イラストを描く上で重要な幾つか。

 例えば、陰影。
 例えば、色合い。
 例えば、構図。
 例えば、デッサン。

 当然、絵を構成する上で全て必要な要素だ。
 例えファンタジーのイラストでも、実際に存在するかのようなリアリティとはまた別の意味でのリアリティが必要で、その為にはこれらのようなイラストとしての基本をしっかりと学んでおく必要がある。

 その上で、これらの基本にどれだけ個性、独自性、オリジナリティ――どれでもいいけど――を上積み出来るか。
 それがイラストの価値を決めると言ってもいい。
 他の誰かと似た絵柄、見た事ある構図、クセのないカラーリング……それで一、二年やっていく事は出来ても、一〇年、二〇年と続けていくのは難しい。

 だからこそ、イラストレーターは必死になってオリジナリティを探す。
 これは僕の専売特許ですよ、これは私のお家芸ですよ、という武器を探す。
 その結果迷走する事もあれば、運良く時代にハマる事もある。

 上手いイラストレーターが生存競争に勝てる訳じゃない。
 誰の絵か一目でわかるイラストレーターが生き残れる。
 上手さの度合いは、その絵師の個性の一つに過ぎない。

 ……なんて事を、昔どこかの出版社の編集の人に言われたっけ。
 オリジナリティを磨け、オリジナリティを磨け、と口を酸っぱくして。
 それだけ、俺の絵に何の個性もなかったって事なんだろう。

 俺にとって、その事実は危機感や劣等感を生み出すものじゃなかった。
 個性はなくてもいい。
 消費される事は恐れず、今の自分の絵を武器に短命でも行ける所まで行きたい。
 一体何に触発されたのか覚えてないけど、そういう心構えだった。

 その結果、俺はいともアッサリと消えてしまった。
 あの時の編集の人の言葉通り、誰の目にも"来栖結理"の絵だとわかるような絵を描けなかった俺は、サバイバルレースから早々に脱落した。
 そして少しずつ腐っていった。 

 それでも俺は、本当の意味で危機感を持っていなかったのかもしれない。
 心の何処かに、いや大半に甘えがあったんだろう。
 ニート寸前にまで陥っても、何の根拠もなく『生きていけるさ』と思っていた。
 いや、意識すらせず、それが前提になっていた。
 生きていけて当たり前だったんだ、俺の中では――――

「……っ」

 ――――その"当たり前"が今、決壊しようとしていた。

 亜獣が現れたのは、レストラン〈ペレグリナ〉の西にある住宅街。
 翼を持つ、空を飛べるタイプの亜獣だからこその広大な侵入経路で民家の屋根に降り立ち、翼を大きく広げていた。

 外見はフクロウにそっくり。
 まんまるのギョロ目と、その大きさに見合わない虹彩の小ささが狂気を醸し出している。

 けれど、大きさはフクロウの……そして元いた世界の鳥類の比じゃない。
 二階建ての民家を今にも押し潰さんばかりの巨大な生き物。
 全長三メートル……いや、もっとデカいかもしれない。

「……嘘だろ?」

 現場へ駆けつけた俺は、その異質な存在に圧倒され、ただただ怯えた。
 もしあんなのに襲撃されたら――――対抗するどころか逃げるのも不可能。
 確実に人生が終わる。
 心臓の位置が容易にわかるほどの勢いで脈打っている。

 でも――――同時に確信もあった。
 あの亜獣の姿は俺に恐怖だけでなく、納得ももたらした。
 間違いない。
 俺がここに来たのは、やっぱり正解だった。

「隊長! 銃撃が通用しねぇぞ!」

「さっきから屋根の上にずっと留まってるからいいようなものの、あんなデカブツが街を飛び回ったらとんでもない事になるぞ! 隊長、指示を!」

 亜獣を見上げる形で街路からライフルっぽい銃剣を構えている傭兵達の野太い声が、怯えの色を帯びて飛び交う。
 隊長とやらは指示を待つ部下へ何も答えない。
 対策を講じる事も出来ないほど、困窮しきっている。

 この国に生まれ育ち、傭兵となり、修羅場をかい潜ってきた連中ですらこれだ。
 平和な国の小さな悪意にすら怯え、嵐から身を守るかのように家に閉じこもっていた俺の出る幕はない。

 ――――気付かなきゃ、そう思えたんだけどな……

「ユーリ先生!? どうしてここに……!?」

 亜獣のいる民家からは少し離れた路地裏。
 そこに身を隠しながら戦況を確認していた俺の後ろから、リエルさんの怒ったように叫ぶ声が聞こえてくる。
 色々言われても仕方がないところだけど、今は説教を受けている暇はない。

「リエルさん。ジャンはこっちに来ました?」

「え? いえ……それより貴方です! 民間人がここへ来ても――――」

「足手まといになるのはわかってます! っていうか、本来進んでこんなおっかない場面に首突っ込む人間じゃないんですよ俺は!」

 俺の逆ギレに、リエルさんは怪訝そうな表情で狼狽える。
 でも、本当にそうなんだよ。
 気付かなきゃ、レストランの中で大人しく待ってたんだ。
 でも、気付いた以上は仕方がない。

「絵描きの俺に、あのデカい鳥をどうこうする力はないんですけど! ただ、あの鳥がここへ来た動機がわかったもので!」

「動機……?」

「まずは何も言わず、これを見て下さい」

 俺はハイドランジアから持ち出した《絵ギルド》を開き、それをリエルさんに見せる。

 ここへ来る前――――俺とエミリオちゃんはハイドランジアへ向かった。
 ある確認をする為に。

「こんな非常時に、何を……」

「このページの……ここです。この亜獣。あのデカいのと似てませんか?」 

「……」

 何か感じ入るものがあったのか、リエルさんは怒気を収め、俺が指差した箇所――――木こりが見つけて街につれてきた小さな亜獣の絵を食い入るように見つめる。

「確かに似てます……いや、そっくりです。まさか、この亜獣は……」

「はい。多分、あの亜獣の子供です」

 そう。
 あのフクロウみたいな亜獣が突然街中に現れたのは――――子供を取り戻す為。
 アニメやゲームなどでよく見るエピソードだ。

「その亜獣の子供は今どこに!?」

「木こりの家です。エミリオちゃんが向かってます。もう直ぐ連れてくる筈です」

「……わかりました」

 リエルさんの顔に、決意の色が浮かぶ。
 きっと手詰まりの状況だったんだろう。
 張り詰めた空気が微かに揺るんだ気がした。

「私は傭兵ギルドの方々にこの件を伝え、指示を出してきます。ユーリ先生はここにいて下さい。今度こそ」

「は、はい。すいません……」

「絶対ですよ!」

 俺は念を押してくるリエルさんの遠ざかる背中を眺めながら、路地裏の壁に背を預けズルズルとその場にへたり込んだ。

 やるだけの事はやった。
 イラストレーターとして、自分が描いた絵への責任を果たした。
 後はエミリオちゃんと、戦いの専門家に任せよう。

 にしても、ジャンは何処にいるんだろうな。
 傭兵の中には混じってなかった。
 リエルさんとも合流していない。
 まさか、あれだけ目立つ亜獣を見つけきれない筈はないと思うけど――――

「……ん?」

 不意に、この路地裏から覗く細い視界の街路に、ゆっくり移動する人影が映り込んだ。
 ジャン――――とは違う。
 もっとずっと小さい。
 それこそ、さっきのレナちゃんくらいの……

「ま、まさか……」

 さっきのレストランからここまでの距離は、それほど遠くない。
 幼女でも一〇分ほどあれば歩いて来れる。
 でも、保護者同伴の状態で一人だけチョロチョロっと抜け出して来るなんて……

「あり得ない話じゃない……よな」

 実際、初対面のエミリオちゃんに物怖じせず抱きつくような子だ。
 かなり行動的なのは間違いない。

「あーっ! もう!」

 俺はイラストレーターだぞ!
 絵を描くのが仕事なんだぞ!
 なんでそんな俺が、騎士の二度の制止を振り切って危険地帯に駆け出さなきゃいけないんだよ!

 ――――と、そう心中で愚痴りつつ、俺は気付けば路地裏から出ていた。

 もうこうなってくると、カッコ付けというかヒーロー願望的な衝動が突き動かしてるとしか思えない。
《絵ギルド》が予想以上に上手くいって、調子に乗ってるんだ。
 異世界に迷い込んで、危機を迎える街を救うべく暗躍して、身を挺して子供を助ける――――そんな物語の主役みたいな自分になれるかもって、そんな自分自身に酔いしれてる。
 ランナーズハイに倣って、ヒーローズハイとでも名付けよう。

 そのヒーローズハイになって街路に出た俺は、直ぐにさっき見た人影の正体を知る事になる。

 ……やっぱりレナちゃんだった!

 エミリオちゃんを追いかけてここまで来たに違いない。
 あの幼妻、ちゃんと手でも繋いで自分から離れないようにしとけよもう!

「わ〜、おっきいー、かわいー。あはー」

 そのレナちゃん、亜獣を見て呑気に手をパチパチ叩いていた。
 彼女にとって、あの規格外の巨大さは恐怖の対象にならないらしい。

 子供ってそういうトコあるよな。
 極端に怖がるか、極端に怖がらないか。
 この場合、果たしてどっちがよかったのか……いや、最早それはどうでもいい。

「おーい! レナちゃん! こっち――――」

 そう叫ぶ最中唐突に、奇妙な感覚が俺の全身を粟立たせた。

 亜獣が、レナちゃんを見ている。
 あのフクロウみたいな独特の感情なき丸い瞳で。

 足先まで痺れるかのような、底知れない恐怖。
 彼女の何かが亜獣の気に障ったのか。
 それとも、小さい彼女を見て自分の子供を思い出したのか。

 亜獣の翼が大きく広げられる。
 何処か神秘的ですらあるその光景は、同時に絶望的なシルエットでもあった。
 到底、人がどうこう出来るモノじゃない……そう理屈抜きで感じた。

 もう殆ど猶予なく、亜獣は飛び立つ。
 そして補足したレナちゃんを襲うだろう。
 絵を描くしか能のない俺に出来る事なんて――――

「う……うわああああああああああああああああああああああああ!」

 ――――命を賭けるくらいしか、ない。
 俺はヒーローズハイに突き動かされるかのように、全力でレナちゃんの背中へ向かって走る。

 はっきり言って、今さっき出会ったばかりの幼女をそこまでして保護する義理なんてない。
 自分に酔ってるだけの偽善的行為だろ、こんなの。

 でも――――

 元いた世界の俺に、果たしてこれが出来たか?
 出来なかっただろう。
 自分の武器を取りあげられて、臆病になって外に出るのも怖くなって、世界に絶望して、自分に絶望して、殻に閉じこもって……そんな当時の俺は、他人がどうなろうと、それが例え子供であろうと気にも留めなかっただろうよ。

 俺は走りながら、納得していた。
 絵を褒められた事、価値を認められた事――――そんなリコリス・ラジアータでの成功体験が、俺に人間らしさを取り戻させてくれたんだ。
 人としてあるべき姿になれた。

 それは多分――――正しい報復だ。

「ピキィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 耳を劈くような、甲高い鳴き声。
 同時に亜獣が民家の屋根を蹴り上げるように飛び立つ。
 マズい!
 間に合わない――――

「ピキィ!」

 ――――そう察した瞬間、今度は短い鳴き声が轟く。
 猛り狂うようなさっきの声とは違い、何か驚いたような、そんな声。
 何があったのかは俺の視点からはわからない――――けど、今すべき事は一つ!

「レナちゃん! こっち!」

「ふえ?」

 迷いなく俺はレナちゃんに駆け寄り、彼女を危険地帯から連れ出そうと手を伸ばす。
 が――――

「……!」

 その手が届く前に、俺とレナちゃんの全身が突然、影に覆われた。
 それが何なのかを考える暇もなく、直ぐ目の前に真っ黒な何かが現れ――――

 地震のような凄まじい地響きが起こる。

 それが足の爪だと気付いた瞬間、俺は畏怖の余り身動き一つ取れなくなった。

 民家から飛び立ち、着陸した眼前で佇む亜獣。
 全体像すら把握出来ないほどの巨躯が、底冷えするような絶望を突きつけてくる。
 ヒーローズハイを一瞬で凍てつかせるくらいに。

「うっ……」

 遠目に見るのと、間近で見るのとでは別モノ。
 フワフワかと思った羽毛は表面がゴワゴワになっているし、足には傷痕が散見される。
 獣臭とでも言うのか、嗅いだことのない臭いが鼻腔を刺激してくる。
 絵では表わせない"現実"が、今まさに俺達を睨んでいた。

 その巨大な足で踏み潰そうとしているのか。
 それとも、鋭いくちばしで啄もうとしているのか。
 どの選択だったとしても、即死は免れそうにない。

「何してるんですか!? 逃げて下さい! 早く!」

 カメリア語の叫声。
 多分リエルさんだろう。

 すいません、動けません。
 全然言う事聞かなくて申し訳ない。
 来るなって言われたのに来ちゃって本当に申し訳ない。

 でも――――悔いはないんです。
 最後の最後に、"マンガ家を目指していた自分"だけじゃなく、"人としての自分"にも報復出来たから。

 遠くから、銃声と地面を叩くような音が聞こえた。
 思わず『絵になる場面だな』と思った。
 人間、自分ではどうにもならない状況に直面すると少しでも苦痛から逃れようと楽観的な思考になると聞くけど、本当にそうなんだと初めて実感した。

 最期は直ぐ目の前。
 頭をよぎったのは――――元いた世界の事だった。
 意外だった。
 何もかも忘れて消し去りたいと、あれほど思っていたのに。

 俺は……

「……?」

 ……訝しむ。
 目の前の筈の最期がいつになっても来ない。
 それどころか――――

「あっちみてるー」

 そんなレナちゃんの呑気な声が聞こえてくる。
 恐る恐る顔を上げ、亜獣の不気味なあの目を見た。
 確かに、俺らじゃなく俺らの後ろを見ている。

 このデカい鳥から目を離すのは勇気が要ったものの、覚悟を決めて振り向いてみると――――

「そのう……貴方のお子さんを連れて来ました。お返ししますね」

 羽根をパタパタさせた小さなフクロウ……のような亜獣を、エミリオちゃんが両手で掲げていた。
 その足元の街路が小さく抉れている。

 ま……間に合った……のか?

 って事は、さっきの銃声はもしかして、亜獣の注意をこっちに向けさせる為のモノだったんだろうか。
 だとしたら、きっと――――

「ピュィッ、ピュィッ」

「ピキィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 何にしても、今度こそやれる事はやり尽くした。
 これでもし『実は親子でも何でもありませんでしたー』とかいう結末だったとしても、もう知らん。

「……――――」
「あれ? どーしたの?」

 そう心の中でやけっぱちに叫んだ直後、俺の視界はみるみる内に暗転した。








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