一学期の最終日、シュウちゃんは担任の隣に並び、転校の挨拶をした。
事前に明かしていなかった事もあって、教室はどよめきと困惑の渦巻く異様な雰囲気に包まれたけど、シュウちゃんの挨拶が終わる頃には、随分とサッパリした拍手の音で溢れていた。
マネージャーの衣原さんには、その二日前――――つまり僕がシュウちゃんから直接聞いた日に、僕の口から転校の事実を伝えていた。そうなるに到った経緯も。
「……そうでしたか」
正直、僕は彼女が泣き崩れると思っていた。あの土下座までした時の姿を思えば、大きな感情の波が溢れ出すのが必然だと。
「よかったです」
けれど衣原さんは、直立したまま僕の顔を見て、震えない声でそう口にした。
「今宮先輩が野球を捨ててしまうんじゃないかって……それが一番心配だったから」
実際には、転校先でシュウちゃんが野球を続けるかどうか、それはわからない。少なくとも、当面の目的として掲げていたものは、事実上破綻してしまった。実家に戻る今宮家の雰囲気は、勤め先がなくなるかもしれないという数年前とは事情が異なる。シュウちゃんが野球を続ける理由には、もうならないかもしれない。
「うん。その心配はもう要らないよ」
けれども、僕はそう断言した。深い理由なんて何もない。僕はシュウちゃんの野球に対する情熱や愛情について、昨日得た一欠片だけしか知らないんだから。
でも、僕は六年もの間、シュウちゃんを見てきた。一定の距離を置いていたし、深くは立ち入らなかったけど、だからこそわかる事もある。
「シュウちゃんは、途中で投げ出すような事はしない人だから」
こんな僕と、中学に上がって部活に入っても、変わらず付き合ってくれた友達。
それを、まるで我が事のように誇らしげに話す僕は、相当に滑稽なんだろう。
「私もそう思います。今宮先輩は、きっとやり遂げますよね。転校先でも野球を続けて、レギュラーになって、大会でも大活躍して、甲子園に出るような選手になって、プロにスカウトされるような……そういう星の下に生まれた人なんですよ、きっと」
滔滔とそう言葉を綴る衣原さんは、果たしてどんな表情だったんだろう。僕がそう疑問に思ったのは、彼女の声が一切震える事のないまま、その目から涙が溢れていたからだ。
それは一体、どんな表情を意味するのか。
僕にはわからなかった。教えて欲しいとさえ思った。
「お別れ会とか、するつもり?」
だけど実際には聞ける筈もなく、僕はそんなありきたりな質問で、心の中の緑を濁す。でもそれはそれで、悪くない色合いになった。
「はい。私の一存では決められませんけど、提案しようと思います。他の部員のみんなも、きっと賛成してくれると思います」
「そっか」
シュウちゃんにとって、それは不本意なのかもしれない。でも、嬉しいかもしれない。言葉では気を使われたくないと言っていたけど、実際にはそうじゃないかもしれない。
人間って難しい。心からそう思う。
「よければ、更科先輩も参加して下さい。具体的な案が決まったらお知らせします」
「うーん……考えとく」
「どうせですから、最後までワガママに付き合って下さいよ」
衣原さんはそんなお茶目な事を言ったのち、僕に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。後悔、しなくて済みそうです」
きっと、胸が張り裂けそうなくらい辛いんだと思う。経験はないけど、自分の好きな相手が転校するなんて辛く苦しいに決まってる。
それでも、衣原さんは最後まで僕にそれを見せなかった。少なくとも、僕にはそう見えた。
やっぱり、出来た人を好きになるのは、出来た人なんだなと、そう思った。
「……一つ、納得出来ない点があるんだけど」
そして今――――一学期最終日の放課後、まだ日が真上にある時間帯――――廃ビルの一室でここ数日の概要を語り終えたばかりの僕に、隼瀬さんは若干トゲのあるような声でそう言い放った。
「何が?」
「衣原さんだっけ? あの子がどうして、お別れ会の具体的な内容をお知らせ出来るの? 今日で一学期は終わり。学校にも行かないでしょ? 帰宅部の誰かさんは。接点ないじゃない」
妙に早口なのは、苦手な青春ストーリーを散々聞かされて苛立っているからかもしれない。
とはいえ、内面を磨いているのなら、その苛立ちは自分の中で飼い慣らして欲しいもんだ。
「いや、普通に〈LINE〉で」
「……あーら。連絡先聞いたんだ。意外とそつがないのね」
えらく刺々しい物言いだな。
もしかして、〈LINE〉が嫌いなのかな?
検証を始めた頃にID教えないって宣言したのも、実は嫌いだからなのかも。
「それで、どうするの? 出席するの? その野球部主催の青春色満載、熱血性高気圧的なお別れ会に参加する気なの?」
「いちいち表現が痛々しいんだけど……」
「そんな事より出るの出ないのどっちなの?」
えらい剣幕で凄まれる。瞬きもかつてないほど多い。
もしかして……
「羨ましがってる?」
「そんな訳ないでしょ! 誰がお別れ会なんて開いて欲しいって思うもんですか! たかが転校でそんな大げさにされても困るだけなの!」
「いや、僕が青春側に回って切ない経験してるのを羨ましがってる? って意味で聞いたんだけど……えっと、なんかゴメン」
どうやら、彼女の心の深い部分にあった開けちゃダメな箱を開けてしまったらしい。恐らく彼女はこれまで一度もお別れ会を開いて貰った事がなかったんだろう。
「〜〜〜〜〜〜」
隼瀬さんはそっぽを向いてしまった。恥ずかしいのか、ふて腐れたのかは不明だけど、どっちにしろとても顔の良さより内面を見て欲しい人間の態度じゃない。
とはいえ……こうして本音を晒してくれるのは、僕にそれなりに心を砕いてくれている証、と取れなくもない。僕は彼女のような態度をシュウちゃんにも両親にも見せた事がないから、それがよくわかる。だから、例え言いがかりに近いレベルの発言であっても、それほど不快には思わない。
「私の事はどうでもいいの! 更科が野球部に混ざって参加するのは不自然じゃない? って言いたいの! 大体、そういう知らない人ばっかの集まりなんてロクに経験してないんでしょ? 一人しか友達いないくらいだし。大丈夫なの? そう! 私は更科を心配してるの! 私は優しさで忠告をしてるのよ」
「だから、それは酌み取ってもらうべき内容であって、自分で言っちゃ……」
「うるさい! とにかく、行くな!」
最終的に、なんか漢らしい物言いで引き留められてしまった。
まあ、実際僕も行かない方がいいとは思ってる。野球部のシュウちゃんを知らない僕がその場にいるのは明らかに変だし。僕は僕で、僕なりの方法でシュウちゃんを送り出すべきだ。言葉や態度はともかく、隼瀬さんもそれが言いたいんだろう……多分。
でも、一体どんな方法で、どんな顔で送り出せばいいんだろう。そもそも僕は、誰かを見送るような機会を得た試しがない。加えて、自分の表情を客観視出来ない体質。
果たして、上手にお別れ出来るだろうか。
「……」
目の前の隼瀬さんが、沈黙したままじっと僕の方を見ている。
雰囲気的に、何か言いたそうだ。自分は転校のプロだ、転校される側の気持ちは誰より理解している、だから見送る側にして欲しい事は熟知している。よって私に聞くのがベスト――――そんな事言いたそうだ。
「ええと、参考までに聞きたいんだけど……」
「大丈夫。皆まで言わなくて結構。私に任せなさい。気持ちよく友達を送り出す方法、私が伝授してあげるから」
さっきまでの不機嫌は何処へやら、妙に張り切ってる。『自分が誰かの役に立つ』という事実を欲しているような、そんな空気をヒシヒシ感じる。
でも、その事実があってはじめて、内面に自信が持てるというその気持ちはよくわかる。僕自身、今まで誰かの役に立ったとか、成長に寄与したとか、そんな経験は一度もないから、自分の中身にはとても自信が持てない。
そしてそれは、人間関係にもそのまま同じ事が言える。僕はこれまで、シュウちゃんに何一つとして友達らしい事をしていない。ただ会話をするだけ。振り返ってみると、友情を深めるようなエピソードなんて一個もない。付き合いの長さだけで親友になれる筈もない。
シュウちゃんは、僕に色んな気遣いをしてくれた。もっと色々話したい事があっても、僕の『それ以上は近付くな』オーラを察して踏み止まってくれた。壁を作った僕の責任だ。
これで最後……とは思いたくない。でも、暫くはお別れだ。少なくとも僕の日常からシュウちゃんはいなくなる。なら、最後くらい壁を取っ払って、友達らしくお別れをしたい。
「……どうすれば、気持ちよく送り出せるの?」
多少の不安に目を瞑り、僕は隼瀬さんにそう尋ねてみた。
その答えは――――
「一切、会わない事」
――――深い、深い闇の中にあった。
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