「ここなら、人目につかないと思う」
 そんな発言と同時に彼女が足を止めたその場所は、なるほど確かに他人の目を気にする必要のない場所だった。
 かなり前に廃ビルと化し、それ以降全く買い手も借り手もないまま何年も放置されていた、ビル街の一角にのっそりと佇むこの無機質で暗い空間は、一階の正面こそシャッターが降りて立ち入る事が出来ないが、その右側に設置された階段で二階に上がると普通に中へ入れる。
 ビル街には滅多に寄りつかない僕でも、小学生の頃に何度かここへ来た事があった。こういった建物にはありがちな、幽霊が出るという噂を確かめる為にだ。でも、これもやっぱりありがちだけど、幽霊なんて何処にもいなかった。
 とはいえ、不気味な外観なのは確かとあって、今では誰も寄りつかないスポットになっているらしい。恐らく、どの街にでも一つくらいはある『幽霊屋敷』みたいなものだ。
「昨日、学校が終わってからずっと街の中を歩いてみたけど、ここが一番落ち着くの」
 決して広くはない廊下……というより通路を歩きながら、彼女はそう呟く。その声は床材が剥がれ剥き出しになったコンクリートを叩く足音とほどよく解け合い、ある種の冷たさを感じさせた。
「そこで本題。どうして貴方は私に見とれなかったの?」
 立ち止まる事なく、そして後ろを歩く僕を見もせずに、彼女はそんな凄まじい質問をぶつけてくる。コントくらいでしか使われないセリフだ、実際。
「別に、これといった理由はないけど……見とれない人くらい、普通いるんじゃないの?」
「それなら、どれだけ楽だったか」
 ようやく、ここで彼女は振り向く。いつの間にかマスクを外していた。
 でもやっぱり、僕にはその顔の良さはわからない。善し悪しどころか、他人との違いすら認識出来ない。もしそれが出来れば、彼女が言うように僕も彼女を一目で好きになっていたんだろうか。
 そこでふと、僕は一生“一目惚れ”が出来ない事に気付いた。本当ならもっとずっと前に気付いておくべきだったんだけど……他人を好きになるという事を、僕は一切意識しないまま一四歳を迎えていた。
「やっぱり、今も私の顔に全然関心がないみたいね。目の周囲の筋肉の動きでわかるの」
「そ、そうなんだ」
 やっぱりというなら、僕もその表現を使わせて貰おう。やっぱり、彼女はちょっと変だ。
 何処か浮き世離れしたような雰囲気を持っている。その片鱗は行動や発言にもちょくちょく現れていて、僕はそこに惹かれてノコノコとついてきたのかもしれない。
 でもそれは、人を好きになるってのとは根本的に違うと思う。それこそ、幽霊の噂を確かめにここへ来た小学生の時の心境と同じだ。
「教えて。どうして、私の顔に興味がないの?」
 あらためて、彼女は問いかけてくる。本当に真剣な声で。
 その切実さの正体は、直後に明らかとなった。
「……もし、私の顔を綺麗とも可愛いとも美しいとも思わないのなら、何も遠慮は要らないから、ハッキリそう言って」
 彼女は――――そう言って欲しかったんだ。
 声が若干上ずっている。肩に力が入っている。手の指の動きが忙しない。
 冗談や皮肉を言っている人の所作じゃない。
 だとしたら僕は、素直に答えるべきかもしれない。こんなに真剣な人を相手に、のらりくらりと躱したりお茶を濁したりするのは、人として礼儀に反している気がする。
 僕はこういう体質だからか、出来るだけ内面を大切にしようと思って生きている。というより、内面にしか人間的魅力を感じる事が出来ないのかもしれない。顔はもちろん、体型にも興味が生まれてこないからだ。胸が大きい女の子に魅力を感じるとか、そういう感情は今のところ、僕にはない。
 けど、将来的にはわからない。一四歳でまだ初恋も経験していないっていう人は、そう多くはないにしても、稀ってほどじゃない筈だから。
「どうなの……?」
 と、つい自分の事ばっかり考えていたけど、返事をしないといけない。
 僕は既に決意を固めていた。
「確かに僕は、君の顔に興味はないよ。でも、君が期待してるような意味でじゃないと思う」
「……なら、どういう意味?」
「僕は、人間の顔を区別出来ないんだ」
 自分の体質を他人に明かす。その吐露を、僕は生まれて初めて実行した。両親でも友達でもない、赤の他人だからこそ話せたんだと思う。傷付かないし、傷付けもしないから。
「例えば、君の顔と僕の母親の顔の違いが全くわからない。自分の顔も覚えられない。僕はそういう体質なんだ」
 割と簡潔にまとめられたように思う。
 それを受け、彼女は――――肩を強張らせたように見えた。
「冗談……を言っているようには見えないけど、念のため確認させて。それ、本当?」
「うん。君や他の人が当たり前に出来る『顔の認識』が、僕には出来ないんだ。だから僕には顔の評価も一切出来ない。美人の定義も不細工の基準もわからない」
 ほぼ、説明は言い終えた。
 それに対する彼女の最終的な反応はというと――――
「……正直言うと、半信半疑」
 思いの外、誠実なものだった。
 普通、こんな事を打ち明けられて即信じる人はいない。だけど嘘だと断じる積極的な理由もない筈。なら、半信半疑だっていう彼女の言葉は、それが本心かどうかはともかくとして、僕の言葉を尊重したものだ。
「でも、確かにそれなら納得出来るかも。実は私、貴方を幽霊だと疑ってたの」
「……え?」
「貴方が幽霊だから、私の顔に無関心なのかと思っていたのよ。幽霊なら、生きている人間と価値観や美的感覚が違っていても不思議じゃないでしょ?」
 どうやら、向こうも向こうで僕を霊的な存在だと疑っていたらしい。
 
 ――――貴方は、ちゃんと“見える人”だったのね

 僕は彼女のこの言葉を『彼女の姿をちゃんと見る事が出来る人』と解釈したから、なら彼女の姿は普通の人には見えないのかと疑ったんだけど、実際には『他人から姿がちゃんと見える人』って意味で言っていたのか。あの時俯いたのは、僕の脚がちゃんとあるか確認したからか? 
 ……ややこしいな、全く。
 ただ、僕への幽霊疑惑なんてこの際どうでもいい。問題は、彼女が『幽霊でもない限り、自分の顔に無関心でいられる男はいない』って思ってる点だ。
 普通なら、病的なナルシストとしか思えない思考回路。だけど彼女は寧ろ、僕が彼女の顔に無関心でいるのを歓迎しているかのような節がある。
 僕はそれを確かめる為、少し意地悪な質問を試みた。
「もし僕が幽霊だったら、こんな場所まで連れて来てどうするつもりだったの?」
「悩みを聞いて貰おうと思って」
 でも彼女はシニカルな解釈をする訳でもなく、淡々と、でも真剣に、そう答えてきた。
「自分の顔に惹かれない存在をずっと探していたの。例えそれが幽霊でも構わない」
「構わない、って……」
「お願い。私の悩みを聞いて」
 これまで以上の、音量や口調とは違う意味での強い声で、彼女は僕に迫る。
 幾ら同世代とはいえ、他人の男とこんな人気のない場所まで来るリスクを背負ってまで聞いて欲しい悩み……それを僕に背負えというのか。
「私の顔は、他人から好かれ過ぎるの」
 僕の意思とは無関係に悩み相談が始まってしまった。そういえば、ここへ連れて来る時も『来て』の一言だけだった。ナルシストじゃなさそうだけど、自分勝手な性格ではあるらしい。
「確かに私の顔は、客観的に見て美麗だと思う。私より明確に勝っている顔をした人を、私は一人も知らない」
 彼女はキッパリと言い切った。ここまで言い切られると、いっそ清々しい。
 とはいえ、やはり彼女の声は熱を帯びていない。自分の顔がこれだけ綺麗なんだ、というアピールには到底聞こえない。
「けれど、人にはそれぞれ趣味嗜好、好みというものがあって、どれだけ私の顔の造形が客観的評価として優れていても、好みではないと思う異性が無数に存在するのが普通。そうでしょ?」
「それはその通りだと思うけど……実際には違ったの?」
「ええ。初見で私の顔に無関心でいた人は一人もいなかった。同性でも例外じゃなく。貴方が初めてなの」
 そこまで言い切れる根拠は不明だけど、実際にさっき彼女は注目の的になっていたし、何かしらの理由で他人を惹きつけているのは間違いなさそうだ。
「失礼だけど、芸能活動の経験は?」
「一切なし。指名手配の犯人になった覚えもね」
 つまり、顔の良さ以外で視線を集める理由はない――――少し諧謔的なニュアンスを含んだ彼女の物言いは、アイロニカルな意味合いを含みつつも、やっぱり切実だった。
「私を見た異性は常に、私を強く意識するの。単に意識するだけで、それ以上は何もしない人が大多数なんだけどね」
「中には積極的にナンパしてくる男も?」
「ええ。都会に住んでいた頃はスカウトも毎日のように話しかけてきて……多分いかがわしい職業の人が大半でしょうけど」
 声のトーンがあからさまに曇る。本当に嫌な体験をした実感のこもったトーンだ。
「とにかく、私は病的なくらい異性から好まれる顔をしてるみたい」
 そしてそのトーンは、このセリフでも一切変わらなかった。
「小学生時代からそうだったんだけど、あの頃は私も勘違いしてて、取り巻きの男の子達に囲まれて登下校をしたり、誕生日の日に部屋に入りきらない数のプレゼントを貰ったりする事に優越感を抱いてたのよね。外で一人になる事が殆どなかったから、犯罪行為に巻き込まれる心配もなかったけど……」
「……今は違うの?」
 コクリ、と彼女は首を縦に振る。僕にとってはありがたい意思表示だ。
「中学生になって制服を着始めた途端、状況は一変。周囲の見る目も、小学生時代の可愛い小動物を見るような目が減って、代わりにいかがわしい視線が増えたの」
 制服にはそういう魔力があるのかもしれない。いや、実際にはわからないけど。
「近い年齢の人からも、そういう目で見られる機会が増えて……中学一年の夏に一度、襲われそうになった事も」
「えっ!」
「幸い、未遂で済んだけど……転校せざるを得なくなったの。襲ってきたのが担任の先生だったから」
 ……急に生々しい話になってきた。
 彼女の身体付きは決して中学生の平均を大きく逸脱してはいないように見える。ならやっぱり、異性を惑わせる理由は顔なんだろう。
「そこまで極端な体験はそれっきりだけど、それ以来、異性のいかがわしい目が気になるようになって……三回も学校を変わるハメになったの。そして、昨日で四回目」
 中学に入ってからという事は、一年ちょい。それで四回の転校はかなり多い。
 ……って、昨日?
「もしかして、隣のクラスに転校してきた女子って……」
「私の事でしょうね」
 僕はここでようやく、彼女の話が真実だと確信するに到った。









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