とある日に風景を描くとする。
そう決めた日の天候ってのは、恐らく晴天、或いは雨や雪の日が圧倒的に多くて、曇りの日はかなり少ないんじゃないだろうか。
これは音楽も同じ。
ハッキリとした天気は、妙に美術・芸術分野と相性が良い。
俗に言う"絵になる"ってヤツだ。
ならどうして、曇りの日は絵にならないのか。
要はどっち付かずだからなんだろう。
青空の鮮やかさもなければ、雨模様の切なさ、侘びしさにも及ばない。
雪の純白さと儚さになど、到底敵わない。
俺の人生は――――概ね曇りだった。
元いた世界で落ちぶれた俺は、長らくそういう日々を送っていた。
"雨のち晴れ"でも"所により雷"でもなく、ずっと"曇り"。
晴れ間を夢見ていながら、雨足を恐れて、その時期を半ば意図的に作っていた。
絵にならない人生。
それはそれで、今となっては感慨深い。
今日の天気は曇り。
俺は、実は晴れの日より雨の日より、この天候が一番好きだった。
それは今も変わらない。
多分、今後変わる事もないだろう。
「……気持ちはわからないでもないけど、延々と曇り空を描き続ける人って、ちょっと怖いよね」
ジト目のジャンに嫌な事を言われながらも、俺はその絵を描き上げた。
別にこれを売り物にしようって訳じゃない。
「仕方ねーだろ。次に描く報告書の依頼が曇りの日だったんだから」
「ああ、それで練習してたんだ」
俺の意図がようやく理解出来たらしく、ジャンはカウンターの上に積まれた注文書に視線を戻し、事務処理の仕事を再開した。
「早く……承認をして……忙しいんだから……急……急……」
「わ、わかってるよ。もうすぐ終わるから」
そのジャンに苛立った様子で因縁を付けるルカ。
ランタナ印刷工房から経費承認の為の経費精算書を提出しに来たそうで、妙に殺気立ってるのは本来経費で落ちない費用も強引に承認して貰おうという強い邪念が主因と思われる。
俺は色んな意味でその光景に苦笑しつつ――――あらためて自分の今いるこの場所の内装をグルッと眺めた。
無駄に広いホール。
無駄に多いボード。
無駄に多いテーブル。
無駄に高い天井。
無駄に広い窓。
それは、俺が初めてここへ来た時と何ら変わる事のない光景だ。
「あのう、けほっ、すいません、けほけほっ……」
感慨深く思い出に浸っていた俺は、力なく開かれた入り口のウェスタンドアと、そこから入ってくるエミリオちゃんに視線を向ける。
明らかに顔が赤い。
目も虚ろだ。
「すいません……風邪を引いてしまいました……けほっ」
「あれれ、大丈夫かい? こっちの事はいいから、今日は部屋で休みなよ」
「ひああ……プロ失格です……本当にダメなわたしを許して下さい……けほけほっ」
いじらしいのか同情を誘いたいのか、そのギリギリの攻防という感じの言葉を残し、エミリオちゃんは二階へ上がっていった。
彼女は現在、唯一の住み込み冒険者として、ここで働いている。
せっかく総合ギルトで人外部門総隊長という役職まで得たというのに。
まあ、本人たっての希望なんだから、俺がとやかく言う事でもないけど。
「他人の事言える立場じゃないでしょ、ユーリも」
「ナチュラルに俺の考えを読むんじゃねーよ! 何度目だよこの注意勧告!」
「そうは言っても、君の方がよっぽど"せっかく"だからさ。呆れたくもなるよ」
なんか一語一句違わず読まれている気がして、寒気を感じる。
何にしても、ジャンの言葉は耳が痛い。
後悔先に立たずとは言うけれど、多分いつか何処かで後悔と出会いそうな話だ。
「せっかく……国王陛下直々に……宮廷絵師への就任を要請されたのに……」
――――そのルカの溜息交じりの発言が、俺を三ヶ月前の"あの日"に遡らせた。
それは、第一回カメリア国王杯の授賞式翌日の夜の事。
無事務めを果たし、心地良い疲れに身を委ね、高級ホテル〈インパティエンス〉の一室で眠りに就いていた俺は、急遽ホテルの宴会場で開かれる事になったアルテ姫主催の祝賀パーティーに招かれ、半ば叩き起こされる形でパーティー会場へと連行された。
「……呪画?」
その席上での一幕。
物騒なその言葉をオウム返しする俺に対し、向かい側に腰かけた国王ヒューゴ=ヌードストロームは静かに頷いた。
「その絵を見た人間に対し、絵のモチーフを強く押しつけてくる――――そういう絵の総称だ。極めて自己顕示欲の強い絵と言う事も出来るだろう」
国王のその話を聞いた直後、俺はベンヴェヌートの絵を真っ先に連想した。
あいつの絵は自己顕示欲の塊だからだ。
でも、続きを聞いた俺の頭の中には、全く別の絵……というよりエピソードが浮かび上がった。
「極端な物になると、絵を見た者はその絵のモチーフに心を奪われ、それ以外の事を考えられなくなる」
「……え?」
思わず、俺から見てテーブル右側に座っているジャンとエミリオちゃんの方に目を向ける。
彼らも国王の話を聞いていたらしく、しかめっ面で頷いた。
あれは確か、《絵ギルド》の販売を開始した直後の事だったか。
BL同人誌作家フリーダさんの父親で、現ウィステリア市長のロード=デンドロン氏が所持していたという"白紙の絵画"を見て、ジャンとエミリオちゃんは頭が真っ白になったと言っていた。
てっきり『見る者を廃人にする』っていう絵なのかと思っていたけど、もしその絵画のモチーフが"真っ白"で、ジャン達がその真っ白に心を奪われたのだとしたら――――筋が通る。
「ゴットの奴が余に献上した絵画の中に、その呪画があったようでな。恐らくはステラリア王国の王子と共謀していたのだろうが……」
国王はそこで一旦区切り、大きく嘆息する。
「……それは、亜獣の絵だった」
頭を抱えながら、搾り出すようにして放たれた答え。
国王が亜獣に魅入られた主因は、イヴさんでもなければ彼の趣味嗜好でもなく、彼を貶めようと画策したゴットフリートがステラリア王国のアーサー王子と共謀して用意した呪画だった。
「それ以来、余は夢と現の狭間を彷徨っていた。一時は、亜獣がこのカメリア王国に脅威をもたらす存在だと強く認識し、その呪縛から逃れられたのだが……再びあの絵を見てしまった。余の意思でな」
「な、なんでまた……」
「余は、亜獣を憎みきれなかったのだ。亜獣は余と妻を引き合わせた存在故にな」
「え?」
反射的に、それはおかしいと俺は感じていた。
亜獣がこの世界に現れたのは一〇年くらい前って話だ。
どう考えても計算が合わない。
「驚くかもしれんが、亜獣は余が子供の頃から存在していた。周知となったのが一〇年前というだけの事だ」
「そ、そのう、どどどうしてそう言い切れるのでしょうか」
権力に弱いエミリオちゃんが、最強権力者相手にいつになくドモりながらしたその質問に、国王は遠い目になり答える。
「実際に見たからだよ。余の前に突如、亜獣が現れたのを」
その、驚くべき事実を。
「草むらから突然現れた訳でもなければ、上空から急降下してきた訳でもない。文字通り、突然目の前に出現した。信じては貰えんかもしれんがな」
「あり得ない話ではないと思います」
横目で俺の方を見ながら、ジャンがそう肯定する。
当然、俺も同意見だ。
以前そんな仮説を立てた事があったけど、亜獣も俺と同じように、他の世界からこの世界へ移住した存在なんだろう。
彼らは、俺の知るフクロウやウサギがこの世界で進化した姿なのかもしれない。
だとしたら、子供を奪われたフクロウ亜獣がルピナスの街でそれほど派手に暴れなかったのは、元いた世界にいた同士たる俺の存在を感じ取って――――ってのは流石に考え過ぎか。
「なら話を続けるとしよう。実はその時、余と一緒に亜獣の出現を見ていた者がいてね」
「それがお母様だったの?」
アルテ姫、国王の背後から突然の乱入。
メアリー姫と共に、パーティーの参加者へ挨拶に回っていたんだけど、いつの間にか戻っていたらしい。
ちなみに、当然ながらゴットフリートやベンヴェヌートは欠席。
イヴさんの姿も、会場には見当たらない。
「うむ。妻は街の娘でな、余が城から抜け出し、よく遊んでいた野原で花冠を作っていた」
そこに亜獣が出現し、やがて空へと飛び去ったという。
これは余談だが、その時の亜獣こそが、国王とイヴさんの乗ってきたあのフクロウ亜獣だったらしい。
実際には手懐けていた訳じゃなく、古くからの友人なんだそうで。
……なんともファンタジックな国王だこと。
「たった二人だけの秘密を共有した男女が親しくなるのは必然。余は彼女と共に青春期を過ごし、そしてプロポーズした。余と妻は、将来も共有する事になったのだ」
と、ここまではロマン溢れる微笑ましい話。
――――妻の死、という未来さえなければ。
「……どうしても、受け入れられなくてな。亜獣の絵を見ると、あれと初めて会った当時に戻れるのだ。余は己の弱さに負け、再び絵を見てしまった。自ら亜獣に魅入られてしまった」
「お父様……お辛かったのね」
アルテ姫は国王の背後から、椅子の背もたれごと抱きしめるようにして寄りかかる。
そしてそのままチョークスリーパーホールドへと移行した。
おお、この世界でもあるんだ。
「そのお気持ちは察するに余りあるけど、姫やお姉様を残してお母様との思い出に浸るなんて、ちょっと色ボケ過ぎない?」
「うぐぉ……アルテ止めないか……また夢の世界へ逆戻りしてしまいそうだ……ギブギブ!」
国王がタップするという、中々お目にかかれない光景が見られただけでも出席した価値はあった。
「何をやってますの、全く……」
「あらお姉様。この機会にお姉様も絞めといたら?」
「わたくしのお仕置きは後でゆっくりと……ね? お父様」
「ほ、程ほどになさって下さいね……」
不穏な空気をまとい、メアリー姫もリエルさんも合流。
国王は咳き込みながら、二人を両隣の席へ座らせ、俺の方へと顔を向ける。
「……と、そのような事があって、余は人の道を、王の道を、そして親の道を踏み外していた。そんな余をこの現実へと引き戻してくれたのが、お前の描いたこの絵だ」
そう語りながら、国王は足元に置いていた例の絵をテーブルの上に置く。
印刷の為に混合樹脂で塗り固めて凹凸を作っていた筈だけど、その絵は俺が描いたままの姿だった。
「混合樹脂は……割と簡単に剥がせる……」
とはルカの弁。
……俺の考えてる事って、そんなに読みやすいのかな。
「あーもー、いつ見てもかわいー!」
「うむ。亜獣をまるで別の生き物のようにコミカルに描いた、キュートでエキセントリックな絵だ。しかしそれ以上に余の心を動かしたのは……」
今にも絵の中の亜獣にキスしようとするアルテ姫を制しつつ、国王は――――
「この二人の娘と、一人の青年」
人物画にその目を向けていた。
「アルテに聞いた話では、この絵はウィステリアで起こった実際の事件をモチーフにしているそうだが、余の目には全く別の物語が映っていたのだ」
「娘達と共に生きる、父親の物語」
「!」
先回りして答えを言った俺に、国王は驚愕の表情を浮かべていたが、やがてその口元は綻んでいく。
「全て、君の狙い通りとなった訳か」
「狙いというより、願いです。一応、その為のメッセージを込めてはいましたけど」
「……? どういう事なの、ユーリ。姫にわかるよう説明しなさいよ」
俺と国王以外は、まだそのメッセージには気付いていないらしく、メアリー姫やジャンも思案顔で俺の絵を凝視している。
この絵には、三つのメッセージを込めた。
一つは、古典派、写実派、幻想派の要素を組み入れる事で、協力し合うようにと。
一つは、亜獣をデフォルメ描写し、かつ平和的解決の場面を描写する事で、亜獣を怖がらないようにと。
そして、もう一つ。
三つ目のメッセージは――――
「あ……」
リエルさんが気付いたのか、口元を手で覆い、俺の方に顔を向ける。
「この絵のタイトルは《親子の再会》……」
「そうだ。余はこの絵の中で、再会したのだ。愛しき娘達と」
俺の物語として、この絵に描いたのは、エミリオちゃん、レナちゃん、そして俺。
でも、国王がこの絵に読み解いた物語の登場人物は――――幼き日のメアリー姫、アルテ姫、そして若い頃の自分。
亜獣と戯れる親子の姿がそこにはあった。
「そして同時に、気付いた。この絵の中に妻はいない。もう彼女はこの世にはいない。だが、彼女が残してくれた二人がいるではないか……と」
そう気付いてくれると願って付けたタイトルが《親子の再会》。
俺如きの絵に随分と色んな、そして大変な役割を担わせてしまったけど、どうにかこれでお役御免となれそうだ。
「もしこの絵が、呪画のように自己を押しつけて来るような絵ならば、余の心は決して動かなかっただろう。巧妙にて絶妙、素朴でいて奇抜……この絵を構成する全ての要素が、余に気付かせてくれたのだ。余の本当の夢は、現実にこそあるのだと」
国王はアルテ姫、メアリー姫の頭をそっと撫でる。
アルテ姫は嬉しそうに、メアリー姫は照れ臭そうに、その手の感触を確かめていた。
「ユーリ。この絵は余が貰い受けても良いのだろうか?」
「勿論です。元々、献上する為に描いた絵ですから」
「ならば遠慮はすまい。戒めとして、何より愛すべき優れた絵画として、余の部屋に飾ろう」
そしてまた、《親子の再会》は新しい役割を得た。
我が子が就職したかのように喜ばしい事だ。
自分の描いた絵を子供に例えると、大抵はイタいヤツと思われるだろうけど、今回ばかりは許して貰えるんじゃないだろうか。
「ユーリ……そのニヤニヤは止めて……気持ちが悪い……キモ……キモ……」
「そこは素直にイタいでいいだろ! 考え読むなら最後までちゃんと読めや!」
訂正。
イタいもキモいも嫌なんで、出来れば心の中だけに留めて欲しい。
「ユーリよ」
ルカに怒鳴り散らし息を荒げる俺に、国王が席を立ち、その引き締まった真顔を向ける。
それに倣い、アルテ姫もメアリー姫も親と並び立った。
「此度の働き、実に見事であった。カメリア王国の内乱を最小限に防ぎ、市民の混乱も抑える事が出来た。国王として、父として感謝する」
「ありがとね、ユーリ師匠」
「本当に素晴らしい作品を描いてくれましたわ」
「な……や、止めて下さい! 俺なんかに、そんな……」
王族三人に揃って謝意を表されるなんて、幾らなんでも分不相応だ。
居心地が悪過ぎる。
ジャンは目で『堂々としなよ』と訴えてくるが、無理な話。
リエルさんに助けを求めるも、ニコニコして手を叩いてる。
これはこれで、結構地獄だ。
「その栄誉を称える意味で、君を宮廷絵師として王城に招こうと思っている。無論、幻想派という事になるが、その枠に囚われない、君だけの絵を描き続けてくれれば良い」
そんな窮屈な思いをして絵を描くなんて、想像も付かない。
狭い部屋の狭い机に向かって、コソコソと自分の狭い脳内に浮かぶイメージを描写する方がよっぽど開放的だ。
「今の君は、"色々な意味で"王宮にいる方がいい。受けてくれるな?」
だからそれは、無理難題なんです――――
――――という結論に到り、俺はその申し出を辞退。
代わりに、冒険者ギルド〈ハイドランジア〉の独立をお願いしたものの……ゴットフリートの提唱していた総合ギルドの普及には国王も乗り気らしく、却下されてしまった。
彼はいずれ総合ギルドを国営の施設にしたいらしい。
その中に、是非ハイドランジアを組み入れたいって意向だった。
なので、結局お願いしたのはというと……
「宮廷絵師になんかなったら、《絵ギルド》の続きが描けないだろ? 折角全国に流通出来るようになったんだから」
流通妨害罪の制定と、全国の図書館及びギルドへの《絵ギルド》の寄贈だ。
《絵ギルド》の印刷はランタナ印刷工房でのみ行うという契約がある(結んだ記憶はないんだけど)。
なので、ルピナスから各地へと注文書の記載に応じた量を出荷するという、元いた世界では普通の、この世界ではちょっと非効率な方法で、《絵ギルド》はカメリア王国全土へと届けられている。
現在における累計発行部数は三〇万部。
ただし、巨大化した現在のランタナ印刷工房でも印刷が追いついていないので、この数字はもっともっと増えていくと予想される。
そして、来年までには《絵ギルド》第二巻の製作も予定しており、それに合わせランタナ印刷工房の支店も建設される予定だ。
「ギルドの報告書くらい、王城に幾らでも送ってあげるのに」
「原稿を郵送してくれれば……印刷も余裕なのに……」
「それじゃダメなんだよ。このギルドの空気を吸って、フィーリングを合わせないと」
で、ここは何処かというと――――冒険者ギルド〈ハイドランジア〉。
独立した訳じゃない。
総合ギルド西部支店の名称・外観・内装を全て冒険者ギルド〈ハイドランジア〉の頃に戻しただけだ。
あくまでも総合ギルド内の一部門、一施設という状況は変わらない。
あ、看板だけは以前とは変わっているけど。
当初の目標とは少し違う所へ着地した。
でも、そんな事は別にどうでもいい。
ジャンが受付に復帰し、以前のような温かみと活気に満ちたハイドランジアに戻ったんだから。
それに、やる気のない経営者に経営権を握られているよりは、国が支持する総合ギルドの傘下に収まっていた方がいいだろう。
問題は、総合ギルドの方も〈ハイドランジア〉って名前になっていた点だが――――
「それにしても……"名前を買う"なんて……斬新な発想……驚愕……愕愕」
「そんなガクガクされてもな。俺のいた世……国じゃ珍しくはないんだよ」
球場とか、割と頻繁に名前変わってたし。
要するに、それと同じ要領で総合ギルドの命名権を俺が買い取った格好だ。
いずれは国営化する総合ギルドそのものを買い取るのは困難だったけど、名前くらいなら問題ない。
現在、総合ギルドは〈ユーフォルビア〉って名前に改名され、新たに浸透しつつある。
ちなみに命名者は俺じゃなくルカ。
ただしそれは、ジャンには内緒って事になっている。
やれやれだ。
そんな訳で、正式には総合ギルド〈ユーフォルビア〉傘下・冒険者ギルド〈ハイドランジア〉に俺達はいる。
「でも……よくパオロを説得出来たものね……」
そのルカがポツリと、というよりダラダラとそんな事を。
同調するように、ジャンも二つばかり小刻みに頷いていた。
「確かに大変だったよ。彼はハイドランジアの名前にかなり拘っていたから」
「そういえば前に……そんな話聞いたような……外国に名前が通ってるからとか……」
「それもあるけど、一番の理由はやっぱり……贖罪、かな」
パオロは一冒険者として、罪のない亜獣を殺めてしまった事を、ジャン同様に悔いていた。
ハイドランジアの名前を背負う事で、その罪を一生ひきずって行く覚悟でいたそうだ。
だから、名前に拘った。
ハイドランジアという名前の施設で、正しい亜獣と人間の関係を築いて行くという信念があった。
でも、最終的にはその思いをこっちに託してくれた。
あの鋭い目で睨みながら、ジャンに『頼む』と言った彼の顔は、忘れる事が出来そうにない。
一方、その思いを託されたジャンの考えは、パオロとは少し違っていた。
ジャンはずっと――――昔のハイドランジアを取り戻したかった。
自分がダメにしてしまったハイドランジアを、復活させたかった。
だから、中身に拘った。
『これが、僕の報復なんだ』
フクロウ亜獣に踏み潰されそうになった時のジャンのセリフを思い出す。
その真意は本人には確かめていないし、今後そうするつもりもない。
だからこれは俺の推察に過ぎないけど――――ジャンは多分、"英雄"に戻りたかったんだ。
ただし、今度は亜獣を殺めるのではなく、亜獣に殺められる事で。
身を挺し、あの場にいる全員を救う事で、かつて英雄と呼ばれた自分を取り戻したかったんだ。
かつてのハイドランジアを復活させ、かつての自分を復活させ、そして最後に亜獣によって"報復"を受ける。
自分が殺めた亜獣という存在によって、同じ目に遭わせられる。
これが――――ジャンがずっと心の中に抱いていた報復の物語だったんだと思う。
もしかしたら今後、こいつはまたこの自殺願望にも似た報復を果たそうとするかもしれない。
でもそれは、正しくない報復だ。
なら、それを止めるのは俺の役目。
《絵ギルド》を描き続け、ハイドランジアを以前よりもっと活気あるギルドにして、報復されるなんて考える余裕もないくらい忙しくしてやればいい。
この世界に迷い込んだ俺を、無償で助けてくれた親友。
俺もまた、ジャンにとってそうでありたい。
「パオロに罪はない……あるとすればそれは……怪しいビジネスに手を出して……ハイドランジアの名を汚してしまった……愚かなる誰かさん……愚者……愚者」
「そこまで言うのなら、いっそ名指しで貶してよ……」
今日もルカはジャンに厳しい。
恐らくその関係性が今後変わる事はないだろう。
ちなみに、僕の報復云々の直前に言い放った、ジャンが俺に託そうとしたあのセリフだけど……実はまだルカには伝えていない。
ま、ジャンは普通に生き残った事だし、敢えて俺が伝える理由もないんだけど。
なんつーか、三角関係ってのは傍から見てるとイラッとするけど……一度は体験してみたいよね、男なら。
「それはともかく。僕はパオロの思いを託された身だから、ここで働くのは当然だけど……君は王宮にいた方がいいと思うけどね、ユーリ」
そんな俺の嫉みなど知る由もないジャンが、ジト目でつれない事を言ってくる。
「なんだよ。そんなに俺がここにいるのが嫌なのか?」
「嫌じゃないけど、その方が僕は楽が出来るかな。君の周りの雑音は予想以上に大きくなってるみたいだし……」
その"雑音"っていうのが何を指しているのか、俺にはよくわからなかった。
「とにかく、君は欲がなさ過ぎるよ。もう少し今の自分を客観的に見るべきだ」
「全くです。ユーリ先生は御自分を過小評価し過ぎです」
呆れ顔のジャンに同調する言葉を二階から降らしてきたのは――――リエルさんだった。
何故、騎士である彼女がここにいるのか。
理由はそう複雑じゃない。
彼女の肩書きは現在、総合ギルド〈ハイドランジア〉亜獣対策部門内部監査人。
やたら長いけど、要は国家とギルドの亜獣対策における連携を密にする為、出向のような形で所属しつつ、亜獣対策部門が健全に稼働しているかどうかを監査する役回りらしい。
この冒険者ギルド〈ハイドランジア〉は別に亜獣対策の部署じゃないんだけど、街中に亜獣が現れた際には戦闘員の詰め所となる事も想定している為、定期的にリエルさんが備品のチェックなどをしに来る。
そしてそのついでにお手伝いをしていったり、一緒に食事をしたりもする。
ちなみに、メアリー姫が指揮官に就任予定の亜獣被害対策検討委員会でも、中心的な役割を担うという。
亜獣対策っていうと、亜獣と戦えないといけないって思いがちだけど、実際には『亜獣と人間の関係を適切な形に良化させる』『万が一被害が出た場合には義援すべき項目と金額を速やかに算出する』など、必ずしも武力とは結びつかない部門だそうな。
そんな将来を嘱望された有能な女性騎士が、説教顔で一階へと下りてくる。
「貴方は既に、カメリア王国の未来を担う新鋭画家のお一人なんですから、それに相応しい立場になってくれないと、国家としても困ります。アルテ姫もメアリー姫も、ユーリ先生が王城に来るのを楽しみに待っていますよ?」
「いや、遊びに行くだけならいつでも行けますし」
「そういう問題じゃないんです……うう、私が言っても仕方ないんですけど、もどかしいです……」
そう言われましても、ねえ。
俺としては、貴女がこの地にいる事がもどかしいです。
せめて遠くにいてくれれば、静かーに片思い出来るのに。
どうにも勘違いしそうな自分が嫌になる。
「それはそうと、リエル様。チェックの方はどうでした? 備品や設備に問題があったら僕に言って頂ければ……」
「いえ、問題なしです。ただ、さっきエミリオさんがフラフラと自室に向かってて、少し心配だったんですけど」
「ただの風邪……風邪……暖かくして栄養のある物を食べればすぐ治る……」
ルカはそう説明しながら、ジャンが渋々判を押した経費精算書に何か書き足し――――
「それじゃ……また……」
リエルさんにへろへろと手を振って、足早にギルドを後にした。
「……」
ウェスタンドアが閉まったのを確認し、ジャンが無言で、苦笑いしながら精算書を見せてくる。
そのリストに、お見舞い用のフルーツセットが一つ加わっていた。
「ルカって、昔からこういう所があるんですよ」
従妹のリエルさんは花が咲いたような笑顔で、そう語る。
……なんか良い話っぽくなってるけど、経費だからルカは一切出費していない点も含めての『こういう所』なんだろう。
いつか彼女の口からルカの昔話を聞いてみたいもんだ。
「さて、エミリオ君がこれから扱う予定だった依頼の調整をしないと。依頼書は……」
肩を竦めたのち、ジャンは《絵ギルド》の注文書を一旦カウンターの端に集め、依頼内容をまとめたノートに目を向ける。
その間、俺はリエルさんと微妙に距離を取っていた。
ここに来て女性への苦手意識が復活した……って訳でもないんだけど、リエルさんに異性として意識してる事を悟られるのが、どうにも恥ずかしい。
二〇歳過ぎてなんてザマだ。
やっぱり恋愛経験って若い時分にしとかないとダメだ。
「んー……あ、これだ」
「内容は?」
微かにリエルさんの視線を感じていた俺は、誤魔化すようにジャンへ詰め寄る。
「ダフニー鉱山で幽霊の目撃談があったから、確認及び場合によっては除霊」
成程、エミリオちゃん向きの依頼だな。
除霊は無理だけど、確認くらいは問題なくやれそうだ。
「ダフニー鉱山って、ここからそう遠くないよな。俺が行ってくる」
「え?」
ジャンが驚いたように眉を跳ね上げる。
「他の冒険者は仕事が詰まってるんだろ? 俺としても、鉱山の頂上から見える風景をスケッチしてみたいしさ」
「うーん、ちょっと危険なんじゃないかな。確かダフニー鉱山には亜獣の目撃証言もあったし……」
「亜獣はこっちから手を出さなきゃ安全なんだろ?」
「それはそうだけど……」
「じゃ、決まりだな」
ジャンは反論出来ず、うーんうーんと唸っている。
埒があかないんで、外出の準備を始めるとしよう。
俺は二階の自室へ向かうべく、階段を上り始めた。
すると――――
「あの、ユーリ先生! 私も……」
リエルさんが胸に手を当てて、そう進言してくる。
だけど、俺は――――
「俺一人で大丈夫です。リエルさんは自分の仕事に戻って下さい」
「あ……」
なんとなく後ろめたい気持ちを抱えながらもそう答え、逃げるように自室へと向かった。
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