その日――――最大風力55mの巨大台風が、その街を襲った。
中心気圧は920hpa。
上陸時点の勢力としては、戦後指折りの規模だ。
ニュースとして全国に配信され、『異常気象の予兆かもしれませんね』と、お決まりの科白を専門家が言い放つような、そんな規模の台風だった。
負傷者、12名
行方不明者、死者――――共に0。
それは、かつてほぼ同規模の台風が襲来した際の、半分以下の被害だった。建築物の耐風等級が向上した証。紛れもなく、これは街全体としての進歩だった。
何より、死者、行方不明者共に0と言う数字が、心の底からの安堵を生んだ。
少なくとも、俺にとっては。
けれど、話はそれだけでは終わらない。風力55mと言う規模の台風がもたらすのは、そこに住む人間の生命を脅かす事――――だけには留まらない。なぎ倒された木々や、倒壊した無人の家屋の数は、決して少なくない。俺は既に、その光景の一端をこの目に焼き付けている。けれど、それもあくまで一部に過ぎない。墓の中には、水害で相当な損傷を受けた物もかなりあるみたいだ。
『……ああ。瞬間的な突風の所為で、結構やられちまってんな。昨日南部に行ってみたけどよ、酷いコトになってたぞ』
台風一過翌日の昼間。
携帯越しに聞こえる又兵衛さんの声は、昨日聞いたものよりは幾分落ち着きを取り戻していた。ちなみに、南部と言うのは【市営南部墓地】の事だ。確かあそこには――――
『水谷家の墓は大丈夫でしたか? つい最近建てたばかりの』
『ああ、あそこは建て直して大正解だ。ビクともしてねぇよ』
それは良かった。流石に、建て直したばかりで直ぐ崩れるなんて事があったら、目も当てられない。
『で……オメェんトコの墓は、どうだった?』
『ダメでした。倒れちゃってるし、軸石もかなり傷んでます』
昨日は優先すべき事が多くて確認できなかったから、今朝日が出て直ぐに駆け付け、その結果を目の当たりにした。言葉もなく、暫くその光景を眺めて――――俺一人では到底、それを元に戻す事が出来ないと悟った。
『一応、ここらの石材店の連中かき集めて、傾いてる程度の墓石はボランティアで直すって話になってっからよ。今日から忙しくなっから、覚悟しとけ』
『わかりました。学校が終わったら直ぐに合流します』
通話を終え、携帯を仕舞い――――俺は屋上から見える景色に目を移した。ここから、最寄の墓地の様子が確認できる。あの場所は、【市営東部墓地】。最近は余り足を運んでないけど、これまで何度か仕事をして、関わった墓も少なくない場所。ここからでも、その墓の一部が荒れているのがわかる。
報酬を貰って、既存の墓を解体する事は、これまで何度もやって来た。今週末も、その予定が入ってる。でも――――それとはまるで違う、強い心的負荷を感じる。余りにも理不尽だ。一つひとつの家族が、大金を払い、死者への敬意と思いを込めて生み出した墓石が、いとも簡単に瓦解したと言う現実。それが、溜まらなく――――悔しい。
「ふぅ……」
嘆息一つで、気分が転換出来る訳じゃないが……それでも、一息吐かないといけない。又兵衛さんも言ってた。これから、忙しくなる。英気を養わないといけない。
本当なら。本音を言えば、直ぐにでも他の仕事仲間に協力して貰って、まずはウチの、石神家の墓を直して欲しい。あんな悲しい光景を、いつまでも放置したくない。あれじゃまるで――――まるであの日、家族が下敷きになった、あの潰れた家屋みたいだ。そんな思いをまたさせてしまったと思うと、胸を掻き毟りたい気分になる。もどかしい。溜まらなく辛い。
けど、今の俺にそれを実行する事は許されない。俺は――――墓掘り。墓を建てる人達、墓を気にかける人達、墓に関わるこの地の人達――――彼等の役に立つ事が、俺の仕事だ。俺の事は、全てが片付いた後で良い。まずは、この悲惨な状況を少しでも早く元に戻す事。それが、俺の『ハカホリ』としての役割だ。
「あ、あの、石神君」
不意に、苗字を呼ばれ、振り返る。俺を君付けで呼ぶ知り合いなんて、殆どいない。案の定、その声の主は、つい最近会ったばかりの女子。水谷さんだった。
「墓、無事だったんだってね。良かった」
「はい。丈夫に作って貰ったお陰です……ありがとうございます」
「作ったのは俺じゃないよ。又兵衛さ……【光吉石材店】に伝えとく」
心情的に上手く微笑めない俺は、愛想を諦め、真顔で頷く。そんな俺に対し、水谷さんは温和な笑みを浮かべ、はにかんでいた。
「あの、それで、今盗み聞……立ち聞……偶然耳にしちゃったんですけど、石神君のお墓、倒れてしまったんですよね?」
「う、うん。そうだけど」
どうも、この子の言動は偶に常軌を著しく逸れる事がある。第一印象と実際の中身は、ちょっとかけ離れてるのかもしれない。ま……俺の周囲の女の人、大体全員そんな感じなんだけど。
そもそも外見と中身が一致するなんてのは、かなり年季の入った、それこそ内面が外面に滲み出るくらいの年齢に差し掛かった、高齢者くらいかもしれない。
「もし宜しければ……お手伝い出来ないかと思って」
「へ?」
そんな俺の邪念を吹き飛ばすかのように、水谷さんは妙な申し出をして来た。
「私一人では、無理かもしれませんけど……お父さんとか、親戚の人に協力して貰えば、どうにかなるかもしれないですし」
「いや、それは……」
無理だ。軸石ってのは、小さめの墓でも150s以上ある。元に戻すとなると、それを上台の上――――つまり、60cmほど持ち上げる必要がある。まして、軸石には取っ手なんて付いてない。人数集めれば持ち上げられる、って言うシロモノじゃないんだ。だから小型クレーンなんて使って乗せてるんだし。
「余り、彼を困らせないで」
どうやって断ろうか頭を悩ませていたところに、別の女声が投げ掛けられて来た。その方を見なくても、誰の声かはわかる。この、鮮やかに喉を通って一切鼻にかかる事なく、すっきりした発音で散布される清涼感溢れた声の主を、俺は他に知らない。
「そ、それはどう言う意味ですか? 標葉さん」
狼狽した様子で、水谷さんが振り向く。俺はそのままの姿勢で、標葉がこっちに向かって悠然と歩く姿を眺めていた。
「貴女には貴女の事情があって、貴女なりに虎視眈々と機会を伺い、これが千載一遇の好機とばかりに喜び勇んでいるのでしょうけど……それは、彼にとっては必ずしも良案ではない、って事。わかったら、教室に戻りなさい」
標葉は――――普段猫を被っている筈の標葉は、若干の攻撃性を有した言葉で、水谷さんを諌めていた。それでも、糾弾とまでは言えず、一応の配慮は見て取れる。
「……そう、なんですか? 石神君」
それでも、水谷さんは泣きそうな顔でこっちに視線を向けた。ど、どう答えれば良いんだ……?
「沈黙は肯定。貴女もそれくらいはわかるでしょう。墓石は、貴女が思っているよりもずっと、重いのよ」
核心をついた標葉の言葉に、俺は小さく頷く。水谷さんは――――困っているのか、狼狽えているのか、良くわからない複雑な顔で、俯いてしまった。
「気を使ってくれて、ありがとうな。でも、俺は大丈夫だから」
「そ、そうですか……」
少しどもった声と共に、水谷さんは引きつった愛想笑いを浮かべて、一歩下がる。そして、ゆっくりと首を標葉の方に曲げた。
「……」
沈黙。
その空気は、不穏であると同時に、妙に重い。そしてその空気のままで、水谷さんはポツリと――――
「標葉さんは、石神さんの恋人なんですか?」
そんな、あり得ない質問をした。
「ええ。恋人だけど」
そして、間髪入れずに標葉はそんなあり得ない回答を口にした。
「……」
水谷さんの挙動がおかしい。沈黙のまま俯き、その横顔は何か不思議な筋肉の動きを見せている。
「わかりました。私はお邪魔だったみたいですね。私、全然知らなくて……すいません、失礼します」
俺にも標葉にも目を合わせる事なく、水谷さんはそれだけ呟いて――――屋上を後にした。
な、何だったんだ、今のは。
「あれで、泣いて走って行くくらいの事が出来れば、『一級猫かぶり士』を認定出来たのにね」
「そんな資格ねーよ。って言うかお前、今のどう言う事だよ」
「何言ってるのよ。私がああ言わないと、どうなってた事か。猫かぶり歴10年の私が言うんだから、信じなさい」
「意味がわからないんだけど……」
こっちは、恋人宣言なんてされて顔真っ赤だってのに。ってか、今の発言を水谷さんが言い触らしたら……俺と標葉は全校生徒公認の恋人同士って事になっちゃうぞ。俺、男子生徒の半数からボコボコにされるぞ。死ぬぞ。ホントに死ぬ。
「心配しなくても、言わないでしょう、あの女は。そう言うタイプよ」
「それも勘なんだろ?」
俺の半眼での問いに、標葉はいつも通り、薄ら笑った。
「それは兎も角、今から早退できる?」
「唐突だな」
それも、いつもの事だけど。
「時間がないみたい。貴方だって、放課後は忙しいんでしょう? 今しかないのよ」
つまり――――永井さんの墓がいよいよマズい、って事か。
「わかった。早退届出してくる。近くのコンビニで待ってろ」
俺は最早躊躇する事もなく、職員室へと駆け出した。
【レクイエムガーデン 紫苑の森】は、昨日見た景色そのままに、荒廃した街のような様相を呈していた。
けど、もう悲しいだの、辛いだの言ってる暇はない。まずは、永井さんの墓をどうにかしないと……
「天野さん、だったかしら」
そんな俺の決意が、標葉の言葉で遮られる。多くの墓石が傾いたりズレたりしている中、それでも余り人気がないこの昼間の霊園に、俺等と同年代であろう女子の姿があった。
天野さんは、自身の家の墓石をじっと眺めている。その墓石は、少し傾いているようにも見えた。けど、当人の希望に沿う『解体』状態にはなっていない。が、それを悔しがっている様子はない。寧ろ、あれは――――
「安堵しているみたいね。妙な女」
標葉にもそう映っていたのか。
倒壊したからと言っても、撤収作業が必要だから、解体料が浮く訳じゃない。でも、一日も早く取り壊して欲しいと言う彼女の希望を考えれば、この状況は安堵とは程遠い。やっぱり、呪いなんかじゃなく、何か別の事情があるのかもしれない。
「よー、御両人。仲良く二人で学校サボりかい?」
背後から突然の軽い声。振り向くまでもなく、誰なのかはわかった。
「……何しに来たの」
標葉は苦虫を摩り殺すような顔で、背後に視線を向ける。俺もそれに続くと――――
「そりゃ、この惨状を視察しにだよ。これでも神父だからねー。やる事やらないと」
そんな言葉を連ねる、アンバランスな輪郭の男の姿が見え、思わず噴出しそうになった。
「……」
標葉も、不機嫌な顔から一転、顔を背けて笑いを堪えている。
「おいおい、そりゃねーぜ。特にナイト君、この顔の腫れはお前さんのパンチが原因なんだぞ」
「す、すいません……あの時はとんだ粗相を……」
「笑い堪えながら謝るなよなー……マジで食事時ユーウツなんだぜ、コレ」
確かに、笑うのは失礼だ。けど、笑うなと言う方が無理だ。端整な顔だけに余計おかしい。右にニョッて出てるんだもん、ニョッて。
「ったく……で、百合。ここに来たって事は、天野家の墓のコト、ちっとはわかったのか?」
「……今はもっと切迫してる墓があるのよ。そっちが優先」
「悠長なコト言ってんな。もうこっちもヤベーぞ。俺の清めの効果がもう切れてる」
嘆息交じりに告げた標葉兄の言葉の持つ意味は、俺にも直ぐわかった。二度目の応急処置の麻酔が切れた。そう言う事だ。
「今日中にカタをつけねーと、マズい。そっちのはどうなんだ?」
そっちの――――つまり、永井さんの墓の事を聞いてるんだろう。それに対し、標葉は眉間に皺を寄せ、息を漏らした。
「ほぼ同じ。一両日中にどうにかしないと、手遅れになる」
「つまり、どっちも今日が勝負ってコトか。それに加えて、この状況……最悪だな、コリャ」
軽薄ながらに、標葉兄の声は重みがあった。俺の場合はもっと切迫している。学校が終わる時間、つまり夕方前には又兵衛さんと合流しなくちゃならない。そうなれば、この二人に任せる事になる。それは、色んな意味で不安だ。
「ま、ここであーだこーだ言ってても埒あかないし。現場へ行くとしようか」
標葉兄が目で差したその先には――――天野さんの不審そうな顔が見えた。こっちに気付いたらしい。そんな彼女に対し、エセ神父はにこやかに手を振り、歩を進めて行った。
「……永井さんの墓を頼む」
「私一人で?」
「あの兄貴と二人きりになりたいなら、止めはしないけど」
「冗談。貴方と二人きりの方がずっと良い」
だから、そう言う人をドキッとさせる事を唐突に言うな……
「じゃ、そっちは宜しく」
声が震えそうになるのを堪えて、天野家の墓へ移動。
既にエセ神父は天野さんと会話を始めていた。
「この台風被害も、君の言う『呪い』なのかな?」
「……」
いきなり、随分と危ない内容を話してやがる。
神父が『呪い』なんて、軽々しく口にすんなよな。
「残念だけど、俺は呪いなんて信じちゃいない。つまり、君が嘘を吐いていると確信している。だから、解体を望むのには、他の理由があると思ってんだけど、それを教えてくれないかな?」
「……嘘、じゃねーよ。それに何でそんなコト聞くんだよ」
天野さんは、俺に対してとは明らかに違う態度で、標葉兄の質問を質問で返していた。ただ、この時点で『嘘』の存在を認めてるに等しい。本当に呪いだったら、標葉兄の質問の理由なんて聞く必要はない。
『呪い』は嘘。わかってはいたけど……若干信じかけた自分が少し恥ずかしかった。
「や、台風でホラ、こんなコトになっててさ。町内の石材店が、希望者に無料で手助けしてくれるんだって。で、その希望って言うか、意識調査みたいなコトやってんのよ。神父って結構、雑用みたいなコトやらされるんだよね」
コレも明らかに嘘。よくもまあ、こんなにスラスラ言葉が出てくるもんだ。神父なんて職業は、ある意味セールスマンに近いところもある。会話が上手いってのも、一つのステータスだ。
「別に、君を責めてる訳じゃないよ。ただ、呪いって理由じゃ、このお墓を元に戻すにしても、取り壊すにしても、納得は出来ないよね。知ってたかな? お墓を撤去する場合、改葬許可証って言う許可証を市に貰わないといけないんだ。ちゃんとした理由を書かないと、貰えないよ?」
それは、本当の事だった。けど、一般市民がそんな事知る筈もなく――――
「……!」
案の定、天野さんは狼狽の表情を見せている。
標葉兄の狙いは、天野さんに解体の本当の理由を聞いて、そこから『墓が墓でなくなる』状態の改善方法を探る……そんなところだろう。そしてそれは今、上手く行きそうな流れになってる。けど、俺はどうしても『あの件』が気になっていた。うっかり呪いってのを信じた理由。そう、花立だ。
花立が一つ消失する――――それは、俄かには信じ難い。でも、最初からなかったと言うのも、これまでの考察通り、かなり不自然に思える。
あーもう、何が何やら……
「理由なんて、テキトーに書いておけば良いじゃん。別にホントじゃなくても、それらしいコト書けば」
「いやいや、それはダメだって。お役所に嘘吐いちゃ。兎に角、壊すにしてもリフォームするにしても、ちゃんと理由が要るの」
向こうは向こうで一転、難航の様相を呈していた。
……って、待て。
今、標葉兄はなんて言った?
『壊すにしてもリフォームするにしても』
……そうだ。
それだ!
俺はバカだ。標葉の、そしてこの標葉兄の言葉に、すっかり染まっていた。
墓掘りの俺は、これに気付かなきゃダメだろ……!
花立は――――意図的に『消された』んだ。
そして、そうなってくると、その動機も見えてくる。すんなりと。
それは多分、水谷家の一件があったからだ。根本的には、あれと同じだから。
「……何かわかったのかな? 少年」
そんな俺の表情をいつの間に観察していたのか、標葉兄が唐突に聞いてくる。
「ああ。あんたら兄妹に関わった所為で、『消失』って言葉の意味を取り違えてたのがマズかった。消えるってのは、何も不思議な力でなくなるだけの事じゃない」
嘆息交じりにそう告げると、それだけで伝わったのか、標葉兄は少し眼を見開き、その後小刻みに頷いた。
「けど、その動機は? 愉快犯とも思えないし」
「天野さんのお父さん、足が良くないそうだ。多分、それが動機」
「……っ! 何で知ってんだよ!」
俺に対しては遠慮なく激昂する天野さんに少々遺憾の意を覚えつつ、俺は又兵衛さんの身内が彼女の父親と仕事仲間だった事実を伝えた。結果――――俯き、何も言わなくなった。
「じゃ、後は宜しく。俺はもう一つの重大懸案があるんで」
恐らく、これで天野家の方は解決。後は、永井さんの墓だ。
「重大懸案、か。懐かしいな。オヤジの口癖だ」
が――――そんな俺に、標葉兄は興味を惹くような言葉をぶっきらぼうに投げつけてきた。
「それだけじゃない。百合の口が悪いのは、殆どがオヤジの影響なんだ。そして、ハカホリとしてこの地域の墓を見回っているのは、オヤジに褒められたいから。知ってたかい?」
知る筈もない。標葉兄は、まるで『これくらいの事を聞き出せないようじゃ、まだまだだな』と言わんばかりに、不愉快な笑みを見せた。
「俺等の家庭は、こんな力を持ってる事もあって、結束が固いんだよね。秘密の共有っての? 人と違うってのは、良い事ばかりじゃない。寧ろ逆の方が多い。だから、処世術が必要になる。俺の場合、こんなカンジでね」
人を食ったような、飄々としたスタンス。そして、神父とは思えないような格好。
それは全て、この『ハカホリ』の能力を隠す故。他人と距離を置く為――――そう言う事を言ってるんだろう。標葉もまた、そうであるように。
「自然と、他人と接する事が出来なくなる。結果、秘密を共有している家族により心を開く。だから、ファザコンなんて思わないでやってくれよ」
「思わないですけど……その割に、兄の方はイマイチ好かれていないような」
「辛辣だね、中々君も。百合と気が合う訳だ」
その見解は到底受け入れられない。
「俺の事は良いとして。今言ったコト、付き合う上では理解してやって欲しいね」
「……ここまで乗りかかったからには、目処が付くまで付き合いますけど。特に何かを変える気はないですよ」
「そう言う意味で言ったんじゃないんだけど……ま、いっか。んじゃ、百合をヨロシク」
わかってて言ってんだよ。そっち同様。ったく、しゃらくさい兄貴だ。
自分を殴った年下の男に、気さくに接する事の難しさを考えれば、あのバカ兄貴の愛情の深さは想像に難くない。器用なのか不器用なのか、良くわからない人だ。
苦笑しつつ、俺は標葉の待つ永井家の墓へと向かった。
祈るように。或いは――――嘆くように。
標葉は墓の中央で身を屈め、地面に手を置き、瞑目していた。
その姿は、遠巻きに見ると『聖女』とすら言えるような、一種の神々しさもあった。
「進展は?」
そんな、自分とは違う世界に住んでいるような女に対して、俺は特に何の抵抗もなく話し掛ける事が出来る。そう言う立場にいる事に、今や大した優越感はない。ただ、立ち上がった標葉の顔を正面から見ると、今尚緊張をしてしまう自分もいる。
「相変わらず、変化なし。40年、ここに墓参りへ訪れた人間はいない……そう記録されたままよ」
「そっか。向こうは片付いた。多分、だけど」
俺はそう報告しながら、改めて墓石のチェックをすべく、まず軸石に目を向けた。本来、中央部にそびえる筈の軸石は、当然今もズレている。これを直すのにも、俺一人じゃ難しい。それくらい、墓石って言う物は重い。それが周囲の到る所でズレている。いかに強烈な台風だったかがわかる。
「……いつも、そうなのよ」
突然、標葉が脈絡ない言葉を呟く。ただ、俺は特に聞き返すでもなく、黙って耳を傾けた。
「あの男は、涼しい顔で簡単に物事を片付ける。私は……少しだけ時間をかけて、少しだけ労力を使って、解決する。スタイルの違いね」
負けず嫌い。俺は思わず苦笑しながら、標葉に視線を向けた。
「……あによ」
「別に。ちなみに、片付けたのは俺だけどな」
そんな自己申告に、標葉は一瞬目を見開き――――その後瞼で目を半分覆った。
「まさか、私のアシンメトリー案をさも自分の意見のように……」
「ンな訳あるか。花立は消えたんじゃない。消されたんだよ」
そう。
花立は、消された。人の手によって。
墓のリフォームって言うのは、単に墓を綺麗に磨くだけじゃない。各部位それぞれの修理をする事もあれば、逆に取り除く事も出来る。石材店に頼めば、一方の花立を最初からなかったように仕上げる事は、難しくない。それ程お金もかけずに。
「どう言う事? 何でそんなコトをする必要があるってのよ」
「お前、天野さんをストーキングして病院まで行ったんだろ? それが答えだよ」
「……?」
標葉は、頭を捻り、もう一回捻り、そしてもう一回捻った。
「成程ね。そう言う事だったの。確かにそう言う考えもあるかもね」
そして、明らかにわかっていない様子で、納得したような言葉を吐いた。
「納得したんなら、解答編はここで打ち切りな」
「打ち切りはダメよ。可哀想じゃない。折角プロット練ってるんだから。期待してる人だっているかもしれないし。最後まで書くのが、最低限の勤めだと訴状を提出する次第よ」
だったら素直に聞いとけよ。
「天野さんの父親は、足が悪いらしい。病院にも、多分その父親に代わって薬を貰いに行ったんだろうよ」
「それが、今回の件とどう言う関係があるってのよ」
「天野さんは、優しい女の子って事だよ」」
そう。
俺に対しての高圧的な態度からは想像も出来ないほど――――彼女は優しかった。そして彼女なりに必死だった。
この天野家の墓は、彼女とその両親の住む家からは、かなり遠い。そして、彼女の父親は、足を悪くしている。家族で墓参りに行くのは、かなり困難な状況だろう。その事をご両親が嘆いていたのかもしれない。それが原因でケンカしたのかもしれない。
そこで――――娘は考える。その墓を取り壊して、なくしてしまえば、全て解決する、と。
ただ、墓に対する予備知識のない天野さんは、墓を取り壊す事が『とてもいけない事』と思った筈。だから、相応の理由を作った。
それが、呪い。
花立を一つ消し、『この墓は呪われている。早く取り壊さないと』と言う為の口実だ。自分達の都合で、祖父母の眠る墓を取り壊すなんて罰当たりな事をする――――そんな身勝手な行為に対する、周囲への取り繕いをする為に。
「だったら、最初から墓の引越しをすれば良いじゃないの」
標葉は呆れ気味にそう唱えたが、それは無理だろう。墓の引越し――――それが出来ると言う事を、多くの一般人は知らない。だから、俺等とそれ程変わらない歳の彼女が、こんな強硬手段に出るのは、ある意味納得出来る。
ちなみに、墓の引越しってのは、墓石そのものを別の墓地に移す事も出来るし、お骨のみを移し、墓石を建て直す事も出来る。イメージと違って、割と融通が利くんだ、墓ってのは。
そこまで説明した結果、標葉は本当に納得したらしく、少し肩の力を抜き、脱力していた。
「消失の危機の原因は、そのボタンの掛け違いって事だと思う」
普通に、引っ越す為に墓を取り壊すのであれば、『ハカナシ』になる筈もない。けど、天野さんは純粋に取り壊す事に神経を尖らせていた。それが悪影響になるって言うのは、標葉兄の見解とも一致する。
結局のところ、根源にあるのは、身内への愛情。そう言う意味では、水谷家と同じだ。もし、水谷家での経験がなけりゃ、思いつかなかっただろう。
それともう一つ――――
「ホント、外見や言動と中身って一致しないな」
俺の呟きの意味がわかる筈もなく、標葉は不思議そうにしていた。
「何にしても、後はここだけだ。何で永井さんの墓参りが履歴にカウントされないのか……」
「ちょっと待って」
顎に手を置いた俺と、標葉の視線が交わる。何かを思いついた――――そんな顔。
ホントに感情がわかりやすい。
「外見と中身が一致しない……それ、もしかしたらこの墓石にも言える事なんじゃない?」
「……どう言う事だ?」
聞きつつ、考える。俺も確かに、そのフレーズは以前引っ掛かりを覚えた。
中身と外見。墓には、その二つが存在する。中身はお骨で、外見は墓石。もし、お骨と墓石に刻まれた名前が一致してなかったら――――
「わからない? ま、無理もない事かもしれないけど。私のこの天才的な発想に……」
「そうか。ここに眠るお骨が、永井家のものじゃなかったとしたら、履歴がないってのも納得行く。ここは永井家の墓じゃないって事だもんな……どうした?」
「……別に」
標葉は拗ねたような顔でそっぽを向いていた。もしかして……説明したかったのか?
「けど、どうする? 骨壷なんて身内じゃなけりゃ確認出来ないぞ」
「呼ぶか許可取れば良いじゃない。どうせ電話番号聞いてるんでしょう?」
「聞いてるけど……なんか引っかかるな」
葬式の件でそう言う流れになっただけなのに、なんかナンパしたみたいな言われようだ。
少々不満に思いつつ、電話を掛けてみる。すると――――直ぐ近くから、着信音が聞こえて来た。
「あ……」
この墓の入り口に続く通路。そこに――――永井さんがいた。
骨壷って言うと、何処か仰々しい、或いは禍々しい響きがあるけど、現物は割とすっきりしたスマートな壷が多い。ただ、構造にはかなり凝っていて、密閉性を高くする等の工夫がなされている。
その骨壷を収納したカロートと言う部分を、永井さんが開く。そこに安置されていた二つの壷には――――確かに『永井』と記されていた。
「……これで、宜しいでしょうか?」
「あ、はい。すいません、わざわざ」
「いえ。これで直して貰えるのなら、お安い御用ですから」
軸石のズレを直す事と引き換えに、俺と標葉は骨壷の確認に成功した――――のは良いんだけど、これでまた振り出しになってしまった。
心中で落胆しつつ、標葉の様子を窺う。
「……」
自分の会心の案が不発に終わった所為か、燃え尽きた顔をしていた。
「にしても、無事で良かったですね、お墓。お父さんのお骨を入れる前に傷んでたら……」
「そうですね」
俺が言い終わる前に、永井さんは余り感情のない声で、ポツリと呟いた。余り父親の事には触れられたくない、って言う意思表示……なんだろうか。
「そんなに、父親の事がお嫌いなんですか?」
それを知ってか知らずか、さっきまで灰になってた標葉が、突然そんな事を聞きやがった。言葉遣いだけ丁寧でも、それは失礼だろ……
「はい。父は、成長しない人間でした。母が離れ、私が離れ……それでも、変わる事はありませんでした」
と、そんな俺の懸念をビンタするようなキレで、永井さんが即答する。今までの彼女の姿勢からすると、かなり意外な対応だった。
「家族は仲良し、家族は味方、家族は尊い、家族は温かい……そんな言葉があるとすれば、それは虚構だと断言出来ます」
まるで堰を切ったように。そんな表現が相応しいほど、永井さんは少し語調を早め、告げた。
それ以上の言は出て来ない。でも、彼女が『家族』に対して抱いている思いは、もう十分わかった。
「その割に、こうして足を運んでいるのは何故?」
思うところがあったのか、標葉が一歩踏み出し、問う。永井さんの様子に、然したる変化はなかった。
「勤めです。娘としての。墓が壊れていて、それを放置するのは、親を持つ社会人として、ふさわしくありませんから……私が言うのも、おかしいですけど」
つまりは、世間体。自嘲気味だったのは、俺に葬式の仕切りを頼んだからなんだろう。
色んな家族がいる。想い合い、支え合う家族ばかりとは限らない。それは、そうだ。
「それでは、失礼します。お墓の修繕の件、宜しくお願いします」
「はい、わかりました。責任を持って直しておきます」
息の詰まるような空気を従え、永井さんは墓に背を向けた。
その様子を標葉が複雑な顔で眺めている。
「貴方は、家族とは上手く行っているの?」
そして、唐突にそんな事を聞いて来た。
「家族は、いない。十年前の台風で、皆亡くなった」
「……え?」
驚いたように、標葉が俺に視線を向ける。一人暮らしって言うのは、あのアパートからも想像出来るだろうけど、流石に天涯孤独だって事は想定外だったんだろう。
「家族の墓は、この霊園にあるんだ。でも、一人だけ……妹の由香だけ、どうしても見つからない。倒壊した瓦礫の圧力で、雨で柔らかくなった土の中深くに埋もれたみたいだ。俺はそれを、どうにかしたくて……こんな仕事をやってる」
どうして――――こんな話を標葉にしたのか。当時を知る又兵衛さん以外、三宅や左京は勿論、誰にも話した事のない身の上話を。
その理由は、自分でもわかっていた。
「でも、上手く行ってたよ。だから、いい思い出しかない。家族に関しては」
自分だけ標葉の家族の事を聞いて、自分の事を話してなかったのが、何となく擽ったかった。
「……そう」
標葉は、それだけ答えた。謝らなかった事に、彼女の配慮と本当の人間性が垣間見える。
俺はそれが嬉しかった。
「挨拶してもいいのかしら。貴方の家族に」
「え? そりゃ、別に構わないけど。近くだし」
余り悠長にしていられる状況じゃないけど、自分の家の墓参りを希望してくれた相手に対し、拒むのは筋違い。後頭部を掻きつつ、石神家の墓まで標葉を案内した。
墓石は、木の倒壊の巻き添えを受け、無残なまでに傷んでいる。研磨だけでどうにかなるかどうか、微妙なところだ。
「……」
標葉は、墓石に向けて手を合わせる事はせず、しゃがみ込んで、その地面に手を乗せた。履歴を見ているのか。或いは、これが彼女の祈りの体勢なのか――――何も言わない標葉の後姿を、俺は暫し眺めていた。
「……ありがとう。行きましょうか」
「ああ」
標葉は、特に何を言うでもなく、墓石から離れる。俺はその姿を見ながら――――妹の、由香の事を思い浮かべていた。別に標葉と似てる部分がある訳でもないのに。
「妹さんを掘り起こしたい?」
それが顔に出ていた訳でもないだろうけど――――標葉は、そんな事を聞いてくる。
「ああ。殆ど毎日現場に行って、土を掘ってるよ。未だに見つけられないけど」
「そう」
沈黙。標葉は何を思って聞いてきたのか、このやり取りだけじゃ把握は出来ない。
「……妹が、由香が見つからなかった時、俺は何も出来なかったよ。まだ小学生になったばかりのガキだったってのもあるけど、本当に、何にも出来なかったんだ」
まるで、言い訳でもするように、俺の中で何かが決壊していく。
「由香はまだ、幼稚園に通ってて。その幼稚園の先生まで一緒になって捜索してくれたのに。俺は、それにすら加われなくて、ただずっと叫ぶだけしか出来なかった」
「それを後悔してるのね」
「……卒園する事も叶わない、短い一生だったからさ。だから、せめて家族と一緒の墓で、ゆっくりと穏やかに眠って欲しいんだ」
「……そう」
標葉は、それだけをポツリと答え、歩き出した。夕日の滲む空の下で、その髪が鮮やかに揺れる。俺はその後ろ姿を、ただじっと眺めていた。
何故、日が暮れた後に墓を訪れるのは禁忌なのか。それは単純に言えば、非常識だからなんだろう。実際、例外として認知されているお盆の時期には、夜であっても花火をしに家族総出で出向くところも多い。
「私はもう少しだけ、考えてみる。貴方はもう行って。仕事なんでしょう? 帰りはタクシーでも拾うから」
だから、そんな標葉の言葉に対して、異を唱える事はしなかった。元々非常識な人間に、これ以上上乗せしても大した意味はない。
後ろ髪を引かれる思いでペダルを漕ぎ、【光吉石材店】に到着した頃には、既に辺りは暗くなっていた。
「遅かったじゃねぇか」
又兵衛さんは特に咎めるでもなく、それだけ言って、着席を促した。既にこの地域にある石材店の面々は顔を揃えている。その人達に頭を下げつつ、和室の客間に正座で腰掛けた。
今日の会合は、今後ボランティアを行っていく上での、様々な取り決め。誰が、どの墓地を担当するかと言う話し合いに始まり、どの範囲までを無償とするのか、どれくらいの期間行うのか、等を話し合い、意思の疎通を図った。
墓の天災補償制度は、割と最近始まったサービス。殆どの家では、その補償の存在自体知らないだろう。だからこそ、こう言うボランティアが成り立つとも言えるんだけど。
「よう。墓、大変だったな」
会合が終わり、集まった人達が腰をあげて伸びをしている中、又兵衛さんは俺にそんな言葉をかけて来た。
何を隠そう、石神家の墓を作ったのは、この人だ。
そして、あの10年前の台風の時、俺を家族の元へ向かわせなかったのも――――この人。
それだけに、又兵衛さんも沈痛な顔をしていた。
「形あるものは、いつか壊れる……でしたよね」
「……おう」
「形のないものを壊さなきゃ、それで良いんだと思います」
「ケッ。言うじゃねぇか、一丁前に」
又兵衛さんは、俺の胸をコツンと小突いて、小さく笑っていた。
「にしても、想像以上の被害だ。特に水害が酷い。年内じゃ収まりそうにもねぇな」
「ですね」
各墓地、霊園の被害状況は、各石材店の人達が確認済み。特に古い墓が多い【市営南部墓地】や【野あざみ霊園】辺りの被害が酷い。【レクイエムガーデン 紫苑の森】なんかは、新しい墓石が多かった分、まだマシな方だった。
「中にゃ、刻名がなかったり、古過ぎて判別できねぇのもあっからな……どの墓石がどの土地のモンかわからなくなってるトコもあるかもしれねぇ」
又兵衛さんの懸念は、決して大げさじゃない。
その中には、かなり密集して建てている墓もある――――
「……?」
今、一瞬何かが引っかかった。
何だ?
密集して――――いや、そこじゃない。又兵衛さんの言葉だ。
思い出せ。又兵衛さんは今……
『どの墓石がどの土地のモンかわからなくなってるトコもあるかもしれねぇ』
……これだ!
標葉は、良い線行ってたんだ。あの墓はきっと『中身』と『外見』が食い違ってる。でも、それはお骨と墓じゃなかったんだ。
「又兵衛さん、【紫苑の森】の管理事業者って、何処でしたっけ」
「は? 何だいきなり」
「ちょっと確認したい事が出来たんで」
俺は呆然とする又兵衛さんを尻目に、標葉へ連絡を入れる為、携帯を取り出した。
翌日、早朝。
標葉の言っていた、期限の日。
永井さんの墓はと言うと――――残念ながら【レクイエムガーデン 紫苑の森】に存在していなかった。それを確認した俺は、嘆息を禁じえず、暫し眉間を押さえる。
既に、標葉には連絡を取っている。この件を伝えるのは、学校に行ってからでも良いだろう。既に急ぐ必要はなくなったんだから。
そして、俺はと言うと。その学校へ登校する前に、重いペダルを懸命に漕いで、永井さんの家へと向かっていた。これからの事を考えると、更にペダルは重くなっていったが、歯を食いしばって、一漕ぎ一漕ぎ、噛み締めるように進んで行く。まだ閑散としている住宅街の風は、柔らかくも硬くもなく、少しだけ目に染みた。
記帳所は既に撤収されているけど、案内板は残っていて、まだ葬儀の名残が色濃い永井家のインターホンを押し、暫し待つ。
扉は――――開かれた。
開いたのは勿論、永井さん。永井さんは、服装以外はそれまでと何ら変わる事のない姿で、少し驚いた様子で俺を出迎えてくれた。
俺が、永井さんを訪ねた理由は、特段大した事じゃない。単に、確かめたい事が一つだけあったからだ。それ意外は何もない。ここ数日、標葉と一緒に気を揉んでいた『永井家の墓のハカナシ化』問題は、もう解決しているんだから。いや、正確には――――最初からそんな問題は生じてなかった。
この件に関して、大きなポイントになったのは『墓の定義』だ。実際、それは酷く難しい。
以前、標葉はその定義を『敷地であり、場所』と言っていた。正解の一つだと思う。
墓石は、あくまでも『家屋』。墓を飾る一部と考えて良い。けど、それをわかってても、ついつい墓石こそが墓だと考えがちになってしまう。それがネックとなっていた。
「……お墓の使用権が、別の名義になっていると言う事なんですか?」
今朝調べた事を説明した結果、永井さんは比較的落ち着いた様子で聞き返してきた。彼女はいつも、そうだった。取り乱している時も、何処か冷静な姿が印象に残っていた。だから、構わずに続ける。
「正確には、元々別の名義だった所に、この墓石が建った。だからこの墓は、貴女の家の墓じゃないんです。墓石だけは、貴女達永井家の所有物なんですけど、墓の敷地、永代使用権は違う家の物なんですよ」
そう――――ずっと引っ掛かっていた『食い違い』。その正体は、『墓石』と『土地』だった。これを別物で考えれば、直ぐに導き出せる解答だったんだ。
墓石は確かに永井家の物なのに、土地は違う家の物。こう言う事態は――――実は、稀にだけどある事だ。
通常、墓地でお墓を建てる場合、その土地も所有する必要がなる。家を建てる際に、土地が必要なように。けれど、墓の土地を購入する人は少なく、使用する権利を借りるケースが殆ど。その権利の事を『永代使用権』って言う。この永代使用権、今でこそ、しっかり制度や管理体制が確立し、その所有者が誰かと言う事をキッチリ記録するようになっているけど、昔は割とその辺がいい加減だったらしい。
例えば、共同で永代使用権を所有していると言うケースもあるけど、どちらか一方の名前しか名簿に記録されていない……なんて事もしばしば。永井家の墓は、まさにそのケースだったんだろう。推測の域は出ないが、状況的に見て、恐らく間違いない。
永井家は、他の家と共同でこの墓地の使用権を購入する事にした。共同で使用料を払うくらいだ。お世辞にも裕福とは言えないだろう。その為、直ぐに墓石を建てる事は出来ずにいた。
そうこうしている内に、両家の使用権購入者が亡くなった。そのタイミングで、永井家の墓石は建った。だが、もう一つの家の墓石は建たなかった。でも、記録上残っていたのは、そのもう一方の家の名前だけだった。結果、墓石と墓地所有者の名前が、食い違った――――そんなところだろう。今朝、あの永井家の墓石がある土地の永代使用権の所有者を調べたら、全くの別人の名前だけが残っていた。
『墓石』と言う外見と、『土地』と言う中身が、違っていた。標葉が履歴を見たのは、墓石じゃなく『墓』。つまり、土地の本当の所有者。だから、40年間放置されたままで、今尚その状態が続いているんだ。永井さんが御参りした墓は、永井家の物として見做されていなかったから。
じゃあ、40年間放置されている墓が、どうしてこれまでの間に『ハカナシ』になりかけつつ、消える事を免れていたのか。前に、標葉が『墓である事を決めるのは、そこへやって来る一人ひとりの人間』と言っていた。きっと、そう言う事なんだろう。履歴としては、墓参りとは見做されなかった。でも、永井さん、或いはその親類が足を運んだ事によって、消失だけは免れた。この世との繋がりを、縁の薄い一本の糸で保っていた。そう考えれば、辻褄は合う。
勿論、この事は永井さんには言えない。単純に、名義が違っていた事だけを伝えれば、それで良い。後は、目的を果たすだけだ。
「一つ、聞きたかったんですけど」
「何でしょうか」
「永井さん、もしかして……知ってたんじゃないかな、って思って。この事を」
俺の問いに、妙齢のその双眸は動かない。ただ静かに、父親の遺影が飾られた家の中から、窓の外を眺めている。
「お父さんに説明をさせる相手に選んだ相手が俺だって言うのが、どうしても納得できなかったんです。でも、貴女が永代所有権の事を知っていたのなら……」
父親が、自分の家の墓の事を聞いて来た事が、大きな厄介事として圧し掛かってくるだろう。
病院にいる父親は、看護師と接する機会が多い。幾ら意識が朦朧としていても、回復するかもしれない。もし説明をしなければ、『娘は死にかけの父親の願いも聞き入れなかった』と、漏らすかもしれない。それはこの上ない悪評だ。逆に、本当の事を言えば、やはり『所有権を持ってる土地でもないのに、我が物顔で墓石を建てていた家』と言う悪評が立つ。
それを回避するには、どうすれば良いか。答えは一つしかない。
何も知らなかったフリをすれば良い。無知なフリをすれば良い。例えば――――俺のような若造に説明を頼むくらいに。社会人である彼女にとって、恥をかいてでも守らなければならないもの――――それは、世間体だった。
「……」
永井さんは、依然として何も答えない。俺も、これ以上は聞けなかった。
二七歳の女性。社会的な立場としては、難しい所も多々ある。だから、それ以上は質問できない。俺の問い掛けの先にあるのは、人間の醜悪な部分なんだから。
「やっぱり、私の見立て通りだったじゃないですか」
答えの代わりに、永井さんは呟き始める。
「貴方はとても聡明です。石神さん」
「違いますよ」
照れじゃない。本当にそれは違う。俺は決して、頭は良くない。
「ただの職業病です」
墓にまつわるエトセトラ。それを、一般の人よりちょっとだけ知ってるってだけだ。
永井さんはそれ以上、口を開かなかった。それで良い。これ以上、踏み込むべきじゃない。俺は別に、これ以上彼女の力になりたい訳じゃない。だから、彼女が次の言葉を探す前に、それを遮ぎる言葉を紡いだ。
「あの土地を永井家のお墓と見做して貰うのは、難しいかもしれません。でも、所有権を買い取る事は出来ます。希望するなら、共同所有者の親類に連絡を取って、交渉してみて下さい」
「……」
永井さんは、返事をしなかった。俺はそんな彼女をこれ以上見ている気にはなれなかったから、ここで話は終わり。
「あの墓石、直しておいても良いんですよね?」
最後に、確認したかった事を聞く。永井さんは――――
「わかりました。じゃ、そうしておきます」
その返事を聞き、俺は別れの言葉を言う事もなく、腰を上げた。
「話は終わったの?」
玄関を出た直後。
制服姿で塀に寄りかかった標葉が、腕を組みながら問い掛けてくる。俺はここ数日の疲労を吐き出すべく、大きく溜息を吐いた。
「何で俺がここに来る事がわかった……?」
「まだ知り合って大した時間は経ってないけど、貴方の行動パターンは大体把握したから」
サラッと怖い事を言われた。今後の生活に重大な支障を来しそうだ。
「彼女の気持ちも、わからなくはないのよね」
俺の自転車のハブに足を掛けつつ、その性悪女がポツリと呟く。当たり前のように二人乗りを促してるけど、登校時間には相当なリスクを背負う事になるんだぞ……
「社会に出れば、女は未だに弱み一つ見せられない。上司も、親戚も、みんな敵。そう言う気持ち、理解出来なくはないし」
けど、そんな心の内を言葉にする気にもなれず、大きく息を吸って、一層重くなったペダルを漕ぎ出す。
女性は皆、女性にしかわからない世界で生きている。標葉もまた、敵ばかりの中で日々を過ごして来たからこそ、それを実感しているんだろう。
「ま、彼女と私の違いは……」
「仲の良い家族がいる事、だろ」
「……」
標葉はYESの言葉は告げず、沈黙のまま俺の肩に置いた手に力を込めて来た。照れてるのか、むず痒いのか。ま、似たようなものか。
「ま、確かに、もしお前が永井さんと同じ立場になっても、ああ言う行動は取らないだろな」
「……永代所有権の所持者を見つけ出して、無料での譲渡を前提とした交渉をする。とでも言いたいの?」
「大体合ってる」
正確には、交渉ってところにペケ付けて、赤字で『脅迫』と書く必要があるけど。
「……貴方は、どうも私を誤解しているみたいね。私は淑女なの。淑やかな女性と書いて、淑女。学校の誰に聞いてもそう答える筈よ」
「猫かぶり歴10年は伊達じゃないな」
直後、後頭部に衝撃が走る。
「頭突きは反則だろ!」
「うっさい。もっと速く走れないの? 肉体労働者の割に貧弱なのよね、全く」
これがタクシーなら、もう通算で数万円支払って貰っても良いくらいだと言うのに、標葉は悪態ばかりを支払ってくる。悪徳だ。悪徳乗客だ。
「……天野家の墓、取り壊しから引越しに注文変更したそうよ。って言っても、今はそれどころじゃないみたいだから、ちょっと後回しになるみたいだけど」
かと思えば、気分の良くなる情報を提供してくる。扱い辛い客だ。
「ねえ、今日サボらない?」
そして最終的には、そんな空恐ろしい事を言い出した。
「いきなり何言い出すんだよ……サボってどうするってんだ」
「これから、放課後は忙しいんでしょ? デートする時間もないなんて、恋人としては寂しいじゃない」
「おいコラちょっと待て! お前、あの時のアレも『実は本当でした』って言う気か!?」
以前、屋上で水谷さんに対して言った言葉。
『ええ。恋人だけど』
流石にこれは、『実はホントに好きでした』とは意味合いが全く違うぞ。俺の同意なしに恋人もクソもないだろ!
「冗談よ。何本気にしてるの?」
「……下り坂で急ブレーキかけて、すっ飛ばしてやる」
本気で坂を探そうと頭の中に町内の地図を思い浮かべたけど、勢いの付けられるほどの勾配はなく、諦めるしかなかった。
「携帯でお友達に『風邪がこじれたんで、今週中はちょっと……』って伝言を頼めば良いじゃない。ちょっと、行きたい所があるの。連れて行って」
「何で週単位なんだよ」
ここは流石に毅然とNOを突きつけるべきだ。絶対そうだ。これ以上、この女の暴挙を許す訳には行かない。今後の為にも、ここでガツンと言わなくては。
「妹さんの所」
嫌――――と言う俺の声は、空気を揺らす直前に喉の粘膜が包み込んだ。
「な、何で……」
「良いから。案内して」
標葉の命令口調は、今更気にもならない。ただ――――今まで見せていた強い意思じゃなく、静かな、そして少し穏やかな物言いだった。
「……先に電話入れるから、待ってろ」
結局、それが決め手となって、俺は思いっきりブレーキを握り締めた。
住宅街と呼ぶにはちょっと抵抗がある、寂れた集落。
郊外であると同時に、畑が多いその区域は、本来『長閑』と表現されるべきなんだろうけど、余りそう言う雰囲気はない。何処か、疎外感を全体で醸しているような、一種異様な空気が漂っている。時代に取り残された、切り取られた過去の遺産。もしかしたら、ここらに住む人達は皆、そう言う見えない力にずっと抗って来たのかも知れない。自分達はここにいて、ここで生きている――――そう訴えているように思えてならなかった。
「ここ」
言葉短かに告げた俺の目の前には、空き地となった、かつての敷地が広がっている。崖を背にしたこの土地、隣に家はなく、雑草の茂る藪が取り囲んでいる。当然、潰れた家屋の面影は、微塵も残っていない。削れた崖だけが、当時の名残を今も覗かせている。
そんな、俺にとっては日常的に眺めている景色に、初めて同世代の女子の姿が加わった。本来、違和感ありまくりな図なんだけど――――どうしてか、標葉はこの場所にしっくりと収まっていた。
「……」
その標葉は、所々窪んだその土地を見渡しながら、何かを探るように、首をしきりに動かしていた。
「全体的に、標高が随分と下がっているみたいだけど……全部貴方が掘り進めてたの?」
「そうだけど」
「呆れた。30坪くらいはあるでしょうに」
標葉は俺の返事に対し、苦笑いとも驚きとも付かない、奇妙な顔を見せた。そして――――その土地に腰掛ける。制服が汚れる事も、気にも留めずに。
「ここに、今も妹さんがいるのよね?」
「ああ」
俺は終始、短い言葉を返した。別に不機嫌な訳じゃない。どうしても、ここに来ると感傷が頭に入り込んで、現実が疎かになってしまう。
「妹さんの事は、覚えてるの?」
「……覚えてるよ。顔も、声も」
標葉がどうしてそんな事を聞くのか、意図がわからなかったけど――――俺はその問いを機に、改めて由香の顔を思い浮かべた。まだ小学生になったばかりの俺の後ろ、ちょこちょこと追いかけてくるその姿は――――やっぱり、朧げだ。
きっと、本当は覚えてないんだろう。覚えているつもりでも。10年前の記憶なんて、鮮明である筈がない。まだ物心が付いて間もない、何もかもが曖昧な時期の記憶なんて。それでも、俺は……由香の事を覚えてない、なんて事は、口が避けても言えない。言える訳がなかった。
「そう」
標葉は、そんな俺の葛藤を知る由もなく、淡白に答え、空を仰ぐ。
「私は……あんまり覚えてない、かもしれない」
「?」
「父親の事。別に10年前に生き別れた訳じゃないけど、物心付いてから顔を合わせた回数は、両手の指で足りるくらいだから。子供の頃の親の顔は……忘れてる」
標葉の父親は、考古学者だと言っていた。世界中を飛び回る――――つまり、家どころか、国内にいる事すら殆どないと言う事なんだろう。それも、幼少期の女の子にとっては、辛い事だ。特に、特殊な能力を共有している家族であれば、尚の事。
「だから、覚えている貴方は、相当に記憶力が良いのか……妹さんを溺愛していたかの、どちらかなんでしょうね」
褒めているのか、茶化しているのか。文脈からは図れない。ただ、標葉の顔は穏やかだった。
本当の事を言うと、自信がない。
由香がいなくなって、俺は一度も、あいつの写った写真を見ていない。遺影もないし、アルバムも見てない。
それを見ると――――その思い出に触れると、現実が押し寄せてくるから。
俺はもしかしたら、今も……心の何処かで、実は家族が生きていて、俺を驚かせにやって来るんじゃないか、って言う期待をしているのかもしれない。
ちょっと老けた父さんが、化粧の濃くなった母さんが、別人みたいに成長した由香が、とある日にひょっこり現れるんじゃないかと。
だからこそ、俺は現実を見つめなければならなかった。家族がもうこの世にいない証を。でも――――それは未だに出来ていない。
折に触れ、人の死に直面していると言うのに。俺は……自分の事は何も出来ていない。
「そんな顔をしないであげて」
唐突に、標葉はそんな事を言って来た。まるで、俺の全てを見透かしているかのように。
「俺、そんなに変な顔してた?」
「ここに来てからずっと、切羽詰った怖い顔。随分と似合わないのね、そう言う思い詰めた表情が」
「そりゃ、悪かったな。顔の造りがシリアスには向いてないってか」
軽口のつもりでもなかったけど、標葉は小さく破顔した。そして――――
「少し、覗かせて貰うから」
そう告げ、手を地面に置き、目を瞑る。
何のつもりだ? ここは墓じゃない。その行為に一体、何の意味があるんだ。
「……」
暫く沈黙が続き、そして――――標葉は何処か納得したような顔で、目を開け、手を離した。
「おい、一体……」
「本当、殆ど毎日欠かさず来てるのね。真面目と言うか、何と言うか……」
俺の問いを強引に払うかのように、標葉は言葉を被せて来た。そして、ゆっくりと腰を上げ、膝を折ったまま、両手を重ねて、それを胸に当てる。
それは、祈り――――だった。
まるで、墓に眠る死者へ捧げるような。
「もう、気付いてるでしょう?」
「……ああ」
そう言う事、だった。
標葉が履歴を視たのも、視えたのも。
俺はその事実に対して、どう言う顔をしていいかわからず、ただ標葉の目をじっと見ていた。
ここは――――
「ここはもう、妹さんの墓なのよ。貴方が毎日、根気強く通った事で……ここが、彼女の眠る場所になったの」
もう、祖父母の家の跡地じゃない。
由香の墓。
そう見做されていた。
標葉がそう言うんだから、きっと間違いない。
いつからだろう。そう思うようになったのは――――
「だからもう、掘り起こさないであげて」
「……」
標葉の、その言葉は。
十年間掘り続けた俺への、終わりを告げる言葉。
十年間眠り続けた由香への、手向けの言葉だった。
「俺は、結局……約束を守れなかった、って事か」
家族の墓の前での誓いは果たせず、その墓もまた、みすみす倒壊させてしまい、未だ復興の目処も立っていない。
又兵衛さんの腕の中で、何も出来ない自分の無力を恨んだ十年前と同じように――――図体ばかりでかくなった今も、やっぱり何も出来なかった。
「約束って言うのは、石神家の墓に妹さんを連れて行くっていう事?」
「そうだよ。その為にずっと『ハカホリ』をやってきたんだけどな。全部、無意味だった」
「……前々からバカだとは思ってたけど、これ程とはね……」
心底呆れたと言う口調で、標葉が嘆息する。そして――――大股で、俺の方に近付いてきた。
「良い? 妹さんはね、見つけて貰えなかったから、掘り起こして貰えなかったから、仕方なくここに留まった訳じゃないの。貴方にずっと見守って貰って、思い続けて貰ったから、この場所を安住の地に選んだのよ。それをグジグジと……見当違いも良いトコよ」
「けど……」
「うるさい! 私が言うんだから、間違いないの!」
突然の大声に、俺は思わず身を竦めた。標葉は――――目を充血させているように見えた。
「家族は……離れてても別に不幸せじゃないのよ。納得出来るのよ。充足出来るの。出来るったら出来るのよ!」
それは、まるで。
まるで自分に言い聞かせているかのように、俺には聞こえた。
「掘り起こす事は、貴方の長年の目標だったのかもしれない。理想だったのかもしれない。でも、それは妹さんにとっての理想とは限らないのよ。貴方は、自分の理想は叶えられなかったかもしれないけど、妹さんにとって一番良い結果を呼び込んだのよ。どうしてそれがわからないのよ!」
標葉は、今までの口調とは違う速さで、そう捲くし立てた。
「……女が、自分の骨を見られたいなんて、思うと思う?」
最後に、そう添えて。
それは――――俺には、想像も付かない見解だった。
「……そっか。そうだよな」
本当だ。標葉……本当にその通りだ。
「わかった。もうクヨクヨしない。これで良かったんだって、そう思うようにする」
俺は一瞬、標葉を思いっきり抱きしめたい衝動に駆られ、それがどうか気の迷いであって欲しいと思いながら――――
「ありがとう、標葉」
お礼の言葉を、震える声で告げていた。
「泣くな、バカ」
「うっさい、性悪女」
人間、悔しくても悲しくても寂しくても辛くても、涙を流す。
当然、嬉しくても。
それが本当だと思う。
だって、俺が今、そうなんだから。
「……ありがとうな」
そんな俺の、汚れた頬に手を添えて。
標葉は、その美しい双眸を、柔らかく細めた。
その顔は、口惜しいほど綺麗だった。
でも、それ以上に――――優しかった。
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