僕は本を読むのが好きだ。
 本、といっても小説じゃなく、実用書、啓蒙書、或いはエッセイと呼ばれる分野の本を好んでいる。
 この手の本は、割と砕けた文体の物も多くて読みやすい。一応、国語の成績は学年でトップ一〇に入っているみたいだけど、中学レベルのテストで九〇点前後を取っているだけの事。そこに大した意味はないと思う。
 そして、僕が実用書や啓蒙書を読む事にも、実のところ大した意味はない。それらを読んで知識を蓄えようとか、自己啓発をしようとか、そういうつもりは一切ないからだ。
 僕は普通でありたいと常に思ってるけど、その為には自分の抱えている一粒のドット落ちであるところの『顔が区別出来ない』体質を、“小さな特殊”に留めなくちゃならないと感じていた。視力が極端に悪いとか、口内炎が出来やすいとか、すぐに声が枯れるとか、そんな程度の特徴と同等の特殊なら、それを抱えていたところで普通の人間と言える。
 ただ、この体質を自覚して以降、僕は人付き合いが極端に少なく、狭い範囲になってしまった。このまま成長していけば、普通の学生の範疇から外れて、他人の心がわからない人間になってしまいそうだと感じて、いつの間にか『他人の心に触れられる本』を欲していた。それが実用書であり、啓蒙書であり、エッセイだった。
 実用書は一見、心とは程遠い分野に思えるけど、実はかなり強い主観でもって綴られている本が多い。勿論、色んな客観的データに基づいた理論や実証が多く語られているけど、そのデータを収集する時点で、かなり偏った思考が見て取れるケースが大半を占めている。ある一面では正しい、だけど興味のない、若しくは都合の悪いそれ以外の面に関しては殆ど無視している――――そんな本は相当に多い。そういう、ある種人間臭い部分に触れたくて、僕は一時期無我夢中で本を読んでいた。
 そこから得た知識は決して多くも豊かでもない。ただ、普通の小中学生がその期間の中で沢山の人とするであろう会話と同じくらいの量の会話を、僕はその本の著者達としていた。当然、実際に話した訳じゃなく、本の中の彼らと。
 そうする事で、僕は自分の体質によってもたらされたマイナスを、ある程度は補ってきた。
 今の僕は、社交的とまで言えるかどうかは微妙だけど、それなりに言葉を持っている。どんな相手でも、一定以上の会話が出来るだけの言葉と思考を。
「昨日、久々にペットショップに寄ってみたいんだよ、駅前の」
「どうだった?」
「お前のトコのアオとそっくりなのがいた。値段は……」
「いや、それは聞きたくないからいいよ。家族の値段なんて聞きたくない」
 だから、シュウちゃんと話す時も、シュウちゃんがどんな返しをして欲しいのか、どんなつもりで話しているのかはある程度わかるし、会話も弾む。
 その点、僕は自分なりに上手く生きられているという自負があった。
 けれども――――

「お互い、詳しい自己紹介はしない方がいいと思うの」

 二日前に知り合ったばかりの、今目の前にいるこの女子。彼女とちゃんとしたコミュニケーションを果たしてとる事が出来るのか、正直なところ自信はなかった。
「……どうして?」
 その理由もろとも、僕は問う。
 自己紹介をしない方がいい、なんて一生聞く事がない言葉だと思う。普通は。
「名前と年齢くらいしか知らない距離感が、検証しやすいと思うのよね。貴方に必要な初期情報は、私の内面だけ。それ以外は邪魔。だから〈LINE〉のIDも教えない」
「……趣味や特技を知ったからって余計な感情が生まれる訳でもないと思うよ?」
「それもそうだけど、敢えて知る理由もないじゃない」
 まあ、無理に知りたいとは思わないけど、今のところは。でもこんな宣戦布告を受けてしまうと、却って悪感情が生まれそうな気もする。若しくは、よっぽど変な趣味を持ってるんだなとか、その手の邪推が。
「一応確認だけど、私の名前は知らないのよね?」
「うん。君の事はクラスで話題になってたけど、三人称は基本“可愛い転校生”だったし」
「あっそ」
 心からどうでもよさそうな返事。容姿への賛美は彼女にとってお世辞以上に不要らしい。
「『君』って呼ばれるのも嫌いじゃないけど……名前くらいは言っておかないとね。私は隼瀬牡丹。隼瀬は早いの方じゃなくてハヤブサの瀬でハヤセ。牡丹は留め具のボタンじゃなくて花の方のボタンね」
 牡丹か。意外……と言うのは失礼だけど、思いの外古風な名前だった。もしかしたら大和撫子的な美人なのかもしれない。勿論、僕には大和撫子的な顔がどんな顔なのか知る由もないけど。
「それじゃ、これからは隼瀬さんって呼ぶよ。僕は更科解理。更新のコウに理科のカでサラシナ、理解のカイに理科のリでカイリ」
……四文字中三文字を“理”という字で説明するのは、別に狙っての事じゃない。単純に説明しやすい熟語だからだ。
「解理……珍しい名前ね」
「そうだね。読み自体も割といないし、漢字まで一緒の人は殆どいないと思う」
「……」
 僕の名前を聞いた隼瀬さんは、何故か押し黙ってしまった。
 表情で読み取れない以上、こういう場合は雰囲気で相手の感情を推し測るしかないんだけど……彼女が一体何を考えているのか、今一つわからない。
「今の私の受け答え、どう? 心の中では『変な名前』って思ったんだけど、それを直に言うのは失礼だと思って、でも本心を完全無視すると白々しい言い方になりそうだから、その折衷案で“珍しい名前”って言ってみたんだけど」
 今一つわからなくて当然だった。
「いや、別に普通の反応だと思ったけど。っていうか……検証って、君の発言を毎回こんな感じで採点していくの? ものすごく疲れそうなんだけど」
「それもそうだけど、仕方ないじゃない。私、自信ないのよ。会話が苦手って前にも話したでしょ? 自分の話した事が相手を傷付けてないか心配なの。特に名前への感想って結構ナイーブなトピックじゃない?」
「それはわからなくもないけど、発言する度に採点なんてしてたら三〇分なんてあっという間だよ? そっちがいちいち聞くんじゃなくて、僕が不快に感じたりおかしいと思ったらその都度指摘する、でよくない?」
「んー……じゃ、それでいいか」
 若干不満そうだったけど、隼瀬さんは納得してくれた。
 一日三〇分、彼女に僕の時間を預けると決めた以上、その期間は彼女につき合う義務が僕にはある。でも、なるべくなら無駄は省きたい。そうすれば、僕にとっても実りある時間になる筈だ。
 僕には密かに、この奇妙な検証に対して期待している事があった。万が一、彼女の顔に他の人とは違う魅力を感じられれば、それは僕が生まれて初めて顔を区別出来た証になる。もしそうなれば、僕にとっては画期的、いや革新的な事だ。
 それに、こうして同級生の女子と話す機会を得たのは、それだけで収穫だと思う。僕のこれまでの人生で圧倒的に足りなかった経験だ。
 僕には恋愛経験がない。でもそれは、顔の認識が出来ない事による弊害なのか、単に異性と交流する機会がなかったからか、今の時点ではわからない。今回、後者が満たされる事によって、答えが見つかるかもしれない。そういう意味では、彼女と顔をつき合わせる事が僕にとっても検証になり得る訳だ。
「ところで一つ、確認したい事があるんだけど」
「何?」
「貴方の『顔が区別出来ない、覚えられない』って体質について。色々聞きたいんだけど、何処まで踏み込んでいいものか……」
 意外と配慮してくれていたらしい。どうも彼女、強引さと謙虚さが同居した性格みたいだ。
『モテ過ぎる自分の顔が悩ましい』なんて、一〇〇人中一〇〇人がナルシストの発言だと信じて疑わないだろうけど、彼女の場合は容姿に自惚れない謙虚さを持っている。客観的に美しいと認識しつつも、その容姿がもたらす影響を疎ましく思っている。
 でもそれは、他人に打ち明けられる悩みじゃない。
 例えば、金持ちの家に生まれた人が『金持ちは金持ちで苦労があるんだ』と言ったとして、それは事実だろうと頭では理解出来ても、中々心の底から『そうだよね』と言えるお金持ちじゃない人はきっと少ないだろう。フザけんなよ、貧乏人の苦労の方が遥かにキツいわボケ、って思うのが普通だ。きっと彼女の悩みに対しても、そんな感情が向けられるだろう。
「これは私の身勝手な解釈なんだけど、貴方は美人だから良いとか、不細工だからダメとか、そういう価値観を持っていない人なんじゃない?」
「……その通りだけど」
 容姿が区別出来ない以上、そこに優劣は存在しないし、当然好みも何もない。
 そして、彼女はそんな僕だからこそ、自分の抱える悩みを打ち明けられたんだろう。僕の中には、容姿に関する『フザけんなよ』がないから。
「それじゃ、思い切ってもう一歩踏み込んでみようかな」
 彼女は緊張感を声に宿し、浅い呼吸を一つ経て――――それを問いかけてきた。
「恋愛経験は?」
 やっぱり、そこを聞かれるか。
 これまで一度も他人と話した事はない分野だ。
 僕が何の気兼ねもなくシュウちゃんと友達付き合い出来るのは、彼がこの手の話題を一切振ってこなかったからだ。それは中二になった今も変わらない。だから僕は、回避する技術を身につける必要すらなく今日まで平和に生きてこられた。
 ここにきて、ついに襲ってきたか。
 さて……どう返したものか。
 僕は顔の区別が付かないから、女子に好意を持った事がない――――そう素直に答えるか?
 いや、これじゃ『顔以外に好きになる要素がない』って言ってるようなものだ。人格を疑われかねない。幾ら出会って間もないとはいえ、貴重な女子との長話の機会をこんな形で台無しにしたくはない。
「片思いなら、あるよ」
 熟考の末、僕はそんな小さな見栄を張る事にした。
 片思いなら、恋愛について語れる経験がなくても、そんな大きなボロは出ないだろう。
「そうなんだ。ごめんね。私、貴方さんに偏見を持ってた」
「僕が恋愛をした事がない、って思ってた?」
「包み隠さず言えば、そう。でも、よくよく考えてみれば、顔も知らない相手と恋をするケースも現代では存在するみたいだし、あり得ない訳じゃないか」
 多分、ネット上で知り合ったケースを指しているんだろう。
 僕はその手のサイトは怖くて一切関与した事がないけど、最近では〈LINE〉のIDを晒して、面識のない相手からのメッセージを待つ、なんて交流の仕方もあるらしい。
「うん。でも、それと同じにされるのはちょっとね……」
「あ……ごめんなさい」
 隼瀬さんの声が露骨に沈む。どうやら内面へのダメ出しだと受け取ったらしい。こっちとしては、別に不快に思った訳でもないんだけど。
「ええと、僕はともかくそっちはどうなの? 隼瀬さんは恋愛経験、ある?」
「……先にこちらが尋ねた以上、答えないとアンフェアよね」
 今度は妙に声が力んでいるというか、強張っている気がした。
「無理に、とは言わないけど」
「いーえ、言う。正直に言う。恋愛経験ゼロ」
 それは、意外な答え――――でもなかった。なんとなくそんな気がしていた。
 そもそも彼女、この手の会話自体に特に免疫がない気がする。絶世の美女なのに……
「でも、僕とは違って機会自体は多そうだよね? 異性と接する」
「そうね。でも、私は何というか……恋愛回路が故障してるって感じ」
 恋愛回路。なんというか、余り好感の持てない言葉だ。
「物心付いた時から、男の子に顔の事ばかり褒められてきたから……どうしても、男性に対して持つ感情は『私の顔が好きなだけの人達』になっちゃうの。陳腐な物言いになるけど、誰も私の内面、私が自分で培ってきたものに目を向けてないように思えて、好意を寄せるような心持ちになれないのよ」
 あらためて、彼女の人生の凄まじさを感じた。
 人間、モテすぎると人間不信になるのか。
「一時期、私なりに一念発起して、顔以外の面も顔に負けないくらい磨けば良い、って思って色々試してみたのよ。華道や茶道を嗜んだり、ラブソングを自作してみたり」
「……なんか、迷走してるように思うんだけど」
「事実、迷走よね。心が落ち着く事もなければ、恋や愛について造詣を深める事も出来ずじまい。ヒット曲も出せなかったし」
 ……ヒット曲はともかく、彼女が彼女なりに自分の抱える苦悩を打破しようとしていたのはひしひしと伝わってきた。
「結局、その後もなんにも変わらなくて、それどころか成長するにつれて身の危険を感じるようになってね……何度も転校する内に、心が折れちゃった。何度繰り返しても、何も変わらない、って」
「もう整形しかない、って?」
「そ。だから私、初恋もまだよ」
 あんなに可愛いのに恋人がいない、美人なのに経験がない……この手の話は創作の中だけだと思ってた。いや、実際に可愛い中二の子が恋愛未経験なんてケース、滅多にないと思う。ただ彼女の場合は、単なる可愛いじゃなく、それこそ異常性のある可愛さなんだろう。常識が通用しないほどの。
 僕はこれまで、何度か『この人が本当はどんな顔をしているのか知りたい』と思った事があった。シュウちゃんもその中に含まれている。
 でも、それはあくまで親しい人だからこその感情であって、純粋な好奇心で知りたいと思った事は一度もなかった。
 そんな僕でも、彼女の顔には興味津々だ。当然、彼女の周囲の男達もそうだろう。そんな中で生活するのは、それこそ名前の売れた芸能人並に大変だ。
 なら――――芸能人みたいにすればいいんじゃないか? 
「顔を隠して生活するのはダメなの? マスクやサングラスで変装するとか」
「当然、試してみたけど……マスクだけだと効果は薄いみたい」
 そういえば、校舎の前で僕を待ち伏せしてた時、そのスタイルだったっけ。アレでもダメなのか。
「サングラスと併用すると、好意の目で見られる事はなくなったけど、その代わり好奇の目に晒されてね……」
 確かに、そこまでやると違う意味で視線が集まりそうだ。
「それに、顔を隠して生活するのは一時的に見とれられるのを防ぐ手立てにはなっても、根本的な解決にはならないの。一生一人で生きていくのならともかく、一応今のところはそこまで自分の人生を悲観してないから」
「十代半ばで未来を狭めたくないよね」
「そうなの。私だって恋くらいしてみたい」
 恋をしたい――――中学二年生の女子の言葉としてはごく自然な内容だったけど、僕には遠くの国の別の言語にように聞こえた。
 いや、それじゃダメだ。僕もいい加減、この機会に自分を変えないと。
 中二の男子がいつまでも恋愛を回避してちゃ、普通とは言えなくなってくる。
「……話の流れで聞くけど、好みのタイプとかあるの?」
 思い切って、僕はそんな事を聞いてみた。こんな質問、初めての体験だ。
「ええと……それはもしかして、自分を指名されるのを期待しての発言?」
「いや、違うけど。でも、仮にそうだったとしたらスゴく傷付くから、そういう事はなるべく言わない方がいいと思うよ」
「あ……ごめんなさい」
 どうやら彼女、自分で言っている以上に会話が苦手らしい。思った事をポンポン言ってしまうタイプというか、越えない方が賢明な一線を何処に引くか、よくわかってないみたいだ。
 でも、無理のない話だと思う。話を聞く限り、中学に上がるまでの彼女は周囲の男子からチヤホヤされまくっていたようだし、きっとイエスマンばっかりだったに違いない。子供の頃にそんな環境で生活してたら、コミュニケーション機能が健全に育つ筈ない。
 彼女はそれを矯正する機会をずっと待っていたのかもしれない。そして、僕という存在にその機会を見出した。
 そう考えると、僕の責任は何気に重い。
「質問への回答だけど……容姿面では正直、ないかな。というか、こういう悩みを抱えている手前、男子の容姿についてどうこう言える立場じゃないと思うから」
「道徳的にはそうだろうけど、それを抜きにしたらどう?」
「爽やかな感じの人が良いかな」
 割と普通だった。
 そうはいっても、僕は『爽やかな容姿』ってのがどういう顔立ちを意味するのかわからないから、あくまで『テレビや雑誌やネットで割と普通に見かける好み』って意味なんだけど。
 それに、僕自身がどれだけ爽やか要素を含んでいるのかも全然わからないし、『僕はどう?』なんて聞く度胸もない。要するに、不毛な質問だった。
「そろそろ三〇分ね。今日はこれくらいにしましょっか」
 隼瀬さんはそう呟き、スマホに表示された時刻を御丁寧に見せてくる。
 いつの間にか定時を過ぎたらしい。休み時間の三倍の割に、かなり短く感じた。それだけ、僕が彼女との会話に夢中になっていた……って事なんだろうか。
「今日はありがと。また明日、同じ時間にここで待ってる」
「……うん。それじゃ、また明日」
「ええ、また明日」
 特に示し合わせるでもなく、先に隼瀬さんが廃ビルを出て行く。僕は窓ガラスのない二階の窓から、彼女が外へ出る姿を暫く眺めていた。
 というより、彼女の周囲の男を主に見ていた。
 ……本当に、全員が全員、一度は彼女を見ている。そして暫く見つめたまま、時間を止めている。明らかに見とれている様子が窺える。
 もしあの状況を一時的にも回避したいのなら、変装するのが手っ取り早い。だけど彼女は多分、僕みたいに自分を見ても意識しない男がいるかもしれないと思って、敢えて素顔を晒しているんだろう。少なくとも、今日は見つからなかったみたいだけど。
 それにしても、不憫な人だ。
 彼女は内面に対して高い志向を持っているらしい。容姿は両親のお手柄と言い切っていたし、自分の育んだものを認められたい、称えられたいって欲求が強い。そんな彼女にとって、超絶美形の容姿は足枷でしかないのかもしれない。
 本来なら、容姿に恵まれている時点で勝ち組って言われる筈なのに。
 ま、僕が同情しても仕方ない。彼女には彼女の人生があって、それを必死に生きているんだから、同情なんてすべきじゃない。何より僕自身、他人に同情出来るほど上等な人生は送っていない。
「……帰ろ」
 廃ビルの周囲から男の気配が消えた頃合い、僕は熱を帯びた階段に右足をかけ、大きく溜息をついた。










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