とんでもない美人の転校生がやって来たって話は、休み時間、昼休み、放課後とフルコースで耳にしている。もう疑う余地はない。
「そちらのクラスでも、私の顔の話で持ちきりだった?」
「うん……間違ってはいないけど、よくそこまで自分で言えるね」
「誇らしい事なら、もう少し奥ゆかしく出来るんだけど」
つまり、彼女にとって顔の良さは誇るべき事じゃないらしい。ここまでの話を聞く限り、男にモテるのも嫌みたいだ。
「私は現状に辟易してるの。私の顔を見た人がどう思おうが、それはその人の勝手かもしれないけど、いちいち襲われる心配をするのは疲れるでしょ? そもそも、私の顔面偏差値の高
さは私の両親のお手柄であって、私の力や成果じゃないし……」
なんというか、世にも贅沢な悩みだった。
とはいえ、さっきの話にあったように教師にまで性欲の対象とされるのは、確かに厄介だ。
それに、毎日すれ違う人間全員に凝視されたり好意を持たれたりナンパされたり狙われたりするのは、相当なストレスになるだろう。かといって、同性にこんな事を話せば自慢としか
取られないだろうし、両親に話すような内容でもない。
顔が良すぎる故の苦悩。それは意外にもかなりの難題だった。
僕の顔が認識出来ない体質とは別の意味で厄介だ。
「……これまで、何度も自問自答してきたの。私の考え過ぎ、誇大妄想なんじゃないかって。どれだけ図抜けて綺麗でも、普通とはかけ離れた顔でも、関心を持たない人だっている……
って思うでしょ?」
これも意外……というと失礼だけど、彼女はどうやらかなりまともな思考回路をした人間らしい。自分が注視される理由を、容姿以外にもちゃんと模索、検討していたんだ。
十分に勘案しても尚、容姿以外の理由はない。そう結論付けたからこそ、そしてその事に本気で悩んでいるからこそ、ここまでキッパリと自分の顔が優れていると断言出来るんだろう
。
「だから、貴方が昨日、私を見た時の反応は、私にとって青天の霹靂だったの。私を素通り出来る男性がいたんだって」
実際には素通りした訳じゃなく、好意や魅了とは別の意味で凝視してたんだけど。何しろ、制服姿の女子が美容整形クリニックの前で突っ立ってる光景は異様だったから。
「もしかして、あの時クリニックを見てたのって……」
「手術も視野に入れる時期に差しかかったのかもしれない、と思ったのは事実よ」
まさか自分の美貌を取っ払う為に整形する女子がこの世にいたとは。完全に指名手配犯の発想だよ。
「こういう事情があったから、どうしても貴方に会って確かめたい事が三つあったの」
「三つも?」
「一つ目は、貴方が本当に人間かどうか。私の見間違いや幻覚、幽霊の可能性も含めて、実在する人物なのかどうかの確認をしたかったの」
僕はUMAか何かと思われていたらしい。
「二つ目は、貴方が人間だとして、どうして私の顔に魅了されなかったのか。顔の区別が出来ないという先程のお話、まだ完全には信じられないけど、一応納得はしてる」
なら、残すところあと一つ。他に何を確かめる事があるんだ……?
「三つ目は……その、一緒に検証してくれるかどうか、なんだけど」
「検証?」
もしかして、彼女の顔が本当に全ての男を虜にする顔なのか検証するつもりなのかな?
明らかに美形。男受けは完璧。誰もが称賛を惜しまない。けど、それであっても尚、出会った全ての人物の関心を集める顔なんて普通はあり得ない。果たして彼女の顔が本当にそうな
のか。それは興味深い検証かもしれないと、僕は率直に感じていた。
でも――――
「……僕には、その検証に協力する術がないよ。君の顔がどれだけ魅力的なのか、判定しようもないし、比較も出来ないから」
「いえ。貴方ならきっと出来る。寧ろ貴方以外には出来ない」
ズイッと、彼女が顔を寄せてくる。
顔については何も感想を抱けないけど、髪型だけは別だ。
ウェーブも遊びもない、完全ストレートの黒髪。そこにある美しさを確かに感じる事が出来る。それはきっと世間一般でも魅力の一要素となるだろう。
ただ、僕自身それを魅力的だと感じる訳じゃない。美しい絵を見て、それを美しいと思う事は出来ても、魅力的と思うかどうかは別の話。今まさにそれと同じ心境だ。
そんな僕が、一体どうやって彼女の外見を判定するっていうんだ?
「貴方なら、私の中身を検証出来る筈よ」
中身? 外見じゃなくて内面の話?
……どうやら僕の早とちりだったらしい。
「貴方の話が本当なら、貴方にとって私は他の女子、女性と一律同じ顔、という印象なのよね?」
「うん、そうだけど」
「なら、貴方は私の外見に一切惑わされない、正しい内面の判定が出来る唯一の人間。貴方は私にとって最後の希望なのよ」
つまり、僕は彼女にとってパンドラの箱のエルピスなんだと。
いきなり重い役目を背負わせてくれるよ。
「この街に引っ越して来ても、私を取り巻く環境は変わらなかった。転校先の学校でも、クラス全員、廊下ですれ違う全員が私を見ては、何らかの強い感情を抱いていたの。ずっとそう
いう環境で生きてきたから、わかるのよ。私を見ている目に感情が灯っているかどうかが」
そう彼女が語ったその内容は、僕にはまるで魔法のような技術に思えた。僕は他人の目を見ても、それが目だという認識以上のものは持てない。いや、眼球が動いているのはわかるけ
ど、その動きが目線の動き以上の意味があるように思えない。
不思議なもので、顔以外についてはもう少し融通が利くんだけど、顔についてだけは、何故か洞察や全体的な捉え方が出来ない。そこだけが欠落しているような印象を受けるけど、そ
れを実感として持つ事すら出来ない。僕以外の人達が、表情というものを当たり前に語っているのが、まるで古美術品の鑑定でもしているような、遠くの世界の話に聞こえる。
でも――――
「もし、昨日貴方と会わなかったら、私は自分の顔を変えていたかもしれない。自分が変わらなければ周囲も変わらないと、そう自分をムリヤリ納得させて」
あれだけ別世界の人間のように思えていた彼女は、今はなんとなく同じ場所に立っている同じ人間だと思うようになっていた。
「でも、貴方のような人もいるんだから、諦めるのは早いと思ったの。貴方以外にも私の顔より中身を見てくれる人が出てくるかもしれない。その人が現れた時に、内面を誇れる自分で
ありたいの。その出発点として、今の私が他人から見てどんな人間なのかを知っておきたいのよ」
僕も彼女と似ているところがある。
誰にも話せない、妙な体質を抱えてながら生きてきた。
だけど、日常生活に大きな不自由なく同じ地で生きてこられた僕に対し、彼女は支障を来して苦悩の末に何度も住居を転々としてきたという。
その差は余りにも大きい。
「お願い。私に力を貸して」
彼女の抱える悩みは一見すると『孤島で手に入れた財宝が重すぎて帰りの船に乗せられない』といった類のものと似ているように思えるけど、実際には全然違う。財宝を捨てるのは欲
を断てばいい。でも容姿は金品とは根本的に異なる。自分自身、自分そのものであり親から譲り受けたもの。整形への価値観は人それぞれだろうけど、簡単に捨てられるものじゃない。
それでも彼女は、自分の抱える問題を根治させようとしている。
僕はとっくに諦めた。根本的な解決は捨てて、対処療法に切り替えた。僕だって、人間の顔を明確に区別出来るのが当たり前だと知った時には、自分もそうならなければと努力したり
もした。
忘れもしない、小学三年生の時。クラス替えがあって、一・二年の時の友達数人と別れた僕は、また同じクラスになったシュウちゃんと一緒にその友達のいる教室まで会いに行った。
クラス替えがあって間もない頃には、よく見かける光景だ。
ただ、僕はそのよくある光景の中に溶け込めなかった。
別の教室で知らない子と話していた友達を、すぐには見つけられなかった。
シュウちゃんがいともあっさりと見つけて声を掛けた時、僕は漠然と『顔で区別出来ないのはおかしな事なんだ』と、人知れず自覚した。
その日から数週間、二年生の頃の遠足の写真と毎日睨めっこして、顔を覚える努力をした。
だけど――――成果は出なかった。
たった数週間で諦めるのは早過ぎる、とは思わなかった。英語の勉強のように、最初は未知の世界でも、少しずつ単語や文法を覚えて、前に進んでいるって実感があれば、続けて努力
出来たと思う。でも、そんな感触は一切なかった。
僕には人の顔を絶対に覚えられない。何も区別出来ない。
つまり、絶望。
そう結論付けて、この事を誰にも悟られないようにしようと誓った小三の春。
今でも覚えてる。まるで悪い点数を取ったテストを隠しているような、落ちていた財布を拾って家に持ち帰ったような、強烈な罪悪感を抱いた事を。
他人の『当たり前』を出来ないのは、勉強や運動が出来ないのと同じで、ダメな事なんだ。
そんな強い自責の念を、小学生時代の僕は心の奥底に閉じ込めていた。
それだけじゃない。
顔が認識出来ない事で、僕は女子との接点も見失ってしまった。
恋愛や性欲への道標も失ってしまった。
この事を他人に悟られるのは、この上なく恥ずかしい。
言うなれば“禁忌の芽”。
そしてそれは、目の前の彼女と関わる事で、発芽するかもしれない。
自分は普通だと言い聞かせて、擦り込ませてきた僕の対処療法が、根底から崩れるかもしれない――――そんな畏れがあった。
「お願いします。私に力を貸して下さい」
より自分を低くして、彼女は懇願してくる。嫌というほど切実さが伝わってくる。
それでも、関わり合いになるべきじゃない。とてつもない美人の彼女と接する機会が増えれば、僕は間違いなく苦悩する事になるだろう。これは予感というより確信だ。
「でも、具体的には何をすればいいの? 内面を検証するって言われても、僕は女子と親しくした事がないから、何の参考にもならないよ?」
諦めて貰うつもりで、自分の小さな恥を盾にそんな質問をしてみる。
より大きな恥から自分を守る為に。
けれど、彼女は大きく首を横に振った。
「それでもいいの。私の顔に思いっきり好意を寄せている女子に慣れた人より、女子に慣れてないけど私を外見で判断しない人の方が、遥かに信頼出来るから」
「それはそうかもしれないけど……他人を評価するのって、スゴく抵抗あるよ。値踏みするみみたいで」
「気にしない気にしない。値踏みされる私がお願いしてるんだから」
お願いまでした割に、僕の意向を聞く気はないみたいだ。
いや……違うのかな。
微かに肩が震えている。呼吸も、意図的に深くしているように感じる。自分を落ち着かせようとしてる証拠だ。
断わられるのを怖がっているから、強引に推し進めようとしている――――彼女の全体像が、そう物語っていた。
その姿をハッキリと認識した僕は、自分の事しか考えずに断わろうとしていた数分前の自分を大いに恥じた。
綺麗事なんかじゃない。僕はとても、とっても大きな誤解をしていたんだ。
僕は少し前に、普通である事を願ったから、その罰として、或いはアンチテーゼとして、こんな非日常が訪れたんだと心の中で愚痴っていた。勿論それは自嘲を含んだ冗談なんだけど
、ある一面では真理だとも思っていた。
普通を願うならば、非日常は求めるべからず。そんな戒めだと。
だけど、それは違った。
人間は、ほんの小さなドット落ちで不良品と呼ばれる液晶ディスプレイと同じじゃない。
ちょっとくらいの欠陥、特異点があっても、普通の人間として何ら矛盾はないと、僕はずっとそう信じて生きてきた。
なら、日常の中に現れた、このごく短期間の非日常は、一粒だけ違う色のドットと同じようなこの非日常は、普通の範疇に含まれる出来事なんじゃないだろうか?
どんなに平凡な人生でも、一度くらいは他人と違う道に逸れるもの。そういう事が一度もなく人生を終える方が、寧ろ珍しいくらいだ。
普通を願った結果、相反する非日常が皮肉げな顔で現れた訳じゃない。普通を願ったからこそ、普通人生で一度か二度訪れる特異点が出現した。僕の人生の中における彼女との遭遇は
、一粒の抜け落ちたドットであり、僕の中にある『顔を認識出来ない』体質でもあるんだ。
なら、避ける理由はない。いや、避けちゃいけないんだ。
「内面の検証って言っても、何時間もダラダラしてたら効率悪いよね」
「……え?」
「一日三〇分。その間だけなら。でも期待はしないでね」
少し照れ隠しを含んだ僕の返事に、彼女は一体どんな表情をしているんだろう。
喜んでくれているのかな。喜びの顔って、どんな顔なんだろう――――
「本当にいいの? 一日の中の三〇分、私に預けてくれる?」
「うん。僕にとっても、人の顔を視認する練習になるかもしれないしね。君の案、受けるよ」
――――一度くらいは見てみたい気がする。
そんな事を思った一四歳、中二の夏。
僕が普通である為の、一生に一度か二度の特別な時間が、薄汚れた廃ビルの中で開始のチャイムを鳴らした瞬間だった。
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