――――――――――――
8月1日(火) 13:32
――――――――――――
本来、夏と温泉ってのは相性がよろしくない。
そりゃそうだ。
何が悲しくてうだるような暑さの中、金を払ってまで熱いお湯に身を投じなきゃならないんだ。
そんなの罰ゲームか修行の二択じゃねーか。
……っていう野次が聞こえてきそうなくらい、スパ施設にとっては肩身の狭い季節だ。
実際、去年まではこのスパランド【CSPA】の来場客数は、夏場が最も少なかった。
多分大抵の温泉施設も同じだろう。
夏休みがあるとはいえ、子供が夏休みに行きたい場所なんて他に幾らでもある。
けれど。
けれども。
今年の【CSPA】の夏は、一味違っていた。
「あの、すいません! そちらにカピバラが! カピバラがいるって聞いたんです!」
今日も、そんな興奮気味な子供の声が電話口から聞こえてくる。
そう。
一週間ほど前、城崎の新たなテレポート能力で突然、この【CSPA】に出現した
カピバラご一行様の効果で、注目度がうなぎ登りとなっているのだ。
思わず"のだ"なんて使ってしまう程の異常事態。
何しろ、夏なのにお客様が途切れない途切れない。
おかげで大忙しだ。
「カピバラでしたら、ここの温泉に浸かっていますよ。宜しければ遊びにいらして下さい」
「う、うん! あ、はい! お父さんに聞いてみます!」
快活そうな子供は興奮気味に捲し立て、丁寧な口調でお礼を言い、電話を切った。
こういうお問い合わせの電話は毎日かなりの数に上り、今は電話番が必要なくらいになっている。
特にカープ女子からの電話が多い。
一応説明しておくと、カープ女子ってのは2013〜2014年にプロ野球のセリーグのチームの一つ、
広島東洋カープの躍進に伴い、所属選手を一所懸命応援するようになった
心優しき女子の皆さんだ。
その広島にはカピバラに似た選手が3人ほどいるそうで、ある種広島カープの
マスコット的な存在になっているカピバラの実物を見たい――――
そんな問い合わせが数多く寄せられている。
元々スパは若い女子に人気の施設。
加えて野球のシーズン真っ直中とあって、観戦ツアーの日程に我が【CSPA】を
組み込もうという話まで出ている。
まあ、流石に具体化はないと思うけど……もしそうなれば【CSPA】は
共命町でも有数の人気観光スポットになるだろう。
カピバラ様々だ。
そんな訳で、僕はここ一週間ばかり、事務室で電話番を中心とした仕事をこなしている。
本来は母の役割なんだけど、どうもカープ女子の甲高い声が勘に障ったのか、
僕にお鉢が回ってきた。
勿論、この人手不足のスパランドで電話番専門の仕事しかしないなんてのはサボりに等しい行為。
並行してパソコンでのビラ作成を行っている。
当然、カピバラを前面に出した。
経理やこの手の仕事は普段鳴子さんがやってくれてるんだけど、
彼女は現在、新しい小説を書いているらしく、仕事の量が減っている。
なんでも新人賞の締め切りが迫っているらしい。
彼女にとっては人生を賭けた作業だし、そっちを優先させるのは仕方ない。
幸いにも、アルバイトの胡桃沢さんが骨折から復帰して、城崎と共に接客業を
こなしてくれてるんで、今のところなんとか回っている。
彩莉も掃除を手伝ってくれてるしな。
小学生の夏休みを家業の手伝いで忙殺させてしまうのは心苦しいが……今は耐えてくれ彩莉。
僕がいつか、必ず幸せにしてやるからな!
「急にニヤニヤし出したんだけど……どう思う? あれ」
「え、ええと……私が推理するに、従妹さんの事を考えてるんじゃないかなあ」
なんか事務室の入り口の方からコソコソ声が聞こえてきた。
ちなみにここは受付と繋がっている為、余り大声で話すのは禁止。
ただしそれを考慮に入れても、あのコソコソ話はムカ付く。
「用があるならちゃんと言え」
「アンタが不気味に微笑むから近寄れなかったのよ。ね、くるみー」
……くるみー?
「あ、あはは。私の愛称。こう呼ぶの、水歌ちゃんだけなんだけど」
胡桃沢さんは照れ臭そうに、でも少し嬉しそうに微笑む。
……いつの間にか仲良くなっていたらしい。
ま、僕だって胡桃沢さんに敬語使わなくなったし、使われなくなったしね!
と、そんな無意味な対抗意識はどうでもいいとして――――
「で、接客が二人してどうしたの。昼休みはもう取っただろ?」
「それがさ、今からくるみーのお友達が遊びに来るんだって。だから一応、
話を通しておこうと思って。ホラ、知らずに従業員がお客様に馴れ馴れしくしてるのを
見たらイラってするでしょ?」
城崎はすっかり従業員らしい思考で気を利かせてきた……らしい。
なんか、接客業が板についてきたな。
彼女はテレポートという異能力を使える代償として、年齢の1000分の1の時間しか
記憶を保持できないという厄介な副作用を抱えている。
城崎は現在、約6日分の記憶しか保持出来ない。
ただし、いわゆる『長期記憶』と呼ばれる、生活習慣とか子供の頃に覚えた食べ物の名前とか
携帯電話の弄り方とか、その手の記憶はちゃんと保持しているから、生活には困らない。
とはいえ、三ヶ月ほど前に覚えた仕事に関しては、長期記憶には当然含まれないらしく、
城崎は一週間ごとに仕事の細かい取り決めなどを忘れてしまう。
一応、彼女が子供の頃から抱いていた『接客業のイメージ』自体は損なわれないから、
完全リセットって訳じゃないんだけど、ウチ独自のルールなんかは当然、忘却の彼方。
その度に、メモ帳で確認して覚え直している。
正直なところ、努力家だと尊敬すらしているんだけど、何しろ普段から口は悪いし
仕事以外の態度は悪いしで、性格もあんまり良いとは言えないんで、
その尊敬を表面に出すのにはどうしても抵抗がある。
悪い娘じゃないんだけど……僕の子供の頃に根付いた女子への不信感が
彼女へも発動しているんだろう。
「あの、ごめんなさい。お仕事の邪魔しちゃって……お友達がお世話になります」
一方、ペコリと礼儀正しく一礼してくる胡桃沢さんには、そんなガキの頃の
トラウマなんて一切発動しない。
やっぱり性格って大事だよな、うん。
「……何よ」
「いや、別に」
意識して見ていた訳じゃないんだけど、城崎の勘に障ったらしく、すげー睨まれた。
最近、暴力系女子が不人気だって聞くけど、多分こいつもクラスにいたら
男子には不人気だったと思う。
容姿はまあ……受け良さそうだけどさ。
「とにかく、了解。こっちこそ売り上げに貢献してくれてありがとね」
「そう言って貰えると、紹介した甲斐があるかな。本当は働いてる所、見られたくないんだけど」
……と、胡桃沢さんがボヤいたところで、僕は彼女の友達に心当たりがある事を思い出した。
「えっと、その友達って、まさか……」
「あ! いえ違います! 学校の子です!」
胡桃沢さん、顔真っ赤っ赤にして否定。
どうやら"街の探偵さん"じゃないらしい。
一度会ってみたいんだけどな。
でも、尊敬してる人と実際に会ってみたら幻滅した、なんて話もよく聞くし、
それなら幻想のまま、理想化したままの存在に留めておいた方がいいのかもしれない。
「えっと、私最近、とあるクラブに入ってて……そこの先輩とかお友達なんだけど」
「クラブ? 胡桃沢さん、部活やってたんだ。アルバイトとの掛け持ち大変じゃない?」
「そうなの。最初は骨折してる間だけって約束だったんだけど、私が抜けると
部として認められる最低部員数を割っちゃうからって……ううう」
胡桃沢さん、なんか色々大変だな。
本当なら、とっくに探偵事務所への復帰を考えても良い段階だろうに、
ここが忙しくなっちゃってるから言い出せない様子も窺えるし。
で、その上部活にまで振り回されるとなった日には、そりゃ狼の耳を被りたくもなるよな、うん。
正直、僕は同級生の中ではかなり大きな責任や不幸を背負って生きている自負があった。
こうして夏休みになっても全く遊ぶ時間がなく、不安定な家業をどうにか盛り立てて
いかなくちゃならないという責任もあって、しんどい思いをしている自覚があった。
でも、おかしな能力をおかしな連中に植え付けられたジェネドの城崎達や、
色んなしがらみの中で生きている胡桃沢さんを見てると、この程度で不幸自慢を
していた自分が情けなくなってきた。
彼女達との出会いで、僕は確実に良い方向へ考え方が変わってきた気がする。
感謝しないとな。
「ところで有馬君、彩莉ちゃんが何処にいるかわかる? 先輩達に紹介したいんだけど」
「何ぁーーーーーーーーーーにぃーーーーーーーーーーー!?」
「はうっ!? あ、有馬君が般若の顔に!?」
「あー……こいつ、重度のシスコンだから。ちゃんと女の先輩と友達って言わないと」
ん、なんだ、全員女だったのか。
「ならよし。あと城崎、僕シスコン違うから。単に彩莉を世界で一番庇護の対象にしてるだけだ」
「……確かに、シスコンの範囲を超えちゃってますね」
なんか胡桃沢さんに白い目で見られた。
狼の耳を被ってる美少女に蔑まれるの、なんか嫌だな。
「とにかく、彩莉なら掃除の手伝いをしてる筈だけど……見かけなかった?」
「それが、あたしも昼からは見かけてないのよね。てっきり遊びに出かけたと思ってたんだけど」
「いや……そんな予定はなかった筈だけど」
彩莉の行動は僕が監視……じゃねーや、管轄……これも違う、管理……これもダメなヤツだな、
ええと、とにかく把握してるんだ、彩莉のスケジュールは。
少なくとも今日は一日中家の手伝いの予定だし、変更があるなら僕に連絡をくれる筈。
「携帯に連絡は……入ってないな。電話してみるか」
接客業をしている二人や、事務室入り浸りの僕が彩莉を見かけていなくても、
それは全くおかしな事じゃない。
ただ――――
「……出ないな」
携帯に出ないのは、ちょっと不自然な気がした。
彩莉が僕からの連絡を無視するとは思えない。
そういう事は絶対にしない子だ。
「もしかして反抗期?」
「……」
「ちょっ、冗談よ! そんな今にも崩壊しそうな顔面にならなくてもいいじゃない!」
彩莉が反抗期……?
いや待て冷静になるんだ有馬湯哉反抗期って確か12歳前後になるヤツだよなでも最近の子供って早熟だから10歳前後でも不思議じゃないのかもしれない彩莉は今10歳可能性がない訳じゃないとはいえだあの彩莉が反抗期なんて考えられないだって天使に反抗期ってないよな絶対ないよだって反抗する思考回路が存在しないじゃないかいやでも彩莉だって色んな悩みを抱え込んで生きてるし自分なりの考えとか自立心とかが芽生える時期に僕みたいな保護欲に溢れる兄をウザく思う可能性は否定出来ないよな実際僕の彩莉への愛情って重いのかもしれない重いって嫌われる要素だから僕なりにあんまり干渉し過ぎないように努めてきたつもりなんだけどそれはあくまで僕の主観であって彩莉の感じ方は違ってたのかもしれないだとしたら僕が嫌になって電話に出ない可能性も考慮しなくちゃならないんだろうかいや待て落ち着け落ち着くんだ有馬湯哉素数を数えて落ち着くんだ違う違うそうじゃそうじゃない素数は関係ない落ち着いて深呼吸をするんだそもそも反抗期で無視するんなら着信拒否すればいいじゃないかでもさっきのは単に電話に出なかっただけだ着拒じゃないそれなら彩莉は僕を拒絶してないんだそうに違いないでもよく考えてみると着拒のやり方を知らない可能性もあるし着拒すら面倒なほど僕の事がどうでもよくなっているとも考えられるわけでだとしたら僕はもうこの世界で生きていく自信がない彩莉に拒絶されてまで生きてどうするんだって話だそれならいっそ妄想の世界で僕の知る僕に優しい彩莉と共に生きていた方がマシだ寧ろそうするべきだそうすれば一生彩莉は僕に笑顔を絶やさないし昨日までの彩莉のままでいてくれるじゃないかそうだそうしようそれがいいそうする以外に僕が生きていく方法はないならばそうしようよし決めたいや待てそれでいいのか有馬湯哉よく考えるんだ有馬湯哉お前は彩莉を幸せにすると誓ったんじゃなかったのかあの子をあらゆる社会の毒から守ると決めたんじゃないのかそれなのに自分の事ばかり考えやがってこの真性のクズ野郎めが僕が今すべき事は彩莉に嫌われているとか拒絶されているとかそういう事に悲観するんじゃなくて如何にそんなダメな僕でも彩莉を幸せにするかその為に出来る事は何かを考える事じゃないのか嫌われているからこそ出来る事があるかもしれないじゃないかあの子の頭の中から僕が完全に消えているとしたら守護霊となって全ての悪霊と人知れず戦うくらいの覚悟でいなきゃいけないんだそうだよ僕はどうかしてた僕がすべきなのはそういう事だ自分を捨てろ有馬湯哉僕は彩莉の為だけに生きればいいんだ彩莉の幸せの為だけに存在すればいいんだ僕は彩莉の為なら舗装路に塗り固められた土にだってなるさ例え一生陽に当たらなくても誰の目にも触れなくても踏みにじられている事すら誰にもわかってもらえなくてもそこにあるだけで役に立てるそんな舗装路の下の土になってやろうじゃないか今はそう思えるんだ
「あの……何か有馬君、別の世界にイッちゃってるような」
「こいつ、彩莉ちゃん絡みになると一気に気持ち悪くなるからね……戻ってくるまで待つのもアレだし、あたしが連絡してみる。っていうか、くるみーって彩莉ちゃんの携帯番号知らないの?」
「彩莉ちゃんが携帯を持ってるって最近知ったばかりだから」
遠くでそんな会話が聞こえた気がする。
「……あれ? あたしの携帯にも出ない」
「ならば反抗期じゃないよな!」
「あ、復活した」
ああああああ、本当によかった。
僕だけが無視されたんだとしたら、僕の人生終わってたよ。
って、安心してる場合じゃないな。
出ないって事は……携帯置いて何処かへ行ってるのか?
「自分の部屋に携帯を忘れてるのかも」
その胡桃沢さんの見解は確かに正しいかも知れないけど、仕事の連絡の為もあって
持たせてる携帯を彩莉が忘れるだろうか?
いや、確かめに行けば済む話なんだけどさ。
「取り敢えず、僕が彩莉の部屋に行ってみる。二人は仕事に戻ってくれ。見つかったら
胡桃沢さんの携帯に連絡入れるから」
「わかった。ごめんね、なんかバタバタさせちゃって」
「気にしなくていいのよ、こっちが頭痛くなるようなシスコンっぷり見せられた慰謝料
請求したいくらいだし」
余計な一言を残し、城崎は先に出ていく。
胡桃沢さんがそれに続いたのを目で追いつつ、僕は少し嫌な予感を覚えていた。
そしてそれは――――現実となった。
前話へ 次へ