廊下に出た瞬間、誰かと衝突してしまった。
 激痛、ってほどじゃないけど右半身が衝撃を受け、思わずよろける。
 ただ、感触は柔らかめだった。

「す、すいません。急いでいたもので……」
「いやこちらこそ――――」

 倒れてしまったその衝突相手に手を差し出したまま、僕は固まった。
 胡桃沢さんだ。
 ただ、さっきまでと格好が違う。
 制服じゃなく、白と黒のやたらボリューミーなドレスを着ている。
 しかもスカートはレースが何段にもなっていて、やたらハデで巨大だ。
 一瞬メイド姿なのかとも思ったけど、ちょっと違う。
 いや、そっち方面の制服に詳しいわけじゃないんだけど、
 確かメイドって給仕の事だし、こんな動きにくい格好じゃないと思うんだ。
 あと、いつもの耳はそのままだった。

「あの、差し出がましいようですが、そんな格好で働いたら
 経歴に傷がつくからやめておいた方がいいんじゃ……」

 我がトコの衣装に対してダメ出しするのはどうかと思うけど、
 人としてコレは止めなくちゃならない、って妙な義務感に駆られてしまった。

「やっぱり、そうですよね……流されてつい着ちゃったんですけど。
 そもそも、面接に来た訳でもないのに」
「……え?」

 突然の今更カミングアウトに、僕は一瞬目が点になった。

「あの、すいません。ちょっとこっちに」
「あ、はい」

 僕はさっきの父と同じような強引さで、彼女を応接室に引っ張り込んだ。





 ――――――――――――
  7月1日(月) 18:01
 ――――――――――――

「……という訳なんです」

 胡桃沢さんの話を聞き終えた僕は、驚きと同時にひたすら頭を下げた。
 てっきり面接に来たとばかり思ってたけど、実際にはただ単に
 お客として来てくれただけ、との事。 
 こっちが勝手に勘違いしちゃっただけだった。

「でも、そんな耳を付けてるくらいだし、コスプレに興味あるんじゃ……?」
「これは、その……キャラ付けのためなんです」

 キャラ付け?
 この、とても大人びた雰囲気の彼女が……キャラ付け?
 世の中が……よくわからない。
 単に僕が世間から浮いているだけなんだろうか。

「ま、まあそれはいいとして……面接に来たんじゃないのなら、
 僕の勘違いでご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。
 父……オーナーには僕から言っておきますので、今日はここで
 お寛ぎ下さい。費用はこちらでもちますので」

 ミスした以上、自腹を切るしかない。
 今月の小遣い(という名の給料)……これでトんじゃったな。

「いえ、あの……働かせて頂くのなら、お世話になろうかなって」
「え? そうなんですか?」
「はい。ちょうど、前のお仕事を辞めたばかりでしたので」

 困り顔で、胡桃沢さんはヘナッと笑った。
 前のお仕事、というのが不本意な辞め方だったのかもしれない。

「不躾な質問ですけど、前のお仕事は何処で?」
「あ……」

 胡桃沢さんは困り顔で、まるで禁句を聞いたかのような反応を示す。
 これがスタッフとゲストの関係なら、踏み込み過ぎなんだろう。
 でも、彼女はここで働くと言っている。
 なら聞いておかなくちゃならない。
 どんな仕事をしていて、どんな理由で辞めたのか――――
 面接なら確実に聞かれる要項だ。
 彼女も理解しているらしく、しばらくの困惑を経て意を決したように答えてくれた。

「……はざま探偵事務所、を御存知でしょうか」

 ――――そんな意外な職場を。

「え? 胡桃沢さん、はざま探偵事務所で仕事を?」 

 僕にとって、そこは憧れの人がいる場所。
 僕と同年代でありながら、一国の主となって城を構えた偉大な先人。
 見た事も話した事もないけど、僕の――――憧れのような存在。

「は、はい。助手を……」
「助手……!」

 近しい!
 近しいぞ!
 なんて近しいんだ!
 そんな羨ましい仕事を――――

「どうして辞めたんですかッ!」
「うあ!? 圧が……急に圧苦しく!」
「そんな上手いこと言わなくていいんです! それより理由を!
 どうして街の探偵さんから離れたんですか!?」
 
 ふと、自分が取り乱している事を自覚したものの、後には引けない。
 胡桃沢さんは僕の急接近に混乱して目がグルグルしていたけど、
 これはもう絶対に聞かなくちゃならない。
 いや、聞きたくないかも?
 もし街の探偵さんが『あんな事』や『こんな事』を助手の彼女に強要したのが
 原因なら、僕は彼を幻滅しなくちゃならない……!?

「あの、今度は急に頭を抱えて……どうされたんでしょうか」
「いや、なんか葛藤が……と、とにかく理由は聞かせて下さい」

 スタッフとしての理性が辛うじて勝り、僕はどうにか冷静さを取りもどした。
 彼女が仕事を辞めた理由が何なのか――――

「……」

 胡桃沢さんは答えなかった。
 ただ――――赤面していた。
 ビックリするくらい、真っ赤だ。
 うわあ……人ってこんなに顔赤くなるのか。
 まるで湯気が見えるくらい。
 僕がヒドい事したみたいな気分になるくらい。
 それくらい、真っ赤っかだ。
 これじゃ深く聞けない。
 参ったな……

「……わかりました。暫く保留にしましょう」 
「いいんですか?」
「取り敢えず、問題のありそうな人のするリアクションじゃないと思うんで」

 そう答えつつ、僕は胡桃沢さんと向き合う。
 本来なら、新しい従業員を雇う余裕すらないんだけど、
 父の計画を実行するには、最低でも数人のコスプレ店員がいる。
 彼女なら、相当な戦力になる……

「それじゃ、よろしくお願いします」
「はい!」

 力強く返事する胡桃沢さんが――――どこか悲しげに見えたのは
 どうしてだったのか。

 この時の僕にわかる術はなかった。




 ――――――――――――
 
 7月8日(土) 8:12
 ――――――――――――


『設備メンテナンス及び従業員研修のため、本日は臨時休業とさせて頂きます』

 胡桃沢君が店員として【CSPA】で働くようになってから、5日が経過した今日。
 僕は店の前に置かれたメニューボードにこんな一文を書いた。
 ただ、これは実はウソ。
 実際には、胡桃沢さんが風邪をひいた為、休みとなった。
 普通なら、店員が風邪ひいたからって休む店はない。
 ただ、この日休むのには他の理由もある。
 スタッフ全員、疲弊しきっていたからだ。

 この5日で――――先月の日比野君の企画で稼いだ利益の3倍を叩き出した。
 ここ2ヶ月余り、売上げ推移がムチャクチャな線を描いている。
 ジグザグにもほどがある。
 安定性の欠片もない。

 ただ一つ言えるのは――――父の狙い『補助金ゲット』の前の段階で
 予想を遥かに越える集客を記録した、って事実だ。
 原動力となったのは、言うまでもなく二人のコスプレ店員。
 たまたま、この共命町で起こった女児誘拐未遂事件を
 全国ニュースで取りあげられた際に、この店がチラッと映った。
 その結果、お客様が一斉に押しかけ、毎日が修羅場。
 こういうケースで訪れるお客様はスパに通い慣れていないから、
 説明や対応が普段の数倍は必要になる。
 結果、疲弊しきった事で慣れていない胡桃沢さんが最初にダウン――――
 そんな経過があって、今に至る。

「おふぁようございまふ、お兄さん」

 メッセージボードの前でため息を吐いていた僕に、彩莉が後ろから
 欠伸交じりの挨拶をくれた。
 土曜なんで今日は学校も休みだ。

「おはよう彩莉。胡桃沢さんの風邪、どう?」

 実は彼女の看病は彩莉がやっている。
 風邪が他の従業員に移るのを避ける為だ。

「お熱はまだ37度8分ありました」
「そっか。できれば今日中に落ち着いて欲しいけど……」

 インフルエンザって事はないから、安静にしてれば今日中に回復して
 くれると思うんだけど、こればっかりはどうしようもない。

「水歌お姉さんもお疲れみたいです」
「だろうな……」

 接客業素人の胡桃沢さんをフォローしていたのは、
 まだキャリア2ヶ月程度の城崎。
 正直、この一週間はアイツの奮闘がかなり大きかった。
 群がるお客様に対し、失礼のないように笑顔で応対し
 撮影にも快く引き受ける様は、プロフェッショナルの魂さえ感じた。
 多分、胡桃沢さんが入った事で先輩としての威厳を示したかったんだろう。

 どれ、激励の言葉でもかけにいくか。
 まだ寝てるかもしれないけど。
 



 ――――――――――――
 
 7月8日(土) 8:35
 ――――――――――――


「……外出?」

 訪れたジェネド三人娘の部屋にいたのは、寝起きの湯布院さんだけ。
 一日4時間しか起きられない彼女は、食事をとるために
 基本朝、昼、夜に起きるようにしているから、彼女が起きているのは
 想定していたけど、他の二人が外出しているのは驚いた。
 まだ8時半だってのに。

「ええ。衣装を見に」
「……なんの?」
「勿論、お店の制服を」

 ニコニコ顔で告げる湯布院さんとは対照的に、僕は顔を引きつらせてしまった。
 アイツ……ノリノリだったのか!
 だからやけにやる気に漲ってたのか。
 最初あんなに恥ずかしがってたのに。

「水歌は女の子っぽい格好に憧れていたので、恥ずかしがっているように
 見えて、実は嬉しかったみたいですよ。コスプレ」

 久々に、女心の不可解さを目の当たりにした気がした。

「ったく、たまに褒めに来れば……」
「あら、あの子を褒めに来たんですか?」
「まあ……」

 少し照れつつ答えた僕の目に、湯布院さんの顔が映る。
 その顔は――――笑っていなかった。

「有馬さん。私が以前に言った事、覚えていますか?」

 そう真顔で話す彼女の言いたい事は、直ぐにわかった。
 三人の中の誰かがスパイかもしれない――――そう僕に吐露した
 事を言っている。
 正直、僕はこの件について余り深く考えてはいなかった。
 仮に誰かがそうだとしても、僕や彩莉には無関係だと。

「覚えてるけど……もしかして特定できたとか?」
「いえ。ただ、もしスパイがいるのなら……彩莉さんに危険が及ぶかもしれません」
「……何?」

 部屋の温度が一気に数度下がった気がした。

「私達がいた施設は、異能力を研究していた所です。もし彩莉さんに
 本当に能力を除去する力があるのなら、彼らが彩莉さんに興味を持たない
 筈がありません」
「……でも、誘拐なんて」

 ふと――――僕は先日この共命町で起こった事件を思い出した。
 女児誘拐未遂事件。
 勿論、被害者は彩莉じゃない。
 でも、もし彩莉と間違えただけだったのなら……

 いや、待て。
 スパイがいるのなら、彩莉と他の女児を間違えるはずがないんだ。
 あの事件と、今の湯布院さんの言葉に関連性があるって考えるのは
 早合点じゃないか?
 でも万が一、彩莉に危害が及ぶようなら……

「頭に入れておいて下さい」
「は、はい」

 困惑した僕を落ち着かせようとしたのか、湯布院さんの表情に笑顔が戻った。
 部屋を出て直ぐ、僕はスパイの存在についてあらためて考える。

 可能性が高いのは――――城崎。
 テレポートが使えるんだから、自分を送り出した連中と接触はしやすい。
 でも今の時代、携帯一つで幾らでも情報はやり取りできる。
 あえて直接会うメリットはないように思う。

 逆に言えば、鳴子さんにも可能性はある。
 彩莉に、本当に能力を除去する力があると判明した時点で
 彩莉の身柄を施設に引渡すつもりなのかもしれない。
 可能性だけなら、なんとでも言える。
 当然、湯布院さんの狂言って可能性も。

 ……よし。
 やっぱり一度、街の探偵さんに相談してみよう。
 噂では、どんな素っ頓狂な話でも親身になって聞いてくれるらしい。
 僕の今後の事、スパイが身近にいるかもしれない事を
 話して、何か助言を貰おう。
 今日は珍しく一日空いてるし、今日くらいしかチャンスはなさそうだ。
 ただ、その前に――――




 ――――――――――――
 
 7月8日(土) 9:03
 ――――――――――――

  

「……どうぞ」

 僕のノックに力なくそう返事したのは、胡桃沢さん。
 まだ熱があるって事なんで、僕はマスクをして入室した。

 彼女は現在、この店に住み込みで働いている。
 そう彼女が懇願したからだ。
 働いている城崎はまだしも、湯布院さんや鳴子さんまで泊めている
 現状では、断る訳にもいかず、ジェネド三人娘の部屋で就寝してもらう事になった。
 二段ベッドが二つなんで、四人までなら大丈夫。
 ただし、今は風邪を引いてるんで、別室のここで寝て貰っている。
 ちなみに、母の部屋だ。
 母は居間で寝ている。

「すいません……ご迷惑をおかけして」
「いやいや、貴女が来てくれてウチは大助かりだったんで、気にしないで下さい」
「でも、お店や彩莉さんにご迷惑をおかけしてるし、お母様の部屋まで占拠してしまって……」

 胡桃沢さんは心底申し訳なさそうに、床に敷かれた布団に横になりつつ
 小さくなっていた。

 この5日間で、彼女の表面的な人となりは把握している。
 とてもしっかり者で謙虚。
 誠実だし、少なくとも城崎や鳴子さんより性格はいい。
 湯布院さんと雰囲気が似てるかもしれない。
 
 ただ――――胡桃沢さんには壁があるように思える。
 たった5日の付き合いなんだから、壁があるのは当然なんだけど、
 その壁が普通の人とは異質なものに感じる。
 よそよそしさ、他人行儀とは一線を画すというか……
 長年接客業をやっている手前、そういうのには敏感なんだけど。

 あと、ちょっと変な人でもある。
 風邪引いて寝てるのに、ネコ耳のようなあの耳をしたままだ。
 ま……他人の趣味にどうこう言うつもりはないけど。

「元々、居間は母の部屋みたいなものなんで。あ、一応弁明しておきますと、
 父と母が別々の部屋なのは、部屋数の関係上一緒にする必要がないっていう
 無駄が嫌いな母の性格によるものなんです。時々ケンカしますけど、
 一応仲の良い両親ですから」

 あれ、なんでこんな説明を僕がする必要あるんだろ……

「……ふふっ」

 案の定、笑われちゃった。
 小っ恥ずかしいな……
 
「えっと、体調はどうですか? 熱はまだあるみたいですけど」
「昨日よりは多少いいみたいです。今日中に治します」
「いや、病気って気の持ちようだけでは治らないんで。
 いつまでって事は考えずに、水分をしっかりとって休んで下さい」
「……」

 胡桃沢さんは返事をせず、布団に潜って顔を半分隠した。
 その口元を覆う布団が、若干震えている。
 もしかして……笑ってるのか?
 今の会話の中に、笑わせる要素あったかな……

「すいません。前に所長が風邪を引いていた時の事を思い出してしまって」
「所長?」
「あ……えっと、はざま探偵事務所の……」

 ああ、街の探偵さんの事か。
 スゴいよなあ、10代で所長なんだもんなあ。
 
「有馬さんは、はざま探偵事務所を御存知みたいでしたけど」
「あ、うん。面識はないんだけど、同世代で事務所開いてる人が
 いるって聞いて、勝手に憧れてるんだ」
「そうなんですか」

 また胡桃沢さんは笑った。
 とても嬉しげに。
 そして誇らしげに。

 僕はそんな彼女を見て、とても安心した。
 彼女にとって探偵さんは、今も尊敬している人なんだとわかったから。
 だからこそ――――聞いておきたい。

「貴女が事務所を辞めた理由、もう一回聞いてもいいですか」

 僕はこれから、その探偵さんに相談する予定だ。
 それと同時に、彼女の事を話すつもりでいる。
 彼女が事務所や探偵さんをイヤになって出ていったのなら
 そんな事すべきじゃないけど、そうじゃないのなら
 僕が何か力になれるかもしれない。
 
 胡桃沢さんは、かなり戦力になっている。
 ここにいて貰った方が【CSPA】にとってはいいんだろう。
 でも……彼女はずっと悲しげだった。
 最初から、そして今も。
 ここじゃない、別の場所に居場所がある。
 だから、壁がある。
 そしてその壁は、絶対に壊す事はできない。
 僕はそんなふうに感じていた。

「……私は」

 どうやら教えてくれるみたいだ。
 正直言うと、ちょっと卑怯だったかも知れない。
 胡桃沢さんは今、病気で弱っている。
 判断力が低下している。
 自分が迷惑をかけていると思っている。
 そんな時に聞くのは、反則に近いんだろう。
 それでも、僕は黙って耳を澄ました。

「……私は、薄情な人間なんです」
「え?」

 それは、予想する事が不可能な言葉だった。
 薄情って事は……彼女が探偵さんを裏切ったりしたのか?

「あの人は、私を助けてくれました。恩人なんです。感謝しても感謝しても
 どれだけ感謝し尽くしても感謝しきれないくらいの」

 胡桃沢さんは、淡々と、本当に淡々と答えた。
 
「それなのに……私は……」

 本当に淡々と――――

「私は彼を信頼できなかったんです。していたつもりだったのに。
 できたつもりだったのに……できなかったんです」

 彼女は、涙を流していた。
 僕はというと、その姿に驚いたというより、呆然としていた。
 人間が涙を流す時の顔は、何度となく見てきた。 
 顔をクシャクシャにしたり、口元を震わせたり、目を真っ赤にしたり……
 殆どのケースでは、大きな感情の揺れ動きとセットだった。

 胡桃沢さんは、何の感情も見せない顔で泣いていた。
 そこにあるのは、失望や無念じゃない。
 まるで――――諦めだ。
 それも、自分自身へ向けられているように見えた。
 他人への感情は、少なからず目に光が宿る。
 その先にいる誰かを見ているから。
 彼女の場合……それがない。
 もしかしたら、今の彼女の眼差しは、彼女の内面や記憶に
 向けられているのかもしれない。

「わかりました」

 これ以上聞くのは、酷だ。
 僕は話をそこで打ち切らざるを得なかった。

「風邪引いている時に長話させてしまってすいません。
 ゆっくり休んで下さい。お陰で売上げ絶好調なんで、数日休んでも大丈夫ですから」

 それだけ告げて、僕は母の部屋を出た。
 少し後悔しながら。

 ――――――――――――
 
 7月8日(土) 10:30
 ――――――――――――

 
 ……さてと。
 僕は今、自室で携帯を握っている。
 目の前には、はざま探偵事務所の電話番号を控えた紙。
 もう暗記してしまうくらい、何度も目に留めた。

 これから僕は、はざま探偵事務所に電話で相談をする。
 最初は直接出向く予定だったけど、胡桃沢さんの泣き顔を見てから、
 やっぱり電話がいいって思い直した。
 人の顔を見ながら話すのは好ましいかもしれないけど、
 僕の場合は逆に相手の感情をそこに見過ぎる悪癖がある。
 電話くらいがちょうどいい。

 相談する事は全部、頭の中で整理した。
 それじゃ……かけよう。
 少し緊張しながら、電話番語をプッシュ。 
 大抵は登録した番号にかけるから、何度もボタンを押すのは慣れてない。
 間違えないように……よし。
 電話の向こうで、呼び出し音が鳴り始めた。
 気の所為か、心臓の鼓動と共鳴してるように思える。
 僕は深呼吸しながら、電話に彼が出るのを待った。









  前話へ                                                      次へ