安息日。
それは、宗教用語で言うところの『休まないといけない日』であって、日本人が一般的に仕事や学校を休む『休日』とは、根本的に意味が違うらしい。様々な事が禁止される安息日よりは、休日の方が遥かに過ごし易そうだけど、俺は偶に、その安息日って言うものに憧れを抱く事がある。
俺の仕事――――『ハカホリ』は、定期的に職場に言って、業務をこなすと言うタイプの仕事じゃない。だから、常時連絡待ち。常に携帯が繋がるようにしておかないと行けないし、例え仕事が入ってなくても、日中は可能な限り、直ぐ動けるように待機しておく必要がある。そんな日常を過ごしていると、一日中寝ていたい時だってある。特に、重労働で心身共に疲れた次の日は。
とは言え、それが俺の選んだ道。この事に関しては、今更とやかく言う気はないし、大した負担じゃない。安息日のような、強制的な休息を望むようになったのは、つい最近の事だ。
そして、俺から平穏な日常を奪った張本人――――標葉と言う珍しい苗字の、絶世の美女と呼んでも差し支えないその女は、今日も今日とて、俺の精神を揺さぶりに現れた。それはもう、ニッコリと微笑みながら。
自宅に。
「重大懸案が発生したのよ」
そして、第一声がそれと来た日には、温厚な俺も髪の毛を逆立てたい気分になる。実際にそれが出来れば、わかり易くこのやるせない思いを表現出来るんだろうけど。
「……どうして、俺の住処がわかった」
「細かい事は良いじゃない。それより、いたいけな女子をいつまで玄関口に立たせておく気? フェミニストの慣用的表現をこよなく愛する貴方らしくもない」
「人を勝手にホスト予備軍に仕立て上げるな! ってか、上がる気かよ!」
ちなみに、現在朝の六時。そして日曜。しかも、前日は校内マラソン大会の後に、墓リフォームの撤収作業を夜まで手伝ってたから、死ぬ程キツい。
そんな俺の事情などまるでお構いなしに、標葉はズカズカと部屋に上がりこんだ。この部屋に女子を入れるのは、初めての事。俺だって、この日に到るまで、そのXデーが来る事を期待していたし、それなりのシチュエーションを妄想し、夢見ていた。それが、こんな現実を用意されるとは。誕生日にモモンガをプレゼントされたような気分だ。この上なく扱いに困る。
「全く……狭い上に何も面白いモノがない部屋ね。健全な男なら、テラ単位でいかがわしい動画を網羅したHDDくらい置いておきなさいよ」
そして、最低限の物しかない俺の部屋を非難し始めた。尚、ここは『精霊苑』と言う、家賃の安さと難アリな大家が売りのアパート。その『303』号室が、俺の数年来の根城だ。
「で、何の用だよ。言っとくけど、もうお前のヘンテコな活動に付き合う気はねーぞ」
数日前の一件を思い出し、重い瞼が更に重くなる。
墓が墓でなくなる『ハカナシ』現象から墓を守る、一種の墓守のような存在のこの女と初めて遭遇したのは、二週間前の事。以降、既に二度の『重大懸案』とやらに付き合わされている。しかも、二件目に関しては『ハカホリ』活動とは全く関係ない、ただの雑用だった日には、良い加減温厚な俺も、怒髪天を衝く自分を想像するってもんだ。
「随分ツンツンしてるのね。まだ先日の件を怒ってるの?」
「や、全然怒ってないですよ? 逃げる俺をひっ掴まえて引きずるように墓地に連れて行った挙句、何させるのかと思いきや、鳥のフンの処理なんかやらせた事なんか、もう忘れましたよ?」
「思いっきり覚えてるじゃない。狭量ね。墓掃除なんて、貴方の仕事の一環でしょう?」
「仕事ってのは報酬があって初めて成立すんだよ! お前が強要したのはボランティアだ!」
まだ重い身体を戦慄かせ吠える俺に対し、標葉はすまし顔で寛ぎ始めた。
「前回のあれは、ちょっと一緒にいたくなったからテキトーな理由で誘っただけ。今回はちゃんとした懸案だから、ちゃんと聞きなさい」
「何がテキトーだ、ったく……ん?」
今サラッとヘンな事言わなかったか、コイツ。
「また、『ハカナシ』になりそうな墓が見つかったのよ」
俺の思案のブレーキを無視し、標葉はそんな事を言って来た。
墓ではなくなる墓――――『ハカナシ』。長い間お参りをする人がいない墓は、そうなると言う。ただ、それだけが原因じゃなく、複合的な要因がそうさせている、らしい。それらの要因が重なって、意味を失いつつある墓が見つかった、って事だ。もし、また水谷家の件みたいな事が起こるって言うなら、確かに重大懸案なのかもしれない。
「場所は?」
思わずそう聞いた瞬間、俺は標葉の邪悪な笑みと、『後悔』の二文字を、ほぼ同時に認識した。
「……どうして俺は、こんな日曜の早朝に、こんな場所にいるんだろう」
俺の心の底から搾り出した疑問に対し――――墓の前で仁王立ちする標葉は、やたら眠そうな目を向け、欠伸などしていた。
「文句言わないの。私だって眠いんだから」
「まるで俺とお前が同じ立場みたいな言い方だな。俺はお前に無理矢理叩き起こされた口だぞ」
苛々が募る。ストレスは万病の元だってのに。
「何? 私と一緒にいるのは嫌なの?」
佳人はいと楽しげに、そんな事を言う。正直、知り合って間もない、しかもこんな美人の女にこんな事を言われれば、流石に動揺はしてしまう。とは言え、それを表面に出すのは癪だ。
「はっきり言って、家でゆっくり惰眠を貪るのとは雲泥の差だ」
これは強がり、ってワケじゃない。割と本音だ。
「ふーん……別に良いけど」
そう言いつつ、明らかに標葉は語勢を弱め、まるでガッカリしたかのような演出を施していた。演技とわかるくらいの過剰さがポイントだ。こんな風に俺をからかって、何が楽しいんだろう。純朴な高校生男子を弄ぶのが趣味なのか? 性格の悪さは知ってるが、そこまで歪んでるとなると、少々看過し難いものがある。説教は苦手だけど、ここで俺がガツンと言わんと、この女の性悪は一生治らないんじゃないだろうか。
「前々から思ってたけど、お前のその人をからかう癖は直した方がいい。人として破綻するぞ」
「そんな事より、この墓を見て。重大懸案間違いなしよ」
俺のなけなしの良心は、風に飛ばされるタンポポの綿毛のように、遥か遠くへ飛んで行った。当然、そこに種なんて付いてない。不毛な綿毛。なんて矛盾だ。
「……で、今回はどんな厄介事なんだ」
諦観の念を抱きつつ、問う。そんな俺の様子に満足したのか、標葉は口角が歪む寸前まで口の端を釣り上げ、目の前の墓石をビシッと指差した。相変わらず、表情に暇がない奴だ。
「例によって、消失しかけの墓なんだけど、随分と妙な事になってるのよ。ここを見て」
そう言葉を連ね、標葉が指差した先は――――墓石じゃなく、花立だった。
ここは【レクイエムガーデン 紫苑の森】。美しい緑に囲まれた、近代的な霊園だ。景観の美しさ、どこかヨーロッパの庭園を思わせるような洒落た雰囲気が受け、人気の霊園となっている。割と高齢層の方も、こう言った洋風の霊園を望む人は多いそうだ。自分が眠るにしても、家族が眠るにしても、やっぱりその場所は美しくあって欲しい。そんな願いがあるんだろう。
水谷家がそうであったように。
……俺が、そうであるように。
で、その霊園の一角にあるこの墓――――『天野家』の墓の花立にどんな問題があるのかと言うと。それは、一目でわかる程に明瞭だった。
通常、花立は墓石中央の水鉢を軸とし、その左右に配置する。要するに、墓石の両サイドに対して作るって事だ。墓石は予め花立用の台座、或いは筒や径を作っていて、そこに筒状の花立を置き、そこに花を立てる。この『天野家』の墓にも、花立はあるにはあった。
ただし、一つだけ。
別個用意してある筒が一つしかない、って訳じゃない。最初から、台が一つしか作られていない。正面から見て左側に一つあるのみ。これは、ちょっとあり得ない。
「確かに妙だ。こんな作り方をする必然性がない」
「でしょう? かなりの稀有ケースよ。ここまで連れて来た私に感謝なさい」
驚いている俺の様子に、標葉は心底嬉しそうに胸を張った。ちなみに、そんな標葉の胸のサイズはと言うと、多分標準サイズ。どれくらいが標準なのかと問われると、回答に困るけど。
「……何か癪に障る妄想をしなかった?」
「そんな訳がない。何を根拠に……ははははは」
俺は空笑いしつつ、視線を虚空に向けた。そして思案。何故、この墓には花立用の台座が一つしかないのか。
…………わっかんね。
全然理由が見えて来ない。予算の都合って言うなら、最初から台座じゃなく径にでもすればいい。それ以外で、わざわざ二つセットの物を一つにする必要性がない。
「一応聞くけど……お前は、どう思う?」
水谷家での経験上、一切の期待は持てないものの、聞いてみる。
「……アシンメトリーが好み、とか」
「真面目に考えろよ。埋めるぞ」
「私は大真面目よ。埋められるものなら埋めてみなさい。片手だけで蘇って、一生右足を掴んでやるから」
「その呪いは本気で遠慮願いたい」
尚、俺は決して、個人的な恨みで標葉の案を一蹴した訳じゃない。天野家の墓石は、比較的新しいものの、そんなデザイン重視の墓石って感じじゃない。左右非対称なんてセオリー破りな墓を作るデザイナーが設計したとは思えない。
「で、この墓も、長期に亘って御参りされてないのか?」
「いえ。履歴によると、最後に手を合わせに身内が訪れたのは、半年ほど前」
全然、昔の事じゃない。それなのに、もう墓じゃなくなりつつあるのか……?
って言うか、その前に一つ、気になる言葉が出てきた。
「履歴、って何だ? お前、その墓の履歴が視えてんの?」
「ええ。西暦何年の何月何日、誰某が訪れた、と言う履歴が、私には視える。ただし、具体的に誰って言うのはわからないの。男女の区別すらね」
人物の特定は出来ない、って事か。
「その履歴が視える能力ってのが、お前の『ハカホリ』としての能力なのか」
「そう。墓の記録、すなわち履歴が視える。それが私の持つ個性。そして、それを使って『ハカナシ』となる危機が迫っている墓を見つけて、阻止する。それが私の……」
標葉はそこまで淀みなく言い切り、突然言葉を模索し始めた。そしてその結果――――黙り込んだ。それが何を意味するのか、俺にはわからない。仕事なのか、使命なのか。或いは暇潰しなのか。いずれにしても、巻き込まれている俺にとっては迷惑な能力でしかない。
「で、その履歴とやらでは問題ないんだろ? どうして消えかけてるってわかるんだよ」
「『ハカナシ』に近付くと、履歴の文字が薄くなるのよ。ぼんやりと。溶けるみたいに」
命の蝋燭が溶けてなくなるみたいに、か。随分と面妖な能力だ。
「前にも言ったけど、墓の消失を呼び起こすのは、様々な事象の積み重なり。その中で、お墓参りの頻度は一番大きな要因ってだけ。きっと他に理由があるのよ」
「水谷家の時とは違って、ちゃんと墓石に家名も彫ってるしなあ」
「ええ。だから、貴方を呼んだのよ。理由を探して。今直ぐ探して。早く」
標葉は真剣な顔で急かし始めた。どうやら、『墓捕吏』としての活動は、趣味でやってる訳じゃないらしい。前に言ってた口ぶりからすると、代々伝わる家業なのかもしれない。だからと言って、他人の俺に丸投げした上でせっつくのが正当化される訳じゃないけど。
「……この、花立が一つしかない所が明らかに怪しいんだけど、どうなんだ?」
「当然、それも考えてはみたのよ。でも、花を添えない場合でも大したマイナス査定にはならないのに、一つしか花立用の台座がない事で、そこまで深刻な問題になるとは思えないのよね」
その辺は、俺には何とも言えない。ただ――――これまでの経験から考えると、墓にとって深刻なマイナス査定になるのは、どうやら『その墓へと現世との繋がりが絶たれた状況』が生まれたケースだ。名前を記していない骨壷も、長年墓参りに来ないのも、この世界と墓との繋がりが欠ける事象だと、俺は思っている。その結果、死者とその家系も、この世との繋がりを失う――――そう解釈していた。そう考えると、花立が一つしかないってのは、あくまでも構造的な特徴、若しくは欠陥であり、標葉の言う通り、然程問題視されない気がする。とは言え、それ以外に目立った問題がないのも事実。仮に骨壷に問題があるとしても、墓石が健常なら問題はない筈だし。
「と言う訳で、手詰まりだ」
「本当に役立たずの甲斐性なしね。悲愴な将来を嘆きなさい。きっと、鈍器のような解凍マグロで殴られて死ぬのよ」
何故にそこまで言われなきゃならないんだ……自分の方が役立たずの癖して。
「君達、ちょっと良いかな?」
憤怒に身を焦がす最中、男の声で水を差される。振り向くと――――そこには、神父の格好をした人物が立っていた。
ここらの神父とは大概、仕事で顔を合わせてるんだけど、この神父は見た事がない。そして、スータンで実を包むその男、外見年齢はかなり若い。20代かもしれない、ってくらい。頭には、ニット帽なんて被っている。普通はあり得ない。ニット帽の神父なんて。
ちなみに、神父ってのは司祭の一般的な呼称であり、キリスト教のカトリックにおける聖職の一つ。その全国的な平均年齢は、確か60歳くらい。いかに、若い神父が珍しいかがわかるデータだ。
そんな神父に、標葉は怪訝な表情を向けていた。
「あー、やっぱり百合だったか。一応、危機には気付いたみたいだな。感心感心。かっかっか」
「……どうしてここに貴方がいるのよ」
なんだ? 知り合い……みたいだな。
「相変わらず、つれない奴だねー。仮にも兄に対して言う言葉かい? お兄ちゃん悲しくなっちゃうよ。昔から、お前は口悪かったよなー」
「煩い。余計な話はしないで」
いつも攻撃的な標葉だけど、俺に向ける攻撃性とは明らかに違う。兄……って言ったな。実兄なんだろうか。確かに、よく見ると似てる。かなりの美形だ。羨ましくなんか……ないやい。
「ようやく、助祭から司祭にランクアップしてさー。この地域の担当になったんだよ。そう怒りなさんな。これから兄妹仲良く、協力して行こうじゃないの」
「ふざけないで!」
珍しく――――いや、俺が見ている中では初めてかもしれない。標葉は声を荒げ、兄と名乗る神父を睨みつけた。これまでの、常に飄々とした態度とはまるで違う一面。少し驚いた。
「……あれ? 君、百合の彼氏?」
「断じて違います」
そこでようやく、俺の方に視線を向けて来る。
「ふーん……俺がいない間に、結構オモシロい事になってんのね」
「良いから、早く消えて。同じ場所で空気を吸いたくないの」
「随分な言われようだね……でもま、俺も仕事なんで。悪ぃけど、ちょっと我慢してちょ」
かなり軽い口調で半笑いを浮かべ、標葉兄はひょいと墓の敷居を跨いだ。そして、俺と標葉を掻き分けるように、墓石の前に立つ。
「ありゃりゃ……こりゃマズいな。とっとと清めましょっか」
そして、そんな事を呟き――――スータンのポケットから、水の入ったビンを取り出した。一目で聖水容器だとわかる。
「えーと。主よ、みもとに召された人々に、永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。アーメン」
そして、その容器を手に、『死者のための祈り』を唱え始めた。
キリスト教カトリックにおいて、死者を前に祈る際、大抵はこの『死者のための祈り』の一節を神父が口にする。ただ、大抵の神父は、割とたどたどしかったり、聖書を見ながら朗読するんで、余りありがたみは感じない。
が――――この男は、スラスラと言い淀みなく唱え続けている。完全に暗記しているからこそ、出来る事。本来、神父はこうあるべきと言う姿だ。
「……と、ここまでで良いかね。んじゃ、清めまーす」
ただ、それ以外はやたら軽薄な語調に終始し、容器の中身を墓石へ無造作に振りかけていた。
「はい、完了。んじゃ百合、あらためて今度食事でもしような。お兄ちゃん、お前がどれくらい成長したのか知りたいしー。くふふ」
その台詞は、何故か俺を見ながらのものだった。
「早く消えて!」
「へいへい。んじゃ、またな」
そして、去り際のその台詞もまた、俺を見ながら呟いた。意味がわからない。
「……」
まるで獲物を逃がした肉食動物のような顔で、標葉は神父の背中を睨みつけている。あんまり、他所の家庭の事に首を突っ込む事はしたくないけど……なんとなく、俺が口を開かないと、標葉は動き出しそうにない。
「……あれ、お前の兄貴なのか?」
「ええ。自慢の、ね」
意外にも、標葉は表情とは全く裏腹な、そんな言葉を吐いて来た。そして、今度は墓石の方を睨みつけ、その場にしゃがみ込み、地面に手を置く。墓地の履歴を見ているみたいだ。
「……もうここに用はない」
そして、苦虫を擦り切るように、そう呟いた。
「何?」
「復活してる」
「……は?」
どう言う事だ?
考えられるのは――――さっきの標葉兄の『祈り』。あれが、この墓を重大な危機から救った?
「とっとと帰りましょう。気分悪いから、早く寝たいし」
俺の考えが纏まらない中、標葉は何かを諦めるかのように漏らし、一足先に墓から出て行った。ちなみに、ここには例によって自転車で来ている。俺はすっかり、標葉の足代わりになっている。この関係性は、客観的に見るとかなり辛い。
「先に駐車場に行ってろ。俺はちょっとやる事あるから」
そんな標葉に対し一声掛け、その反応を待つ事もなく、俺は『天野家』の墓に背を向けた。そして、そこから少し離れた別の墓まで移動する。この霊園には仕事で何度も来ているけど、それよりも遥かに多い回数、別の用件で訪れている。
俺の目の前には――――『石神家』と記された墓石が、これまでと何ら変わりなく、ひっそりと聳え立っていた。
その墓石の前でしゃがみ、じっと眺める。墓石に汚れが付いていないかの確認。そして――――会話。ただ、それは死者との会話じゃない。俺の記憶の中の両親との会話だ。
「ゴメンな。由香はまだ、見つからないよ」
記憶の中にいる両親は、墓石と同じで、いつ会っても変わらない。俺の言葉に応える事なく、微笑む事もなく、ただ漠然と、そこにいる。日常の何頁目を切り取ったのか、まるでわからないような、ありふれた顔で。
「でも、必ず見つけて、ここに連れて来るから。待ってて」
もう何度目なのかわからない、その決意表明を口にした瞬間、腰を上げる。これも、通例になっていた。
さて。標葉を待たせる事に罪悪感なんて欠片もないけど、また頭の上からブツブツ呪詛を唱えられるのも癪だ。早いトコ、駐車場へ向かおう――――
「あの、すいません」
――――とした、刹那。俺の背後から、女性の声が聞こえて来る。標葉の声じゃない。もっとトーンが低い。
墓地で他人から話しかけられると言うのは、結構不気味……と言うと聞こえは悪いけど、平常心ではいられなくなるもの。少し鼓動が早まる中、振り向いてみる。
そこには――――年上と思しき女性の、疲労しきった顔があった。
「不躾なのは承知で……一つ、お願いを聞いて頂けないでしょうか」
「え、ええ。何でしょう」
戸惑う俺に、その女性は俯きながら――――
「まず、家の墓を見て頂けないでしょうか。そして……その墓を、説明して欲しいんです」
そんな、妙なお願いをしてきた。
人間が死ぬと言う事は、酷く当たり前の事でもある。『ありふれている』という表現が、果たしてどの程度の頻度に対して適用されるのかは知らないけど、希少価値の高い出来事じゃない事は確かだ。それでも、死と言うものは常に特別。誰もが経験する事は出来るけど、一度として実感出来ない、永遠の未知の領域。だからこそ、恐怖の対象になる。
こう言う仕事をしていると、嫌でも『死』と向き合う事になるんだけど、中にはその『死』を匂わす人と接する機会もある。そして、その死を寸前に迎えた人と言うのは――――例外なく、一種異様とも言える、独特の空気を持っている。何処か、壊れかけた機械のように、不安定な挙動に揺れている目。
それが今、俺の視界に映っている。
「それじゃ……また来るから」
そう告げた俺の隣の女性に、病室のベッドで横たわったままの老人は答えるでもなく、ただ静かに、目だけを動かして辺りをキョロキョロと見回していた。首が動かない以上、視界に広がりは殆どない筈だけど――――キョロキョロしていた。
「……すいませんでした。お見苦しい所を見せてしまって」
廊下に出ると直ぐ、女性が俺に謝ってくる。その表情には、謝罪の心とは別の感情が浮かんでるような気がした。
彼女の名は、永井柚葉。おそらく俺より十くらい年上の、艶やかな大人の女の人だ。少し色付いた長い髪の毛と、唇のすぐ傍にある黒子が特徴的な、世間一般で言う所の『お美しい』お姉さんと言った風貌……の筈なんだけど、その目の下には隈を作っていて、頬や唇の血色も余り良くない。ファンデーションや口紅も、ナチュラルメイクとさえ言えないくらい薄く、完全におざなりになっている。この年齢の女性としては、あり得ない事だ。
それくらい――――永井さんは、参っているように見えた。
「今日はありがとうございました。わざわざ病院までお越し下さって。お陰で、父もある程度は理解出来たと思います」
力ない言葉が、宙を漂う。
俺がこの【レクイエムガーデン 紫苑の森】の近所にある病院へ訪れた理由――――それは、永井さんの父親に『墓』の説明をする為だ。
偶然にも、永井家の墓は、花立が一つしかないあの『天野家』の墓の隣にあった。その、永井家の墓――――つまり、彼女の父親も眠る事になるであろうその墓に関して、解説をするよう依頼されたって事になる。
俺がそんな大役を仰せ付かった理由は、一応ある。永井さんは、一度俺が仕事で【レクイエムガーデン 紫苑の森】を訪れ、作業している姿を見ていたらしい。そして、墓に関して詳しい人だと判断し、偶々見かけた今日このタイミングで依頼をした……との事。
『父に、家のお墓の事を説明して欲しい』
最初にそう言われた時は、流石に首を捻らざるを得なかった。どうも俺は、墓場で妙な要求をされる技術に長けているらしい。この世で一番不必要な技術だと思うが。
で、そんな妙な依頼を引き受けた理由は、実際に墓の事に関しての知識はある程度有してるから――――だけじゃない。今後顧客となる可能性のある相手に対して、その可能性を潰すような行為をするのは、仕事人として最低最悪な事。例え徒労に終わったとしても、このスタンスを変える訳には行かない。
ちなみに、何故その説明を行うのかと言う理由は、まだ聞かされていない。俺から聞く事もしない。それも、最低限の礼儀だ。
「あの……」
自分の行動を正当化しながら歩く俺に、永井さんが悲愴な声で話しかけてくる。まるで幽霊……と言うのは、流石に失礼か。そんな、顔色の良くない永井さんは、カバンから茶封筒を一つ取り出し、両手でそれを掲げてきた。
「これは御礼です。どうぞお受け取りください」
「いや、それは受け取れませんよ。説明しただけですから」
依頼ではあったけど、たかが十分余り病人に対して話をするだけで金銭は受け取れない。
「でも、そう言う訳には……貴重な時間を頂いておきながら何もなし、と言う訳には」
「気にしないで下さい。えっと、もし、お墓を作り直したり、手直ししたりする事があれば、その時は声を掛けて下さい。それで十分です」
これも営業活動の一環。そう思えば、日曜の朝を費やした一連の行動も、無駄じゃなかったと思える。
一連の行動――――
「……げ」
それが標葉の訪問に起因していた事を思い出したのと同時に、その標葉を駐車場で待たせている事も思い出し、俺は自分の顔が蒼褪めて行くのを自覚した。
「あの、何か問題が……? 急激に顔色が悪くなったようです」
「い、いえ、何でもないんです、何でも。えっと、兎に角それは受け取れないんで。それじゃ!」
俺は不審がる永井さんに一礼し、走る事を許されない病院内を競歩の気分で移動しながら、言い訳を幾つか準備した。
「……ふぅ」
翌日。天候は良好だったけれど、気分は晴れない。
基本的に、仕事で忙しい日や、何かしらの理由で早くに目が覚めた日は、登校前に由香のいる父実家跡地を訪れ、日課をこなすようにしている。不慮の事態で来れない可能性もあるから、平日は極力この時間を使うようにしてるんだけど……今日も結局、掘り起こす事は出来なかった。ただ、それだけが憂鬱の原因じゃない。
「また来るよ、由香」
心の中でそう呟き、作業服から学生服へと着替え、学校へと向かう。
「おいコラ、石神。今日こそ吐けよ。お前、あの標葉さんと一体どう言う関係なんだよ?」
「そうだよぉ。あのお淑やかな標葉さんから本気で追いかけられるなんて、ちょっと考えられない事だよ。どんな弱み握ったの?」
登校直後、早速その要因の一つが襲撃して来た。
あの日――――標葉がこの教室にズカズカと入り込んて来た日から、俺は毎日のように、こんな詰問を受けている。しかも、こいつ等以外のクラスメートの視線を浴びる機会も極端に増えた。こっちを見ながらコソコソ話をしてる連中がやけに目に付く状態は、精神衛生上かなり宜しくない。唯でさえ、学校に黙ってバイトしている身としては、目立つのは御法度だってのに……最悪だ。
「……だから、何度も言ってんだろ。人違いだったんだよ」
咄嗟に余り良い案が浮かばなかったんで、そう言う事にしてるけど――――流石に説得力に欠けるらしく、二人は全然納得してくれない。結果、状況も変わらない。
「ンなワケねーだろ。お前だって知ってる風で話してたじゃんか。なあ、どうなんだよ。俺は生き別れの妹の方に300円賭けてんだぞ?」
「知るか。つーか、同級生なのに妹って……その時点でおかしいだろ」
「年子で同級生って、結構いるらしいぜ?」
三宅案には、双子と言う可能性は全く考慮されていないらしい。まあ、あの顔が相手じゃ仕方ないけど。
「ちなみに僕は、『標葉さんの飼ってる白い小型犬を石神が蹴った』に賭けてるんだけど」
「鬼畜か俺は」
……そもそも、白い犬を飼ってるって所、完全に妄想だろ。
蚊も殺せないような顔をしてるこの左京って言う男、実はかなりの危険人物。このように、日常会話の中にごく自然に自分の妄想を盛り込んでくる。将来ストーカーになるだけなら。まだ良い。妄想で人を殺せる秘密道具を開発しかねないくらい、末期な奴。困ったもんだ。
「で、どうなんだよ? いい加減言えよ。友達だろ、俺ら。隠し事はなしにしよーぜ。俺だって昨日『中学までかーちゃんの二の腕に頬ずりしたままじゃないと眠れなかった』って暴露しただろ」
「ああ、あの誰も得しないカミングアウトか」
「マザコンってさぁ、イケメン以外にとっては最低のステータスだよねぇ」
左京の尤もな意見に、三宅はぐぬぬと顔をしかめた。
こいつ等とのバカ話は割と精神安定剤の意味合いがあるんだけど、標葉の話題に関しては、そうもいかない。台風が去るのを待つような心境で、話の流れが変わるのを待つ。
「石神ーっ! 女子がお前に会いに来てるぞーっ!」
けれど――――期待は無情にも裏切られ、寧ろ更に追い討ちをかけるように、そんな馬鹿でかい声が教室にこだました。俺はと言うと、思わず頭を抱えながら机に突っ伏している。不幸ってのは連鎖するってよく言うけど、どうやら正解らしい。
「おいおい、また標葉さんか?」
「いや、違うみたいだ。ちょっと待って、確認する」
左京のそんな声に、思わず顔を上げる。
……標葉じゃないのか? 悲しい哉、他に女子の知り合いなんていない筈だけど――――
「あれは……隣のクラスの水谷さんだねぇ」
が、左京の言葉に俺は直ぐ納得した。以前、墓の建て替えの仕事、そして例の『数時間の消失』で関わった水谷家の娘。遅れて振り向くと、入り口に立っているのは確かにその子だった。
「ど、どう言う事だよ。あの子も可愛いじゃねーか。おい、どう言う事だよ。どう言う事だよ!」
「泣かれてもな」
「僕も泣きたいよ……こんなに石神が女子と、それも可愛い女子と絡むなんて、ちょっとおかしいよ。考えられないよぉ」
三宅が男泣きする中、左京に到っては、ガクガク震え出した。ただの仕事繋がりなんだけど……ま、別に弁解するほどの事でもない。そもそも、コイツ等に仕事の事は言えないしな。
さて、取り敢えず待たせても仕方ない、って訳で起立&移動。さっき俺を呼んだ男子とは、特に仲良しでも険悪でもない仲なんだが、すれ違い様にあからさまな笑顔で親指を立て、それを下に向けられた。
なんか俺、ここ数日で一気に嫌われ者になってるような……
「あの、ご無沙汰しています」
胃痛を引きずるような顔になってると推測される俺に、水谷さんはペコリと一礼してみせる。礼儀正しく、物腰柔らかな女子。それが、この女子に対する俺の第一印象。それは今も全く変わらない。
「えっと……ちょっと場所変えようか」
「あ、はい」
背後からの視線が痛かったんで、ちょっくら場所移動。人気のない場所は……保健室かな。この学校の保険医、徘徊癖でもあるのか、あんまりいないんだよな。学校自体に。
ま、そのお陰で保健室は当初、不良の溜まり場みたいになってたんだけど、そこでケンカになって薬品零して、その薬品が何故か化学の実験で使う王水だったってんで、えらい騒ぎになって、それ以降殆ど生徒の出入りがなくなっている。そんな部屋に女子を連れ込むのはどうかと思ったが、これ以上冷ややかな目でクラスメートから見られるよりはマシだ。
と言う訳で、入室。相変わらず、適度に机の上が散らかっている。
「ゴメンな、わざわざこんなトコまで引っ張ってきて」
「いえ。私もその、恥ずかしかったから……丁度良かったです」
素直だ。しかも可愛い! 何処かの校内NO.1美少女とは大違いだ。
「あの、実は石神君にお願いがあって」
「お願い? 墓の事に関しては、又兵衛……光吉さんに直接言ってくれて良いんだけどな。一応、あの石材店はアフターサービスしっかりやってるから」
「いえ、そうではなくて」
水谷さんはフルフルと小さく首を振った。今時珍しいな、こう言う女子。男の腐った理想を具現化しているかのようだ。
「今度の日曜、お墓の完成をお祝いして、家でバーベキューをするんですけど、もし良かったら参加して頂けないかな、って思って」
「バーベキュー? 従業員を全員呼んで?」
「いえ。私達の家族だけで……って思ってたんですけど、それだと少し寂しいね、って言う話になって、それで、その」
視線が俺に向けられる。つまり――――俺だけ特別招待、って事らしい。そりゃ、光栄な話だ。とは言え、同時におかしな話でもある。
「やー、俺、そんな貢献してないしな。墓石作ったのは又兵衛さんとその奥さんだから、そっちを招待してやってよ。焼酎用意すれば泣いて喜ぶと思うよ、あの人」
「実は、【光吉石材店】の方にも大変お世話になったので、もうお酒とお茶を贈ったんです。建碑式の時に。でも、石神君にだけ何もしていないので……」
「いや、ホントに俺、大した事してないし。ちゃんと報酬も貰ってるから」
墓に関する仕事をしていると、報酬以外に色々な物を貰う事がある。
最近では作業中に差し入れを持ってくる習慣は減ったみたいだけど、それでも作業が終わった頃合や、仕事が完了した直後、わざわざお越しになる人達はいる。いわゆる『お神酒』と言う風習にちなんで、お酒を渡す家庭も多いけど、俺の場合未成年なんで、弁当屋やお茶菓子ってパターンが多い。ただ、仕事が全て終わって、暫く経った後に贈り物……ってのは稀だ。
つーか、本音を言わせて貰えば、幾ら可愛い女子とは言え、大して面識のない人達の家に招かれてバーベキューなんて、居心地悪そうでちょっと遠慮したい。更に胃が痛くなりそうだ。
「そんなコトありません!」
でも、俺のそんな悲痛な願いを全く察知してくれず、水谷さんは力説を始めた。
「お墓を掘り出す作業は、スゴく大変だって、光吉石材店の御爺さんも言ってました。重労働かつ繊細な作業だから、身体も心も疲れる難しい仕事だって。でも、アイツの仕事は丁寧でしっかりしてるから、骨は全然痛んでない筈だって」
「え……そんな事言ってた?」
「はい」
なんとまあ……又兵衛さん、俺の事をそんなに買ってくれてたのか。普段、そんな事口にする人じゃないからなあ。正直、かなり嬉しい。
「そんな仕事をしてくれた人に、何もなしと言うのは、私達の気が済みません。それに……石神君には、それ以上の何かをして貰ったような気がするんです。とても、本当にとても助けられたような、そんな気が……」
水谷さんが、まるで呪文でも唱えているかのような物言いで、そう告げてくる。
まさか、あの消失事件の記憶があるのか? 覚えてる、って訳じゃないだろうけど、感覚的な何かが残ってるのかもしれない。いや、その辺は標葉に聞かないとわからないけど。
「だから、お願いします。お父さんも会いたいって言ってますし」
「うーん……でも、大抵休みの日は仕事入ってるからさ。ちょっと無理」
それでも、俺はNGを出した。心苦しくはあるが、これは嘘でも何でもない。今のところ、その日に仕事は入ってないけど、空けておく必要はある。いつでも仕事を入れられるように。
「そうですか……わかりました」
「ご両親には宜しく言っておいてよ。後、出来ればだけど……俺が仕事してる事、口外しないで貰えると助かる。学校では禁止になってるからさ」
「あ、はい。それはもう。恩を仇で返すような事はしませんから」
取り敢えず、一安心。今度一回、時間がある時にでも、水谷家に挨拶に行くとしよう。それで義理は果たせる筈だ。
「二人だけのヒミツ、ですね」
「……へ?」
考え事をしている最中、水谷さんはポツリとそんな事を言って、慌てるように保健室から出て行った。
……可愛い子だな。
「可愛い子ね。今時珍しいくらい」
「どわっ!」
いきなりの背後からの女声。これで驚くなと言う方が無理だ。
そして、その声の主は、振り返るまでもなくわかった。
「標葉? お前……何でこんなトコにいるんだよ」
「ここは保健室。具合が悪くて眠っている生徒がいる事に何の不思議があるっての?」
寝起きなのか、俺達が起こしてしまったのか。標葉はベッドを囲むカーテンを開き、かなり不機嫌そうな顔を露見させた。困った事に、その顔も異様に美しい。
「……まさか保健室で寝てて、音声だけのラブコメを聞かされるハメになるなんてね。不愉快極まりないって言うのは、こう言うコトを言うんでしょう。ドラマCDって何が面白いのかまるでわからないけど、これで更にその持論が確立された気分」
「ラブコメ演じた記憶もねーし、お前の趣味嗜好も知ったこっちゃねーよ」
「ああ言う子がタイプって言う男、多いものね。お淑やかって言うか、清楚って言うか」
標葉は俺の発言など聞いちゃいないのか、勝手に話し続けている。
「つーか、お前だってそう言うイメージ持たれてるだろ? 少なくともこの学校の中では。なんで猫被ってんだ?」
標葉の校内における評判は、概ね『大人しい』、『優しい』、『繊細』と言う類のもの――――と言うのは三宅の弁。実際、この女が他の女子と話している姿を見た事があるが、俺と対峙する時とはまるで違い、やけに温和な顔をしている。つまり、別人格を演じてるって事だ。今の姿が演技って事は流石にないだろうしな。
「知ってる?」
ジト目の俺に、標葉は特に語調を変える事なく、サラッと話し出す。
「この学校で一番同性に嫌われてる女子の名前」
そんな、空恐ろしい言葉を。
一瞬、水谷さんの名前が浮かぶ。ああ言うタイプは、異性受けがいい一方で、同性受けは悪い。ただ、この話の流れで彼女が出てくる事はない、と俺は判断した。
「多分、標葉って苗字なんじゃないか。そいつ」
「御名答。そう言えば、名前はまだ言ってなかったのね。標葉百合。どう? 皮肉でしょ?」
その意味を直ぐに理解した俺は、中々の俗物なんだろう。
「この学校の裏サイトで、不人気投票をしたらしいのよ。で、その一位が私。ダントツだったみたいね」
「そんな悪趣味な投票、誰が得するんだ……」
頭を抱えたくなるような事実に、俺は嘆息を禁じえない。
そもそも、クラスメートと友達以外は同級生でも顔を合わせる機会が殆どない中で、ダントツの票を集めるって言うのは、言うなれば有名人だからこそ成せる業。
つまり――――
「お前に票を入れた殆どの女子は、お前と会話すら交わした事ない連中なんだろうな」
「でしょうね」
それだけ、標葉には嫌われる理由がある。
妬み。
この美貌は、どんな場所にいてもそれを誘発する。
「子供の頃からずっと、そうやって生きてきたから。何処の誰かも知らない人を敵にするって言うのは、それはもう奇妙なものよ」
俺には一生実感の出来ない事なんだろうな――――と、標葉の言葉を聞きながら、もう一度息を落とす。 顔が良いからと言って、全てに恵まれる訳じゃない。突出しすぎれば、嫌でも釘を打たれる。それが集団と言うものだ。
「それでも、自分の目の前で悪態を吐かれさえしなければ、それなりに健全に生活出来るんだって気付いたのは、小学校低学年の頃。それ以来、ずーっと私は化け猫みたいなものよ」
標葉は――――その時、これまで見せた事のない顔をした。憂いなのか。自嘲なのか。或いは、諦念か。俺は、その標葉の表情を表現出来る語彙を持ち合わせていなかった。
「……私の事、嫌いでしょう?」
かと思えば――――今度は突如、小悪魔の顔を俺に向ける。いきなりなんて事言い出すんだ、コイツは。とは言え、嘘を吐いても仕方ないし、その理由もない。
「ま、そうだな。少なくとも性格的に合わない」
正直に、目の前にいる人を嫌いだと認める。一生の内、そんな事をする経験が果たして何度あるだろう。この先、二度とない事かもしれない。
「でしょうね。私が駐車場で待っている事を忘れて、長々と用事に勤しんでいるくらいだもの」
「いや、あれは本当、ゴメンなさい……って、昨日100回くらい謝ったんだけど。まだ足りませんか」
「ま、それは兎も角」
標葉は底意地の悪そうな笑みを浮かべ、脱いでいた上履きを履き、俺の横を通り過ぎていく。
「私は好きよ。私の性格を嫌ってくれるような人」
ごく、自然に。
「放課後、空けておいてね。重大懸案が発覚したから」
最後に、そんなお決まりの科白を残して――――扉が開き、閉じられる。
その音を、俺はただ呆然と、本当に呆然と聞いていた。
いや、わかってる。わかってるよ。あいつは別に、俺個人を異性として好きだっつった訳じゃない。中身を見てくれる人が良い、って言う意味で言っただけだ。
わかってるんだけど……身体が強張ったまま解れてくれない。女子に好きなんて言われた事、一度もないんだもの。女子じゃなくて女なら、50ほど年上のマダムに言われた事はあるけど。
「……」
眩暈がしたような感覚になり、フラフラとベッドに倒れ込む。そして、直ぐに起き上がる。
さっきまで、標葉がここで寝てたんだよな。マズいな……性格的に嫌いだって事は何ら変わらないんだけど、あんな事言われた日には、今後の接し方がわからなくなる。
色んな種類の疲労が嵩張る中、俺は正統な理由で保健室のベッドに再度倒れ、暫く寝込んだ。
思えば、嫌な感じは既にしていた。
標葉が『今日も行き先は【レクイエムガーデン 紫苑の森】よ。水面を泳ぐ鳥の足のように、ペダルを齷齪と漕ぎ進めなさい』なんて言い出した時点で、予兆はあったんだ。
ただ、その時俺はてっきり、また天野家の墓に行くとばかり思っていた。だから、何の疑いもなく標葉をそこまで運んだんだ。けど、その結果――――天野家とは違う、別の墓石の前に到着するハメになった。
「……」
その墓は――――永井さんの家の墓だった。
クリスチャンの墓。その証拠に、墓石に十字が刻まれている。
標葉はそんな墓に十字を切っていたが――――その所作は適当だった。特にクリスチャンと言う訳ではないみたいだ。
「また『ハカナシ』か」
「ええ。例によって、ね」
つまり、『墓』が『墓』でなくなるシグナルが出ている――――って事なんだろう。
ただ、それには大きな疑念がある。
「俺、この墓の持ち主の家の人知ってるけど、つい先日ここに来てたぞ? どうして消えそうになるんだよ」
永井家の墓石は、それほど大きくはないが、墓石には黒御影石を使っていて、外柵にも結構お金をかけている。少なくとも、手抜きで作った墓じゃない。中には、金だけは掛けて立派な墓石を建ててはみたものの、その後全く手入れも掃除もせず、荒れ放題になった墓があるが――――ここはそんな様子もない。
「そう。私が見る限りでも、これくらいノーマルなお墓が意味を失いかけている事はまずないから、戸惑ってるのよ。で、お越し頂いたの」
「運転させた、の間違いだろ……来賓みたいな言い方されると逆にムカ付くんだけど」
「細かい事をグジグジと……狭量な男は将来、不人気の部署に飛ばされる確率が極端に高いって知ってた? その様子じゃ、売れ残ったカラー綿棒の在庫管理を任されそうね」
「人の将来を何処まで限定すんだよ」
と言いつつも、実際似たような職に就きそうで凹む。
「って言うか……見間違いなんじゃねーの? そもそも俺、お前のその霊視的な能力、未だに良くわかってないし。墓の履歴が見えるって、どう見えんの? 墓石が電子掲示板みたいになってるとか?」
「違げーます」
なんか荒いのか丁寧なのかわからない、妙な言葉遣いで否定された。
「墓石はあくまでも、その墓の象徴。墓標もだけどね。墓はあくまでもその敷地であり、場所。だから、この場合は地面に触れるのよ。で……」
標葉は言葉通りに手で地面を触り、そして目を閉じた。
「こうすると、頭の中に記録が浮かんでくるの。浮かんでくるってより、吸い出してる感覚が近い気もするけど」
「いや、その辺の感覚は説明されても、全くわからないけどさ」
「……やっぱり間違いない。この敷地にある墓は、もう直ぐ『ハカナシ』になる」
確信を得た標葉は、そう断言した。とは言え、謎は深まるばかり。
「何か他の理由がある、って事なのか?」
「いえ。間違いなく履歴上の問題。でも、ここに墓参りに来た親族がいるのよね?」
「ああ」
「なら、これはミステリーと言わざるを得なくてよ、トマソン」
「……ワトソンって言いたかったのか?」
しかも、それだったら『君』を付けじゃないとダメだろ。呼び捨てじゃ、ホームズのキャラが崩壊しちまう。
「……とま、そんなトコよ」
「強引だな!」
そこまでして間違いを認めないのは、ある意味大した負けず嫌い精神だけど、思いっきり赤面してる時点で惨敗だ。
「そんな事より。このお墓の持ち主と知り合いなら、協力しなさいよ。どうしてこんな事になってんのか、考えてみて。期待はしてないけど、参考意見は多いに越した事ないし」
水谷家の一件では、俺の意見が決め手になった気がするんだが……何故そこまでして悪態を吐く必要があるんだろう。
ま、良い。確かに、その時のような事になったら、俺としても困る。あの女性は、もしかしたら将来お客様になるかもしれないし、何より知り合いが消失するなんて、余りにも目覚めが悪過ぎる。
「そうだ。あの神父……お前の兄貴だったよな。あの人に頼めば?」
そこまで言って、俺は発言そのものを撤収せざるを得ない事に気付いた。標葉の顔が、みるみる内に険しくなって良く。それでも尚、何故かその顔は美しさと可愛らしさを兼ね備えていた。意味不明な顔だ。
「頼りない助っ人ね。あんな男に頼もうとするなんて……なんて役立たず。これじゃとても、カラー綿棒の在庫管理なんて出来そうにないじゃない」
こんな場所まで連れ出され、交通機関代わりに利用され、最終的に色とりどりの無生物の管理すら出来ない無能だと罵られた俺は、気持ちの持って行き場所を探し、虚空を睨みつけた。
ダメだ。この女と俺はトコトン相性が宜しくない。昨日の保健室の一件すら霞んでしまった。
「とりあえず、明日また来ましょう。それまでに考えておいて」
「……明日も来るのかよ」
「変化があるかもしれないじゃない。今日は収穫がなくても、明日が実りの季節の初日かもしれない。どう? こう言うと、ごく当たり前の事でも、なんとなく名言に聞こえるでしょ?」
「一切聞こえねー」
結局、本当に何の収穫もないまま、その場で本日は解散。開放感なんてまるでなく、ウンザリしながら帰宅の途につく。
標葉百合……あの女は一体、なんで墓の履歴なんてものが見えるんだろう。そして、どうして『ハカナシ』とやらを防ごうとしているんだろう。どこかが給料でも出してるんだろうか? でも、そんな感じは一切しない。仕事と言う言葉も一切出てこないし。
そもそも、本当に――――
「あれ? 君、確か……」
信号待ちをしている最中、背後から声を掛けられ、振り向く。そこには神父がいた。神父に知り合いは多いが、ここまで若い人は一人しかいない。つい昨日、出会ったばかりの人物。標葉兄だ。
「石神です。妹さんにはいつも引きずり回されています」
「かっかっか。引きずり回されてんのか。そりゃお気の毒」
標葉兄は俺のイヤミなんて意にも介さず、寧ろ楽しげに高笑いしていた。標葉とは全く性格が異なるみたいだ。
「あ、自己紹介してなかったっけ。名刺名刺……っと」
そんな神父姿の標葉兄は、ハンドバッグから名刺入れを取り出し、人差し指と中指に挟んで、その名刺を差し出して来た。
ちなみに、名刺を差し出す神父ってのは、日本では割と珍しい。海外では割と普通に持ってるらしいけど、少なくとも俺は貰った記憶がない。まあ、俺自身、名刺は持ってないんだけど。
「七海カトリック教会、司祭……標葉柾」
これで『マサキ』と読むらしい。
にしてもケバいデザインだな。まるでホストの名刺だ。とても聖職者の所持品とは思えない。
「ま、宜しく。で、どう? ちょっと時間あんなら、話でも」
「……良いですよ」
若干の逡巡の後、俺は首肯した。幸い、これから仕事の予定はない。
由香の所に寄る時間さえ確保出来れば、それで良い。
「OK。じゃ、ファミレスでも入ろっかね。好きなの食って良いし。お兄ーさんが奢っちゃる」
「必要ありません。自分の分は自分で出します」
「つれないねぇ。それとも、近頃の高校生は物欲も食欲もねー草食動物なのかな?」
かっかっか、と笑いながら、標葉兄は一足先に歩を進めていった。
スータンに身を包んだ人間が、ファミレスの一角で黄金色の液体を飲み干す姿と言うのは、違和感と言うより異次元感すら覚える。こうして対面している俺ですらそう思うんだから、周囲の客や店員は余計にそう思うんじゃないだろうか。そんな白い目をする俺を尻目に、標葉兄は気にも留めず、喉を鳴らしながら豪飲を貪っていた。
「かーっ、昼間の一杯は溜まんねーよな! 最近はファミレスでもノンアルコールビールとか出すみてーだけど、あんなの飲むヤツの気が知れねーよ。ビールはアルコールありきだろーよ。お前さんもそう思うよな?」
「未成年に同意を求めないで下さい。うっかり頷いて干されたらどうすんですか」
「誰に干されんだよ。ま、あと何年かすりゃ、この最高の一杯の為に仕事してる大人の生きがいってのがわかっからよ。そう拗ねんなって」
微塵も拗ねてないし、既に仕事もしてるんだけどな。
そんな事より、とっとと聞きたい事を聞いて退散するとしよう。
「で、ウチの妹と、どんな関係?」
と――――こっちが口を開く寸前、先に攻撃を仕掛けてきた。カウンターを喰らった気分だ。
「さっき言った通りですよ。色々引きずり回されてます」
「つまり、良い仲、ってコトかい?」
「どう言う耳してたらそんな風に取れるんですか。迷惑してる、って言ってるんです。今日も運転手させられて、昨日も日曜の朝っぱらから叩き起こされて」
「あの、消えかけの墓まで参上した、ってか」
消えかけ――――しれっとそんな事を言ってくる標葉兄は、いつの間にか両肘を付き、口元を手で隠していた。
「……何処まで知ってる?」
そして、今までとはまるで違う、凛然とした声で問いを投げてくる。表情に険はなく、目に鋭さもない。ただ、明らかに真面目な質問だった。
「標葉が……妹さんが『墓の履歴を見れる』って事と、『消えかけの墓』を見つけて、その消失を未然に防いでる、って事くらいですよ。それ以上は何も」
それに対し、俺は正直に答える。そうしないと、何かマズい事になるような気がした。
「成程ね。で、それでも尚、妹とつるんでるって事は、その話を信じてる、って事か」
飄々と。本当に飄々と、標葉兄はそんな事を口にした。
「……どう言う事ですか」
「ここから先は、身内の恥を晒す事になっからさ。出来れば、口外しないで欲しいね。強制は出来ないけど」
その前フリは、既に多大なネタバレを含んでいた。そして、その流れに沿うように、至極あっさりと標葉兄は続ける。
「妹は……百合には、妄想癖があるんだよ。それも、かなり重度な……ね」
「……」
言葉を紡げない。この人は、何を言っているんだ?
いや、理解はしている。しているんだけど――――頭に入って来ない。
「見えもしない墓の履歴を、さも見えるように言う。しかも断言的に。不遜な態度で、言い淀みすらなく、な。だから、大抵のヤツはそれを信じ込む。まして、あの顔だ。男なら、『力になりたい』とか『あわよくばパートナーになれる』なんて思う訳だ」
「……俺は、騙されてる、って言いたいんですか?」
「いや、そうじゃねーよ。そうじゃない。アイツは、騙してるつもりなんじゃないんだ。本気で、視えてるって思ってるんだよ。そして、自分が何とかしないと、墓が消えて、その墓で眠る死人の子孫も消える、と思い込んでいる。だから、厄介なんだよ」
標葉兄の言葉は、空気中で鉛のようなモノに変換されて、俺の胸にズシリと圧し掛かった。
つまり。
標葉は――――妄想癖のある女で。今までのあいつの説明や解説は、全部妄想の産物で。俺は、そんな形のない幻想に弄ばれ、踊らされていたって事……なのか?
「でも、それじゃ説明がつかない事もありました。実際、消えかかった家族もいましたから」
「本当に消えかかってたのかい? それを目の前で見たのかい? 実際に消えてるトコロを」
いや……見てない。水谷さん達はあの時、確かに家にはいなかった。ただ、それは状況的におかしいと判断しただけで、物理的に彼女達が消失していくのを見た訳じゃない。けど、あの場合は標葉の話を信じる以外に、説明がつかない筈……
「例えば偶々、近所の親戚の家に一家で遊びに行っている事もある。何より、その『偶々』がなくても、別に何も問題はない。だろ?」
標葉兄の意見は――――尤もだった。もし、あの時、俺と標葉が水谷家に向かった際に、水谷家の面々が家にいたとしても、標葉が一言『今はまだ良いけど、このままなら直ぐに彼等は消えてしまう』と言ってしまえば、それで済んでしまう訳で。
俺は、標葉が視えているって言う履歴も、意味を失ったその墓に関わる人間が実際に消失した瞬間も、何も見てないんだから。
「……」
だからと言って、一方だけの言葉で、決め付ける事は出来ない。
そんな俺の葛藤を察したのか――――標葉兄は破顔し、肩を諌めた。
「ま、どっちの話を信じるかは、お前さんの自由だ。好きにすりゃ良い。俺もあんま、人に信用されるタイプじゃねーしな」
そして、自嘲気味に高笑い。昼間からビールを飲み、ニット帽を被る神父――――そりゃ信用されないのも仕方ない。ただ、今の俺に彼の発言を全て蔑ろにする大胆さは、ない。
「……俺も、聞きたい事があるんですけど」
そして、後手になってしまったが、元々の目的を果たすべく、言葉を紡ぐ。
「いーよ。何?」
「先日、貴方は天野家の墓に何をしたんですか?」
標葉はその直後、あの墓が消失する事は回避出来た、と言っていた。或いはそれも――――
「ただのお清めさ。死者を慰め、安らかに眠るよう聖水で清めた。一度くらいは見たコトあるだろ?」
ああ。一度だけじゃなく、何度だって見てる光景だ。俺が聞きたいのは、そうじゃない。どうしてあれで、墓が復活したのか――――或いは、そう標葉が見做したのか。
「仮にも俺は、神父。そんな俺がお清めをやれば、どうだい? 普通なら、無碍には出来ないだろうさ。聖職者に清められれば、墓は復活する……と、百合も考える」
……成程、ね。納得出来るかどうかは兎も角、辻褄は合っている。
「標葉は……なんであんなに、アンタを嫌ってるんですか?」
攻撃的で、獰猛。毒舌家で、辛辣。それが標葉だ。
ただ、あいつがあの【レクイエムガーデン 紫苑の森】で見せた姿は、そんな俺の知る標葉じゃなかった。何処か――――畏れているように見えた。実の兄を。
「年頃の女ってのは、身内には冷めてるもんだよ。お前さんの家は、違うかい?」
「生憎、家族は不在なんで」
「ん……そいつは済まなかったな」
ふと、その一瞬だけ、標葉兄の顔に影が差した。
「ま、家族ってのはそんなもんだ。あと何年もすれば、『お兄ちゃーん、あの時は反抗期だったの、ゴメンね♪』って自戒するさ」
「想像出来ないな」
「全くだ」
かっかっか、と――――標葉兄はまた笑った。俺はその一方で、全く愉快な気分にはなれなかった。
その日、一日中ずっと、晴れない心を持て余していた。
翌日。この日、街は霧雨に覆われ、薄い雨粒の幕が風にたなびいていた。
それでも、仕事は待ってはくれない。この日は、とあるお墓の解体作業を手伝いに、つい先日訪れた【レクイエムガーデン 紫苑の森】に再度、足を運んでいる。
今日の仕事は、水谷家の時のような建て替え作業の一環じゃなく、単純に古い墓を取り壊すと言うだけのもの。仕事の中身について、とやかく言える身分じゃないんだけど……正直、余り気乗りしない仕事だ。
この手の依頼は、決して多くはない。墓の解体には結構な費用が掛かるからだ。古い墓なんて、それこそ何処にでもある。放置していても、特に問題にはならない。
もし、標葉の言うように、本当にそれらの墓が『ハカナシ』になってるんなら、話は別だけど……今の俺に、それが真実か否かを判断する事は出来ない。
『百合には、妄想癖があるんだよ』
あの、昨日の標葉兄の言葉が、どうしても邪魔をして来る。俺をからかってるって訳じゃなく、実際にそう思い込んでるんだとしたら――――これ程性質の悪い事はない。何しろ、本人に直接聞いた所で『ええ、私は妄言を吐いているの』なんて答える訳がないんだから。
ただ、今は仕事中。そんな事は忘れて、集中する――――べきなんだけど、その仕事自体が気乗りしない内容だから、身も入らない。生まれ変わる事のない墓を、瓦礫の山にして行くこの作業は……苦痛だ。
「相変わらず、甘ったれたヤツだな。お前は」
そんな俺の覇気のなさから洞察したのか、又兵衛さんは休憩中にそんな事を言ってきた。ちなみに、俺も又兵衛さんもレインコートを着用している。
「……でも、やっぱり良い気分じゃないですよ。墓を壊すって言うのは。作る過程を知ってるだけに、余計にね」
墓石を彫る作業は、陶芸家や工芸家が自己表現の為に作品を生み出す過程とは、確実に一線を画している。作業自体は、それこそ芸術家と呼ばれる人達のそれと変わらないかもしれない。或いは、そこまで手も込んでないんだろう。でも――――確実に違うのは、墓を依頼した人達、或いは墓にやってくるであろう人達の事を常に考えながら作る点だ。
指定された予算で、可能な限り意向に沿った設計をし、それを丁寧にに彫って行く。そこには、鬼気迫る程の迫力と、その墓に関わる全ての人達を思いやる慈悲の心が混在している。
それを知っているだけに、やり切れない。
「バカ野郎。形あるモンはいつか壊れんだ。少子化の今の世の中、こう言う仕事がないと、やって行けねぇんだぞ?」
確かに、その意見は尤もだ。
実際、こうして数少ない仕事の中でも、しっかりありつけているのは、『リフォーム』的な内容の仕事は勿論、解体や掃除などの仕事もあるからに他ならない。墓を建てる、或いは建て替えるだけだと、単価の高い石材店はまだしも、俺等みたいな肉体労働者はとてもやっていけない。こう言う仕事があるからこそ、食い繋いで行ける。
又兵衛さんは『彫る側』の人間だけど、俺の立場になって言ってくれていた、って訳だ。
「頭ではわかってるんですけどね。実際にこうして、目の当たりにすると……」
改めて、今日作業を行った光景を眺める。霧雨の降り荒ぶ中、瓦礫と化した墓石は、手押し車に乗せられ、既に意味を失くしてしまっている。後は、廃棄されるだけ。
かつて――――この墓石が誕生した頃は、きっとその美しさから、多くの家族や親類に称えられただろう。綺麗だね、凛々しいね、誇らしいね、等と言われていたかもしれない。
でも今、その面影は――――何処にもない。
「ん? ありゃ天野さんトコの子供じゃねぇか?」
そんな折、又兵衛さんが俺の背後に視線を向け、呟く。瞼に付着した雨水を手で払いつつ振り向くと――――傘を差し、虚ろな表情で歩く女性の姿が視界に入った。制服姿じゃないが、かなり若い。年齢は恐らく、俺と同じくらいだろう。
「って、天野……?」
そこで、ふと思い出す。
天野。その苗字は確か……以前この霊園に来た際に訪れた、あの墓のものと一致する。
この【レクイエムガーデン 紫苑の森】は結構規模が大きく、数多くの墓が並んでるから、苗字が重なる可能性もあるにはあるが、その女性の移動している方向は、先日俺と標葉が訪れた墓の方角と一致していた。
「知ってるんですか?」
「ああ。あのコの父親が、俺のカカアの兄貴と同じ職場で働いててな。けど、足を悪くして辞めちまったんだが……ってか、お前こそ、天野さんトコの子供の知り合いなのかよ?」
「面識はないんですけど、ちょっと縁があるって言うか……あの娘さん、頻繁に墓参りしてるんですかね?」
「さあな。けど、天野さんの家からは大分遠いぞ」
遠方より遥々、か……
「ま、迷ってはいねぇみたいだから、何度かは来てるんじゃねぇのか?」
又兵衛さんの言葉通り、女性は特に戸惑う様子もなく、淡々と霊園内を歩いていた。次第に、その姿が小さくなって行く。もし、今の天野さんの娘さんとやらが、半年前に墓参りに来ているんであれば――――標葉の視ている履歴と一致する。
『妹は……百合には、妄想癖があるんだよ』
標葉兄のあの言葉が、また脳裏を過ぎった。
「……ん? おい、何処行くんだ? まだ仕事中だぞコラ」
「ちょっとだけ離れます。直ぐ戻りますんで」
レインコートのフードを深く被り直し、霊園の行道を心持ち早足で歩く。どうやらちゃんと覚えていたらしく、程なくして、天野家の墓が見えて来た。
そして、そこには既に先客がいた。当然、先程見かけた女性。又兵衛さんは、『子供』と言っていた。この墓に眠る人の子供なのか、それとも単に又兵衛さんの知る『天野さん』の娘なのかは、わからない。知る必要も、今はない。知らなくちゃならない事は――――別にある。
「あの、すいません」
話しかけると、女性は驚いた様子で、顔だけ振り向いて来た。無理もない。先日俺も経験したけど、墓場で突然他人に話しかけられるってのは、結構怖い。
「な、何?」
「えっと……お墓周りの仕事をしてる者なんですけど、まあ……要するに、営業です。不躾なのは重々承知なんですけど、このお墓には良く来られます?」
幾つか考えた結果、これが一番無難かと思い、営業を装いつつ訪ねてみる。ある程度身構える様子は窺えるが、営業とぶっちゃけたのが幸いしたのか、それ程の不信感はない様子で、女性は身体もこっちへと向けてくれた。
「良く、は来てねーけど、偶に? 前来たの、半年くらい前だし」
なんか、ギャルっぽい話し方。苦手な人種かも……
それは兎も角、どうやら又兵衛さんの言ってた『天野さん』が、この墓に眠る人達の子供で間違いないみたいだ。
「お墓参りには、一人で?」
「そーだけど。それが何?」
そして、彼女がその子供。つまり、目の前の墓に眠る人達の孫だ。
「そうですか。すいません、突然。もしお墓の事で何かあったら、お声を掛けて下さい。【光吉石材店】ってトコですんで」
既に聞く事は聞いたんで、怪しまれない為に敢えて又兵衛さんの店の名前を出し、俺はその場を後に――――
「ねえ、ちょっと!」
しようとした刹那、呼び止められる。
「石材店の人、なんだろ?」
「あー、えっと、まあ、そのようなものですけど」
この手の女子とは接した経験がないんで、どうしても戸惑いを隠せない。
けど、向こうはそんな俺の狼狽を尻目に――――
「丁度良かった。このお墓、取り壊してくんない?」
更に戸惑いが加速するような言葉を、平然とした口調で投げ込んで来た。
また、取り壊し……?
しかも、清められて危機を去ったばかり――――と標葉が言っている、この墓を?
「あの、それは……」
刹那――――まるで見計らったかのように、携帯の振動がズボンのポケットを震わせて来る。
……未登録の番号。とは言え、仕事の電話の可能性がある以上、取らない訳には行かない。
「すいません、ちょっと失礼します」
慌てつつ、一旦天野家の墓を離れ、通話ボタンをプッシュ。
「もしもし」
相手の声に耳を澄ませる。
「……突然申し訳ありません。永井です」
驚いた事に、電話を寄越したのは、先日俺に墓の説明を依頼したあの永井さんだった。その声は、先日より更に疲れ切っていて、生気がまるでない。
――――それもその筈だった。
「父が、亡くなりました」
永井さんは、毅然と、でも力なく、電話越しにそう告げて来た。
人間、若い時分に身内が死ぬ事を覚悟する機会って言うのは、決して多くはない。まして、自分の親が死ぬ事を覚悟して、その際に必要な手続きを全て頭に入れておく――――なんて周到な準備をしている20代は、殆どいないだろう。
だから、永井さんが俺を頼って来たのは、不思議な事じゃなかった。向こうは俺の事を高校生とは思ってないだろうし。
「本当に、申し訳ありません……私、何もわからないんです。身内が亡くなった時にどうすれば良いか」
病院に駆けつけた俺に、永井さんは何度も頭を下げてくる。
こう言う場合、普通は年配の親戚を頼るもの。だが、永井さんは親類と疎遠にしているらしく、祖父母ももういないとの事で、連絡先を知る親戚が誰もいないらしい。で、俺に白羽の矢が立ったって訳だ。
「いえ。それで、お父さんは今、何処に?」
「霊安室に移されました。それで、その……」
永井さんは落ち着かない様子で、声を小さくする。
「今日中に移動させて下さいって言われて……私、どうして良いかわからなくなって……」
ああ、成程。いきなり『今日中に御遺体を持って行け』って言われて、混乱してるのか。
基本、病院が御遺体を安置してくれるのは、最大で一晩。中には、一時間以内に遺体を退けろ、なんて言う所もある。そう言う意味では、この病院はまだ良心的だ。
「……取り敢えず、何か飲みます? 買って来ますよ。時間は十分ありますから」
「いえ、そんな……大丈夫です。すいません、こう言うコト、全然わからなくて。ダメですよね、こんな歳でみっともない……」
永井さんの応答は――――意外にも冷静だった。
自分を貶めるような物言いは、理性が働いている証拠。少なくとも、自己申告ほどは混乱していない。気丈にしているのか、実感がないのか。
ま、何にしても、まずは遺体の搬送をしないと。
「職業柄、何度か貴女と似たような状況の方と接した経験がありますけど」
ただ、その前に一つだけ。
「年齢に関係なく、墓とか通夜とか葬式とか、そう言うモノに疎い人は沢山いますよ。別に悪い事じゃないと思います。今回経験して、それを覚えていれば良いんですから」
俺は、一つ自論を持っている。
『死』は『財産』。
人の死は、残った者に様々なものを与える。感動なんて言う甘ったれたものじゃなく。
それは――――悔恨。虚無感。寂寞感。憤怒。愁嘆。そして、知識。
人が死ぬと言うのは、どう言う事か。周囲がどのようになるのか。人が死んだ時、その家族や身内はどうやって遺体を搬送し、そしてあの世へと送り出すのか。その後、どのように立ち振る舞えばいいのか。
最後の教示を、死者は余すところなく、周囲に与える。そこで学び、次に活かす事が、その亡くなった方への供養なんだと思う。
「そう言って頂けると……」
永井さんは、大きく息を吐き、ゆっくりと俯いた。
「それじゃ、まずは……ロビーに行きましょうか」
頷く永井さんを確認し、移動。そこで、俺は家族が亡くなった後の行動を一通り説明した。
病院で亡くなった場合、まずその遺体は霊安室等の部屋へと移される。霊安室がない場合は、そのままベッドで暫く置いて貰えるが、その場合は長くても数時間。深夜亡くなった場合は翌日早朝までと言うのが相場だ。それじゃ、その後遺体はどうするのかと言うと、大抵は葬儀会社を手配し、搬送して貰うと言う方法を採る。自分の車があっても、普通は自分等で搬送する事はない。棺を自前で用意する訳にも行かないし、何より非常識だ。
で、その葬儀屋に関してなんだけど、依頼するタイミングは割とまちまち。例えば、『余命〜ヶ月』って感じで宣告を受けた場合や、もう手の施しようがないと医者に匙を投げられた場合は、大体事前に相談しておく。場合によっては、本人が直接依頼する事もある。予算をどれくらいにするか、ってのも重要な問題で、大抵は一つの地域に複数の葬儀屋があるから、見積りを作って貰って、それで比較して最善の会社を選ぶ……って言うのが、利口な方法だ。
でも、そうも行かないケースも多い。人間、生きていればしがらみってのがどうしても出てくる。会社、宗教、病院、血縁。そう言った点を配慮する場合、必ずしも安い所に依頼出来るとは限らない。こう言う点も含めて、出来れば葬儀屋は事前に決めておいた方がいい。
が、世の中何でもかんでも用意周到に出来るワケじゃない。不慮の事故で突然亡くなるケースも多々ある。
で、永井さんの父親はそのケースじゃないんだけど、葬儀屋と一度も話をしてないんだから、結果的に同じ対処法って事になる。その場合――――病院の紹介を受けるのが一番手っ取り早い。ただ、この場合注意すべき点は、病院の紹介する葬儀屋は高い場合が多いって事。この辺は、仲介料が発生する事を考えれば当然だろう。
「失礼ですけど、予算はどれくらいありますか?」
「え……あ、そうですね。直ぐに動かせるお金は、大体……100万円くらいです」
100万か……家族葬なら十分出来る範囲の数字だけど、余り高い所には頼めないな。
「ちょっと待ってて下さい。知り合いに葬儀屋を紹介して貰います」
「え? あ、は、はい。お願いします」
永井さんを残し、病院の中庭へ行き、又兵衛さんに電話。
『葬儀屋だぁ? どうせお迎え近いんだから準備してんだろ、って言いてぇのか、テメェ!』
言うと思った……
「70だろ? 平均寿命まで後10年あるじゃんか。ってか、あんた80で死ぬようなタマじゃないでしょ。まだ全然身体動いてるし」
「……ケッ」
又兵衛さんは俺の言葉に気を良くしたのか、その後は特に悪態を吐く事もなく、地元の格安の葬儀屋を紹介してくれた。
ま、おべっかじゃなくて本音なんだけどな。ヘタしたら夫婦揃って三桁まで生きそうだ。
「すいません、お待たせしました」
電話を切り、そそくさとロビーへ戻る。永井さんは、特に何をするでもなく、椅子に腰掛けじっと虚空を眺めていた。その様子は、父の死を悼むと言うよりは、何処か安堵しているように見える。意外と落ち着いている点と良い、少々引っかかりを覚えずにはいられない。まあ、悲しみ方は人それぞれだ。表面だけを見て、薄情だ何だと言う気はないんだけど……違和感はある。気の所為、だとは思うんだけど。
その後――――遺体搬送場所や搬送後の段取りに関して、簡潔に説明。搬送する場所は、通常は家。って言うのも、火葬は死後二四時間してはいけないって法律で定められてるからだ。そこで、一旦家に帰って、死装束を着せ、死化粧をする。病院で亡くなってるから、既に湯灌なんかは済ませてる筈だ。
自宅へ搬送した後は、その作業と併行して、親戚への連絡を行う必要がある。そして、そこで喪主と世話役、その代表を決めるんだけど……
「連絡が必要な親戚の方は……いないんでしたよね」
「はい」
永井さんは淀みなく言い切った。恐らく、配偶者もいないだろう。喪主は彼女がする必要がある。世話役は……迷ってる暇もない、か。
「俺が世話役代表をします。良いですか?」
この世話役ってのは、要するに通夜から葬儀にかけての様々な役割を担う人。例えば、通夜前の雑用や、葬儀社、寺院、教会との打ち合わせ、遺影の手配や通夜の用意全般、通夜での挨拶や打ち合わせ、会計係、受付係、進行係などなど。兎に角、通夜から葬儀にかけては、やる事が多い。
「そ、そんなに色々……」
永井さんはかなり驚くのと同時に、動揺していた。そりゃそうだ。普通は、親戚総出でやるもんだからな、通夜や葬式は。それを一人でやるなんて事は、物理的に不可能。でも、その多くを葬儀屋に任せてしまうと、相当な金が掛かる。100万じゃとても出来ない。
「あの、御迷惑ですよね……そんな大変なお仕事をさせてしまうのは」
永井さんは、見てるこっちが痛々しくなるくらい縮こまってしまった。
……これで見放したら、俺はシャレにならん悪人って事になるんだろうな。
「大丈夫ですよ。仕事に支障を来たさない程度でお手伝いします」
実際には、それは無理だろう。数日はスケジュール開けないと。週末には、天野家の墓の解体が入ってるから、それまでには片付けたい。
とは言え、俺一人で全部やるのは到底無理だから……知り合いに来て貰うしかない、だろな。仕事仲間に頼むか。でも、空いてる人、少ないだろうしな。
……仕方ない。仕事の事がバレるリスクもあるけど、三宅と左京を使おう。こう言う時の為のあいつ等だ。
「もし、力になって貰えそうな人に心当たりがあったら、声を掛けてみて下さい。俺もそんなに多くは集められないんで」
「すいません……本当にすいません……」
永井さんは、何度も何度も頭を下げた。心当たりがないのか、改めて俺に対して負担が掛かってる事を自覚したのか。ま、どっちでも別に良い。
「頭、上げてください。大丈夫ですから」
「私、本当に無知で……お葬式をするのに、そんなに色々する事があるなんて、全然知らなかったんです……」
謝罪を繰り返す永井さんを適当に諌めつつ、又兵衛さんから教えて貰った電話番号を一つ一つプッシュして行く。
そして、嘆息交じりに携帯を耳に当て――――適当に眺めた虚空の隅に、女性の姿を捉えた瞬間、思わずその携帯を落としてしまった俺を誰が責める事が出来よう。
何を隠そう、その女性は俺の良く知る顔だったのだから。
標葉。
何故ここにいる……?
ここは病院。俺みたいな特殊な例を除けば、その理由は二つに一つ。自分の病気や怪我に対する診察、治療を行う為。若しくは、入院中の知り合いを見舞う為。いずれにしても――――穏やかじゃない話だ。
「……どうされました?」
「あ、いえ。ちょっと手を滑らせただけです」
様々な懸案事項に囲まれた俺は、学業と肉体労働の掛け持ち程度で息切れしていた数週前の自分を嘲笑いつつ、落とした携帯を拾った。
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