翌日の放課後、僕は初めて隼瀬さんの顔に対する他人の評価を目の当たりにする機会を得た。別に今更彼女の顔について猜疑心を抱いていた訳でもないんだけど、一体どんな言葉で評されるのかは気になっていた。特に、女子の反応には興味があった。
けれど、それは言葉じゃなかった。
「……」
僕に隼瀬さんと引き合わせて欲しいと訴えた、野球部マネージャーの衣原咲柚さん。人気のない校舎の裏で、僕と一緒にやって来た隼瀬さんを目にした彼女は、一瞬全身を強張らせるように身を竦め、硬直に近い状態のまま、隼瀬さんの方を凝視し続けていた。
注目の第一声なんだけど、それが中々出て来ない。ただ、見とれているとか放心しているとか、そんな印象もない。緊張――――それが一番適切な表現かもしれない。
「噂には聞いていたけど……反則」
ようやく出た言葉は『反則』。どうやら女子は絶世の美女を見ると、とっさにルール違反だと思うらしい
「でも、その目――――」
「何? 私に用事があるんでしょ? 早く言って」
衣原さんが何かを指摘しようとするも、一刻も早く学校と青春から離れたい様子の隼瀬さんは即座に遮り、声を速め用件を急かした。
瞬きの回数も心なしか多い。決して機嫌はよくないみたいだ。
「は、はい。では率直に聞きます。その……そちらの更科先輩の同級生の今宮修一先輩をご存じですか?」
「知らない」
「目を合わせた事も?」
「さあ? そもそも私、その今宮って男子の顔も知らないから」
つ、冷たい……反応がいちいち冷たいよ、隼瀬さん。
とはいえ、衣原さんの質問、そして疑念が余りにも突飛的なのは擁護出来ない。シュウちゃんが無断で部活を休み始めた時期と隼瀬さんの転校してきた時期が一致するというだけで、彼女が原因だと疑うのは無理がある。
何より妙なのは、どうして僕に『今宮先輩に部活をサボっている理由を聞いて下さい』と頼まないのか。隼瀬さんと会う前にそう頼むのが正しい順序だと思うんだけど。
……確信があるんだろうか? 隼瀬さんが原因だという確信が。
でも、僕にはどうも信じられない。仮にシュウちゃんが隼瀬さん(の顔)に心を奪われたのだとしても、それで部活を無断欠席するような性格とはとても思えない。少なくとも、小学生時代からの付き合いの中で、シュウちゃんがそんないい加減な面を見せた事は一度もない。
「用件はそれだけ? なら、これでお役御免って事で。更科、行こ」
隼瀬さんも、自分にあらぬ疑いをかけられていると察しているらしい。かなり不機嫌な声で僕にこの場を離れるよう指示してきた。
それに対し、衣原さんは――――
「待って下さい!」
驚くべき行動に出た。
これは決して大げさな表現じゃない。僕は彼女の姿を見た瞬間、背筋が凍った。
……といっても、刃物を取り出したとか、平手打ちをしようとしたとか、その手の行動に出た訳じゃない。当たり前だけど。
衣原さんは――――土下座をした。
校舎の裏庭、つまり屋外で。額を地面に付けるくらい深く。
「衣原さん! 何を……!」
「お願いします! 今宮先輩と会わないで下さい!」
顔を上げるように言おうとした僕を遮るように、衣原さんは大声で懇願してきた。
一体……この行動はなんだ?
土下座なんて、それこそ命の危険や重度の金銭トラブルでもない限り、普通しないよね……?
「私がその今宮って男子と密会でもしてると言いたいの?」
「違います。会わないで、というか、遭遇しないで欲しいんです」
遭遇――――要するに、示し合わせて会う訳じゃなく、偶然会う事も含めて止めて欲しいと、衣原さんは言いたいらしい。かなりハチャメチャな訴願だ。荒唐無稽とさえ言えるくらいに。
「私、見たんです。二年の校舎で、今宮先輩が貴女のいる教室をじっと見ているのを」
衣原さんは顔を上げず、そのまま話を続ける。彼女の表情はわからない。どっちにしろ、わからない。
「あの今宮先輩が、あんなふうに女子を見るなんて……信じられませんでした」
「私を見ていたとは限らないでしょ?」
「視線の先に、人だかりが出来ていました。貴女が転校してきた日です」
「なら、私じゃなくて人だかりに興味を示していたんじゃないの? 何があったんだろ、くらいの軽い気持ちで」
「貴女が転校して来た日です。貴女に人が集まっている事くらい、わかります。貴女が信じられないくらい、その……綺麗だって噂も、昼休みには一年の教室で流れていたくらいですから。当然、今宮先輩のクラスにはもっと早く流れていたと思います」
つまり……シュウちゃんは『美人の転校生』に興味があって、隣のクラスを凝視していた。衣原さんはそう言いたいんだろう。
そして――――
「それ以来、今宮先輩は部活に来なくなったんです」
そういう事実がある。
なら、衣原さんの見解は恐らく正しい。というより、他の解釈は不可能だろう。
実際、シュウちゃんは転校生の事を登校時から知っていた。全く無関心って事はないだろう。
僕にじゃなく、隼瀬さんに哀願する理由はこれで判明した。それでも、僕を使ってシュウちゃんに真偽を確かめるべきだと思うけど、敢えてそうしなかったのは――――
「なら、まずその来なくなった理由を本人に確認すればいいじゃない。私じゃなくて」
「……」
隼瀬さんの正論に、衣原さんは答えない。答えられないだろうし、僕も口を挟めない。
――――きっと彼女は、怖かったんだ。
部活を無断で一週間休むのは、特別な理由があるか、情熱を失ったかのどちらか。例えば怪我や病気なら前者だけど、僕の知る限りシュウちゃんは健康だし、それは衣原さんにも伝えてある。何より、そういった理由での休養なら本人の口から顧問なりキャプテンなりに伝わってるだろう。
状況的に後者の可能性が高い。そして、その理由は隼瀬さんにある――――衣原さんはそう確信している。だから、直接的にしろ間接的にしろ、そして本音にしろ建前にしろ、シュウちゃんの口からこの件に関して返答を得る事を恐れたんだ。
「勿論、貴女に……隼瀬先輩に非はありません。私のお願いが無茶苦茶なのも、卑怯なのもわかってます。でも、それでもお願いします。今宮先輩に近付かないようにして頂けないでしょうか」
僕はその言葉に、大いに安堵した。支離滅裂と思われた彼女の行動は、そう自覚しつつ行っていた『整った暴走』だったと判明したからだ。
とはいえ、暴走は暴走だ。マネージャーとして、そして多分一人の女子として、シュウちゃんを隼瀬さんから引き離したいのはわかる。わかるけど、それをシュウちゃんの顔すら知らない隼瀬さんに懇願するのは、どう考えても横暴だ。
「どうして貴女が、そこまでしなくちゃならないの?」
それに対する隼瀬さんの対応は、何処までも冷え切っていた。ただ、彼女の衣原さんへの言動は、僕に対して見せる『要領の悪さ』とは明らかに一線を画している。配慮が足りずに辛辣な発言をしているようには思えない。明らかに嫌がっている。
でも、会話を切り上げて立ち去ろうともしない。正直、そうしても誹りを受ける謂われはないような状況にもかかわらず。いつのまにか、瞬きの数も落ち着いている。
隼瀬さんは隼瀬さんなりに、真摯に向き合おうとしているのかもしれない。
青春と。
「それは……私はマネージャーだから、今宮先輩が女子に夢中で野球から離れているなんて、他の部員が知ったらチームの士気が下がると思って――――」
「本当にそれだけ?」
「……」
衣原さんは頭の角度をそのままに、暫く沈黙を続け――――
「……怖いんです。今宮先輩が野球を捨ててしまうんじゃないかって思うと」
搾り出すような声で、そう漏らした。
衣原さんの中で、シュウちゃんがどんな人物像なのか――――詳しくは知らない。でも、おおよその想像はつく。野球選手として、男として、大きな存在なのは間違いない。
だけど、だからこそ向き合わなくちゃいけない。
「僕が直接、シュウちゃんに聞いてみるよ。部活をサボってる理由」
ずっと遠慮していた僕は、とうとうその言葉を口にした。これ以上、衣原さんに自身の弱さを露見させちゃいけない。そう思った。
「それは……」
顔を上げた衣原さんは、震えた声で何か言おうとした。
泣いていたのかもしれない。いや、きっと泣いていたんだろう。
「気持ちはわかるよ。女子に一目惚れして部活に身が入らなくなるシュウちゃんなんて、僕だって見たくない」
まして彼女は、衣原さんは明らかにシュウちゃんを慕っている。自分の好きな人の情けない所なんて知りたくない――――それは誰に責められるべきでもない、正当な真理だ。
「だけど、もしそれが真実なら、他人が歪めるべきじゃない。衣原さんは、“自分の理想のシュウちゃん”をでっちあげてようとしているだけじゃないかな」
そんなのは不毛だ。仮に彼女が野球部の戦力ダウンを第一に考えて、シュウちゃんを部に戻そうとしていたとしても、結論は変わらない。
「少なくとも本人の口から答えを聞くまでは、信じるべきじゃない? シュウちゃんは他に何か正当な理由で部活を休んでいるかもしれない、って」
状況的に勝算は薄いかも知れない。
ほぼ例外なく男子を魅了する隼瀬さんが転校して来た日から部活に来なくなったという、その事実は重い。
だけど、その重い事実だけで最初から決めつけるのは、例えゴールが同じだとしても、通っちゃいけない道だと、そう思う。
「……そう、ですね。更科先輩の言う通りです」
衣原さんは徐に頭と膝を上げ、スカートについた土を払う。
その身体からは、緊張からの強張りが解けていた。
「隼瀬先輩、すいませんでした。失礼な事をお願いしてしまって」
「……それは構わないけど。結局どうするの?」
「更科先輩にお任せしてもいいでしょうか?」
僕の方に顔を向け、衣原さんがようやく建設的な依頼をしてきた。
断わる理由はなく、僕は一つ頷く。
「お願いします」
最後に深々と頭を下げ、野球部マネージャーの一年、衣原咲柚さんは僕達から足早に遠ざかって行った。
「……良い子よね」
意外にも――――その背中を見送りながら、隼瀬さんがそう呟く。
「そう思うんだ。不快な思いをさせられたように見えたけど」
「『あいつウザい』。『調子乗ってんじゃねーよ』『死ねばいいのに』。『何様のつもりだろうね』」
そして今度は、抑揚のない声で次々と罵倒を並べ、僕に顔を近付けてきた。
「知ってる? 女子って大抵、陰湿なのよ。まず面と向かって言う事はしない。でも本人に見えない、聞こえない所だけの中傷じゃ満足出来ない。だから、〈LINE〉を使ってない私への悪口は、私に聞こえるギリギリの距離で、雑談って形で声にするの。休み時間や放課後に」
それは――――出来れば知りたくなかった、僕には無縁の世界での出来事。だけど、彼女の容姿を妬む女子が多い事は想像に難くないし、いじめのような状況が生じてもなんら不思議はない。
「言っておくけど、いじめに遭ったとは思ってないからね? 単に彼女達の未熟さが私への妬み嫉みの形で浮き彫りになっただけ。顔を羨ましがられても、全然嬉しくもないけど」
「つ、強いね」
「打たれ強くなっただけ。不本意ながら……ね」
それは決して強がりじゃないけど、全てが本心でもない事を、僕は彼女の声のトーンで悟った。
何一つ、恨まれるような事をしていないのに、ウザいだの死ねだの言われた経験は僕にはない。でも、そういう世界がある事は知っていた。もしかしたら、僕の周りにも侵食する日がくるかもしれない。そんな時、今の彼女のように毅然とした態度でいられるだろうか?
恐らく、無理だ。
そういう意味で、僕は彼女の内面に尊敬の念を抱いた。
「でも、たまにあるの。あの男子に近付かないで、彼を誑かさないで、ってニュアンスの、誹謗中傷や嫉妬とは性質の違う嘆願が。それでも殆どは、身勝手なだけの言葉を並べて不当な要求をしてくるだけ」
当然、実際に隼瀬さんが男子を誑かした事実はないんだろう。男子の方が彼女の容姿に魅了されただけの話。それでも、苛立ちや妬みの矛先は常に隼瀬さんへ向けられていたのだとしたら――――酷い話だ。
「その点、あの子は違ったみたい。土下座までするのはどうかと思うけど」
「確かに、やり過ぎの感はあったね」
それに、自分の目的の為に他者の行動を制限しようというエゴもあった。
だけども、彼女にはマネージャーとしての立場もある。全部が全部、シュウちゃんへの好意が行動原理じゃない……と思う、多分。
そして何より、衣原さんは自分の行動が卑怯なのも、それを見透かされている事もわかった上でやっていた。土下座なんてされれば、話を聞かざるを得ない。そんな心理につけ込む卑劣さを知りつつも、自分が悪く思われるのを覚悟で行動に出た。
きっと、賭けだったんだろう。
結果的に、その賭けは僕が預かる事になった訳だけど。
「責任重大ね」
半笑いでそうプレッシャーをかけてくる隼瀬さんは、心なしか機嫌が良さそうだった。
「青春、嫌いなんじゃなかったの?」
「苦手とは言ったけど、嫌いとは言ってないでしょ?」
……そうだったっけ。
「私だって恋くらいしたい。そう言ったと思うけど」
「そういえば、聞いたような気がする」
「だから、ちょっとだけ羨ましいのよね。あの子が」
結局――――この日、三〇分の検証は行わなかった。
前へ もどる