巨匠ジャック=ジェラールとの対面から幾ばくかの時が流れ――――
「《絵ギルド》の注文数が……減ってきてる……」
昼過ぎにランタナ印刷工房を訪れた俺に向かって第一声、ルカがそんなネガティブな発言をぶっ込んできた。
「といっても……これが模造品の悪影響なのか……単に欲しい人の手に行き届いただけなのか……不明……不明……」
「そうなんだよなあ」
ちなみに、この日までに発行された《絵ギルド》の部数は約一七〇〇〇部。
流通は未だ行商任せなんで、一体どれくらいの範囲まで売りに行っているのか完全には把握出来ていない。
ウィステリアとその周辺区域はほぼ網羅したって話だけど。
ウィステリアは元いた世界でいう所の、市町村の市に該当する区域。
でも、規模的には市ってよりは都道府県に近い。
人口は……確か一〇〇万人くらいはいるって話をジャンから聞いた記憶がある。
周辺区域も含めると、大体一〇〇人に一人が買ってくれている計算だ。
仮に人口一億二千万人の日本だったらミリオンセラーのペースで売れてる訳で、ブレーキがかかっても全く不思議じゃない。
「単に流通範囲での限界だったら、特に問題はないんだけど」
「でも……模造品の悪影響なら大問題……このままだと《絵ギルド》が悪書認定されて……廃刊……回収……懲罰……終わり」
「終わりって言うな!」
とはいえ、終わりってなんだ?
《絵ギルド》を描いた目的は、過去の俺への報復とハイドランジアの復興だ。
後者は正直、もう諦めなくちゃいけない段階のように思う。
なら、前者はどうだろう。
例えば、売り上げで量ってみるとしよう。
《絵ギルド》の最初の一月分、つまりリチャードと総合ギルドに奪われた分を除いた売り上げは一二〇〇〇部。
俺の取り分は決めてないけど、仮に一割貰ったとして、一二〇〇〇部×三〇〇ルピア×一〇%=三六万ルピア。
日本円にして、大体三六〇〇万円だ。
元いた世界でイラストレーターとして稼いだ総額を遥かに越えてしまっている。
ってか、桁が違う。
少なくとも五年、節約次第では一〇年以上食っていけるだけの金額だ。
何より、独占印刷を行っているランタナ印刷工房の規模拡大が《絵ギルド》の成功を如実に物語っている。
満足感も充実感もかつてない大きさだ。
過去の自分への報復は果たした――――そう言えるだけの成果じゃないだろうか。
なら……もう《絵ギルド》の目的は果たし終えたんじゃないか?
仮にここで止まっても、悪書のレッテルを貼られても、もう何も困る事はないんじゃないか?
――――俺はもう、やり切ったんじゃないか?
一瞬、そんな考えが脳裏を過ぎった。
でも直ぐに違う声が聞えてくる。
声の主は他ならぬ俺自身だった。
『《絵ギルド》は俺の生き様ですから』
巨匠へ向かって啖呵を切ったその言葉。
咄嗟に出たからこそ、本心だったんだと今更ながらに思う。
過去の大ヒット作に執着する事は、多くの場合白い目で見られる。
でも、俺にとって《絵ギルド》は単なる出世作やヒット作じゃない。
イラストレーターとして生きるか死ぬか、自分自身の全てを賭けた作品だ。
パオロの言っていた"古典派の策略"とやらで穢されるのを黙って見ている訳にはいかない。
「多くの人の目に触れればその分、悪書認定のリスクは強まるけど……それでも販路を伸ばそうと思う。そうすれば、もっと多くの人に見て貰える」
「覚悟は出来ている……という訳ね……?」
「ああ」
淀みなく答えると、ルカの口元が徐に"へ"の字になっていった。
「貴方……ちょっとだけ……逞しくなった……?」
「そ、そう? 自分ではわからないけど……」
「初めて印刷所に来た時は……ジャンの陰に隠れてオドオドしていたのにね……」
そんなつもりは一切なかったんだけど、ルカの目にはそう映ってたのか。
ま、あの頃はまだカメリア語もロクに話せなかったし、臆病だったのは否めない。
「それで……《絵ギルド》の展望はわかったけど……ジャンはどうするの……? まさかとは思うけど……もう貴方の中でジャンは用済み……?」
或いは、最初からずっとこの件を聞きたがったのかも知れない。
如何にも自然にジャンの話題へと移行したような流れだけど、ルカの表情はそれまでとは明らかに違い、目がクワッと見開いていた。
「もしそうなら……ジャンを利用するだけして捨てるのだとしたら……今後《絵ギルド》の登場人物の白目の部分を全部……黒く塗り潰して印刷するつもりだけど……?」
「怖えよ!」
一瞬想像しちゃったぞ。
ま、それはともかく――――
「初対面の時はジャンの事あんなに煙たがってたクセに、随分と気にかけてるんだな」
つっつき甲斐のあるコメントだったんで、冷やかし半分でそんな事を言ってみる。
俺としては、『あんな奴の事……気にかけてなんてない……』とか言って照れ照れになるルカを期待していたんだけど――――
「……」
なんか押し黙ってしまった。
もしかして、地雷踏んだ?
そ、そんなにヤバい発言でもなかったよな?
「ジャンは……見捨てられた子供だったの……」
「え?」
「ジャンの父親は腕の良い狩人だったけど……ジャンが幼い頃に病気で亡くなって……母一人子一人で育ったそうよ」
それは……大変だっただろう。
でも、死別が見捨てられた子供と結び付くとは思えない。
怪訝な顔をしていたであろう俺に、ルカは間髪入れず続きを口にした。
「一〇年前……ジャンの故郷の村〈ユーフォルビア〉は亜獣に襲われて……壊滅状態になった……」
それは、一九九〇年代の日本で生まれ二一世紀を生きてきた俺には、まるで想像出来ない話だった。
ジャンがルピナスの出身じゃないのは、以前本人の口から聞いていた。
確か一〇歳の頃に引っ越して来たと。
でも、その理由が"故郷の壊滅"……?
理屈は理解出来ても、全く頭に入って来ない。
「ジャンと母親は生き残ったけど……家は全壊……絶望した母親は当時一〇歳のジャンを親戚に預けて蒸発……」
「う、嘘だろ?」
幾ら家を失ったとはいえ、一〇年育てた子供を見捨てられるものなのか?
親の愛情を実感した事のない俺がそんな憤りを覚えても、白々しいだけかもしれない。
けど、そりゃないだろ、幾らなんでも。
「親戚の家で肩身の狭い思いをしたジャンは仕方なく……このルピナスの街に一人でやって来た……」
「そこでルカと知り合ったのか」
一〇歳からの知り合いを幼馴染みと呼んでいいのかどうかは微妙だけど、とにかくそういう事らしい。
どんな経緯で知り合ったのかは気になるけど……聞ける雰囲気じゃないよな。
「一人でこの街に来たジャンは……父親譲りの銃の腕を買われて……ハイドランジアに登録……その後は貴方の知っての通りよ……」
ああ、よく知ってる。
その後、ジャンは陽性亜獣殲滅の立役者となった。
ならそれは、正義感からじゃなく復讐心からだったのか?
冒険者になったのは、故郷を壊滅させ、親を失うきっかけとなった亜獣を倒す為だったのか?
だとしたら、ジャンの報復は――――
「で……こんなお涙頂戴エピソードを聞いても……ジャンを見捨てるつもり……?」
ルカは少し茶化した物言いで、でも真剣な目で俺を睨みながら問いかけて来た。
答えは一つしかない。
「見捨てるつもりは最初からないよ」
ジャンは恩人。
そして俺の唯一の男友達。
過去のエピソードを聞くまでもなく、ルカの心配は杞憂だ。
ただ、一つだけ懸念してる事がある。
「でもさ、ルカ。ジャンは今のままが幸せって事、ないかな?」
「……それは……」
「あいつが今、総合ギルドでどんな扱いを受けてるのか、俺達は想像するしかないだろ? もし俺達の予想とは違って普通に働かせて貰ってたらさ、幸せかもしれないよな」
潰れかけの冒険者ギルドの受付と、新設された総合ギルドの副支配人。
何の先入観も予備知識もなく比べたら、そりゃ後者が圧倒的に恵まれてる。
完全に栄転だ。
俺はルピナスに戻って来た日、再会したジャンの姿を思い出していた。
あいつ、バツの悪そうな顔をしてたっけ。
あれは、ハイドランジアを守れなかった事への後ろめたさだったのか?
それとも、自分だけ幸せを掴んだ事への後ろめたさだったのか?
……わからない。
これもまた、想像でしかない。
「だから、まずはそれを確かめたい。一刻も早くあいつに会って、話を聞きたいんだ」
そして今の心境を確かめたい。
総合ギルドの副支配人って肩書きを得ても尚、冒険者〈ハイドランジア〉に拘っているのかを。
「……」
睨み合うように、お互いの目を、その中にいる自分を見やる。
暫しの沈黙の後――――
「貴方の考えは……わかった……」
先に口を開いたルカが、ポツリとそう呟いた。
「貴方までジャンを裏切るようなら……ジャンはもうそういう星の下に生まれた哀れな男……そう思う事にする」
それは多分、最大の信頼。
誠意が伝わった、なんていうと陳腐な表現だけど、俺なりの思いは彼女に汲まれたみたいだ。
何も進んじゃいないけど、一歩前に足を踏み出せたような気がした。
「でも……パオロはジャンに会わせないって言ったんでしょ……? これからどうするつもり……?」
「問題はそこなんだよな。代表者からキッパリ断わられた以上、ギルドに寄付をしたところでジャンが出てくるとは思えない」
「なら……その寄付金にする予定だった資金で……何か出来ない……?」
実はその資金、ちょっとした一軒家を買えそうなくらいの額になっている。
この世界の同人市場、マジハンパねぇ。
《絵ギルド》の売り上げも合わせると、土地まで購入出来そうだ。
なら、いっその事……
「総合ギルドを買い取っちゃうか?」
冗談半分でポツリと漏らした俺の言葉が、ルカの表情をみるみる肥大化させていく。
変な表現だけど、こう表現する以外にない。
「そ……それ……よーっ……!」
そして久々のキャラ崩壊。
ジャンの過去話で湿っぽい空気になってたから、場を和ませようとしたつもりだったんだが、ルカの目は本気だ。
「ちょっと待って……計算するから……」
そして、血走った目のまま奥からソロバンを引っ張り出してきた。
ソロバンあったんだ、この世界に。
「仮に……今から一年掛けて《絵ギルド》を他の地域に売り込んで……一〇万部くらい売る事が出来れば……総売上は三〇〇〇万ルピア……そこから宣伝費と流通コストとあたしへのボーナスと製造費と税金とエプロン代とあたしへのボーナスを引いて……」
「おいコラ引き過ぎだろ! 二重計上もあったぞ!」
「この概算で……利益は一〇〇〇万ルピア……」
計算式の内容はともかく、一〇〇〇万ルピア、つまり一〇億って数字には心が躍る。
いや、そんな金額を自分が生み出すなんて想像も出来ないし、現時点で数千万の稼ぎを出してる事も一切実感ないけどさ。
「一〇〇〇万ルピアあったら、総合ギルドは買い取れるのか?」
「知らない……買い取った事ないし……」
そりゃそうだろうけども。
自分が出した計算の答えには責任を持って欲しい。
何にしても、一〇万部売るってのは相当大変だ。
それ以前に、国営じゃないけど国から資金援助を受けている施設を買い取れるかどうか、って根本的な疑問もある。
金さえありゃいいって訳でもないだろう。
とはいえ、もし総合ギルドを買い取れれば、ジャンの気持ちを確かめるまでもなく万事解決だ。
総合ギルドが俺達のモノになれば、ハイドランジアの独立も、ジャンの肩書きも全部自由だし。
「よっしゃ! 久々に燃えてきた! このテンションも久々だ! 総合ギルド買収計画の夜明けに乾杯! はっはっは! あーっはっはっは!」
「……どうしよう……ユーリが壊れた……直し方知らない……」
完全にドン引きされている事を自覚しつつも、半分空元気、半分本気で俺は暫く高笑いを続けていた。
無謀だろうとなんだろうと、やる事が明確なのはいい事だ。
そんな訳で、次の目標が決まった。
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