隣のクラスの転校生女子と知り合った事で、僕の中に変化が生じたらしい――――
「あの、更科解理先輩ですよね」
 そう自覚したのは、隼瀬さんの“検証”に付き合うと約束したちょうど一週間後の放課後。学校の玄関を出た直後、知らない声の女子から突然名前を呼ばれた時だった。
 当然、顔はわからない。髪型はショート。その点で、隼瀬さんとの区別は付く。それ以前に、声の違いはハッキリわかるんだけども。
 以前の僕なら、知らない人、特に知らない女子に話しかけられたら確実に舞い上がってしまっただろう。
「そうだけど」
 でも今の僕は特に間を置く事もなく、自然に対応出来ていた。そんな自分にビックリだ。
 隼瀬さんと知り合って三日目、早くもその影響が僕の中に現れていた。
「私、野球部のマネージャーをやっている、一年の衣原咲柚〈きぬはら さゆ〉と言います。今宮先輩の事でお話を聞かせて欲しいんですけど、お時間はありますか?」
 ああ、シュウちゃんの知り合いか。
「少しなら構わないよ。何?」
「最近、今宮先輩の心身に不調が見られたりしませんか? もし何か心当たりがあったら教えて欲しいんです」
「不調は……ないと思うな。特に普段と変わりないよ」
「そうですか……では、何か今宮先輩が心を乱すような出来事やお話に心当たりは? 練習に支障をきたすような」
 つまり、最近のシュウちゃんは練習に身が入っていないらしい。
「うーん……思い当たるのはネットくらいかな。寝不足の原因みたいに言ってたし」
「ネットですか……」
 衣原さんは不満そうな呟きと共に俯いてしまった。納得が得られなかったらしい。
「そういうレベルの話じゃないのかな?」
「はい。極端に集中力が欠けているというか、野球への情熱が急速に冷めているような……それくらいのレベルのお話です」
 僕が知る限り、ここ数日のシュウちゃんはいつもと何ら変わりはなかった。
 とはいえ、野球部の中のシュウちゃんを僕は全く知らない。練習を見に行った事もないし、それ以前にシュウちゃんが野球部に入った経緯すら知らない。
 小学生時代のシュウちゃんは、野球を好きだという素振りは一切見せていなかった。野球の話すらした事がなかった。だから中学に上がって野球部に入ったと本人から聞いた時は思わず耳を疑った。
 実はその件についてシュウちゃんにそれとなく聞いた事がある。たけど、あんまり話たがらなかったから、深く立ち入るのは止めてしまった。
 僕にも、深く立ち入って欲しくない話題の一つや二つはある。だから自己防衛の意味も込めて、向こうが触れたがらない話題には極力触れないようにしている。そういう意味では、僕とシュウちゃんは友達ではあっても親友じゃないのかもしれない。
「あの……校舎の裏に行ってもいいですか? 人目に付く場所だと話し難い事もあるので」
 友情の濃度についてまで思考が逸れてしまっていた僕に、衣原さんが移動を促してきた。
 一昨日に続いての、女子からのお誘い。といっても、前回は得体の知れない恐怖が先に立ったし、今回はシュウちゃんの事についてのお話だから、僕には何のときめきもない。
 とはいえ、友人の変化とやらは気になるし、断わる訳にもいかない。僕は小声で了承の異を唱え、衣原さんと一緒に校舎の裏へと向かった。
「……」
 沈黙のまま、並んで歩く。
 彼女の身長は僕より大分小さい。一年女子の中でも小柄な方だろう。
 当然、顔についてはわからない。声は丁寧な話し方とは裏腹に、やや幼い印象を受ける。
 隼瀬さんとは一年しか違わないけど、声や体型だけじゃなく、ちょっとした仕草や全体的な雰囲気も含めて、かなり印象が異なる。きっと、顔も全く違うんだろう。
 そんな事を考える一方で、僕は昨日に続き知り合って間もない女子の容姿へ関心を寄せている自分に驚きを覚える。これも一ドットの非日常から受けた影響かもしれない。
「では、ここで」
 校舎の裏を暫く歩き、芝生が植えられている所に着いたところで、衣原さんは足を止めた。
 僕達以外、周囲に人はいない。他の生徒は教室で駄弁っているか、部活に精を出しているか、家路を急いでいるかのいずれかだろう。約一名は廃ビルへと直行してるんだろうけど。
「更科先輩、今宮先輩とクラスメートなんですよね?」
「そうだけど」
「その……一週間くらい前に、先輩の隣のクラスにすっごく美人の転校生が来たそうですけど、その事について何か言っていませんでしたか?」
 ああ、そう繋がるのか――――僕はこの段階でようやく、衣原さんが何を心配しているのか、その正体を掴めた。
「あ、ご、誤解しないで下さい。別に私、今宮先輩のカノジョとか、そういうのじゃないですから」
「うん。そこまでは誤解してないよ」
「……あ、う」
 衣原さん、照れてるのか声がしどろもどろだ。
 やっぱりシュウちゃん、モテるんだな。僕の見立て通りだ。
「とにかく、そういう問題じゃないんです! 大事なのは、八月に大会が迫ってるのに、今宮先輩が野球に身を入れてない事なんです!」
「シュウちゃん、もしかしてレギュラーなの?」
「あ、シュウちゃんって呼んでるんですね」
 ……いや、そこは今どうでもいいでしょ。
「レギュラーどころか、三番ショートです。打って良し、守って良し、走って良しで……なんていうか、才能の塊って感じです」
「へー。やっぱりスゴいんだ、シュウちゃんって」
 野球に興味があるとは知らなかったけど、運動神経が良いのは昔から知っていた。体育の授業でさりげなく好記録出してたし、昼休みのグラウンドではちょっとしたヒーローだったから。
「今宮先輩は二年生ですけど、チームの中心なんです。みんなから信頼されています。その今宮先輩がこの一週間、全く練習に来てないんです」
「……そうなの?」
 ここ一週間の僕は、帰りのHRが終わると直ぐに隼瀬さんの待つ廃ビルへ向かっていたから、シュウちゃんの放課後の動向については一切知らなかった。
「先輩がそんなだと、チーム全体が締まらないって言うか、シャキッとしないっていうか……見ててわかるんです」
「困ったね」
「困ってるんです! このままだと確実に一回戦敗退です……コールド負けです……」
 いや、それは幾らなんでも大げさじゃ……ピッチャーが抜ける訳でもないのに。
「ええと、お尋ねの件だけど……僕の知る限りでは転校生の話題をシュウちゃんが口にした事はないよ。ただ、彼女と面識があるかどうかは知らない。多分ないと思うけど……」
「彼女、ですか」
 僕の物言いに何か引っかかりを覚えたらしく、衣原さんがそんな呟きを投げつけてくる。
 声は小さいのに、やけに殺傷力が高いその言葉に対し、僕は思わず狼狽えてしまった。
「もしかして更科先輩、転校生の人と知り合いなんですか?」
「え、いや……」
「だって、全く知らない人を“彼女”なんてあんまり呼ばないじゃないですか。英語の例文ならSHEを使うかもしれませんけど、日本語で彼女は少し特別な意味がありますし、避ける方向で話すと思うんです。例えば“あの人”とか、そういう表現になりませんか? 普通は」
 ぐ、グイグイくるな、この子。
 恋は盲目って言うけど、彼女の場合は寧ろ視力が良くなりすぎてる気さえする。
「そんなの、人それぞれだよ。僕は別に彼女って代名詞使うのに抵抗ないし」
「そうでしょうか。彼女という言葉の響きに親しみが込められてる気がしましたけど」
 ……恋は洞察。そんな造語を提唱したい気分だ。
「もし更科先輩が美人の転校生と知り合いなら、紹介してくれませんか? 確認したい事があるんです。先輩に迷惑はかけませんから」
 僕がそんな下らない事を考えている間にも、衣原さんはどんどん話を進めて、最後には頭まで下げてきた。
 ……どうしたものか。
「私、まだ中学生になったばっかりで、マネージャーにもなったばかりの新米だし、大したコト出来ないのわかってるんです。だけど、このままだと後悔しそうなんです。だから、お願いします!」
 それは、マネージャーとしての発言なのか、一人の女の子としての発言なのか――――
 いや。最早どっちでもいい。
「わかったよ。紹介するから、顔を上げて」
 こんなに真剣な女の子を前にして、嘘を吐き続けるのは僕には無理だ。
 別に隼瀬さんと知り合いなのを隠す必要はないし。彼女の“検証”について喋らなきゃいいだけだ。
 もう一つ言えば、彼女が同性からどんな目を向けられるのか、それも知っておきたい。
 それも一つの検証だ。
「明日、放課後にここに彼女を連れてくるから。それでいいよね?」
「はい。ありがとうございます」
 顔を上げた衣原さんは、喜びの声じゃなく、緊張感を有した言葉でそう答えた。
 とはいえ――――緊張するのは僕の方だ。まさかこんな話になるとは。
 でも、後には退けない。どうにか彼女を明日、ここに引っ張ってこないと――――











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