しつこいようだけど、僕は自分を含むあらゆる人間の表情の差異がわからない。差異がわからない以上、比較も相対性も何もない。つまり、全くわからない。
 この時ばかりは、その自分の体質に感謝した。
 隼瀬さんがどんなつもりで、どんな気持ちでそう告げたか。
 それを知るのが恐ろしかったから。
「会わない……?」
「そう。お別れなんてしない。何もしない。それがベストよ」
 僕は少し、いや相当に油断していた。今日も含め、ここ数日彼女と交わした会話の殆どが和やかな空気の中にあった。怒りもまた、その範疇を逸脱するものじゃない。
 だけど今の隼瀬さんは、明らかに雰囲気を戻していた。出会ったばかりの頃に。
 戻したのは――――きっと僕だ。
「転校する人間が、どういう気持ちで転校すると思う?」
「それは……人によりけりじゃない?」
「その通りよ。大正解。友達が多いほど寂しい想いをするし、楽しい思い出が多いほど未練も残る。当たり前よね」
 隼瀬さんは普段通りの瞬きの頻度で、切々と語る。
「でも、寂しい想いが濃くても薄くても、未練があってもなくても、ハッキリ事実と言える事がある」
 彼女の経験則を。そして、内面を。
「そういう想いが転校先で役立つ事はない。絶対に」
 僕は――――思い違いをしていた。
 隼瀬さんは、僕が思っているよりずっと、厄介な人だった。
 そして同時に、僕よりもずっと苦しんできた人だった。
「新しい環境に身を投じるのに、古い記憶は邪魔なだけ。貴方も似た経験くらいしてるでしょ? 例えばクラス替えの時。違う教室になった前のクラスのお友達にばかり会いに行ってたら、新しいクラスにはいつまで経っても馴染めない。違う?」
 ……違わない。
 隼瀬さんは、こう言いたいんだ。
 シュウちゃんの今後の人生に、僕の見送りは不要だと。
 僕が一念発起して、感動的な別れを演出するのは、シュウちゃんの足を引っ張るだけだと。
 そしてそれは、野球部のお別れ会にも言える――――そう言いたいんだ。
「勿論、だからといって衣原さん、彼女が悪いとか、お別れ会をするなんてバカだとか、そういう事は思わないけど。でも、更科にだけは教えとく。転校生には、お別れ会は必要ないの」
「それは……」
 反射的に僕は『君の転校前の学校の生徒も、そういう配慮で会を開かなかったの?』と聞きそうになってしまった。
 当然、そんな訳がない。
 その容姿から沢山の妬み嫉みを買った彼女に、お別れ会を開こうと企画する友達がいなかっただけだろう。
 そして、彼女の容姿を慕っていた男子もまた、彼女が自分の恋人になる可能性が消えた時点で、彼女との接点をうち捨てた。
 隼瀬さんは、そういう苦しみをこれまで三度、味わってきたんだ。
 だからといって、それを一般論に拡大するのは無理がある。お別れ会に意味がないかどうかは、それもまた人それぞれだと僕は思う。でも、人それぞれって事は、隼瀬さんの言うように、却ってマイナスに働くリスクもあるって事だ。
 このリスクもまた、一ドットの不具合なんだろう。お別れ会を開くのに、誰もこんなリスクを頭に入れはしない。それが普通だ。普通の生き方だ。
 なら僕もそれに倣い、隼瀬さんの言うリスクを無視して、シュウちゃんとのお別れを自分なりの方法ですべきだ。例えば、今時あり得ないくらい臭い方法だけど、感謝の手紙を書いてそれを渡すとか。シュウちゃんが本当は猫好きなの知ってたよって明かすとか。握手するのもいいかもしれない。今ここで親友になろう、なんて言って。
 でもそれは――――本当に、いいお別れなんだろうか。
 わからなくなってきた。何が正しいのか、どうするべきなのか。
「私の言う事が信じられない?」
 僕の顔色を見てそう判断したのか、隼瀬さんは落ち着いた声でそう問いかけてくる。その声は、少しだけ、ほんの少しだけ震えていた。
「なら、更科にだけ見せてあげる。本当の私を」
「……?」
 本当の、私……?
 僕がその意味を理解する前に、隼瀬さんは行動で答えを示した。
 それは、流れるような所作だった。
 隼瀬さんは自分の目の右瞼を右手の中指で下げ、親指と人差し指で『目』を掴んだ。
 いや、あれは目じゃない。あれは――――
「本当は、ちゃんと手洗いしてから外すものなんだけどね。カラコンは」
 そう、コンタクトレンズだ。
 隼瀬さんは同じ所作で、左目のレンズも外した。
 そして――――
「どう? わかる? “違い”が」
 僕は一瞬、彼女がそう問いかける意味を履き違えた。
『コンタクトをしている状態』と『していない状態』の違いを指しているのかと思った。
 でも、どうしてコンタクトを、それもカラーコンタクトをしているのかという所まで考えが及んだ刹那、僕はその理由を思いつくより前に、視覚的にその答えを知った。
 知る事が出来た。
 何故ならそれは、顔全体としての表情じゃなく、『目』というパーツの明らかな差異だったからだ。
 瞬きの数がわかるのと同じような理屈。いや、時間差がない分更にわかりやすい差異だ。

 隼瀬さんの目は、黒目の部分――――虹彩の色が、右目と左目で違っていた。

 右の虹彩は黒みの強い茶色。ダークブラウンだ。
 一方、左目は……若干緑っぽくもある、薄い茶色。
 同じ茶色でも、全く色味が違う。
「“オッドアイ”って言葉、聞いた事ある?」
 隼瀬さんにそう問われ、僕は直ぐに頷いた。
 左右の目の色が違う状態。それをオッドアイという。犬や猫によく見られる。
 人間にもそういうケースがあるのは知っていた。だけど、それはかなり、いや相当稀な筈だ。
「カラコン付けてるの、衣原さんにはバレたみたい。でも、まさかこんな理由だとは思わないでしょうね」
 何処か投げやりな物言いで、隼瀬さんはそう呟いたのち――――僕にその二色の目を向ける。
「どう? 不気味でしょう?」
 そして、声のトーンを一つ上げ、そんな悲しい質問をしてきた。
 思えば、彼女はずっと目にこだわっていた。

『目の周囲の筋肉の動きでわかるの』
『わかるのよ。私を見ている目に感情が灯っているかどうかが』
『そのパーツパーツの区別は付くの? 目で言えば、吊り目とかタレ目とか』
『やっぱり、幾ら私でもこれだけ目を大きくすると不気味なのね』

 そして、瞬き。
 怒ると瞬きが多くなるあの癖は、コンタクトの影響だったのかもしれない。
「私は、私の顔が図抜けて綺麗だと思ってるし、確実に私以上に綺麗だって人がいないとさえ思ってる。実際、それと同じ意味の言葉を他人から何百回、何千回と聞かされてきた。でも、お笑いよね。このカラコンをしていなかったら、そんな私の顔よりも、この目の色の違いばかりを誰もが気にするの。本当、そんなものなのよ。人間って」
 その一言一言が、重くのし掛かってくる。
 今や彼女の言葉は、全てが真理に思えて仕方なかった。
「小学生になる前の私は、この目を不気味がられて友達はいなかったの。それで小学生になるのと当時にカラコンをしてみたら、今度は逆にやたら男子が寄ってくるようになったのよね。
 この時点でもうウンザリなんだけど、それ以上の事が中学に上がって直ぐの私に待ってた」
 吐き出すように、叩き付けるように隼瀬さんは過去の自分を断片的に語る。
 僕はそれをただ、黙って聞いていた。
「前に話した事があったと思うけど、私は担任の教師に教われそうになった事があるの。その時、もみ合いになってカラコンが外れたのよね。つまり、今この目と同じ状態になった訳。そしたらその教師、どうしたと思う?」
 想像するのは容易だった。でも、彼女の問いに答えるのは憚られた。
「悲鳴をあげて逃げていったの。バケモノを見るような目で」
 それは実に、わかりやすい説明だった。
 人間の醜い部分が凝縮されたエピソードだ。
 言葉は悪いけど、要するに不良品扱いされたのと同じだ。
 実際、彼女の目は一ドットの異分子どころじゃない。一目でそうとわかる、大きな異端だ。
 ならそれは、不具合なのだろうか?
 彼女は不良品なんだろうか?
 そう呼ぶのは、差別的だとの誹りを免れないだろう。非人道的だと罵られて当然の、言語道断の所業だ。だけど、そんな道徳的理念、倫理的観点を抜きにして語るならどうだ?

 ――――僕は今、とてつもなく恐ろしい領域に足を踏み入れてしまったんじゃないか?

「ねえ、それでもお別れ会は必要だと思う? 前の学校の思い出なんて、いると思う?」
 隼瀬さんが近付いて来る。両目を開けて近付いて来る。
 色の違う二つの虹彩を丸くして、近付いて来る。
「人それぞれ。そうよね。正しいんでしょう。そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。今の学校での思い出なんてさっさと忘れて、次の学校に行きたいかもしれないじゃない。それを無視して、お別れ会なんて開ける? 思い出を押しつけたり出来るの?」
 隼瀬さんの口調は、終始穏やかだった。
 大人びたその物言いも、今の彼女にはよく似合う。
 初対面時以降は影をひそめていたミステリアスな雰囲気が、ここにきて完全復活だ。
「押しつけるのは……よくない」
「わかった? だからお別れ会なんて百害あって一利なし。して貰えなくて寂しいとか悲しいとか思っても、そんなのは直ぐ忘れるんだから」
 何度も転校を経験してきた隼瀬さんならではの見解だった。
 一般的な感覚では、転校する生徒にお別れ会を開くのは当たり前。開かないと『なんで?』と思われるくらい、常識的な活動だ。だから、開かれる方、つまり転校生もきっと喜ぶだろう、いや喜んで当たり前と思ってたし、そんな大義名分もあるだろう。
 だけど、そうじゃない人もいる。いっぱいいるかもしれない。
 お別れ会を開く事で、より一層未練が残って、次の環境に馴染みにくくなるというのは、確かにあり得る。
 隼瀬さんの言うように、『お別れ』押しつける事になりかねない。
「ところで更科。私のこの目、どう思った?」
 あれこれ考えていた僕に、更なる追い打ちが仕掛けられる。
 隼瀬さんは更に一歩、前に近付いて来た。
「やっぱり、貴方にもこの目は不気味に見える?」
 そう問われるまでもなく、僕の視線はずっと彼女の両目に釘付けだった。
「遠慮しなくていいから、素直に答えて。不気味なら不気味ってハッキリと。そうじゃないと検証の意味がないから」
 検証――――今、隼瀬さんは確かにそう言った。
 言葉のアヤとは思えない。僕はずっと、彼女の掌の上で踊らされていたのかも。
 だとしたら――――

 なんて茶番だ。









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