ウィステリア北東部に位置するダフニー鉱山は、山道が比較的整備されていて、見晴らしの良いハイキングコースとしても知られている。
それを聞いて一度は行ってみたかったんだけど、乗合馬車を利用しないと一日では帰って来られない事もあって、中々足を運ぶ機会がなかった。
そして、問題がもう一つ。
「……ぜー……ぜー……」
運動不足から来る、歩き疲れ。
学生じゃなくなった今、イラストレーターの俺には身体を動かす機会が圧倒的に足りず、足腰がかなり弱っていた。
大した傾斜でもないし、荷物もスケッチに使う最小限の物しか持って来てないんだけど、中々前に進めない。
「あー、もう休憩!」
幽霊の目撃情報があった鉱山の入り口まではもう少しだったけど、ちょうど切り株を椅子代わりに出来る踊り場のような場所があったんで、そこで一休み。
ちょうど道の角度が三〇〇度くらい変わり、周囲の木々が殆どないんで、景色を眺めるには最適のスポットだ。
見上げると、鉱山の入り口がハッキリ見える。
あと一〇分くらい歩けば着きそうだ。
逆に視線を下げると、これまで登ってきた山の一部と遥か遠くにある別の山、その間にある集落の全景が視界を占領する。
「……」
ふと、元いた世界での記憶が蘇ってきた。
小学生の時の遠足。
近場の山の山頂まで、行列作って歩いて行ったんだっけ。
あの時以来の絶景だ。
このリコリス・ラジアータに来て、二年以上もの年月が流れた。
その間、長らく自分を異世界人、以前いた所を"元いた世界"と呼んできた。
その元いた世界で、俺は今どんな状態になっているんだろう。
消失してしまったのか。
魂だけをこっちへ転移させ、肉体は眠っているのか。
時間が凍結してしまっているのか。
世界そのものがなくなってしまったのか。
戻れるのか否か――――可逆的なのか不可逆的なのかもわからない。
可能性は無限にある。
けれど、俺はその大半を、或いは全てを放棄していた。
この世界で自分の居場所を手に入れた今、もう元いた世界をホームとは思えなくなっていた。
きっと、俺にとってリコリス・ラジアータはもう、異世界じゃないんだろう。
アルテ姫やメアリー姫の父親を思う気持ちに触れる度、俺は自分の両親が今どうしているか、何を思っているのか、といった事を考えないよう努めてきた。
その資格もないと思っていた。
自分の両親に対して、憎しみを抱いてはいない。
でも両王女が抱いているような愛情は、きっと持っていない。
生んでくれた恩、育ててくれた恩は感じていても、それをどう表現していいのかがわからない。
そんな自分が酷く惨めに思えた。
子供の親に対する、持っていて当たり前の感情が欠落した、冷血で残忍な人間だと認めたくなかった。
《親子の再会》は、最後の抵抗だった。
勿論、モチーフを思いついた時や構図を考えてる時には、そんな気持ちはなかった。
でも、国王と王女達を結び付ける絵にしようと決めた時、嫌でも自分の両親の姿がチラ付いた。
なら仕方がない。
自分の中に、例えそれが幻想でも何でも、親への何らかの感情があるのなら、それを絵に宿してみよう――――そう思った。
けど、完成した時、その思いは綺麗サッパリなくなってしまっていた。
メッセージとして込める事もなかった。
ああ、そういう事なんだなと、俺はそこでようやく理解した。
俺はもう"あの世界"の住人じゃないんだと。
だから、これから何があっても、俺はこの世界から出て行く事はない。
かつて名乗っていた本名を名乗る事もない。
ここで、ユーリという名前で、自分の一生を終えるんだろう。
そんな俺が、両親が自分を心配しちゃいないか、悲しんではいないか、なんて考える資格はない。
謝罪の言葉も。
別れの言葉もだ。
「俺は元気にしてるよ」
届く筈もない、届いたところで大した意味もないその現状報告が、それでも唯一の意味ある言葉。
少し肌寒さを感じさせる風に吹かれ、俺は滲む景色から目を離した。
……あれ?
何度目かの瞬きで頬を伝ったそれは、少しだけ温かかった。
でも、直ぐに拭う。
こんなの、ただの感傷だ。
直ぐ忘れるよ、きっと。
さ、休憩終わり。
俺は目的をもう一度視認すべく、元に戻った視界で目的地を――――
「……な」
見上げた瞬間、そこには異様な光景があった。
人がいる。
いや、鉱山だしハイキングコースだから、人くらいいても不思議じゃない。
でもあれは知人だ。
黒ずくめの女性。
――――イヴ=マグリット。
その彼女の眼前には、ピンク色の発光体。
あれは以前、エミリオちゃんが除霊をしていた時に見た光と同じだ。
「イヴさん! 何してるんですか!?」
思わずそう叫びながら、そりゃ除霊だろと自分にツッコむ。
彼女には、タゲテス教信者ではないかと思わせる要素があった。
なら除霊出来ても不思議じゃない。
元冒険者で元英雄の宮廷絵師。
今更肩書きが一つ二つ増えても驚きはしない。
「イヴさん! 聞こえませんか!?」
視力が極端に良い訳でもない俺が個人を特定出来る距離だ。
これくらい大声なら十分に聞こえていると思うんだけど……
「……」
イヴさんは幽霊と思しき光を凝視したまま動かない。
除霊の途中だから邪魔をするな、って事なのかも。
だったら、現場に駆けつけた方が早い。
そもそも俺は、幽霊が出るかどうかを確認しにここへ来たんだから。
息は整ったものの、まだ疲労感の残る身体にムチ打って、俺は鉱山の入り口を目指した。
山道を走って登るのは何時以来だ。
遠足の時も、そんな無茶をした記憶はない。
初めてか?
こんな初体験、別に要らなかったんだけどな……
「ぜーっ……うげ、ぜーっ……」
やたら脚が痒くなったり肺が呼吸を受け付けなくなったり、身体がみるみるポンコツになっていきながらも、どうにか五分ほどで鉱山入り口へ到着。
予定の半分とはいえ、五分。
イヴさんがその場から立ち去るには十分な時間だった。
「……あ」
けれど、彼女はそこにいた。
下から見た位置と全く変わらない場所に、"黒の画家"は留まっていた。
ただし、あの幽霊はもういない。
除霊し終わった後なんだろう。
「……」
息を弾ませながら、俺はイヴさんへと近付く。
幽霊がここにいたか、もう消えてしまったのか、それを聞く為に。
どうにかこうにか呼吸を整え、ようやくまともに声が出るようになった頃合い――――
「どうして、俺の絵を国王様に見せたんですか?」
気付けば、本来すべき質問とはかけ離れた事を聞いていた。
「貴女は俺と張り合っていた。なら、俺の絵で解決させるのは不本意だったんじゃ?」
でも、実のところずっと気になっていた。
彼女の存在自体、未だ掴み切れていない。
彼女は俺の生活の中、色んな場面に出没した。
そしてその多くで、俺を救ってくれた。
そうだ。
王城でもベンヴェヌートの嫌味を切り返す為の誘導をしてくれた。
ジャンとの再会を取り持ったのも彼女。
そして、国王の件。
「どうして、俺を助けてくれるんですか?」
俺に宣戦布告までした割に、行動だけを切り取ってみると、手を貸してくれているとしか思えない。
一体、彼女の目的は何なんだ?
「ヒューゴ=ヌードストロームの囚われた心をこの世界へ戻す最善策を採っただけ。貴方を手助けしたつもりはない」
「だとしても、ならどうしてそこまで国王を?」
いや、これは愚問なのかもしれない。
常に国王の傍にいる女性の宮廷絵師――――客観的に見れば、その女性が国王にとってどんな存在なのかは言うまでもない。
でも彼女には、その下世話な想像がどうしても当てはまらない。
別に清楚な感じでもないんだけど。
「国王は国家の柱であり、国家の柱は世界を支える礎の一つ。失えば国は荒れ、世界も揺らぐ。事実、そうなりかけていた」
「それはそうですけど……」
今回の件、カメリア王国だけじゃなく、隣国のステラリア王国も一枚噛んでいたらしい。
イヴさんの発言は、決して大げさじゃないんだろう。
でも……どうしてなのか。
何故か釈然としない。
彼女の説明には、何処か人間味がないように思えた。
「貴方は、タゲテス教を知っている?」
と、唐突だな。
いや、そうでもないのか。
さっきの除霊と関連した話かもしれない。
「ええ。国教なんですよね?」
「なら、話は早い。それに関連する話を今からする。少し長くなるかもしれない」
どうやら、ギルドのお使いはここで果たせそうだ。
俺は小さく首肯し、イヴさんに続きを促した。
すると――――
「この国は、かの者によって描かれた世界」
語られ始めたのは、およそ幽霊とは無関係な内容。
俺は一瞬面食らったが、直ぐにジャンから聞いた話を思い出す。
『彼らによると、リコリス・ラジアータは聖母神マリーによって"描かれた"世界なんだって』
ああ、この話か。
聖書的な物に記された教えなのかもしれない。
だとしたら、あんまり聞いても意味のない話になりそうだな……
「かの者は絵を描く術に長けていた。けれど、色を付ける術は持たなかった。それ故に、世界樹と呼ばれる樹を描き、具現化したその樹脂を使って塗料を作った。色を得た世界はかの者の意図するように発展し、やがて人の子による支配下におかれた。かの者もまた、その世界で暮らすようになった」
そう思いながらも、俺はイヴさんの言葉を注意深く、そして真剣に聞いていた。
タゲテス教への関心は一切ない。
あるとすれば、それは――――彼女への関心。
初対面時から感じていた、"この人は何かを知っている"という奇妙な予感。
それが、俺の神経を昂ぶらせていた。
「かの者は、自らの描いた世界が思い通り、ゆっくりと成長する様を見届け続けた。が、心の何処かでその時間を退屈と感じていたのかもしれない。すると、ある時代に突如、世界の生態系とは異なる"外来種"が現れた」
生態系?
外来種?
それらの言葉から連想されるのは――――
「かの者は世界の生態系を守るべく、これを退ける術を生み出し、信仰の名の下にこれを広めた。けれど完全に退ける事は叶わず、次第に外来種は人の子の目に触れるまでになった。人の子は外来種の一部を敵と見なし、排除を試みた」
間違いない。
亜獣だ。
「だがそれは大いなる誤解。外来種は決して生態系を乱す存在ではなく、かの者もまた誤解していた。かの者は認識を改め、外来種の真の姿を描写すべく腐心した」
イヴさんは今、亜獣と人間の歴史について語っている。
だとしたら、"かの者"ってのは、やっぱり……
「幸いにして騒動は鎮静化し、影響は最小限に留まった。とはいえ、外来種への人の子の誤解は続き、火種は燻ったままとなっていた。かの者はそれを憂いた」
不意に、その漆黒の目が俺の目を捉える。
「そこに、新たな外来種が現れた」
新たな外来種。
別の世界からの侵入者。
すなわち――――俺。
「新たな外来種は攻撃性も生態系への影響も認められなかったが、この世界にはない文化を内包していた」
もう疑う余地はない。
異世界から異なる文化を持ち込んだ、俺の事を指している。
「その外来種の存在は、この描かれし世界を、かの者の意図したものとは異なる世界へと染める畏れがあった。想像も付かない未来へと繋がる分岐点を生み出す可能性を秘めていた」
そして次に彼女が語ったのは、俺への明確な危機感だった。
俺の絵が、俺の存在が、この世界の美術文化を全く別のものに変えてしまうという示唆。
幾らなんでも大げさ過ぎる話だけど、それは俺が当事者だからだ。
他地域から全く生態系の異なる生物が持ち運ばれた場合、その異なる生物が繁殖し、元々の生物に壊滅的な影響を与える事はある。
イヴさんはそれを危惧している。
どうして彼女が危惧しているのか。
俺はもう、それに気付いていた。
いや、気付いても理解は出来ない。
きっとどれだけ懇切丁寧に説明されても、本当の意味では理解出来ないだろう。
彼女は――――
「かの者は、それを歓迎した」
一切笑みを浮かべる事なく、そう断言した。
断言する事が出来る、唯一の存在だった。
……道理で、タゲテス教ではゴゴゴゴが不浄の生物な筈だ。
「かの者にとって、この世界は自身の内面を表現したもの。故に全て自己が投影されている、自己完結の箱庭。勝ちも負けもない。けれどそこに、自己とは異なる存在が現れた」
イヴ=マグリットは右手をゆっくりと、地面に水平の高さまで上げ、その手に握っていた黒色のペン先を俺に向ける。
それが貴方――――そう言わんばかりに。
「話は終わり。質問は受け付けない」
「一方的ですね」
「なら、一つだけ受け付ける」
随分とサービス精神旺盛な聖母様だこと。
取り敢えず、何を聞くかは直ぐに決まった。
「除霊……いや、正確には除霊じゃないみたいですけど、それって失敗したり見逃されたりする事もあるんですよね? その場合、どうなるんですか?」
「どうもならない。この世界に残り、次第に定着していくだけの事。この世界には順応性があるから」
順応性?
外来種じゃなくて"この世界"に……?
「この世界はあらゆる存在を肯定し、歓迎する。例えば、ある外来種がその世界に馴染みやすいよう、都合の良い運命を与える事もある」
「え……?」
それってつまり――――このリコリス・ラジアータへ来てからの俺がやたら幸運だったのは、リコリス・ラジアータが俺を歓迎してくれたから、って事なのか?
若しくは、世界の創造者たる"かの者"が?
「だとしたら、また他の世界に転移する可能性はないって事ですか?」
「質問の受付けは終了した」
前言撤回。
サービス悪過ぎるな、この人。
……人じゃないらしいけど。
「ま、いいです。さっきの除霊はどうやら成功したみたいですから。俺がここに来たのは、それを確認する為なんで」
さっき見たピンク色の光が、亜獣になるのか、俺みたいに人間なるのかはわからない。
わからないけど、ここにはイヴさん以外誰もいないし、山道の途中で何かが空へ飛び立った気配もなかった。
なら、成功したんだろう。
イヴさんの話を信じるなら、そういう事だ。
「宮廷絵師の話、断わったと聞いた」
そのイヴさんは、俺の私的な情報に言及してきた。
説明しろ、って事なんだろうか。
「なるべく堅苦しくない環境の方が、描きやすいんですよ。俺は」
「絵を描き続ける意思はあるのね」
「質問の受付けは終了しました」
一応、仕返しのつもりだった。
殆ど無意味な無回答ではあるけど……
「それなら、いい」
案の定、イヴさんは苛立った様子も見せず、俺の目をじっと見つめてくる。
俺はなんとなく視線を逸らし、彼女の右手に握られているペンを凝視した。
あのペンが、この世界を描いた?
俄に信じ難い話だ。
「私は負けない。けれど――――」
けれど、こうも思う。
「負けるかもしれないのは面白い」
――――だとしたら面白い。
夢があるじゃないか。
世界を描く画家。
そんなのがいる世界なら、イラストレーターにだって無限の可能性がある。
本当に文字通り、何だって描けそうだ。
「勝負はいずれ、また」
ペンを下ろし、俺に背を向けるイヴさんは振り向く寸前、確かに口元を綻ばせていた。
俺の存在が、彼女を楽しませているのなら、光栄な事だ。
でも、まあ……やっぱり半信半疑だけどね。
幾らファンタジックな世界でも、突飛過ぎやしないか。
ま、話半分に聞いておくとしよう。
空想好きが拗れた絵描きなんて、この世にはごまんといる事だし。
さて。
どうやら幽霊は彼女が追い返してくれたようだし、ギルドへの依頼は無事に果たした。
風景をスケッチする予定だったけど、正直もう疲れ果てたし、帰りの事を考えると集中力が持ちそうにない。
また別の機会に訪れるとしよう。
出来れば、その時は一人じゃなく――――
「ユーリ先生!」
そうそう、この人と……
「って、リエルさん!? なんでここにいるんですか!」
「あ、あはは……午後からのお仕事がキャンセルになったから、来ちゃいました」
来ちゃいました、って!
いつからそんなお茶目さんになったの!
「アルテ姫から変な影響受けてません?」
「……否定は出来ませんね」
リエルさんは困ったように、でもなんか嬉しそうに笑う。
多分、今し方ここまで登って来たばかりだろうに、息が切れていない。
体力の差は如何ともし難い。
彼女の姿が、また遠く見える――――
「あ……また」
「え? な、なんですか」
「あの、ユーリ先生。もしかして、なんですけど……最近私を避けていませんか?」
うげ、見破られた!
どうも彼女といると、俺の"男の子"な部分が劣等感ばっかり見つけて来るんで、つい逃げ腰になってしまう。
だってホラ、体力だけじゃなくあらゆる面で彼女の方が上なんだもの。
「今の反応……やっぱり、そうなんですね」
「あ、えっと、なんというか……」
「私、ユーリ先生の気に障る事、何かしてしまいましたか?」
う……相変わらず困った顔が異様に可愛い。
両王女の気持ちが痛いほどわかる。
でも、俺は別にそれが見たくて彼女を困らせてる訳じゃない。
俺なりの理由があるんだ。
……もう、いいか。
言っちゃおう。
「リエルさん」
「は、はい」
「実は俺、"先生"って呼ばれるのが嫌だったんです」
「あ……そうだったんですか。でも、それならそうと……」
「最初の頃は嫌でした。イラストレーターになり始めの頃の話ですけど。でも、暫くしてからは別に嫌じゃなくなったんですよね」
「?」
困惑するリエルさんを取り敢えず置いてきぼりにして、俺は続ける。
隠すの止め止め。
俺にとってはもう、この世界がホームグラウンドなんだ。
虚栄心で塗り固めるのは止めて、本心を話そう。
じゃないと疲れる。
この山を下りられないくらい。
「最初は本当、嫌でした。先生ってガラじゃないし、なんか軽く馬鹿にされてるような気さえして。いや、そうじゃないってのは当然わかってるんです。でも、自己評価と余りにかけ離れた呼ばれ方って、ついそんな自分を卑下する自分が出てくるんですよ」
「あ、あの……」
「すいません、ここは最後まで聞いていて下さい。で、暫くすると今度は逆に、先生って呼ばれるのが妙に楽になったんです。それは単純に、こう思ったからなんですよね」
ようやく、核心部に辿り着く。
「先生って呼ぶ相手はみんな、俺と相当距離を置いてるなって」
それが――――この世界でも、先生と呼ばれる事に余り抵抗がなかった理由。
俺をそう呼ぶ人とは、かなり楽な距離感で接する事が出来ると、そう思ったからだ。
大抵は仕事だけの関係、その中でも特に上辺だけの付き合いの人が"先生"を付けていた。
後は、ファンの方々。
勿論、俺の作品を好きだと言ってくれる人達には大感謝、大感激だし、とてつもなくありがたい存在。
でも人と人としての距離は、かなりしっかり取られて然るべき間柄でもある。
そういう意味で、先生ってのは良い具合の距離感を保ってくれる呼ばれ方だと思った。
「だからこっちも、俺を先生って呼ぶ人とはある程度、距離を置こうと。今はその調整中なんです」
「それで、あんなに急に余所余所しく?」
「ええ、まあ」
実際にはちょっと違う気もするけど、概ねこんなトコだ。
女性への苦手意識。
不釣り合いな相手。
そして、彼女の心の内。
この三本柱を全て折ってしまえば、こんな俺でも、もしかしたら光明を見出せるかもしれない。
でも、もしもだよ。
もし彼女が心の内で俺の事を"ただの知り合い"としか思っていないであろうこの段階で、告白なんてしてみろ。
二度と立ち直れないようなリアクションでお断りされるのは目に見えてる。
そして、俺を先生と呼んでいる間は、その可能性が限りなく高い。
大事なのは自分の気持ちだろ、相手がどう思ってるかより自分の気持ちをぶつけろよ、と無責任な人は言う。
女の方もそれを待ってるんだよ、と無責任な人は言う。
断言するね。
そんなの、大事な仕事の絵に下書きもせずペン描きするくらいの愚行だと!
イラストレーターはいつでも準備が大事。
何本も線を引いて、その中から最高の線を探す。
そういう職業なんだから、実生活も慎重にならざるを得ないのですよ。
「……ユーリ先生でも、そんな事を考えるんですね。驚きました」
リエルさんは、戸惑い気味に、でも余り引く様子もなく、俺の説明を真剣に聞いてくれた。
この人は本当に優しい。
元々優しい人が、優しい人達の傍にい続けた結果、そうなったんだろう。
「そういう事ばっかり考えてました。人と接するのがちょっと苦手で、だからその機会が少ない絵描きを職業に選んだんです」
そんな俺とは真逆だ。
でも――――
「でも、今は全然違う事を考えてます」
最近は、こうも思う。
絵描きとして一度死に、この世界で生まれ変わって、沢山の良い思いをさせて貰った。
なら、恩返しをすべきなんじゃないか、と。
「絵を描くって事は、人も、亜獣も、神様も、この世界にあるもの全部を描く事です。なら、俺はもっと人を知らないといけない。この世界を知らなくちゃいけない」
誰かさんが描いたという、この世界。
絵描きによって描かれたのなら、それは俺にとってこの上なく相性の良い世界の筈。
最高の条件を頂いた訳だ。
「だから、もっと他人と、この世界と触れ合おうって思ってます。もっと知りたいから。そうすれば、いい絵が描けそうだから」
そうすれば、今よりもっと自信が得られる。
周りの見る目も、また少し変わってくるかもしれない。
まだ今は下書きの日々。
国王から宮廷絵師に誘われたからって、勘違いしちゃいけない。
俺の絵は決して上手くはないんだから。
これは謙遜でも何でもなく、単なる事実。
でも、事実は時間と手間で変えられる。
もっと上手くなれるんだ。
「だからリエルさん、お願いがあります!」
「は、はい!」
俺は勢いのままに、リエルさんの両肩に手を乗せる。
そして――――
「《絵ギルド》の二巻、貴女を主役にさせて下さい! 毅然とした雰囲気の中にも親しみ易さがある、そんな女性騎士を描きたいんです!」
「……ダメです」
またまたフラれてしまった。
まずはここをクリアしないと、告白も何もない。
一からまた頑張ろう。
「頼み方、全然上達してませんね」
「す、すいません」
「ふふ、冗談です。あの、お仕事はもう終わったんですか?」
縮こまった俺に、リエルさんは眉尻を下げ微笑む。
その困ったような笑い顔は、俺にいつも力をくれた。
愛おしい笑顔だ。
「はい。幽霊はとある除霊師の手によって退散しました」
「えっと……わかりました。それでは帰りましょうか。僭越ながら、私が護衛しますね」
腑に落ちない説明だったろうに、リエルさんは俺を信頼してくれてるのか、素直に踵を返す。
でも直ぐにクルリと半回転し、再度振り向いた。
「ユーリ先生」
一回転の後、その表情は真剣なものになっていた。
「どうして私が、貴方にだけ画家を目指していた事を話したか、わかりますか?」
そういえば――――メアリー姫も知らなかったんだったっけ。
普通に考えれば、俺がイラストレーターだから……だよな。
「絵描きだから、気持ちが共有できると思って?」
「違います。そんな事じゃ、まだまだですね」
何がまだまだなんだろうか――――俺はそう聞く事なく、代わりにちょっとだけ思っていた事を質問する。
「リエルさん、偶にですけど、俺に厳しくないですか?」
「貴方の所為です」
……俺の所為?
もしかして俺、知らないところで彼女を怒らせてたのか?
「もう、早く帰りますよ」
いつの間にか、また半回転して背を向けたリエルさんが走り出す。
いや、俺の体力じゃとても追いつけないよ。
イラストレーターは静止画が基本なんだ。
突然進まれたら、為す術がない。
「リエルさん! 待ってよ!」
「知りません!」
それでも俺は、半ば意地になって追いかけた。
急斜面を、転がり落ちないように気を付けながら。
「っと……!」
躓きそうになり、慌てて急ブレーキ。
肝を冷やしつつ、ふと空を仰ぐ。
雲に覆われていた筈の場所には陽光が差し込み、神々しい光景を作り出していた。
決して色とりどりでもなければ複雑でもない、シンプルな景色。
なのに、やけに心が踊る。
思い出すのは、初めて自分の小遣いで買ったスケッチブックを開いた日。
技術なんて皆無の中、無邪気に線を引き、楽しいという感情だけをぶつけたあの一枚。
それが目の前の光景と重なり、俺は微かに目を細める。
そして今、思う事は。
――――今日は何を描こうか
あの日から思い続けている事は。
――――明日は何を描こうか
細めた目を広げ、頭の中に想像した自分の世界を解き放つ。
ここは、リコリス・ラジアータ。
俺の想像を具現化させてくれる、たった一つの場所。
「ユーリさーーーん! 早くーーー!」
それは文字通り、絵に描いたような理想の世界だった。
special
thanks
only
"you"
a ruined
illustrator's records of right requital in a parallel
universe
epilogue
-illustration world-