カメリア王国の北部にあるウィステリアという地域は、王都でもなければ主要都市でもない。
 まして、その中にあるルピナスという街は、有名ギルドこそあれど、特別に栄えている訳でもない。
 そんな場所に、公務以外の理由で王女が二人も来訪しているという現状は、ハッキリ言って異常だ。

「もう、アルテったら……一人で王城を抜け出すなんて! 困った娘ですわね!」

「だ、だって、お父様は体調が優れないからと入院してしまったし、お城の使用人達は妙に素っ気ないし、お姉様とリエルはいつまで経っても帰って来ないし……心細かったんだもん」

 とまあ、そんな理由でアルテ姫はこのルピナスまで護衛すら付けず、単独でやって来たらしい。
 見上げた根性というか、無謀と言うか……幾ら変装していたとはいえ、先にベンヴェヌートあたりに見つかってたらどうなってた事やら。
 ともあれ、俺とエミリオちゃんに保護されたアルテ姫は、今こうしてランタナ印刷工房の居間で無事に姉や従騎士との再会を果たしていた。

「でも、御無事で本当によかったです。万が一の事があったら、私……」

「リエル……ごめんね。姫の為に心配してくれるのね。姫が心配かけてごめんね」

 涙ぐむリエルさんを前に、若干嬉しそうにしているのはともかく――――

「どうしてルピナスに来たんですか? メアリー姫やリエルさんがここにいるの、知ってた訳じゃないんでしょ?」

 確かメアリー姫がアルテ姫に伝書コルーで連絡を取ろうとしていたのは昨日。
 まだお城にすら届いていないだろう。
 公務じゃないのなら、詳細な予定を記録として残してたとも思えないし……

「お姉様達がここにいたのは知らなかったわ。姫はユーリに会いに来たの」

「……俺に?」

 いきなり名指しで呼ばれ、思わず怯む。
 なんだって俺に会おうとしたんだ?

「か、勘違いしないでよ! 別に姫はユーリに会いたくて来た訳じゃないの! 仕方なく会いに来たんだからね!」

「その手の勘違いはもう二度としないとこの印刷所の一室で心に誓ったばかりなんで大丈夫です」

「そ、そう。なんか怖いしよくわからないけど、誤解がないのなら別にいいわ」

 感情を抑えて説明したつもりが、却ってアルテ姫の恐怖心を煽ってしまった。
 それはともかく、本当なんで俺なんだ?

「お姉様。ユーリにお父様の事は……」

「ええ。既に話していますわ」

 ……あ、そういう事か。

「なら話は早いわね。姫がユーリに会いに来たのは、お父様に絵を描いて欲しかったから」

 つまり、メアリー姫と同じ事を頼みに来たのか。

「それなら……伝書コルーか馬車運輸を使って……手紙で依頼しても……よさそうなものだけれど……」

 人数分の飲み物をトレイに乗せて、ルカが登場。
 ちなみにエミリオちゃんは誤って一国の姫を捕らえようとした事への処罰に怯えまくり、この場にはいない。
 いかにも権力に弱いあの子らしい怯えっぷりと言える。

「お父様の件は、手紙では伝えられないと思ったのよ。姫もそれくらいの配慮は出来るの」

 ルカは事情を知らないから無理もないけど、『国王が亜獣に魅入られてしまっている』なんて手紙にでも書いて、万が一それが他人の目に触れたようもんなら大事だ。
 例えその事実を隠したとしても、一国の王女が全国的にはまだ無名の俺に絵を依頼するのは、色んな事を勘ぐられる原因になるだろう。
 まあ、王女が長旅をしてまで直接頼みに来るのもそれはそれで大事なんだけど。

「本当はね、本当は姫が自分で……って思ってたんだけど、姫の描いた絵じゃダメみたいなの。だから、ユーリに頼まないと……って思って……」

 気が置けない人達との再会。
 長い長い心細さと寂寞感からの解放と安堵。
 そして、父親の事を俺に頼まざるを得ない悔しさ。

 きっと、色んな感情が混ざり合っているんだろう。
 アルテ姫はポロポロと涙を流し、俺の前に力なく歩を進めた。

「お願い。お父様を……助けてあげて。姫のお父様を……たった一人のお父様を……」

「アルテ……」

 メアリー姫もその隣に並び、俺と向き合う。
 その目はアルテ姫とは違う角度で、でも同じ光を帯びていた。

「わたくし達のお母様は、八年前に亡くなりましたの」

「……え?」

「それからですわ。お父様の亜獣への偏愛が見られるようになったのは」

 そういえば――――二人から母親の事を聞いた事は一度もなかった。
 この国のお后様は、もう亡くなっていたのか……

「お父様も、寂しかったのでしょう」

 メアリー姫のその言葉は、言葉だけを切り取れば達観しているように聞こえる。
 だけど、彼女の表情、声、そして何より姉妹揃ってここにいるという事実そのものが、決してそうじゃないと雄弁に語っていた。

 ――――みんな、寂しかったんだ。

「あ……」

 そう思った瞬間、"それ"は突然訪れた。

 稀にある。
 頭の中が白い光で満たされる感覚。

「あ……あ……」

 着想。
 そして衝動。

 この頭の中に浮かんだ"画"を、どうしても描かなければという使命感にも似た欲求。
 けれど、いつもの思いつきとは明らかに質が違う。
 その後人気キャラとなったタマヨリヒメのデザインを思いついた時も、こうだった。
 自分の中に何かが降りてきたような、そんなイメージ。

「ちょっと失礼!」

 居ても立ってもいられず、俺は自分の荷物の中からペンを取り出し、印刷所の紙を数枚手に取って床にそれを置く。
 そして自分の中に生まれた画を出力すべく、ペン先をインクで浸した。

「ユーリ? 一体何を……」

「しっ! お姉様、邪魔しちゃダメ!」

 遠くで聞こえる声も、次第に音量を弱めていく。

「ユーリ先生は、何か思いついた時にはこうやって一心不乱に描き始めるんです」

 そのリエルさんの説明を最後に、明瞭な言葉は俺の周囲から消えた。
 後は何もない。
 描くだけだ。

 あーだこーだと試行錯誤しながら描く時とは全然違う。
 自分の中で、イラストを描いているという感覚すらない。
 今の俺の目には、既に完成した絵が存在して、そこまでの道のりを遠足のように楽しむ――――そういう時間。

 ああ、楽しい。
 なんて楽しいんだろう。
 この瞬間だけは、どんな辛い現実も、悲しい過去も、憂うべき未来も忘れて、自分を好きになれる。

 ここは至福の世界だ――――

 


「……終わり!」

 そう叫んだ瞬間、俺は周囲がやたら暗くなっているのに気付き、一瞬戸惑った。
 照明用のランプの炎が揺れている。
 アルテ姫もメアリー姫も、リエルさんもルカもいない。
 気を利かせてこの場を離れたんだろう。

 ……にしても、驚いた。
 時間経過はともかく、これだけ明度が変わってもそれに気付かないなんて。
 元いた世界じゃ蛍光灯があったから、室内では昼夜の区別は殆ど付かなかったけど……随分と集中してたんだな。

「……」

 俺は一人、完成したイラストをじっと眺める。
 正直なところ――――奇跡の一枚、率直にそう思った。

 極限まで集中して描いたからといって、平凡なイラストレーターが一夜にして別人に生まれ変われる訳じゃない。
 出来自体は、自分の持っている画力の範囲を若干超えられたかな、という程度だ。
 でも、この局面において、そしてアルテ姫やメアリー姫の思いに応えるという意味において、ミラクルが起こったと言える出来映えだと思う。

 そういうイラストを描く事が出来た。

「ユーリ、それは……」

「うわっどわっ!」

 俺以外に誰もいなくなった筈の居間からいきなり発生した声に、俺は奇声をあげ倒れ込んだ。
 ただでさえ同じ態勢で何時間も描いてたから全身が痺れ気味なのに……

「あ、ゴメン。驚かせちゃったね」

「その声はジャンか!」

 力の余り入らない身体をどうにか起こすと、薄い炎の光に照らされたジャンの身体が目の前にぼおっと出現した。
 に、忍者かよ。

「気配を完全に断つ事で、視界に入ってもそれを人間だと認識させない技術なんだ。これが出来ないと、狙撃手は務まらない」

「昨日の種明かしの時に一緒に見せてくれりゃ、こっちだって素直に驚けたのに……」

 ……待てよ。
 って事は、これまでもこいつは俺の知らない内に気配を消して、俺の行動を監視してた可能性もあるのか?

「お前、俺が鼻の穴や耳の穴に冷水を垂らして悶えている姿を見たんだな。そうなんだな」

「よ、よくわからないんだけど、なんでそんな事してたの?」

 ヤブ蛇だった!

「一応自分の名誉の為に言っておくけど、この術は僕のトップシークレットなんだ。仕事以外で使った事はないよ。それに、明日に引きずるくらい疲れるんだ。頻用は出来ない」

「あっそ」

「……信用してない目だね」

 そう力なく笑うジャンの顔が、次第に真顔へと変わっていく。
 その疲れる術を使ってまでここに来たって事は、何か進展なり問題なりがあったんだろう。
 出来れば朗報を聞きたいけど――――

「どうやら、有翼種亜獣を刺激したのはベンヴェヌートの仕業で間違いなさそうだ。彼の部下が亜獣の子供を連れて走っている姿が目撃されていたよ」

「そりゃ朗報だ」

 原因がハッキリしたし、一番わかりやすい展開だ。
 つまり、上空を飛び交っているあのフクロウ亜獣二体は子供の親なんだろう。
 以前は一体しか来なかったけど、今回は一体では見つけきれず両親で探しているのかもしれない。

「朗報……と言っていいかどうか。恐らくベンヴェヌートは、子供の亜獣を刺激して親の亜獣を街中で"程よく"暴れさせて、その後に倒そうと企んでいる。今は子供亜獣の匂いや羽根を利用して『この辺にいるかも』と思わせる程度に留めて、親亜獣の動きを制御しているみたいだね」

「如何にもあの野郎らしい、ゲスなやり口だな」

「決行日はまだわからないけど……ウィステリア市民が亜獣への不安でヒステリックになった頃合いを見計らっているのかもしれない」

 その方がより、亜獣を倒した自分達が美化される。
 ジャンの推察が事実なら、実にナルシストらしい発想だ。

「で、お前がここに来たのは、それを俺に知らせる為か?」

「うん。本当はユーリを巻き込みたくなかったんだけどね……」

 疲れきった顔で、ジャンはその場に腰を下ろした。









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