この日、夕食を食べ終えた僕は、家から徒歩一〇分の所にある地元の駅前まで飼い犬の〈アオ〉を連れて散歩に出かけていた。
 アオは八歳のコーギーで、色はレッド(といっても赤い訳じゃなく、薄茶色と白)。妙にややこしい名前にしてしまったけど、そんな事はお構いなしによく懐いてくれている雄犬だ。 
 シュウちゃんと友達になったのも、元々はまだ子犬だった頃のアオを連れて散歩している僕に動物好きのシュウちゃんが話しかけてきたのがきっかけだった。
 そして、この日もきっかけはアオだった。
「ん? どうしたの?」
 リードで繋いだアオの顔が、普段とは違う散歩コースに向く事は滅多にない。習性なのかなんなのか、アオはいつものコースを歩きたがるからだ。けれどもこの日に限って、アオは通常寄りつきもしないようなビル街へと続く裏路地に行きたがった。
 コースから外れると、散歩の時間が倍くらいになる。だけどこの日、僕は溜まった宿題も他の用事もなかったから、特に問題視せずにアオの好きなように行かせてみた。
 きっと僕自身の中に、ルーティンから外れたいという願望があったように思う。
 毎日、同じような日の繰り返し。それは殆どの学生、特に部活に入っていない学生に共通する日常構成だ。学校という大きな生活の柱があって、そこでは常に時間が徹底管理されているから、同じ時間に同じような行動をしなくちゃならない。
 登校風景も下校風景も、毎日同じ。住む家も同じ。それが普通の学生、普通の人間の生活なんだろうけど、偶には刺激が欲しくなる。転校生という、隣のクラスに起こった非日常に触発されたのかもしれない。
 でも、自分は普通だと日頃から擦り込んでいる僕にとって、そんな気まぐれは自己矛盾でしかない。案の定、夜の裏路地とはいえ、まだそこまで深くない時間だからか、酔っ払いもガラの悪い人達の姿もなく、談笑する会社帰りのサラリーマン達とすれ違うのみで、なんら非日常とは巡り逢わないままビル街へと出た。
「こんなもんだよね」
 アオに向かってそう苦笑しながら呟き、せめていつもとは違う散歩コースで帰ろうと、引き返さず歩道に沿って左折した瞬間――――僕の眼球はある一ヶ所に釘付けにされてしまった。
 それはある種、異様な光景だった。
〈香原美容クリニック〉
 ビル街の一角に佇む、そんな表記の看板の前。そこでじっと立ったまま動かない、制服姿の女子がそこにはいた。
 ウチの学校の制服だった。
 女子中学生が、美容整形を専門とするクリニックの前で一人立ち止まる姿そのものは、もしかしたらありふれているのかもしれない。少なくとも男よりは女の方が遥かに整形との相性はいいだろう。でも、夜の八時を回った時間帯に制服姿――――となると、一気に怪しげな雰囲気が濃くなる。でも、何より僕が異様に感じたのは、そういういかがわしさじゃなく、少し離れた場所で未だ微動だにしない女子の放つ真剣さにあった。
 僕には彼女の感情はわからない。彼女の目が、鼻が、口が、眉が、好奇の感情を示しているのか、それとも切実さを訴えているのか、一切理解出来ない。
 だけど、彼女の真剣さは表情を超え、一種の圧となって周囲に飛散しているように思えた。
 鬼気迫る、なんて言葉すら当てはまる、そんな空気を醸し出していた。
 アオのリードを持つ右手が、思わず緩む。
 僕は魅入っていた。
 初めて、同世代の女子に対して確かな差異を感じた瞬間かもしれない。
 同時に、強い興味を覚えた。
 どうして彼女は、美容整形に対してそこまで強烈な感情を抱いているのだろう。顔にコンプレックスがあるんだろうか。傷でも付いているんだろうか。テレビでやっていた特集を見て関心を示したんだろうか。
 ――――僕と同じように“顔”に関するなんらかの認識が歪んでいるんだろうか。
 興味の根底には、その推定があったのかもしれない。
 極めて低い確率だけど、僕と似た境遇の人である可能性を、目の前の女子は含有している。あくまで状況からの、それもかなり突飛な推定だ。普通に考えれば、美容整形に興味があるだけの中学生、ってのが一番しっくりくるし、そこから『顔の認識に問題がある中学生が自分の容姿に不安を持っている』までは、大きな大きな開きがある。それはわかってるけど、僕の心はそこへと引きつけられた。
 仲間がいるかもしれない。
 目の前にいるのかもしれない。
 だとしたら――――どうする?
『もしかして、自分の顔や他人の顔の識別に不安がありますか?』なんて聞くか?
 ……聞く訳ない。下手したら通報されるよ。
 ふと、右手にリードの擦れる感触。アオが前に行きたがっている。
 僕はちょっとした非日常を提供してくれたその女子に心の中で小さな感謝を抱きつつ、その女子の後ろを通り過ぎる。
 当然、接点はない。そのまま素通りし、それで最後だ。
 僕は彼女の顔がわからないから、明日以降学校で偶然見かけたとしても、その子と彼女を結び付ける事が出来ない。
 それを名残惜しく思いながら、僕はいつもと違う散歩コースにアオを連れて歩を進めた。
 その日のハイライトは、ここで終わり。
 厳密には、これを遭遇とは言わないのかもしれない。会話一つなく、お互い何者かなんて全くわからなかった訳だから。

 ――――だから翌日の放課後、下校すべく校門をくぐろうとした僕を待ち構えていたその女子が昨日の“彼女”だと確信するには、少しの猶予が必要だった。

 僕は彼女の顔がわからない。だから視認の段階で同一人物だと判断するのは不可能だし、向こうは向こうで僕を視認していたかどうかも怪しい。だから、再会する訳がない。そういう先入観があった。
「来て」
 だけど結論を言えば、それは間違いだった。僕に向かってついて来るようにと言い放ったその短い言葉が、あのクリニック前で立っていた彼女だろうとほぼ確信するに到った理由だ。
 僕に女子が話しかけてくるなんて、日直で役割分担を決める時くらいだ。それくらい僕には女子との接点がない。だから昨日の出来事と結び付けざるを得ない。
 ただ、二つほど解せない事がある。
 一つは、彼女が私服姿だった事。もう一つは、マスクをしていた事。真夏にマスクってのも異様だけど、放課後になってまだ間もない時間に私服ってのも変だ。
 それでも僕は、彼女の後ろを付いていくのに躊躇はなかった。非日常を体験したい、って願望もない訳じゃないし、女子との接点を大事にしたいという下心もゼロとは言わない。ただ、それらより遥かに僕は彼女自身に興味があった。
 その背中に色んな想像を張り巡らしながら歩く事三〇分。その間、一言も発しなかった彼女がようやく立ち止まった場所は、案の定、例のクリニックの前だった。
「昨日、ここで私を見かけた?」
 そして、余りに率直な質問。逃れる術を一切封殺する問答無用の一撃だ。
 わざわざ現場まで連行して、証拠でも突きつけるかのようなこの流れは、僕にある種の恐怖心を抱かせた。日常では決して味わえない類の感情だ。
 “普通”を欲していたのに、非日常を求めた事への制裁かも知れない。だとしたら、僕の住むこの街は神様の管轄なんだろうけど、そんなお役所仕事みたいな裁定は止めて欲しかった。
「話、聞いてる? 私を見かけたかどうか、答えて欲しいの」
 強い口調で、彼女は再度問いかけてくる。
 さて、どう返答すべきか。
「……その質問に答える前に、まずこっちの疑問に答えて貰いたいんだけど」
 僕は熟考した挙げ句、そんな感じの悪い対応を選択した。
「君こそ、昨日ここで僕を見かけたの?」
 そして矢継ぎ早にそう聞く。それが一番、怪我を負わずにすむ方策だと思ったからだ。もし彼女が僕という個を“顔”で判断出来るのなら、残念ながら僕と同じ体質って訳じゃないと結論付けられる。それなら、深く立ち入らずに適当に受け答えして、ここでサヨナラだ。
 でも、もし違うなら――――
「私は、見た。貴方の顔を覚えてる」
 そんな甘い“もしも”は、いとも容易く霧散した。
 うん、これが普通だ。ならそれでいいさ。
「ありがとう。僕も君を見たよ。昨日、ここで。制服来てたよね」
 後は、向こうがどんな反応を示して、何を言ってくるかを待つだけ。恐らく口止めだろう。なら素直に従えばいい。僕はそうタカを括っていた。
「……」
 だけど、彼女は僕へ何らかの要求をするでもなく、俯いてしまった。
 表情を読み取れない僕は、しばしばその人の全体像から感情を推察しようとする。だけど目の前にいる彼女は、どうにも感情を掴み難い。難しい相手だと、本能的に感じていた。
 そしてそれは、次の瞬間に明瞭な回答となって突きつけられる――――
「よかった。貴方は、ちゃんと“見える人”だったのね」
 と思いきや、回答どころか更なる難題だった。
 なんだろう、この今にも『私、幽霊なんです』って言い出しそうな前フリは。
 思わず、顔を視認出来ない体質と絡め、自分が本気で霊能力者にでもなったんじゃないかと疑ってしまうほど、、彼女の声は真に迫っていた。
 とはいえ、黒のTシャツと灰色のスカートを身につけた彼女の身体は一切透けていないし、黒のハイソックスに包まれた脚もちゃんと見える。
 結論を言えば、彼女は幽霊じゃなかった。僕は思い誤っていた。
「初めて。ちゃんと見えていて、それなのに、私に見とれなかった人は」
 ……本当に思い誤っていたなと、そう痛感した。
 まさかこんな発言を真顔でする人が、自分の周囲にいるとは思わなかった。
 私に見とれなかった人は初めて――――彼女は確かにそう言った。とんでもない発言だ。
 けど、確かに彼女は“見られている”。
 意識して観察してみると、クリニックのあるこのビル街は人通りが結構多いんだけど、彼女を素通りしていく人男性は……確かにいなかった。表情こそ不明だけど、全員が例外なく彼女へ顔を向けている。
 もし、先の彼女の発言がなければ、僕は全く違う解釈をしていたかもしれない。彼女が美容整形クリニックの前でじっと立っていた事実と合わせ、彼女が顔に大怪我や火傷でも負っているものだと推察しただろう。
 実際、その可能性が消えた訳じゃない。彼女が世間への皮肉を込めて『見とれる』って言葉を使ったのかもしれない。それくらい、素直に受け取るのを躊躇してしまう発言だ。
「私の顔が本当に好きなの、男の人って。この街に来て二日目なんだけど、私を見て何の関心も示さなかったのは、貴方だけ」
 でも、僕の他人に謙虚さを強いるかのような推測は大外れだった。
 どうやら彼女は本気らしい。そして実際、ほぼ全ての男性に興味を持たれる顔の持ち主みたいだ。
 僕にその判定は出来ない。でも遠巻きに彼女を眺める男性の数は、このクリニックの前に立ち止まって以降、増え続けている。
 彼女が芸能人や著名な人物でもない限り、他に説明しようがない状況だ。
「場所を変えましょ」
 自分が注視され、声を掛けられるまでのリミットを熟知しているかのようなタイミングで、彼女はそう僕へ呼びかけた。というのも、彼女の死角となっている背中越しに、三人組のチャラい男達がこっちへ近付いて来ていたからだ。
 制服は着ていないとはいえ、彼女は中学生。身長も体型もその平均値から外れているとは思えない、そんな女の子に、大学生らしき彼らが話しかけようとした事実が、彼女の言葉に信憑性をもたらしていた。
 でもそれとは無関係に、僕は素直に彼女の後を追うべきかどうか迷っていた。
 彼女が僕と接触を試みた理由は明らかだ。昨日、そして今日、僕が彼女の容姿に全く関心を示してないからに違いない。それを彼女が苦々しく思っている様子は見受けられないけど、例えどんな理由であれ、行き着くのは『顔を認識出来ない』という僕の体質。それを彼女に暴露する気はない。ただ、ここで逃げてもまた校門で待ち伏せされれば顔を合わせざるを得ない。僕以外の人には当たり前の感覚なんだろうけど、彼女は僕の顔を覚えている。まして同じ学校、同じ学年。彼女からは逃げられない。
 僕は“普通”と“非日常”の共存を望んでいた。でもそれはやっぱり、甘い幻想に過ぎなかった。自分が普通である事を望むのなら、周囲にも日常を望むべきだった。
 僕は自分の浅はかさを呪い、足早にビル街を進んでいく彼女を渋々追いかけた。











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