その日――――しめやかに行われた式に参列した人の数は、全く覚えていない。一人ひとりの顔も、忘却の彼方で霧に覆われている。それでも――――覚えているのは、あの時に感じた事。後に『日本人は嬉しくて泣く変な人種。泣くのは悲しい時だけ』と外国人がテレビで言っていたのを聞いたけど、それは文化の違い以前に、浅はかな言葉だと思った。
 人間、本当に悲しくて、本当に絶望している時に、涙を流す余裕なんてない。
 ただ、そこにある現実を眺めているだけの傍観者だ。心なんてのも、きっとそこにはないんだろう。参列者の優しい心遣いも、言葉も、涙も、全部が風のように通り過ぎて行った。
 あれから、長い年月が経ち。俺はと言うと、全く縁も縁もない、他人の葬式を取り仕切る事になった。当然、当時の経験なんてまるで参考にもならない。ただ、墓に纏わる仕事をする人間として、その一連の手続きに関しては、頭に叩き込んであった。他人だからこそ、冷静にそれをこなせる。結果――――永井家の葬儀は、滞りなく進んだ。
「あ〜あ、暇だな〜」
 そんな中、場にそぐわない三宅の声が、青空の下に響き渡る。とは言え、こっちとしては協力して貰っている身。寝不足で苛々しているものの、文句も言えない。
 疲労も結構溜まっている。昨日から今日にかけて、俺はずっと手続きの為に動き回っていた。
 葬儀の手続きって言うのは、別に難しくはない。葬儀屋に電話して、予算を組んで貰った後、直ぐに来て貰い、遺体を搬送。普通、亡くなったその日に通夜をするのは午前中に他界した場合のみで、それ以降は、翌日に持ち越す事が多い。
 その理由としては、親族や知人友人に連絡したり、準備したりする必要があるから、午後からだとかなり慌しくなると言う点が一つ。
 更に、根本的な問題として、火葬場のルールがある。火葬場は基本的に、午後3時で閉まる。それに加えて、死亡後24時間以内に火葬しちゃいけないって規則もある。だから、3時を過ぎた時点で亡くなった場合、翌日にも火葬が出来ず、2日後って事になる。仮に午後2時に亡くなった場合、翌日に火葬出来るのは、2時〜3時の間だけ。かなり日程が制限されてしまい、バタバタする事になる。
 こう言った理由から、午後に亡くなった場合は、通夜の日程も一日遅らせるのが一般的なんだが――――今回の永井さんのケースでは、3時前で、且つ連絡する相手もいない上、準備も最低限で出来るような、とても質素な通夜だったんで、即日通夜、翌日火葬と言うスケジュールを組んだ。
 その結果、死亡診断書の受領、死亡届の提出と併行して、通夜の準備もしなくちゃならないってんで、大忙し。そもそも、亡くなったお父さんが仏教なのかキリスト教なのか、それとも無宗教なのかもわからない状態だったんで、まずそこで一苦労。キリスト教だと通夜じゃなくて前夜式なんだけど、呼び方以外の違いはそれほど多くないんで、そこはまあ良かったんだけど、僧侶を呼ぶのか、神父を呼ぶのかがハッキリしなかったんだよな。
 結局、実家の引き出しからロザリオが見つかって、キリスト教って事が判明。神父を呼んで、簡単な通夜を行った。
 そして、今日も今日とて、スケジュールの確認から始まり、葬儀社と携帯で何度も連絡を取り合い、午前中に葬式を、午後から出棺と火葬を行い、今に到る。
 学校は一時間目前に早退。登校した理由は、助っ人を募る為だ。三宅と左京だけなら、携帯で済んだ話なんだけど、番号を知らない連中にも声を掛ける為、敢えて学校に赴いた。
 そんな俺の奮闘に心を砕いてくれたのか、葬儀屋もかなり親身になってくれて、予算もかなり抑えてくれた上に、空いてるスタッフを使って、追加料金なしで雑用全般を手伝ってくれた。そんな運にも恵まれ、ここまではとても順調に来ている。
 ただ、葬式は終わっても、この日が終わるまでが一種の葬儀。こう言うのは、形が大事だ。幾ら弔問に来る人がいないとは言っても、そこでおざなりにするのは、親を送り出す子供としては不適切。誰かしら来ると仮定して、用意しておかなくちゃならない。
「お疲れ様です。何か飲みますか?」
 その用意の一環として、水谷さんにも声を掛けた結果、快く引き受けてくれた。しかも、ご両親共々。お二人とも葬式の経験アリとの事で、即戦力になってくれている。俺はそんな彼女に改めて御礼を――――
「あ、俺今ダイエットしてっから、カロリーオフのちょーだい! やっぱ今の時代、シュッてしてないとな! シュッて!」
 言う直前、三宅の意味不明なアピールに遮られた。この男は本当、女子とのコミュニケーション能力が俺以上に低い。俺も大概だけど……
「水谷さん、今日はホント助かったよ。ありがとう」 
 取り敢えず、三宅は無視して、改めて一礼。
「いえいえ。お役に立てて光栄です」
 水谷さんは、とても健やかな笑顔で謙遜をくれる。良い子ですなー。同級生だけど、この子にはなんか、父性の目で見てしまう。絶対変な虫を付けたくないって気分。けれど、そんな俺の懸念を嘲笑うかのように、受付の席に座る三宅が突然立ち上がり、普段一重の目を二重にして、キリッとした顔を作り出した。
「ところで水谷サン! 今度の日曜、俺と二人でケルト神話記念館に行かない!?」
「絶対に行きません」
「ノウォオオオオオオオオオオオオオオウ!?」
 轟沈。つーか……今の水谷さん、気の所為か超怖い顔だったような……
「えっと、石神君は何が飲みたいですか?」
「あ? ああ、えっと……それじゃ、緑茶など」
「わかりました! それじゃ直ぐ持ってきますね!」
 元気良く駆け出していく水谷さんの背中を目で追う一方、俺はさっきの一幕以降、一向に身動きしない三宅を本気で心配していた。
 トラウマになるだろな……あれ。
「い、石神……俺、もうダメだ。休みたい」
「好きにしろ。ここは俺がいるから」
「……あーあーあー」
 故障した三宅が、ゾンビのようにフラフラと奥へ歩いて行く。それを適当に見送り、受付の席に着いた。
 まあ、受付っつっても、参列者は皆無状態なんで、確かに暇なんだ。奥で水谷のお母さんが作ってるふるまいも、ぶっちゃけ、ここにいる人間の分しか必要ないだろう。
 ちなみに、当の永井さんは、骨を収めた骨壷を置いた家庭用の祭壇の前で、ずっとボーっとしている。取り敢えず、無事送り出せた事に安堵してるのか。それとも、娘として思う所があるのか。その辺りは、定かじゃない。
 下世話な詮索をするならば――――永井さんと父親の関係は、余り良好だったとは言い難い。俺に墓の説明を親父さんにした後、永井さんは『お見苦しい所を見せてしまって』と言った。それが全てな気がする。父親が亡くなって、涙を一度も見せていないし、寧ろ開放されてホッとしたと言う表情を幾度となく見せていた。まあ、そう言う『状況証拠』があるからこそ、二人の関係については直接聞き辛かったりするんだけど。
「私の重大懸案を放置して、何をしてるのかと思えば……他人の家庭の葬式をプロデュースとはね。何時から葬式プロデューサーが流行るなんて駄算を思いついたの?」
 そんな俺の目の前に、いつの間にか人が立っていた。一瞬、弔問客と思って身を竦ませたのも束の間。発言の途中で、それが標葉だと気付き、思わず嘆息する。
 今回、この標葉には声はかけていなった。理由は――――色々ある。
「良くここがわかったな」
「元々、この家に用があったから」
 制服姿の標葉は、髪をかき上げつつ、受付席に座る俺の前に香典を置く。
「……弔問客として来た、ってのか?」
「他に理由はないでしょう?」
 ま、確かに。手伝いに来た――――なんて言われても、逆に戸惑うしな。とは言え……コイツ、永井家と何か繋がりがあったのか?
「特に個人としての付き合いはないけど?」
「いや、俺の思考を読める事前提で話進められてもな」
 そこまで、顔に出てるんだろうか? 考えてる事が。或いは――――エスパーだったりして。いっそ、それくらいぶっ飛んだ能力を持ってる方が良かったんだけどな……
「で、用件ってのは何だ?」
「私が他人と関わる理由なんて、一つしかないでしょう」
 そこまで言い切られるほど、付き合いが長い訳でもないんだけどな。俺はお前の事、大して知らないし。
 そう。俺はこの標葉と言う人間を、未だに掴み切れていない。口と性格の悪い女である事は間違いないけど……それ以外の事は、全て半信半疑だ。
 そんな相手に、どう接すべきなのか。それが、ここへ標葉を呼ばなかった理由だ。
「重大案件が発覚したからよ」
 俺のそう言う葛藤など、まるでお構いなしに――――標葉は、例の言葉を言い放った。
 重大懸案。つまり、永井家の墓に問題が発生している、って事だ。それが履歴なのか、それとも墓の外観なのか。或いは――――適当にこじつけた妄言なのかは、わからないけど。
「手遅れ寸前よ。もしかしたら、その影響がもう出始めてるかもしれない、ってくらい」
「……なんだって?」
 標葉のその言葉が何を意味するか。理解するのは、実に容易だった。重病だったとは言え、まだ死に絶えるほど弱ってはいなかった永井さんの父。それが、急変と言う事態に陥り、帰らぬ人となった。
 それは、もしかして――――
「永井さんの父親に、って事か? でも、起こったのは『消失』じゃなくて『死』だぞ?」
「ええ。死と存在の消失は、全く異なるもの。誰が亡くなったのかは知らなかったけど、その人の死は関係ない」
 全くの偶然、って事か。標葉の話を信じるなら。
「このままだと、残りの家族も消えてしまう。それは避けないといけない」
 その標葉は、家のある方を睨みつけ、そう断言した。その顔は、いつだって真剣で大真面目。嘘を言っているようには見えない。ただ、妄言と言うのは嘘ではなく、思い込み。だから、彼女の真摯さが標葉兄の言っていた事を覆す材料にはならない。それが――――歯痒い。
 ……歯痒い?
 どうしてそんな感情を抱くんだ、俺は。寝不足と疲労で頭が弱ってるのか。
「何?」
「いや。けど……どうして、そんな深刻な状態になってるんだ? あの墓には永井さんが訪れてる。少なくとも、水谷家のケースは当て嵌まらない筈だ」
「そうなの?」
 俺が頷くと、標葉はギョッと目を丸くし、その後眉間に皺を寄せ思案顔を作り、更に唇を尖らせて眉を潜める等、コロコロ表情を変えていた。
「……その履歴とやらで視えた、最後に人が来た時期ってのは何時なんだよ」
「約40年前」
「何だそりゃ? 幾らなんでもおかしいだろ」
 墓石ってのは、30年が経過する頃にはかなり劣化し、サビやコケ、カビ等によって汚れてしまっているケースが殆ど。月に一度、墓石を乾拭きするなどのケアを行っていればある程度は防げるが、そう言った例は殆どない。御影石は汚れが付き難い石ではあるが、40年間経過していれば、その外見でわからない訳がない。あの石が、そこまで古い物と言う事は考えられない。
「見間違い、じゃないんだな?」
「間違えようがないのよ。目で見ている訳じゃないし、墓が人間みたいに誤った記録を残す事もないんだから」
 だとしたら、おかしな話だ。あの墓石は、40年は経過していない筈。でも、墓の記録には40年放置されていると出ている。この食い違いはなんだ?
 見た目だけをキレイにする事は出来る。墓石のクリーニングだ。でも、仮に業者がクリーニングを行ったなら、その時点で依頼人が墓参りする筈だ。そもそも、高額な費用を払って墓の外観を整える程気にかけている人がいれば、今回のような問題が発生する筈がない。墓石の状態と、標葉の見た墓の記録が食い違っている。 
 これは、やっぱり……そう言う事なんだろうか。
「お前はどう思ってるんだ? この状況を。どうして永井家の墓が『ハカナシ』になってるんだ?」
 それを試す意味でも、そんな質問をしてみる。結果――――
「何言ってるの? 全く全然サッパリわからないから、こうして事情を聞きに来てるのよ」
 ……それ以前の問題だった。前回といい今回といい、コイツ全く何も思いつかないな。
 標葉百合、ポンコツ認定。しねポンとでも名付けようか。
「……」
 なんか怖い目で睨まれた。エスパー疑惑再浮上。なんて勘の鋭い女なんだ。仕方ない……しねポンは諦めよう。
「で、当事者は何処に?」
「当事者ってのは……骨と娘、どっちだ?」
「娘よ。骨に何を聞くっての」
 まあ、そうなんだけど。
 ちなみに、キリスト教の納骨は亡くなった一月後に行うのが通例。カトリックもプロテスタントも、その点は同じだ。仏教だったら、49日のタイミングに行う事が多い。
 キリスト教の納骨式には、神父を呼んで献花をし、聖水で清めるんだけど、その時にも、葬式の時同様神父には幾らか包むのが常識だ。永井さんには、それも教えておく必要があるだろう。
「……」
 俺が色々考えている中、標葉はじっと俺の方を眺めていた。
 ……あ、永井さんの居場所、ね。
「どうして、ここの娘と知り合ったの? ナンパ?」
 が――――標葉はその催促じゃなく、突然そんな事を聞いて来た。
「流石に、10歳以上も上の他人に声をかける勇気はない」
 厳密に言えば、老若男女に関わらず、いきなり他人に話しかけると言う高等技術は供えていない。仕事で必要なら、何ら躊躇なく出来るんだけど。
 その点も踏まえ、俺は永井さんと知り合った際の事を簡単に説明した。
「……説明?」
「そ。親父さんに、自分の墓の事を説明して欲しいって。俺だって、そうそう詳しい訳じゃないんだけど」
 答えつつ、標葉の表情を眺める。いつ見ても、その顔は一つ一つのパーツのバランスが良い。頬の面積とか、目の角度とか、そう言うのも全部しっかり計算して作ったかのようだ。眉も描いてないみたいだし。凄まじい天然モンだ。
「妙ね……って言うか、妙だって思わなかったの?」
 その端整な顔をしかめて、標葉は呟く。
「まあ、そりゃ変だとは思ったよ。でも、何かを疑う程の事でもないだろ」
 確かに、赤の他人にいきなり自分の家の墓を説明して欲しい、なんて頼むのは不自然だ。とは言え、その後の永井さんの様子を見てると、何となく想像がついていた。恐らく――――娘としての責任を果たしたかったんじゃないだろうか。ちゃんと貴方が眠る墓はありますよ、と。それを第三者に説明させて、信憑性を強めたかったんじゃないか?まだ生きている親に対してそんな事を言うのは、正直どうかと思う。ただ、重病で残り少ない命と自覚している人間は、自分の死後を酷く気にする傾向が強く、自分の墓はちゃんとあるのか、と父親の方から聞いた可能性だってある。いずれにせよ、十分あり得る事だ。
「その可能性も、一応あるとは思うけど」
 けど、俺の説明に標葉は納得しなかった。
「それなら、もっと年配の人に頼むでしょう? わざわざ10代の、いかにも頼りがいのなさそうな、うだつの上がらない、石ころみたいにその辺に転がってる男にその役を頼むと思う?」
「お前、口を開ける際に毒舌吐かないと心臓が縮む呪いにでも掛かってんのか?」
「何言ってるの?」
 ……毒舌の自覚がないのか、コイツは。改めさせる事も出来ねーのかよ。嘆息を禁じえない。
「偶々、俺だけがそこにいたから、仕方なくだったんだろ」
「私なら、『知り合いにお墓に詳しい年配の方はいませんか?』って聞くけど」
 む、それは確かにそうだ。それなら、又兵衛さんを紹介しただろう。でも彼女はそうしなかった。そこまで頭が回らない程、切羽詰っていた訳でもない。
 奇妙な違和感。ずっとそれは、感じてはいた。
 いたんだけど――――
「何かあったのよ。若造に説明させる理由が。それを聞きに行きましょう」
 標葉は、俺の肩を掴み、案内を促す。こんなトコを三宅や左京に見られたら発狂モノだったけど、幸いにも、そいつらは近くにはいない。
「……」
 が、飲み物を持ってきてくれた水谷さんが現れた。
「あの、お茶を……」
「あ、ああ。ありがと」
 その顔は、ごく普通に笑顔だったんだけど……なんだろう。何故か、後ろに黒い霧みたいなのが見える。
 疲れてんのかな……
「あの……いえ。えっと、もう一人の男子は」
「あいつはどっか行った」
「そうですか。では、こっちは標葉さん、どうぞ」
 水谷さんはニッコリ微笑みながら、標葉に新商品『飲む焼き豆腐』を渡す。そして、軽く会釈した後、奥へ戻って行った。
「随分と懐かれてるじゃない」
「そうか?」
「笑顔で私の事を睨みつけて来たもの。宣戦布告のつもりだったのかも」
 ……何?
 標葉的解釈によると――――水谷さんが俺に好意を持ってる、って事なのか? もしそうなら嬉しいんだけど……この女の言う事は素直に信用出来ないからなあ。
「……締まりのない顔」
 標葉は俺の頭をコツンと殴り、先へ進んだ。
「おい、待てよ」
「さっさとしなさい。余り時間はないのよ」
 永井家の墓が墓でなくなる――――そんな危機感はとんとなく、俺はなんとなく奇妙な感情を持て余しながら、駆け足で標葉を追った。


「お墓参りですか……?」
 家庭用祭壇の前で、永井さんと対峙している標葉は、真剣な顔で頷いていた。
「はい。どれくらいの頻度で訪れていらしたのか、お話頂けないでしょうか。不躾で申し訳ありませんが」
 その言葉遣いは、普段俺に使っている罵詈雑言からは想像もつかない、やたら品のいいもの。猫被りに関しては相当な実力派だ。
「ええと……お盆とお正月に一度ずつ、くらいですけど」
「間違いありませんか?」
 ズイッと、顔を少し前へ出し問い掛けてくる標葉の迫力に、永井さんは思わずたじろぎ、俺の方に視線を向ける。とは言え、俺がフォロー出来る筈もない。実際に墓参りしているのを見てる訳じゃないし、嘘を吐いている筈がない――――と言えるほど、彼女の人間性について知ってる訳でもない。
「は、はい。間違いなく、参ってます」
 その答えを受け――――標葉は顔の位置を戻し、思案に耽る体制を作った。
 つーか、それ聞くだけの為にここに来たのか? もっとこう、『そう来たか!』って感じの気の利いた質問はないのか。
 ……ないみたいだ。俯いてるけど、あれは多分、今にも唸りそうな顔で悩んでるに違いない。
「永井さん。俺も質問あるんですけど」
 仕方ないんで、選手交代。
「何で、俺に墓の事を説明させたんですか?」
 自分なりの回答を得ていたのと、永井さんへの配慮から、控えていた質問。一段落ついた今なら問題ないだろう。
「それは……」
 そんな素朴な疑問に対し、永井さんは意外にも回答を言い淀んでいた。聞かれる事を想定してなかったのか? それとも――――第三者がいる事で、不都合が生じるような内容なんだろうか。いつの間にか、標葉も顔を上げてその様子を眺めている。
「その……父を、安心させたくて」
「安心?」
 俺の声に、永井さんは小さく頷く。そしてその後、父親に対する感情を、ゆっくりと話し始めた。
 要約すると――――想像通り、永井さんと父親の関係は、良好ではなかったと言う事らしい。タバコ、酒、女と言う男の三種の神器を余す事なくフル装備していた父親に愛想を尽かし、母親は永井さんの大学卒業を期に離婚したそうだ。ロクでもなしの父は、その後更に堕落の一方。永井さんはその親から逃れるように、卒業後地元の出版社に就職し、一人暮らしを始めた。
 で、転機が訪れたのはつい二週間前。実家の近くの病院から、『父親の入院代が滞っている』と言う連絡が永井さんの携帯に入った事。それまでは貯金から支払っていたが、それが尽きたらしい。既に離婚している母親へではなく、子供の彼女の方に催促が行ったようだ。もし支払えないなら、引き取ってくれと言う事を暗に言われ、永井さんは慌てて病院へ向かう。そこで初めて、変わり果てた父と対面した。
 肺ガンを煩い、抗がん剤の影響で意識は朦朧としている父親の姿は、驚きや哀れさ以上に、恐怖を感じたと言う。その気持ちは、実感した事こそないが、わからないではない。元気な頃を嫌ってほど知っている親がボロボロになっている姿――――それは、俺が子供の頃、見せて貰えなかった姿だ。
 そんな父親を目の当たりにした永井さんは、少しでも父親の力になりたいと思うようになり、頻繁に病室へ足を運ぶようになった。入院代も、自分が持つ事になった。保険金と控除で賄いきれない分と、ずっと孤独の中にいた父の心の隙間を埋め、少しでも親孝行が出来るように――――その一心で。
 そして、そんなある日、父親がこんな事をポツリと漏らした。
「『親父とオフクロの墓、どうなってるかなあ……俺もそこに入れるかなあ……』と、そう言ったんです。それで、出来れば私以外の人に『ちゃんと管理されてます、大丈夫ですよ』って言って貰いたくて。それで、偶々そこにいた石神さんにお願いしました」
 そこまで言って、永井さんは少し大きめの息を吐いた。まあ、大体俺の予想通りの回答だ。
「どうして、彼で良いと思ったんですか? もっと年上の方でなければ説得力に欠ける、と思いませんでした?」
「いえ。石神さんはとても毅然としていましたから。きっと聡明なのでは、と思いました」
 標葉の疑念を、永井さんは真っ向から否定。まあ、こう言われて悪い気はしない。
 しないが――――
「……わかりました。色々とお答え頂き、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそわざわざお越し下さってありがとうございます」
 最後は大人の対応で、お互いに礼。その後、標葉は遺影と骨壷に頭を下げ、家から出た。
「あの女性、嘘を言ってる」
 そして、突然そんな事を言い出す。
「……根拠はあんのか?」
「勿論」
「聞こう」
 一拍の間。そして――――
「勘」
「勘かよ!」
 期待外れの回答を、俺は全力で蹴り飛ばした。
「勘をテキトーな答えを思ってるみたいだけど、それは浅慮ってものよ。勘って言うのは、経験に裏打ちされた……」
「そう言うのは良いから。ちゃんと理詰めで言え」
「私の知っている石神って生徒は『聡明』なんて表現をされる訳がない、ポケーっとアホ面晒してる生徒だからよ」
 結局、最終的に出てきたのは悪口だった。
 まあ……そこは確かに引っかかる。一応、俺なりに誠意は尽くしたつもりだけど、そう言うのはぶっちゃけ、関係ないと思うんだ。
 わざわざ第三者に頼んだのは、父親への説得力が必要だった訳で、それは俺の態度がどうこうって問題じゃない。年配の人が保証する事で、ようやく安心が得られる筈。青二才がちょっとキリッとしてるくらいで、その保証が同格になるかって言うと、とてもそうは言い切れない。
「んじゃ、お前は永井さんが実際には墓を参ってない、って思ってるのか? 俺の見てる前で、あの人は墓に行ってるんだぞ?」
「それが、嘘だとしたら?」
 標葉は、微笑を携えながら、そんな事を囁く。
 嘘呼ばわりされて、俺の頭には一瞬、相当量の血が上った。唯でさえ振り回されっぱなしなのに、信用すらされていないとなれば、怒るなと言う方が無理だ。
 けど――――疑惑を持っているのは、俺も同じ。その、何処か後ろめたい気持ちが、ギリギリの所で感情の爆発を抑えた。
「冗談よ。あの女が私のやってる事を知らない以上、嘘を吐く理由は見栄を張る程度でしょう。貴方を誑かしてまで見栄を張る必要はないものね」
 今度は、意外にも理詰めの根拠を述べてきた。相変わらず、掴み所のない女だ。そもそも、これだけ中身と外見がチグハグな人間も珍しい。これも、ある種の食い違いなのか。
 ……ん?
「これと言って思いつく事もまるでなく、風に吹かれるままに私達は途方に暮れる……また名言が誕生した瞬間を分かち合えた気分はどう?」
「お前の将来の目標が詩人なのはわかったから、ちょっと黙ってろ」
 一瞬、何かを閃いたんだが――――ダメだ、具体的な形になって出て来ない。
「何? 何か思いついたの?」
 俺は、期待に標準サイズの胸を膨らませている標葉に対して首を振り、虚空に吐息を散りばめた。
「真面目に考えなさいよ。このままだと、貴方の御贔屓にしてるあの女が消えるのよ?」
「贔屓にしてる訳じゃねーよ。そりゃ、お客になってくれる可能性もあるから、無碍に出来ないってのはあるけど」
「……ふーん」
 俺の回答に何を思ったのか、標葉は覇気のない顔でそっぽを向いた。
「そもそも、その件に関しては、永井さんを今からでも墓に連れて行けば解決だろ。つーか、今後納骨もされる訳だし、現状で墓として十分意味を成しているから、もう大丈夫なんじゃないか?」 
 今ひとつ、墓が墓である条件って言うのをまだ完全に理解してない俺は、半信半疑ながらそう聞いてみる。
 結果――――
「……」
 標葉は『それもそうだー』と言う、なんとも締まりのない顔で立ち止まった。
 こいつ……こんな顔もすんのか。これだけ美人なのに、何でこうも感情表現豊かなんだろう。いや、美人ってなんか能面みたいに顔変わらないイメージあるからさ。
「早速確認に行きましょう」
「俺は世話役代表だから、離れられないぞ」
「……」
 標葉は今度は『なんだコイツノリ悪いな』って顔――――要するにジト目で俺の方を睨み、徐に携帯を取り出した。
「ん」
 で、この一声。訳すなら、『とっとと携帯番号教えろ』って事なんだろう。
 ……ま、いっか。
「イタ電すんなよ」
「そっちこそ、ヒワ電しないでよね。いい弁護士知ってるんだから」
 ヒワ電って何さ。秘話とか悲話を話す電話? ワケわからん。
「電源切ってたら自転車のブレーキ、ガバガバにしてやるから」
 最後に呪詛を振り撒いて、標葉は【レクイエムガーデン 紫苑の森】へと向かった。
「あれ? 今の標葉さんじゃなかった?」
 それと入れ替わりで左京が現れる。
 危ねーな……もし鉢合わせしてたら、何言われるかわかったもんじゃない。
「気の所為だろ。あれは永井さんの知り合いだ」
「えー、あんな美人がまだこの世にいるの? って言うか、永井さんって人も美人だよねぇ。どうなってんの、石神の周辺」
 確かに……最近、妙にそう言う女性と知り合う機会が立て込んでる気がする。良い傾向だ。なにせ、これまでそう言う縁が全くなかったしな。ここらでちょっとテコ入れするか、って感じで神様がナイス采配してくれたんだろう。その所為で、最近面倒事が立て込んでる辺り、女難の相が出てるような気もするが。
「でも、ああ言う美人の女の人達ってさ、意外と性格が……ってパターンも多いんだよねぇ。標葉さんはそんなコトないと思うけど」
 いや、それ大当たりだよ、標葉に関してだけは。人間、外見だけじゃ中身まではわからないもんだ。
 ……ん? なんだろう。また何かが引っかかった。
 外見だけじゃ、中身まではわからない。当たり前の事だ。標葉と知り合ってからは、ずっと感じてた事だし。
 でも、何だ。何か。何かが、引っかかる。それは果たして、人間にだけ言える事なのか――――?
「そう言えば、三宅はどうしたの? さっき見たけど、お目当ての女子にフラれた時の、例の残念な顔してたよ」
「ああ、まさにそれなんだけど」
「またかぁ。ホント、ホレやすいよねぇ。仕方ないから、慰めてくるよ」
 そんな言葉を残し、左京は奥へ戻って行った。何だかんだで、あいつ等は仲が良い。俺より付き合い古いみたいだし。あんまその辺の事は良く聞かないんだけど。
 さて。もう弔問客も来そうにないし、一休みしようかな――――と思ってた矢先、携帯が震え出す。標葉だ。さっき登録した『しねポン』って字が出てる。
『もしもし』
『重大な懸案が発覚したんだけど』
 第一声、またそれか。
『改善されてないのよ、全然』
 つまり――――まだ墓が消えかけてるって事か?
『何でだよ。十分墓として機能してんじゃねーか』
『そうなのよ。それなのに……どうして?』
 俺に聞かれてもな。
『依然として、状況的には厳しい感じ。数日中に消失する可能性もある』
『……それは困ったな』
『ええ。最悪よ』 
 標葉は、そう言い切った。自分に降り掛かった災厄のように。
 俺が、どうしても標葉兄の言葉を信じ切れない理由。それが――――これだ。何処までも必死に、且つ健全に行動している。妄想に取り憑かれた人間の持つ特有の、病的な雰囲気は微塵もない。口は際限なく悪いけど。
『取り敢えず、今日明日どうにかなるって訳じゃないんだろ? だったら、もう少し時間を掛けて考えてみよう。正直、今日は俺、頭が回らないくらい疲れてる』
 だから、ついこんな建設的な事を言ってしまう。
『……わかった。私も、別の角度で考えてみるから。明日の放課後、空けておいて』
 標葉は、俺のそんな思いを汲んだのか、割とあっさり従って、電話を切った。
 その後も、まだ色んな面倒事が残ってはいたが――――特に記憶に残る事もなく、その日は終わった。
 

 翌日。
『台風12号ですが、勢力は依然維持したまま、速度を上げて北東へと進路を変えています。注意を――――』
 この日の俺は、早朝から天気予報によって凹まされていた。
 いつの間にか、進路予想図にこの街が含まれている。台風なんて気まぐれな推移をする事が多いけど、この台風はちょっと異常だ。90°以上ひん曲がってる。
「……大丈夫かな、このアパート」
 それでも、中央からはかなり外れている『強風域』だった為、その程度の心配には収まっていた。


 薄い雨の幕がたなびく中、放課後の喧騒が渦巻く教室内で、俺の周囲にはいつもと変わらず、三宅と左京が屯していた。そして、その第一声もまた、ここ数日殆ど変わりがない。
「石神……今日こそ吐いて貰うぜ。嫌とは言わせねえ。こちとら、貴重な放課後を潰されてんだからな。で……お前、標葉さんの何なんだ?」
「そうだよ。今日と言う今日は正直に話してよ。じゃないと、妄想内で邪魔するんだよ、石神が」
 ズイッと顔を寄せる両名を、シャベルで殴り倒したい――――そんな衝動を抑えつつ、嘆息。良い加減、この件を引っ張るのは止めて欲しい。
「だから、只の人違いだって」
「もうそれはいいっつーの! お前だって無理があるってわかってて言ってんだろ?」
 確かに……もう何度も目撃されてるしな。俺と標葉が一緒にいるところを。とは言え、どう説明すればいい? 今の俺と標葉は、友人関係でもなければ、敵でも味方でもない。当然、俺すら半信半疑の標葉の能力なんて、言える筈もない。俺が電波扱いされる。
「どうなんだよ!」
 そんな俺の苦悩を知る由もない二人は、何故かやたら怒気を含んだ顔で問い質してくる。仕方ない……確かに三宅の言う通り、恩義が出来た以上ダンマリは出来ない。全部は話せないが、最低限の事を言ってしまおう。
「わかった。知り合いだって事は認める」
「認めたぞ! コイツ、標葉さんの知り合いだって認めたぞ!」
「なーーーーーーにーーーーーーー!? マジかよ! どうなってんだよ!」
 そんな理不尽な怒りに身を焦がしたのは――――三宅と左京じゃなく、周囲の男子連中だった。猛烈な勢いで俺の席に集ってくるその数、実に10余名。ロクに話した事もない奴まで混じっている。
「おい! どうして標葉さんと知り合いになれるんだ! 言え! 言えや! 寧ろ1000円払うんで言って下さい!」
 どの辺が『寧ろ』なのかは知らないが、金銭の授与まで発生しそうな勢いだ。
「なら俺は1200円払うぜ!」
「何を隠そうこの俺は1300円を持っている! 全財産払うつもりだ!」
「この貧乏人どもめが、黙ってろ! 俺は1350円支払う準備が整った!」
 そして、気付けばオークション会場になっていた。金額がみみっちい上に、いちいち大声で怒鳴るんで、やたら煩わしい。
「おいおい、お前等落ち着けって。何興奮してんだよ? みっともねーぜ」
 そんな愉快な男子連中を、三宅が気障ったらしい態度で制する。勿論、それは友人を守るとか、女性の情報を金で買うなとか、そう言う倫理観に基づく行動じゃない。俺とのコネクションを最大限利用して、独り占めする為の行動だと断言する事に、なんら躊躇は必要ないだろう。
「お前等みたいな、石神にとって垢の他人の一つ手前の、只のクラスメート共の出る幕じゃねーぜ。斯く言う俺は何を隠そう、この石神の大親友。格が違うんだよ、格が! 雑魚共は引っ込んでな!」
「さすが三宅。発言の一つ一つが絵に描いたようにバカだなぁ」
「そりゃそうだ。三宅からバカを取ったらマザコンしか残らない」
「……お、お前、それ言っちゃダメ……」
 あ、ついうっかり三宅の秘密を喋っちゃった。
「認めたぞ! コイツ、マザーコンプリートボックスだって認めたぞ!」
「ぬぁーーーーーーにーーーーーーー!? マジかよ! おい、大ニュースだ! 拡散しろ拡散!」
「ち、違う! 俺はそんな変態じゃねぇ! ああっ止めて! 隣のクラスに言い触らさないで! ひーーーーーーーーーん!」
 後に『三宅の乱』とでも呼ばれそうな騒動が勃発する中、俺は微妙に安堵しつつ、教室を後にした。
「……なんだかなあ」
 喧騒が去り、静かな教室が戻って来ても、気は晴れない。
「どうしたのさ。元気ないけど。実は標葉さんに告白して撃沈したとか?」
「それはウチの担任だろ。三宅同様、炎上してるぞ」
 本日、このクラスの担任は欠席している。その噂として、先日標葉に告って撃沈したとか。ついに教師まであの女にイカれちまったって訳だ。最早小悪魔を飛び越えて、魔王レベルの女になったんだな、標葉さん。
「ま、何か良くわからないけど、元気出しなよ。じゃ、また明日」
「ああ。昨日はサンキュな」
 妄想癖を発揮しない時の左京は、比較的まともだ。少なくとも三宅より。
 妄想癖……か。
 自分の独白の言葉に、またあの女の顔が浮かんでくる。最近、こんなんばっかだな。気付けば、あの女の事を考えてる気がする。これじゃまるで、恋する中学生だな……アホみたい……
「ふぁ……」
 ここ数日の疲労が、教室の静けさと相成り、眠気を誘う。普段学校で寝るなんて事はないんだけど……今日はちょっと休んで行くか。30分くら……い……


『お兄ちゃん、遊ぼ。遊ぼうよ〜』
 少しぼやけた空間の中に、そんな声が響き渡る。気付けば――――俺は、古い家屋の中で、扇風機に当たって寝込んでいた。暑いのか寒いのか、良くわからない。わかってるのは――――俺の傍で、由香がグズついてるってだけだ。
『今、疲れてるんだよ。後でな』
『や〜〜だ〜〜〜! 今遊ぶの! 遊ぶの〜〜〜!』
 幼い妹は、物事の分別が余りつかない。自分のしたいように、楽しいように行動する。それを諭すのが俺の役目だって、いつも母さんに言われてるんだ。だから――――
『あんまり駄々こねると、ぶつぞ』
『え〜〜っ、ヤだよ〜〜。お兄ちゃんのゲンコツ、痛いよ〜〜。ヘタだもん、叩くの〜』
『お前……兄をツッコミのヘタな芸人みたいな扱いすんなよな。叩くのに上手いも下手もあるか』
『だって〜〜』
 由香は、夕食まで我慢しろと言われたお菓子をまたコッソリ食べながら、不平不満を垂れている。いつもの事だけど、腹立たしい。俺だってお菓子食べたいんだ。
『あんまナマイキ言うと、海に連れて行くぞ?』
『海ヤだ〜〜! 海コワい〜〜〜!』
 泳げない由香は、海が嫌いだった。プールも嫌いだけど、海は更に苦手。しょっぱい水を飲む羽目になるからな。
『も〜〜、お兄ちゃんバカ! バカお兄ちゃん! いいもん、由香一人で遊ぶから〜〜!』
『はいはい、バカでいいですよ。一人で遊んで来い』
 特に疲れてもいなかった俺は、ロクに由香の方も見ずに、さっさと追い返した。
 今日は、ゲーム機が何個もあるイトコのお兄ちゃんの家に遊びに行くんだ。今あいつに構って体力使いたくない。徹夜で遊ぶんだもん。
 だから、これで良い。これで良いんだ。
 これで良かった――――


 ――――訳もなく。
 俺は、この一連の映像が夢だと言う事を、意識が戻る少し前にようやく自覚した。同時に押し寄せてくるのは――――後悔。この日、この時の対話が、俺にとって最後の……由香との会話だった。
 未だに、月に一度は見るこの夢、きっと細かい点では現実とは異なっている。会話の内容も、必ずしも一致しないだろう。記憶がそうであるように、夢が現実を正しく投射している訳じゃない。ただ――――俺がこの日、いつものように由香に素っ気なくした事は、間違いなく事実だった。
 そして、それが最後だった事もまた、現実。俺はきっと、この回避しようのない後悔をずっと、ずっと引きずっていくんだろう。例え、妹を掘り起こせても。
「……何だかな」
 やり切れない思いを言葉で強引に消化し、顔を上げ――――
「ふわっ!?」
 その瞬間、目の前に顔が現れた。
 女子の顔。かなり驚いている様子だったが、それはこっちも同じだ。
「な、な……何してんの、水谷さん」
「すすす、すいません。わわわ、悪気があった訳じゃ……いえ、あの、決して寝込みを襲おうとか……」
 ……何か、とんでもない事を言われたぞ、今。
「ああっ!? ちっちっちっちっ違うんです! 決して……決して強制わいせつ行為をしようなんて思ってませんから!」
「……強制……?」
「ちっ、違うんですーーーーーーーーーーーーっ!」
 水谷さんは、もの凄い勢いで走り去って行った。
 ……俺、何されようとしてたんだろう。気付けば、周囲にはもう誰もいない。放課後になって、結構な時間が経過していた。
 夕焼けが差し込む訳じゃないけど、少し黄昏る。なんか、色々考え込むのが馬鹿馬鹿しくなって来たな。
 そんな――――俺の気分転換を待っていたかのように。
「随分、大胆な事してんのね。教室内で性犯罪なんて」
 標葉は、まるで自分のクラスの友人にでも話しかけるかのように、ごく自然に声を掛けて来た。何時の間にそこにいたのかはわからないが――――俺の隣の椅子に平然と座っている。
「俺は被害者だっての。未遂だったみたいだけど」
「どうだか。鼻の下伸ばしてボーっとしてたし、イチャイチャし足りなかったんじゃないの? みっともない……3000回発酵したシュールストレミングを鼻に詰めて死ねばいいのに」
 標葉は、いつも通り、本当にいつもと変わらない口調で、罵ってきた。ま……良いけどね。
「で、俺はこれから何処へ連れて行かれるんだ? あんまり遠い所は嫌だぞ」
「……」
 頭を掻く俺に対し、標葉は何も答えず、ただじっとこっちを眺めていた。その意図は――――わからない。感情も読み取れない。表情豊かなこの女にしては珍しく、無表情でじっと目を向けている。
「他に、聞きたい事があるんじゃないの? 私に」
 俺のさっきの質問は、そんな曖昧な質問で書き換えられた。
 聞きたい事――――そりゃ、山ほどある。きっと昨日辺りから、顔にも出てたんだろう。もしかしたら、標葉兄が何か吹き込んだのかもしれない。
 何にせよ。
「じゃ、遠慮なく聞かせて貰うか」
 一番聞きたい事は、これしかなかった。
「お前、妄想癖があるって本当か?」
 これだけ聞ければ、後はどうとでもなる。でも、一つ間違えば、今までの関係を全て壊すような危険を持った、爆弾のような質問。普通なら絶対、聞かない。
 この女相手だから出来る事――――でも、ないのかな。
 やっぱり、それでも後悔はしたくないんだろう。俺は。
 そんな決死の問い掛けに対し、標葉は……やけに目を丸くして驚きを顕にしていた。
「……っ」
 そして、顔を背け、何かに耐えるような仕草を見せる。が、その細い身体は、小刻みに震えていた。
 こいつ。まさか。もしかして――――泣いてる?
 マズい……直球勝負が裏目に出たか? 幾ら毒舌女が相手とは言え、もっと気を使うべきだったのか?
 こう言う時、どうすれば良いんだ……?
「……」
 そんな俺の懸念を背に、標葉は徐々に身体の震えを止め、落ち着きを取り戻している。
「……っ!」
 しかし、直ぐに破綻し、再びビクッと震わせた。
 ……っつーか。
「お前……笑ってんな?」
「笑ってなんて、いな……いない……ふぅ、笑ってなんている訳ないじゃないふふっ」
「語尾! 笑ってんじゃねーか!」
 この女……こっちが殊勝な想像してたのを文字通り嘲笑いやがったのか。深刻になって大損だ。
「妄想癖、ね。いかにも、あのバカの言いそうな事。にしても……そんな事、直接本人に聞く? 本当、呆れた」
「煩いな。こっちだって色々迷った末の英断だってのに……」
 気恥ずかしい。そんな俺を、標葉はニヤニヤしながら見ている。
 普通なら、性格悪い邪悪な顔の筈なんだが、コイツがそれをすると『魔性の美女の妖艶な笑み』の出来上がりだ。人間、不公平に出来てるよな、ったく。
「にしても、良くわかったな。お前の兄貴の受け売りだって」
「他に誰がそんな発想するのよ……で、貴方はそれをあっさり信じ込んで、私を妄想に取り憑かれた痛い女と思い込んだ、と。道理で、最近の態度が煮え切らない訳ね」
 やっぱり気付かれてたのか。 
「それにしても、許し難い誤りね。この上ない屈辱。どうしてくれようかしら」
 標葉は、特に語調を荒げるでもなく、スラスラとそんな事を言い放った。気の所為か――――寧ろ、嬉しそうにすら見える。相変わらず、良くわからない奴だ。
「そんな事言ったって、しょうがないだろ。俺にはお前の話す『墓の履歴』なんて見えないしな。自分の見えない物を、そう簡単に確信は出来ないだろ?」
「見えるからと言って、鵜呑みにするのも早計よ。世の中、見た目と中身が違うものばかりなんだから」
 ああ、本当そうだな。例えば目の前の女とか。
「で、俺の質問にはちゃんと答えてくれるのか?」
「当然、そんな悪癖を有している覚えはなし」
 標葉は――――そう断言した。それが本当なんて確証、何処にもないけど……俺は、何故か納得してしまった。
 けど、納得行かない部分もある。
「だったら、どうしてお前の兄貴はそんな下らない嘘吐いたんだよ」
「……さあ、ね。心当たりがない事もないけど」
 途端に、標葉の歯切れが悪くなる。語りたがっていない。やっぱり、兄妹仲はかなり険悪なのか?
「ただ、一つだけ私が言えるのは……」
 標葉は、それを露骨に顔に出しながら――――そして同時に、何処か寂しげに、呟いた。
「あの男は、私より遥かに優れたハカホリだって事」
「……何?」
 標葉兄――――あの妙に軽い神父が、ハカホリ? 当然、標葉の言うハカホリは、墓捕吏の方の事なんだろう。つまり、あいつにも……視てえるって事か?
「ま、それは別に良いんだけど」
「いや……よかないだろ。割と衝撃受けてるぞ、俺」
「何? 私がハカホリだって明かした時より驚いてるの? 何で?」
 そう言う訳じゃないんだけど……お前こそ、何故イラついてんだ。
「優れたハカホリって事は、お前の見えてないデータまで見えたりしてるのか? お前の兄は」
「随分、あの男に御執着ね……別に良いけど」
 自分から振った話題の癖、標葉はずっと不機嫌だった。
「視えてるモノは同じよ。墓の履歴だけ。個人名や性別はわからない。でも、あの男は……『清め』が出来るの」
「清め、って言うと……あの時のアレか」
 あの初めての遭遇時、やってた所作。その後、標葉の言う『墓の消失』の危機は去った。それが、清めると言う事なんだろう。
「只の一時凌ぎなんだけど、そうする事で、消失の危機は一旦収まる。墓が祝福を受けるから。それは、家族の絆とは比べ物にならないけど、一定の価値を持っているの」
「それって、神父だから出来る事なのか? それとも、あいつだから出来る事?」
 俺の問いに、標葉は首を横に振る。
「両方、よ」
 そして、心底詰まらなそうに、そう呟いた。
「そっか。確かに優秀なんだな」
 外見では、明らかに『若気の至り』を前面に押し出した神父なのにな。世の中、本当に外見がアテにならない事が多い。
「じゃ、そろそろ今日の行動について聞こうか」
「一緒に帰りましょう」
 その意味不明な言動に、思わず眩暈がする。
「……はい?」
「『一緒に帰りましょう』。何処に難解な表現があるのよ」
「いや、誰も言葉の意味を理解出来てないとは言ってない。つーか、お前何言ってんだ?」
「日本語が通じないのかしら……ウァナヘッホートゥゲデァ?」
 やたらムカつく発音で、標葉は俺を弄んでいた。
 女子と一緒に帰る……それは、健全な男子高校生にとっては途方もないビッグイベントだ。とは言え、相手がこの女である以上、油断は出来ない。気付けば墓場――――なんて事もあり得る。比喩とかじゃなく、実際に。
「何、その顔……私と帰るのがそんなに嫌なの? 逆剥けに殺されたいの?」
「待て。会話分の前半と後半に明らかな断層があるぞ。意味もわからんし」
 何故に嫌がったら殺されなくちゃならない?
「って言うか……それ以前に、お前の家何処だよ。俺のアパートと方向同じなのか?」
「ええ。近所ではないけど」
 決して柔らかみのない、邪悪な笑みで標葉は答える。
 ……ま、敢えて断る理由もないか。この女は基本的に嫌いだけど、毛嫌いはしてない。信じた以上、永井家の墓の件も本腰入れて考える必要あるしな。
「じゃ、帰ろう。一緒に」
「……」
 俺の緊張気味な返答に対し、標葉は笑みを消し、小さく頷いた。なんだろう……『あれ、本気にしちゃった?』みたいなこのリアクション。また、弄ばれたのか? 俺。
「それじゃ、階段を下がって下駄箱で靴を取って、玄関を出て校門を抜けて公道へと出ましょう」
 が、そんな俺の懸念を他所に、標葉は奇妙な説明口調を残し、歩き出す。やけに動きが硬い気がするが……まさか、あっちも緊張してんじゃないだろな。散々強気に出てて、実は男と一緒に帰るのは初めて――――ってのも、あり得なくはないよなあ、コイツの場合。
「遅い! 早く来い!」
「へいへい」
 俺はその疑問を口にする事なく、心中で苦笑して標葉の後に続く。そして、その標葉の言葉通りに行動した結果、気付けば街中。霧雨が舞う中、標葉は傘を差しながら、俺は自転車を押しながら、沈黙を保ちつつ歩く。
 つーか……誘ったんだから、話題くらい振れよ。ま、喋ったところで、出てくるのは墓の話題なんだろうけど。
「……」
 沈黙は、10分にも及んだ。一向に標葉は責任を果たそうとしない。新手の嫌がらせとすら思える。仕方ない……こっちから話題を提供しよう。
「この前、お前を病院で見かけたんだけど。脳でも患ったのか?」
「……第一声が悪態だなんて。どんな淀んだ性格してればそうなるのかしら」
「その言葉はそっくりそのままお前に返そう」
 下らないやり取りを経つつ、標葉は記憶を探るように、顎に手を置いたまま歩く。
「あの天野とか言う女の付き添いで、霊園の近くの病院に行った時の事かしら」
「天野? って、あの花立一つの墓の天野さん?」
 標葉はコクリと頷く。
「偶々、視察に行った時、鉢合わせになって。色々事情聴取している内に、病院に行かないといけないとか言うものだから」
「付き添いじゃなくて、ぶら下がりじゃねーか……ってか、天野家の墓はもう大丈夫なんだろ? 何で視察すんだよ」
「『清め』は、あくまで応急処置なのよ。その時はまだ大丈夫だったけど、今はどうなってるかわからないの。だから、こうして視察に向かってるんじゃない」
 ……はい?
「帰ってるんじゃなかったのか?」
「ええ。貴方の家に一旦帰って、例の『精霊馬1号』を取りに行く。そしてそれで、霊園まで最小の労力で突き進む。何か不満でも?」
「人の自転車に妙な名前をつけるな」
 案の定、墓送りか。皮肉で予想してたのが現実になるとは。
「この天野家の墓も、結局は根本的な解決をしないと、意味がないのよ。あの男の行為はあくまでも時間稼ぎ」
「あっそ。で、何かヒントは得たのか? 天野さんへの質疑応答で」
 標葉は答えない。と言うか、わかりやすいほど大胆にそっぽを向いた。
「おい、しねポン」
「その呼び方は止めて」
 かなり嫌なのか、普段とは違う声色で拒否して来た。でももう遅い。携帯は『しねポン』で登録決定。
「そう言うそっちは、何か思いついたの? 花立が一つしかない理由とか」
 非難から逃れるように、標葉は俺の見解を聞いてくる。まあ、考えてない訳じゃないけど……正直、自信はない。
「三具足、って知ってるか? 仏具の」
「ええ。それが何?」
「要は、それと同じ原理なんじゃないか、あの墓って」
 三具足って言うのは、香炉、燭台、花立がそれぞれ一つずつで一組となる仏具。仏壇の構成の一つ、と考えて差し支えないだろう。ちなみに、向かって右側に燭台、左に花立、中央に香炉と言う配置になっている。天野家の墓にあった唯一の花立は、確か左側にあった。その点では、三具足と一致する。
 とは言え――――三具足はあくまでも仏具であって、それを墓石として表現するって言うのは、ちょっと聞かない。香炉を墓石の中央部、つまり軸石と見立てるにしても、燭台に該当するものはなかったし、正直決定力に欠ける感は否めない。
「つまり……最初から、ああ言うデザインで作った墓、って事? だったら、私のアシンメトリー説が正解だったって事じゃない。あの時は一笑に付した癖に」
 いや、デザイン的な問題じゃなくて、信仰的な問題での話をしてるんだが、俺は。
 とは言え、ここで言い合っても仕方ない。
「で、消失の原因には『宗教の違い』が絡んでるのかな、と思ったんだけど」
 例えば、キリスト教信者を、仏教の墓に埋葬する。果たして、こう言う場合は、墓が墓でなくなる原因となり得るのか。 
「致命的な理由にはならないでしょうね。そういうケースは、意外と良くあるものよ」
 確かに、標葉の言う通りだった。例えば、身元のわからない人間を埋葬する際に、その人の生前信仰していた宗教がわからないから、取り敢えず寺で埋葬する……なんて、結構ある話だ。その墓が多数存在する時点で、消える事由とはなり得ない。
「なら、お手上げ」
「いつもの事ながら、浅慮な男」
 いつもの事ながら、口の悪い女。俺、なんでこんな女の事を信じて、しかも一緒に帰ってんだろ……
 今まで、全く女に――――もとい、同世代の女子に縁のない人生を送って来たってのに、いざ縁が出来たと思ったら、コレだもんな。無駄に顔が良すぎる分、余計に複雑だ。
 って言うか、コイツと知り合って以降、何気に俺って女性との縁が増えてるんだよな。
 水谷さん、永井さん、そして先日知り合った天野さん……
「……あ」
 そこで、一つ重要な事を思い出す。
 天野さんは今、墓を解体して欲しい、って依頼を出している。しかもその後、理由を言わなかった。あれだけ新しい墓石を建て替えるってのは、ちょっと考え難い。これから管理する事が出来なくなるから、お骨を他所に移す――――と言うのなら、まずその理由を言うだろう。墓を建て直すって、結構後ろめたいと言うか、なんか悪い事をしてるような気分になるみたいで、正当な理由がある場合はほぼ間違いなく、それを直ぐに口にする。
「唯一、墓参りに来てる人が、その墓を壊したいと心から思ってる場合って、消失事由になるか?」
 俺の問いに、標葉は再び思案顔を作った。
「そうね。普通に考えれば、なると思うのが自然って言うか、当然って言うか、寧ろそう思わない頭の構造を疑うと断言出来るレベルの話だけど、まさか天野家がそのケースに該当していて、今まで私に黙ってたなんて言うつもりじゃないでしょうね?」
 まさしくその通りだった。
「悪かったな。お前があの花立に拘ってたから、そっちにばっかり頭が行ってたんだよ」
「呆れたものね。自分の痴呆性健忘症を私の所為にするなんて」
「待て! 百歩譲って健忘症は甘んじて受け入れるが、その前の言葉は不当中傷だろ!」
 標葉は憤る俺に、口の端を吊り上げる対応処置を取った。
「何にしても、それが最大の理由である事は明白ね。本当にそうなら、の話だけど」
「……本当なのかよ。お前、詳しい基準とか知らないんだろ?」
「私のハカホリとしての勘が訴えてる。その場合、間違いないと断言するに何ら躊躇はないの」
 全く根拠のない理由を語る標葉の顔は、自信に満ちていた。嘆息しつつ、目を親指と人差し指で覆う。
 その隙間から見える視界の中に――――私服の女性が一人、立っていた。
 俺に気付いたその女性は、ゆっくりした足取りで近付いてくる。天野さんだ。
 天野さんが――――俺に掴みかかって来た!
「どうして壊さねーんだよ!?」
 そして、吼える。
 当然、周囲にいる通行人の視線は、俺に向けられた。
 な、何かこの状況、ヤバくないか?
 まるで、別の学校の女子が単身乗り込んできて、『何でその女と別れないの!?』とでも言っているかのような……修羅場的状況に見えてしまいかねない。
 って言うか、どうして俺、知り合って間もない女性に怒られてるんだ?
「……手を離しなさい」
 怖いってより、呆気に取られて動けずにいた俺とは対照的に、隣の標葉は冷静だった。諭すように、天野さんの暴挙を諌めている。
「うっせー! 早くあの墓を壊さねーと……!」
「と、取り敢えず場所、変えましょう。これ以上注目を集めるのは本格的にマズい」
 ハリネズミのような視線をさけるように、強引に場所移動。最寄のハンバーガーショップへ入り、卓を囲む。
 俺の隣には、標葉が座った。妙に距離が近いんで、ちょっとだけ胸が高鳴るが、今はそれどころじゃない。
「あの……お墓の解体の件ですが、今週末に【光吉石材店】と合同でしっかりやらせて頂きますので、暫くお待ち下さい」
 と言う訳で、営業モードで説明。実際、そう言う事で話はついた筈だ。
「全部終わるのが、週末じゃなかったんかよ? だったら、もう着手してても良い筈じゃん」
 が――――天野さんは取り乱した様子こそなくなったものの、相変わらず強い口調で聞いてくる。
 こう言うクレームは珍しい。仕事柄、少なからず苦情を受ける事はあるけど、その多くは倫理観に基づいたものばかり。段取りに口を挟まれるというのは、殆ど例がない。
「いや、解体は一日あれば出来ますし、こちらにもスケジュールがありますから……」
「そんなの、どうとでもなるじゃん! 今直ぐにでも、壊し始めろよ!」
 他の席の客がこっちに目を向けるくらい、天野さんの声は大きい。
「……何故、そこまで壊したがるの? 身内の墓なんでしょう?」
 そして、それとは真逆に――――標葉のその疑問は、とても小さく、そして尖った声で行われた。
 ……頼りになるなあ。ちょっと好感度アップ。
「あの墓は……」
 そんな標葉に対し、天野さんは少し俯き、そして意を決したように再度顔を上げ、その口を開いた。
「呪われてんだよ」
 瞬間――――標葉と俺は、同時に眉間に皺を寄せた。
 呪い。およそ日常で聞く事の少ない言葉だが、墓に関する仕事をしてる俺には、縁がないと言う事もない。
「あの墓には元々、花立が二つあったんだよ」
 が……そんな天野さんの科白と同時に、過去の与太話は全部吹っ飛んだ。
「どう言う事? 突然、花立の一つが消えた、って言うの?」
「そうだよ。跡形もなく」
 ……どう言う事だ? そんなの、物理的にあり得ない。あり得ないから『呪い』……だとでも言うのか?
「あの墓は、呪われてんだよ。直ぐに壊してくれよな。もし、その呪いが私にまで……そう思うと、怖くて眠れねーんだよ」
 天野さんは、言葉遣いとは裏腹に、やたら怯えた様子で俯いてしまった。
 そしてその後、特に実のある話をする事もなく、一方的に仕事の早期着手を請求し、ハンバーガー店を出て行った。
「貴方は、今の話を信じる?」
 店員の挨拶の声が響く中、そんな標葉の質問が飛んで来る。当然、答えは――――
「信じられる訳がない。呪いなんてこの世にはないし、あった物が突然消えるなんて事もない」
「ふーん。だったら、私のしている事も信用に値しない、と言う事になるのかしら?」
「……」
 吐息が聞こえてきそうな距離で、標葉はそんな事を呟く。
 確かに、理屈の上ではそうだ。墓が墓でなくなり、その家系の者が消失する。それに比べれば、まだ天野さんの言う『呪い』の方が、現実味はあるのかもしれない。
 とは言え、俺は当然のように首を横に振る。
「違うの? どうして?」
「天野さんは、先日あったばかりの他人。お前とは、先日あったばかりの、何度か一緒に問題に取り組んだ仲。その差だ」
 信憑性は、話の中身じゃない。その話をした人間をどれだけ信じられるか。
 俺は、標葉の人間性については、ハッキリ苦手だと断言出来る。けど――――こいつは、いつも一生懸命だ。
「お前、ハカホリって言う役割に対して、常に真面目に取り組んでるもんな」
 要領を得なかったり、理論的でなかったり、不真面目な回答のように思えたり、丸投げみたいな物言いをしたりするけど……いつも、本気で問題に当たっている。何故、こいつがそんなに他人の墓を視る事に執着しているのか、俺は一度も正確な答えを聞いてない。わかっているのは、その姿勢だけ。俺を振り回し、或いは利用しながらも、なんとか答えを導き、『ハカナシ』を――――消失を防ごうとする、その直向きさだけだ。
「表面上だけを見ていたら、決してそうは思えないんだけど……俺の見る限りでは、お前は必死で『ハカホリ』をやってる。だから、不満も文句も多いけど、結局俺はこうしてお前に付き合ってんだよ」
 何となく、ストローを指で弾きつつ、俺はそんな長ゼリフを吐く。気恥ずかしい。とは言え、事実だ。これを伝えない事には、この天野さんの件に関しては、先に進めない気がした。
 そんな、俺の隣で、標葉は――――沈黙のまま、俺の方をじっと見ていた。距離がかなり近いから、その顔が細部までわかる。
 睫毛の長さ。黒目の面積。鼻筋。唇の厚さ。全部、わかる。
 まあ、何と言うか……改めて、よく出来た顔だ。俺がもし生まれ変わって、女になるって言うなら、この顔を選びたくなる。それくらい、美人。
「……ん」
 その、直ぐ隣にある顔が――――不意に、更に近付いて来た。
 ……?
 今、何が起こった?
 俺は、一体……何をされたんだ?
「早く天野家の墓に行きましょう。何かわかるかも知れないし」
「……は?」
 呆ける俺に対し、標葉は淡々と――――と言うには少々早口過ぎる言葉と共に、席を立った。
「お、おい。今、お前……」
「もう直ぐ取り壊すんでしょう? それまでに解決して、取り壊しを止めさせないと」
「……いや、ちょっと待て。今の、何なんだよ」
 喧騒に囲まれ、俺達の会話は他の客には聞こえていない。そんな中で、俺は標葉の手を取った。
「どう言う事だよ?」
 俺は、明らかに取り乱していた。だって、そうだろう。俺のこの、唇に残る小さな感触と、その行為の持つ意味を考えれば。
 動揺するなって方が無理だ。
「どう言う事も何も……キス。口づけ。接吻。ちなみに、フレンチキスって言うのは今の行為には該当しないから、それは間違えないように」
「いや、だからそう言う事じゃなくてな! ……あ」
 思わず大声を出した結果、喧騒すらも飛び越えたらしく、周囲の注目が再びこっちに向く。
「……取り敢えず、出よう」
「ええ。私はとっくにそう提唱してたものね」
 標葉は、さっさと自分の分の支払いをし、店を出て行く。
 あいつ、何考えてんだ? こんな、公共の場で……いや、この際場所はどうでも良い。
 キス、だって?
 自慢じゃないけど、異性は勿論、親類同性動物昆虫、あらゆる生命に対して唇を触られた事すらない俺にとって、当然それは初めての行為だ。それが、こんな、突然、いきなり、あっさり……
「あの……お客様?」
「あ。す、すいません」
 レジ係の人促され、慌てて1000円札を出し、店を出る。その直ぐ近くで、そっぽを向いた標葉が待っていた。
「さ、早く行きましょう」
「いやいやいやいや、誤魔化すなよ。さっきの件だよ。正直、天野さんの墓よりこっちが今は大事だ」
「そう? それじゃ、質疑応答は自転車の上で聞きましょうか」
 標葉の視線の先には、俺の住むアパートがある。いつの間にか、もうそんなに歩いてたのか。
 ……二人乗りで漕ぎながら喋るの、結構キツいんだよな。
 そうは思いつつも、結局言われた通り、俺は普段より重いペダルを漕ぎ、【レクイエムガーデン 紫苑の森】を目指す事にした。
「……で、聞きたい事は何?」
「決まっ……てんだ……ろ。さっ……きの事……だよ。どう……して、はっ……はっ……坂キツ……どうして、あんな……真似した?」 
 息切れと戦いながらの俺の問い掛けに、その俺の肩に手を置いている標葉の回答は――――驚くほど早く飛んできた。
「好きだからに決まってるじゃない。前にも言ったでしょ?」
「……え」
 確かに言った。鮮明に覚えてる。保健室での一幕だ。
 でも、あれは……どう考えても、そう言う『好き』じゃなかったと思うんだけど……違ったってのか?
 ごく普通に、10代が異性に対して言うところの『好き』だった、ってのか?
「……まさか、私の一世一代の告白を、覚えてないって言うんじゃないでしょうね」
「覚えてます。覚えてますとも」
 思わず漕ぐのを止め、否定。
「いや、でも待て。あれが告白……? あんな、去り際にしれっと言い放った、あれが? 嘘だろ? とてもそう解釈出来ねえぞ」
「嘘言ってどうするの? 好きだから、好きって言ったってだけじゃない。他にどんな解釈が成り立つってのよ」
 標葉の口から、次々と『好き』って言葉が出てくる。
 ちょ、ちょっと待て。待ってくれ。本当、ちょっと待ってくれ。
 ……ええええええ?
 何がどうなってんのか、サッパリだ。俺は、標葉百合に、男として好かれてるってのか?
 いや待て、それはおかしいだろう。この、明らかに俺とは性格の合いそうにない、容姿も釣り合いそうもない、ミス秀英に飛び級で選ばれたような女子が、俺を? あり得ないだろ……仮にあるとすれば、それは3回くらい立て続けに命救ったケースくらいだ。勿論、そんな劇的な場面、今まで一度もない。あーだこーだと言い合って、あーだこーだ悩み合って……それだけだ。友達、とすら呼べない間柄だと、俺は認識してる。それが、どこでどう間違ったら……そんな事になるんだ? 
「混乱してるみたいね、マコちゃん」
「ちょっと待て! その呼び方も明らかに変だ! って言うか、お前、なんで俺の名前知ってんだよ!」
 そもそも、こいつには苗字すら呼ばれた記憶がない。
「だから、何度も言わせないでよ。って言うか、わざと言わせてるの? そんなに、私に好きだと言わせたいの?」
「いや! あの、その……」
 ここまで来ると、もう二の句すら繋げない。からかってる訳でもなさそうだ。正直、もしこれが冗談だってんなら、流石に縁を切る。向こうも、それくらいはわかるだろう。
 つまり……本当、って事なのか?
「……どうして? 好きになる所なんて、ないだろ。俺には」
「そっちこそ、どうしてそんな決め付けをするの?」
「いや……なんつーか、枯れてるし、俺」
 容姿は、並。成績も、並。こんな仕事してるから、体力だけは多少あるけど、それでも各部活の主力選手級ほどじゃない。悲しい哉、出会ってまだ日も浅い女子に好かれる要素なんて、自分でも見つけられない。
 強いて言えば――――同じ『ハカホリ』である点。同世代の人間に、墓に関わる仕事をしている奴なんて、まずいないだろう。その連帯感と言うか、共鳴と言うか……仲間意識みたいなのは、俺も持ってるかも知れない。
 でもそれは、人間的好意にはなっても、男女間の好意には結び付きそうにない。
「枯れてるかどうかは知らないけど。好きなものは好きなんだから、素直に受け取りなさいよ。あと、早く移動再開」
「は、はい」
 言われるがまま、より重くなったペダルを漕ぎ出す。
 素直に……なんて、無理だよなあ。この皮肉屋の言葉を、正面から受け止める事すら難しいのに、まして『好き』と来た日には。どう対応して良いか、全然わからない。
「別に良いけど。気にしなくても」
 そんな俺の狼狽ぶりを察してか、後ろの標葉はそんな事を言ってきた。
「私が、勝手に好きなだけだし。そっちには嫌いって言われてるし。だから、今まで通り、貴方は私のスレイヴな助手として働けばそれで……」
「待て。殊勝な物言いの果てが奴隷ってどう言う事だ? 何処で軌道を間違えた?」
 つーか、好きな相手にそんな境遇を強いるって、どう言う精神構造してるんだよ。サディスティックバイオレンス過ぎるぞ。
「兎に角。私は別に、両思いになろうとか、付き合おうとか、そう言う事は望んでないから、これまで通り接しなさい、って言ってるの。わかった?」
「……わかんねーよ」
 何が何やら、だ。そんな一方的な感情、あり得るのか? 好きな相手に好きになって欲しいって、普通は思うもんじゃないのか? それとも、俺が恋愛に関して素人過ぎるのか?
 ……本当、全然わからない。
 そして、そうこうしてる内に、もう【レクイエムガーデン 紫苑の森】に到着してしまった。この心臓の暴れ具合は、単なる心肺への負荷によるものだけじゃないだろう。まさか、自分の人生の中で、こんな事が起こるなんて。
 ど、どうするべきなんだろう。自分の気持ちが、わからなくなってくる。
 あいつの事は、決して好きじゃなかった。でも、好意を向けられれば、そりゃ意識しない訳にはいかない。困った……俺のキャパシティを大きく超えた出来事だ。
「早く来なさいよ。自転車止めるのにいつまで掛かってるの?」
「あ、ああ」
 標葉の声に引きずられるように、その後姿に続いて歩き――――天野家の墓に辿り着く。
「……」
 ふと、その入り口付近で、標葉が立ち止まった。肩越しに先を眺めると、先客がいる事が確認できる。一目でわかる、スータン姿。標葉兄だ。
「お? 何だ、また来たのかい」
 相変わらず、軽い口調で標葉に話しかけてくるその男は、俺等を見つけるまでは、ずっと天野家の墓石を凝視していた。
 既に『お清め』はやった筈。それなのに、まだここへ来るって事は――――やっぱり、何かがあるのか、この墓には。
「……それは、こっちの科白ね。どうしてここにいるの?」
 普段の、俺に向ける悪口とは違い、標葉の言葉自体の毒気こそ薄いが、語調は明らかに攻撃的。忌み嫌っている――――ように見える一方で、何処か怯えているような、不思議な感情も見える。二人の間に、一体何があるのか。もし……妹が、由香が生きていたら、少しは洞察出来たのかもしれない。そんな事を、思った。
「そう言うお前も、ここへ来たって事は、少なくともを異変を感じ取ってはいるんだなー。感心感心。かっかっか」
「……」
 まるで、わざと妹の神経を逆なでするかのような標葉兄の物言いには、苛立ちを覚えたけど――――今はそれより、確認が先だ。
「やっぱり、何か問題があるんですね? この墓には」
「勿論。案の定、つい3日前に清めた筈が、もう消えかけていた。また清めたけどね」
 標葉兄はしれっと、そんな事を言ってくる。つまり――――この墓に再び重大な危機が訪れていた、って事だ。
「それに、花立が一つしかない」
 やはり、気付いてたのか。ただ、それがどんな『異変』なのかは、俺にはわからない。現実的な問題なのか。こいつ等の能力と関連する『超常現象』なのか。
「普通、墓石には花を手向ける為の花立、或いは別個用意する花立を置く為の台が左右に用意されている。一つの場合もあるが、その場合はもう片方に線香立などを置く。まあ、それも余りないけどね。けど、この墓は明らかに一つ花立が消失している」
 消失――――標葉兄は、そんな言葉を使った。だけど、確かにそれが一番しっくりくる。左側にある花立台と、すっきりした右側。明らかに違和感がある。右側が破損している訳でもない。元から、一方にしか台がないように、見える。墓は左右対称――――それが、この業界の定石であり、前提。標葉の言うアシンメトリーのデザインってのは、かなり異例だし、そんな設計をする石工なら、もっとデザインに凝る。この墓は、花立の有無以外には、然したる特徴はない。デザインによる問題じゃない。天野さんも、元々は左右に花立があったと言っていた。確かに『消失』してるんだ。
「こんな状況……これまでもあったんですか?」
「いや、ないねー。今まで一度も見たコトない。『洗礼』しても、もう一つの花立が復活する訳じゃないし……どうしたものかな」
 顎に手を当て、標葉兄は思案顔を作る。ここまで来ると、もう答えは決定だ。花立は、消えている。天野さんの言う『呪い』って言葉が、急に真実味を帯び始めた。
「百合。お前、どう思う? この現象を」
 不意に、標葉兄が視線を妹に向け、問う。答えられる筈もない。俺も、標葉も、何ら答えとなるような結論は導き出せていないんだから。
「……」
 案の定、標葉は黙り込んでしまった。いつもの、相手に主導権を与えないような鋭さは、微塵も感じられない。
「そっか。ま、お前には無理だよな」
 一方――――標葉兄は素っ気なく、そう言いながら笑っていた。
「……どう言う意味?」
「別に深い意味はないよ。ただ、お前には経験が足りない、ってだけ。俺はこれまで、100万以上の墓石を見てきたからな。一つの地域に留まって、『ハカホリごっこ』をやってるお前とは違う。お前には、高度な洞察や判断は出来ねーよ」
 そして、笑いながら――――毒を吐いた。その毒は、標葉のとはまるで違う、正真正銘、心臓まで達しそうな毒だった。
「ごっこ、ですって?」
「俺は、ハカホリとしての能力を、使命と思ってんだよね。神サマなんて信じちゃいないけどさ。ウチの一族が、他の人間にはないこんな能力を持ってるのは、選ばれたからだと思うんだよ。誰に、かはわからないけど。当然、持ち腐れにはしたくないんだよねー。だから、信仰心ゼロでも、こんな仕事を選んだんだし」
 神様を全く信じない神父。それは――――ある意味、究極の矛盾だ。どの国の、どんな人間だって、それはおかしいと指摘する。全世界共通の罰当たり者だな……この男。
 何より、いけ好かない。気に入らない。好意を伝えられた事で、標葉の肩を持つような思考になってるってのも、正直あるのかもしれない。
 でも、それ以上に――――
「……一つ、貴方に聞きたいんですけど、良いですか?」
 言い返そうと口を開きかけていた標葉を制すように、俺はそんな言葉を投げる。
「良いけど、何?」
「この前、『百合には妄想癖がある。実際には視えてない』って言ってましたよね。あれ、嘘だったんですか?」
 既に答えに対して確信を持った中で、これを聞くのには、理由がある。その準備の為に、俺はこっそり指を鳴らした。
「あー、あれね。ありゃ嘘だ。悪かった、少年。かっかっか。でも、一応理由が――――」
 言い終わる前に。俺は、思いっきり踏み出し、クソ兄貴の頬を殴り付けた。
 人を殴った経験は、過去に一度しかない。家族をコケにされた時。その時は、我を忘れて殴りつけた結果、拳を痛めてしまった。当時の教訓は、余り活かされなかったみたいだ。殴った拳がやたら痛い。
「が……ぐ、つっ」
 倒れこんだ神父は、口元を手で押さえつつ、小刻みに震えている。流石に歯は折れてないだろうけど、口の中くらいは切っただろう。
「え……?」
 呆然としている標葉に、俺は一瞬だけ視線を向け、直ぐにクソ兄貴の方に戻す。案の定、その手からは血が漏れ出していた。傷害罪で訴えられたら、終わりだな。その時は……どうしよう。
 全く、後先考えない行動とったもんだ。これっぽっちも、後悔する気になれない事も含めて。
「……思い切ったな、少年」
 口から手を離し、唾棄しながら、エセ神父は俺を睨む。けど、迫力はない。
 年下相手にムキになる気がないと言う、自尊心。神父故の、器の大きさ。或いは――――暴力を振るわれたと言う事実。
 その全部を否定するような、奇妙な表情だった。
「ま、嘘を吐いたこっちに非はあっからね。誰かに言いつけるなんて事はしねーから、心配すんなよ」
「最初からしてませんけどね」
「……あー、痛ってー。随分と鍛えてんだな。首が捻れるかって思った」
 殴られて尚、軽口を叩く標葉兄は、もう一度唇の血を指で拭い、標葉の方に首を回した。
「良い男見つけやがったじゃねーか。ま、好きにやりな、妹」
 そして、なんとも『いいひと』風な言葉を言い放ち、立ち去ろうと踵を返す。
「……で、この墓の秘密は結局、わからずじまいなんですか?」
 その背中に問うと――――振り返る事なく、神父は立ち止まった。
「墓が墓でなくなる、と言うコトは、その墓に眠る人間と現世の繋がりが完全に途絶えた時。それには、数多の条件がある。けど、例えばその条件の一部が満たされたからっつって、墓の一部が消失するなんてのは、ないね。100万例以上を見てきた俺が言うんだから、間違いナッシン」
 そして、断言する。
「ただ、一部が消えている事と、実際に墓でなくなりかけてる事を切り離して考えた場合、後者の方の理由は心当たりがある。この墓、取り壊そうとしてるんだって?」
「ええ。そう言う依頼を受けてます」
「墓が墓でなくなる最大の理由は、墓参りの断絶。一人でも参りに来てるのなら、消失の危機はない。が……数少ない墓参りに来てる人間が、『この墓は要らない。壊そう』って思ってんなら……十分な理由になると思うな。私見だけど」
 長々と、だけど有力な情報を、標葉兄は俺に提供した。既に俺と標葉で辿り着いた結論の一つではあるけど、その後押しを受けた事になる。
「ま、それ以上は俺にはわからねーな。だから、後は任せた。頼むぜ、ナイト君」
 少年から騎士に格上げしたらしい。そんな俺に向けて、背中越しにヒラヒラ手を振り、神父は歩き去った。
「……」
 その様子を、複雑に絡み合った感情と共に眺める。何だってんだ、あの男は。
「……まさか、殴りかかるなんてね。想像もしなかった」
 そんな俺の傍で、塀に腰掛けながら、標葉が呟く。風にたなびく長い髪は、まるで意思を持って泳いでいるかのように、美しい波を作っていた。
「魔が差したんだよ」
「そうみたいね」
 そして、微笑を携え、拳をプラプラさせる俺に目を向ける。一瞬、瞑目したように見えたが――――次の瞬間には、真顔で口を開いた。
「標葉一族……なんて呼び方はしないけど。標葉の家には全員、『墓捕吏』の能力が備わっているの。今その能力を持ってるのは、父、兄、そして私の三人」
 墓の履歴を視れる能力。それを持っているのは、世界中でその三人、と言う事になるんだろう。標葉の母親は、別の家系の人間だから、持ってないって事か。
「父親は何してる人?」
「世界中を飛び回って、古墳や遺跡などの様々な『墓』を調べる、考古学者。中々格好良いでしょ?」
 その言葉には、何処か誇らしさが見えた。
「兄は兄で、神父として数多くの墓を清めている。尊敬はしてるのよ。これでもね。私よりよっぽど優秀だから」
「……優秀、ね」
 確かに、100万以上の墓を視てきたって言うのは、そう言う事なんだろう。その分だけ、多くのトラブルを解決して来たと言う事だしな。
「でも、あの男は過保護過ぎるのよ」
「過保護……?」
 俺の心象とは、真逆だった。
 父は幼い兄妹を置いて世界中を飛び回り、兄もまた、神父の勉強の為に家を出た。能力のない母親と二人で、標葉は生きて行くしかなかった。自分が生まれた土地を、そして自分を、二人は見捨てた――――標葉はそう思っているんだと、そう俺は推測していた。
 でも、実際には全く違うって事なのか?
「この能力は、特別ではあっても、日常生活には全く支障はない。例えば、不老不死とか、魔法が使えるとか、そう言うものなら、孤立もしたんでしょうけど」
 確かに。訳のわからない、他人にはない能力を持った人間ってのは、いつだって孤立するもの。でも、標葉の能力は、黙っていれば誰にも気付かれない。
「だから、幼い私は自分で話したの。いろんな人に。私は、墓の履歴が視える。墓参りに来ている人がいない墓は、墓ではなくなる……ってね」
「わざわざ、自分から言いふらしたのか?」
「気付いて欲しかったから。私にはそんな能力があって、こんな事をしてる。こんな事を考えて、こんな事を頑張ってる、ってね。外見ばかりを見る連中に」
 それは――――世にも愚かな、そして切ない話だった。
 この器量だ。子供の頃から、周囲は好奇の目で標葉を見たに違いない。きっと、それが堪らなく嫌だったんだろう。だから、例え信じてもらえなくても――――標葉は、能力の事を話した。
 或いは、そんな連中を遠ざける為に。電波だと思われれば、幾ら美人でも、そうそう人は寄って来ない。人間は、突出した個性を心の何処かで忌避する。日本人は、特に。
「でも、あの男は私の言葉を否定して回ったのよ。何故だかわかる?」
 ああ、わかる。
「お前を……守ろうとしてるんだな」
 妹の話す、あり得ない、突拍子もない話を、『妄想癖』と言う言葉でコーディネートしたんだ。『妄想癖のある女』も、十分忌避の対象にはなるけど、まだ現実味はある。同じ電波でも、まだ救いがある――――そう見做される。子供の頃なら、尚。
 或いは、標葉の容姿目的で近付く男に対し、疑心暗鬼に囚わせるような意図があったのかもしれない。実際、俺は相当に悩んだ。俺から標葉に近付いているなんて事実はないけど、標葉兄にしてみれば、そう見えたんだろう。
「だから、嫌いなのよ。あの男は」
 過保護の兄。そりゃ、嫌うよな、年頃の女子は。
 何となく、反抗期の妹を思い浮かべた。その時期にすら、差しかかる事を許されなかった妹の、空想上の姿を。
「それじゃ、この話はお仕舞い。早く目的を果たしましょう」
 家族、そして自分。標葉は初めて、俺にそれを語った。それが何を意味するのか――――わからない程、マヌケじゃない。俺も、本気で考えないといけない、って事だ。
 けど、標葉の言う通り、まずは目的を果たそう。
 天野家の墓を、隅々まで調べる。空に赤みが差すまで、その作業は続いた。
 結果――――何もわからず。
 暗くなるまで墓地にいるのは、常識外れ。日が落ちる前に、俺は半ば強引に標葉を墓から連れ出した。
「ったくもう……このままじゃ、あの墓は取り壊されるって言うのに」
 背中越しにブツブツ不満を唱える標葉に苦笑しつつ、俺は俺で考えていた。
 墓が墓でなくなりそうになっている理由は、もう殆ど確信してる。天野さんが取り壊そうとしてるからだ。
 ただ、問題は……花立。これは、消えかけてるんじゃなくて、実際に消えている。どうすれば、花立の台が消えるのか――――
「この際、石材店と掛け合って、止めて貰おうかしら」
 思考停止中の中、標葉が突然、そんな事を言い出した。
「……どうして、そんなに止めようとするんだ? 身内が取り壊したいって言うなら、俺等にそれを邪魔する権利はないぞ」
「貴方はそれで良いの? 呪われているなんて非常識な理由で、墓石が粉々にされて行くのを、黙ってみるばかりか、その作業に加わって……悲しくないの?」
「良く、ねーよ」
 気分が良い訳がない。最悪だ。
 これでも、数多くの墓に関わってきた。墓石が建つ事で生まれる沢山の笑顔も見てきた。墓には、そう言う力もある。そして、その笑顔を生むのは、墓石を作る職人の努力。裕福な家庭なら、沢山お金を貰って、めいいっぱい豪華に。そうでない家庭なら、限られた予算で、その中で家族の要望に合った、最高の墓を。墓を作るっていうのは、家を作るっていうのと同じなんだ。
 その家が、職人の努力と家族の愛情が詰まった墓が、あっさりと取り壊される。それに加担する。最悪としか、良いようがない。
 そこで――――気付く。
「まさか、俺に気を使ってんのか?」
「別に。私だって、自分が絡んだ墓が壊されるのは不本意だもの」
 そう言いつつも、標葉の声は少し揺らいでいた。
「……サンキュ」
 小さい感謝の言葉に、返ってくる声はない。もう一度、俺は苦笑した。
 そうなってくると、いよいよ取り壊したくはない。呪いなんて理由はお断りだ。何か、ある筈だ。
 花立が消えた、理由が――――


『台風12号ですが、更に進路を東寄りに変え、時速60kmの速度で日本に上陸しました。現地の――――』
 翌日、早朝。
 更に予想進路から外れ、やたら速度をました台風12号は、明日の朝にもこの街に接近する事になっていた。
 台風の速度として、時速60kmと言う数値は異例とも言えるくらいの速度。普通は速くてもせいぜい30km程度だ。進路もさる事ながら、接近のタイミングも予想外だった。
 だが、俺はそれより別の事に、大きな恐怖を感じていた。
 最大風速55km。中心気圧920hpa。
 ……同じだ。あの時の台風と。あの、俺から家族を奪った悪魔のような暴風の塊と。
「何事もなけりゃ良いけど……」
 そんな独り言を無意識に呟くほど、俺の心は圧迫感を覚えていた。


 この日の放課後の予定は、直ぐに決まった。
「それじゃ、今日も行きましょう」
 もう、俺の所に標葉が来ても、周囲は以前ほどは色めき立たない。それが嬉しいかと言われれば微妙な気もするけど、何となく気分は軽くなった。
 とは言え、相変わらず二人乗りでの移動は結構キツい。息を切らしながら、再度【レクイエムガーデン 紫苑の森】へと到着した頃には、かなり体力が奪われていた。
「だらしない。それでもハカホリなの? もっと掘り起こしなさい」
「どう言う詰られ方だよ……」
 辟易しつつ、永井家の墓へと移動。そこには――――意外な事に、先客があった。
「あら? あの女は……」
 標葉もそれに気付く。あれは……永井さんだ。
 永井家の墓石の前で佇む彼女の顔には、相変わらず悲壮感や寂寞感はない。でもそれは、不思議な事でもない。葬式が終わり、一区切り気持ちの整理が付いたと解釈すれば、安堵感の方が強く出ても何ら不思議じゃない。ただ、違和感はずっと感じていた。葬式の前から、ずっと。
「墓参り、ですか」
 俺の問い掛けに、永井さんは一瞬身を竦ませ、ゆっくりと振り向く。やつれた様子は、最初に会った時から変わらない。
「はい。ようやく一区切りついたので……石神さんのお陰です。本当にありがとうございました」
「それは良いんですけど……」
 依然として、その墓には危機が迫っている。でも、それを俺が口にすれば、当然不審な目で見られるだけだろう。
「失礼します」
 そんな俺の葛藤など何処拭く風、標葉は永井さんの存在など気にも留めず、墓の地面に手を当て、何かを探るように身を屈めた。
「あ、あの……?」
「えっと、これは彼女なりの祈りみたいなもんなんで、気にしないで下さい」
 適当に茶を濁しつつ、標葉の反応を待つ。程なくして、その標葉は立ち上がり、俺に向けて、小さく頭を振った。
 ――――横に。
「いよいよ、訳がわからないって事か」
 今、永井さんはここにいる。墓参りに来ている。でも、履歴の方にその記録は刻まれていない。どうして、そんな事が成り立つのか。
「何か、このお墓に問題があるんでしょうか?」
「あ、いえ。そう言う訳じゃ。ただ、ちょっと……」
「単刀直入に聞きますけど」
 適当に返事し、この場を去ろうとした俺の傍で、標葉が突然立ち上がる。
「この墓に対して、貴女はどの程度思い入れがあります?」
 そして、かなり失礼な質問を投げ掛けた。本来なら、堰き止めておくべきだけど――――俺は何も言わず、答えを待つ。
「……あると言えば、あります」
 永井さんはほんの一瞬、背筋が凍るような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
 それ以上の話は引き出せないと判断したのか、流石に不気味だと感じたのか。標葉はそこで会話を終わらせた。
 暫し沈黙が続く。墓地である以上、それは自然な事ではあったけど、何処か違和感のある空気が漂っていた。
「では、私はこれで」
 その空気を察したのか、永井さんが会釈し、背を向ける。それを俺達は、ただ呆然と眺めていた。
「……難しいかもしれない」
 ポツリと、標葉が漏らしたそれは、珍しく『弱音』だった。
 偶然か、必然か――――俺たちは今、同じような心境に陥っていた。


 そして――――その日はやって来た。
 翌日。台風12号は、街を直撃。僅かに中心を外しているとは言え、その風の勢いは凄まじかった。
 窓が揺れる音で目を覚ました俺は、直ぐに電気が付かない事に気付く。
 停電だ。
 程なくして、携帯に休校を告げるメールが届く。窓を開けると、まるで街の住民全員で口笛を吹いているかのような、膨大な甲高い音が聞こえて来た。
 雨脚も強い。風向き次第では、部屋の中が水浸しになる所だったが、幸い吹き込んで来る風じゃなかった。
「……」
 息が、苦しくなる。
 台風の直撃を受けると、いつもこうなってしまう。これが精神的なものなのか、気圧によるものなのかはわからない。何にしても、平常心ではいられない。休校じゃなくても、学校に行けるような精神状態じゃなかった。
 ただ、停電で生活がどうこうと言う心配はない。携帯は昨日の夜充電してるから、一日は持つだろうし、食料も買い込んでる。時速60kmなら、午後には通過してくれるだろう。
 この恐怖は、午前中だけのもの。
 俺は願いも込めて、そう思い込みながら、ベッドに転がった。
 だが――――俺は知っている。
 台風と言う自然現象の怖さを。
 世の中、そんなに甘くない事を。
 そして。
『紫苑の森 動けない たすけて』
 標葉の、迂闊さを。


「お前は……アホかーーーーーーーーーーーっ!」
 暴風に負けないように叫んだつもり俺の声は、やっぱり暴風にかき消された。それくらいの風の音が、今俺たちの周囲で渦巻いている。
「し、仕方ないじゃない。知らなかったんだから、台風が来るなんて」
「ニュースで連日やってただろ!」
「見てないもの、テレビの天気予報なんて。だから、登校前にちょっと寄って……そしたら、風がビュービュー言い出して……」
 流石の標葉も、いつものような凛然とした態度と物言いは鳴りを潜め、寧ろ慄然としていた。
 と言う訳で、メールを受け取った俺は、暴風雨の中を必死で自転車漕いで、【レクイエムガーデン 紫苑の森】へ赴いていた。
 台風の日に墓地に来る高校生なんて、多分歴史上、俺とコイツの二人だけだ。しょーもない。余りにもしょーもないんで、台風に受けていたプレッシャーとか嫌な予感とか、全部吹っ飛んじまった。
「ったく、自分で高い所に上って降りられなくなった猫かよ、お前は」
「……むー」
 標葉はムクれた。ちょっとしたキャラ崩壊だ。くそう、心がフワッとしちゃったよ。 
「つーか、風の音が怖いくらいで人を台風の中呼びつけるなよ。俺が来ても、台風は収まらないし、何も変わらないぞ?」
「気分が違うの。一人だと……っ!」
 刹那。
 雷光とほぼ同時に、雷鳴が響き渡る。かなり近い所に落ちたらしく、凄まじい爆音が鼓膜を刺激した。
「……」
 みるみる内に、標葉の顔色が変わる。驚くほど顕著に。
「お前、本当は風より雷が怖いんじゃないか?」
「……大きい音はダメなのよ。苦手……っ!」
 また雷鳴。標葉の身体は、その度に小刻みに震える。
 雷ダメなのか……うわっ、何だよ今更、そんなあざとい弱み。ギャップってヤツか? 男なら誰でも弱いだろ、コレ。
「か、帰る! 早く帰る!」
「わかったから、落ち着け。つーか、くっつくな恥ずい!」
「誰も見てないから別に良いじゃない」
 標葉は俺の肩を鷲掴みしながら、帰り道を目指しモゴモゴ動き出した。もっとこう……胸に腕とか背中を当てるとか、そう言うさあ……
「……あ」
 突然、標葉が素っ頓狂な声を上げる。
 同時に。
 俺達の視界に映っていた、美しくこの墓地を彩っている緑の木々が――――大きくしなった。
 次の瞬間。
「――――――――――――――――!」
 言葉にも、音にもならない、悲鳴。
 一瞬、まるで防壁が決壊したかのように、空気の『何か』が崩れたのだろうか――――それまでより遥かに大きな規模の突風が、襲ってきた。
 瞬間的に、俺の身体に標葉が重なる。それは、人間の防衛本能だったのかもしれない。雨水で満たされている地面に、俺と標葉は倒れ込んだ。
「ぅ……ぅっ」
 標葉の歯を食いしばる音が、間近で聞こえる。俺も、同じような心境だった。
 怖い。
 息も出来ないくらいの恐怖。
 風って……こんなに怖いものだったのか。台風の怖さは、熟知してる筈だったのに。でも、実際に体験すると、全く異なる認識にならざるを得ない。
 ここまで……ここまでのものなのか。
「大丈夫。大丈夫だから」
 俺は、圧倒的な恐怖を感じていた。それでも、そんな事を標葉に語りかける事が出来たのは――――どうしてだろう。
 自分でも、自分の事がわからない。ただ、呪文のように俺は何度も『大丈夫』と呟いた。自分自身へ向けてではなく、100%標葉に向けて。
 程なく、突風は通り過ぎる。
 それでも暴風状態に変わりはないが、取り敢えず立つ事は出来そうなまでに収まった。
「……ふぅ」
 溜息が、風で吹き飛ばされる。俺は標葉の背中をポンと叩き、先に立ち上がった。
「もう大丈夫だ」
「あ……」
 そして、手を差し出す。標葉は怯えるような目で、俺の手を取った。
 ……いかん。仔ウサギみたいな目だ。
 小動物の目だ。
 こんな目されたら、何かもう、イーってなりそうだ。
「兎に角、帰ろう。ここにいても危ないだけだ」
「ええ」
 言葉少なに返事をした標葉を確認し、俺は帰り道の方に――――
「……!」
 目を向けた刹那、衝撃を覚えた。
 周囲の幾つかの墓石が、かなりズレてしまっている。それでも、墓石が台風の風で動くと言う事は、良くある事。でも、その重さもあって、崩れたり倒れたりと言う事は殆どない。

 なのに――――ある一角の墓石は、確実に倒れてしまっていた。
 倒れた木の巻き添えとなって。

 さっきまで……ほんの少し前まで、何事もなく、当たり前のように規則正しく、美しく並んでいた墓石が……見る影もない。
 悪夢。それ以外形容しようがない。
【レクイエムガーデン 紫苑の森】の一角は、今、確実に蹂躙されてしまっていた。
 そして、その一角と言うのは――――
「嘘……だろ?」

 俺の家の――――石神家の墓ある場所だった。

「……あ」
 標葉も、その倒壊に気付く。ただ、俺の家の墓がそこにある事は、わかっていないだろう。
 ――――今直ぐにでも駆け出したい。
 確かめたい。でも今は、俺の事情より優先すべき事がある。
「また、あの突風が来るかもしれない。早く帰ろう」
 俺の言葉に、標葉は弱々しく頷く。
 今は、コイツを安全な場所へ。それが最優先すべき事。

 それは。


 俺があの時、あの夜――――多くの大人達にして貰った事だ。







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