――――貴方に恨みはないけど、これも仕事なんです。悪く思わないで下さい
最初はそう言う物言いだったなと、暗がりに支配された自分のクラスの教室で、一人物思いに耽る俺の目には、窓から覘く空が半分くらい映っている。高層ビルやマンションが周囲にある訳じゃない。でも、見える空は半分。そして、星は見えない。首都圏とは違い、この辺りは天気さえ良ければ満天の星空を拝む事が出来る。でも、今日のこの夜は、まるでこれから起こる惨劇を前に撤退したかのように、白い点は一つも見えない。それはまるで、俺の心を投射しているようだと、ひっそりと思ったりした。
「複雑よね……日向と本気で戦うなんて」
そんな俺の隣で、有沢が銃の手入れをしながら、大きく溜息を落としている。ちなみに、今回有沢が用意してるのは、本物の銃じゃなく、エアガン。標的以外を殺すのは許されないのが暗殺者だ。
現在、時刻は21時50分。あと10分経てば、緑川はここにやって来る。間違いなく。
「その戦いの前に……有沢。一つ確認しておきたい事がある」
悲壮な表情を浮かべた有沢が顔を上げ、村崎先輩の方を見る。俺もそれに続いた。
「もし、少しでも、ほんの少しでも、緑川に対して情けをかけるつもりがあるのなら、この場から離れる事を強く推奨する」
視界に入った村崎先輩の目は――――照明を付けていない夜の教室でもハッキリわかるほど、死んでいた。死んだ目をした殺し屋。それは、摂理だった。
「だ、大丈夫よ。そりゃ、日向とは名前で呼び合う仲にはなったけど、それとコレとは話は別。果たし合いなんて、しっかり止めてみせるってのよ」
有沢は、ある種の優等生的な決意表明を唱えた。
でもそれは――――村崎先輩の顰蹙を買ったらしく、表情が一変する。
「有沢。これは果し合いじゃないぞ」
「な、何よ。じゃあ何だってのよ」
「決まっている。生存競争……ある種の『殺し合い』だ」
平然とそう述べる姿は、彼女が殺し屋である証だった。
「緑川は、予告をして都築を殺しにくる。これは、暗殺とは真逆の行為だ。では何故、そんな事をしたと思う?」
「え……急にそんな事言われても……」
有沢はアドリブの利かない性質らしい。
弱点ばっかだな、こいつ。
「つーか、そもそも俺は武士でも殺し屋でも武道家でもないんだから、果たし合いをする事自体あり得ないんだよな」
「その通り」
「え? 何? どう言う事よ? わかるように言いなさいよ!」
有沢の癇癪に対し、嘆息しつつ答える。
「つまり、小生達が戦う事が前提となっておるのじゃ。その果たし状は」
鈴木一途が。
「成程な。その嬢ちゃんは、他の殺し屋全員が、このナマイキ小僧を護る為に立ち塞がる事を前提で、敢えて決戦を申し出たってか」
「えー? でもでも、それって不利なんじゃないのですか? 襲撃の場所と日時がわかってれば、待ち伏せ全員集合でフクロ叩きなのになのに」
そして、暗殺評価機構の二人も、議論に参加する。この場にいるのはこれで全員。有沢と村崎先輩だけじゃなく、殺し屋Eとポンコツ評価機構までゾロゾロと集まっていたりする。何故そんな事になったかと言うと、それぞれに利己的な思惑があるからに他ならない。
鈴木一途にとって、俺はもはや標的外。昨日負けを認めて、仕事放棄したんだから。そして――――鈴木は結局殺し屋を辞めるそうな。まあ、こんな社会の底辺のその地下みたいな仕事、辞めるに越した事はないし、組織に属さない派遣だったら、辞めるのは難しくないだろうけど、それで食っていけるのか――――と問い質したところ、意外な、というよりハタ迷惑な返答を受け取る事になった。
「それは恐らく、そっちの二人への禊、かの。同僚のお嬢」
と言う訳だ。幾ら派遣とは言え、大手の殺し屋組織のエースが暗殺評価機構に転職とは……そもそも三人もいらんだろ、この会社。
「そっか……日向は私に『抜け駆けするな』って言ってたから……」
そう言う事だ。暗殺とは真逆の意味を持つ果たし状は、アイツなりの礼儀のようなもの。昔、武士が自分の矜持を賭け、形式に則って果たし状を送っていたケースとは根本的に異なるが、志は通じるものがある。いかにも真面目なアイツらしい。きっと、俺がこの日時にこの場所に来る事を、疑いもしていないんだろう。
「でもでも、それならどうして柘榴ちゃんはわざわざノコノコとやって来て、むざむざとコロされるんですか?」
「殺されてないだろーがよ! 殺される気もねーよ!」
勿論、そこには意図がある。断じて、『緑川の決意を粋に感じて、正々堂々受けてやったぜ!』なんて事はない。緑川は俺と同じ学校に通い、同じ町に住む同級生の女子。襲撃しようと思えば、いつだって出来る。そして、それを警備すると言う有沢や村崎先輩に対して、俺は絶対的な信頼は寄せていない。それだったら、奇襲がない分、この状況が一番、緑川を沈静化させるには都合がいい。
「我々は、然程信用されていない、と言う事だ」
そんな俺の思考を今回も読み切り、村崎先輩は苦笑交じりに告げていた。そして同時に、最寄の椅子に腰掛ける。
「実際、緑川と正面から戦って、勝てる自信もない。あいつは殺し屋としては初心者だし、、暗殺技能も幼稚だが、身体能力に関しては比較にもならない程に図抜けている。だからこそ、既に殺し屋を辞めた鈴木女史に、仕事斡旋の見返りとしてお越し頂いたのだが」
そう言う事だ。そして、暗殺評価機構の連中は、この機会に殺し屋全員のスキルをその目で確認する事が目的。俺が以前レポートで書いたデータから、また最新データに書き換えられるこの機会を無駄にはしたくないらしい。
「小生なら、それもどうにかなろう。任せておくが良い。昨日は鮮やかにしてやられたが、今日はその汚名を返上しようぞ」
鈴木一途と言う女性に美点を見出すなら、この言い訳をしない姿勢なのかもしれない。そう言う意味では、名前通りに育っているんだろう。その一途な性格で迷惑を被った身としては、名付け親に説教したい気分だけども。
「ま、そう言う訳だ。鈴木を戦力として利用出来るのは今回くらいだろうし、丁度良いんだよ」
「なるなる。あ、あと五分です。光海は皆さんと違ってか弱い一般の女子なので、ここらでドロンしようかなー」
「アホかテメェは! ここで尻尾巻いたんじゃ来た意味ねーだろ! その辺の隅っこに隠れて、ちゃんと観察してろや!」
「ぶー! そんな危険なお仕事任されるほどお給料貰ってないですもー! のー!」
毅然とNOを突きつける光海と、夜なのにグラサン掛けたままキレてる由良の下らないケンカに周囲がイライラを募らせる中、時計は10時3分前を指した。後3分で、緑川が俺を殺しにやって来る。
思えば――――アイツとここで対峙したあの日から、まだ半月しか経ってないんだな。
あの時は、冷静でいられた。他人だったから。
今はどうだ?
緑川の事を、俺は少なからず知っている。真面目で、ドジで、元気で、貧乏で。偶に良くわからないタイミングで不穏な空気を発したり。怒鳴ると直ぐにシュンとしたり。ニコニコ微笑む顔の中に、ちょっとだけ陰があったり。そう言う事を、色々と知ってしまっている。
村崎先輩は言った。少しでも、緑川に対して情けをかけるつもりがあるのなら……と。
実は、ある。
これはもう、認めるしかない。仮に、緑川じゃなく村崎先輩だったとしても、有沢であっても、同じ事。この二週間、確かにウンザリするほど命の危険に晒され、面倒事を背負い込んだけれど、結構楽しかったから。割り切ろうとしても、何処かに残滓はある。
なら、最初から割り切らない方がいいのかもしれない。
「最終確認をしておこう」
村崎先輩の声が、緊張感を伴った。鼓膜でそれを吸い取り、窓の外を眺める。
「緑川が入室したら、まず鈴木女史に正面から仕掛けて貰う。有沢はそのエアガンで、鈴木女史の後方から支援。注意が前方に向いたところを、私が背後に回り、このツボクラリンを吸引させて、全身を弛緩させる。都築は有沢の隣で、不思議な踊りを踊って挑発でもしてくれれば良い」
「……まあ、気を引く位はするけどさ」
取り敢えず、段取りは決まった。
残り――――一分。
嫌でも緊迫感が増してくる。
普段、のほほんとしてる緑川が、果たして俺に本物の殺気を向けてくるのか。
あいつは……俺を本気で殺そうとしているのか。
本当に、殺そうと思っているのか。
上司に当たる、あの爺さんはこんな事を言っていた。
『させられんよ、あんな子にはのぉ。ウチの仕事はちょい過激やけんね。まあ、今一人任せとるけど、上手くいっとらんね。いかんでええんけど』
身内すら、そう判断するような、殺し屋とは対極にあるような女の子。
あいつに……人が殺せるのだろうか?
残り20秒。
「……あ」。
その刹那、ずっと警戒していた窓の外に、薄っすらと白い影が、映った。
緑川じゃない。
あいつはきっと、堂々と教室に入ってくる。わざわざ時間指定までして、襲撃するなんて言うフェイント、あいつは使わない。なら、今はあんな場所にはいない。
教師や他の生徒が、不審に思って窓から覗いている――――と言うのも、この教室に灯りが点いていない状態では、考え難い。
残り、10秒。
迷ってる暇はない。
『させられんよ、あんな子にはのぉ』
『いかんでええんけど』
さっき思い出した科白が、再び過ぎる。
……!
まさか……だとしたら……マズい! 俺の命は、本当に危険に晒されている!
「5、4、3……」
村崎先輩のカウントダウンが佳境に迫る。
もう、迷ってる暇も、余計な事を考える猶予もなかった。
「鈴木! 窓だ! 窓の方を警戒しろ!」
全力で叫ぶ。この中で最も戦闘力の高いと思われる鈴木に『その役』をやらせるのは、賭けだ。とは言え、俺の考えが正しいなら、そうせざるを得ない。
そして、鈴木の返事が聞こえる事なく、時刻は二十二時を経過した。
同時に――――窓ガラスを砕く、耳を劈くような音が室内を蹂躙する!
「来たか!」
鈴木の反応は早かった。俺の言葉がそうさせたのか、コイツの能力の賜物なのかは知らないが――――襲撃者が着地すると同時に、薄暗い空間を割くような、尋常でない動きで接近。
「むうっ!?」
「観念せい!」
一体何が起こったのか、その瞬間にはわからなかった。月明かりだけでは、視覚的な情報を得るには弱過ぎる。ただ、そう感じた次の瞬間、天井のライトが数度の点滅を経て、教室の隅々までを照らし出した。村崎先輩が点けたらしい。
鈴木は、右腕を突き出していた。拳は、人差し指と中指を親指で押さえる握り方。腕を捻っているように見える。恐らく暗殺用の武器も所持してるんだろうが、既に暗殺者ではなくなった事もあって、素手の打倒を試みたらしい。
そして――――そんな鈴木の一撃を、襲撃者はモロに受けていた。恐らく、不意をついたつもりなんだろうが、結果的にはそれが逆に油断を生んだのかもしれない。床に蹲るその姿は――――痛々しい程だった。
何しろ、老人が悶絶しているのだから。
「……確か、緑川日向とは、小生と同世代の女子との話だったが」
「な、何? 何がどうなってるの?」
困惑する鈴木と有沢を他所に、村崎先輩は入り口の方を凝視している。ちなみに、既にポンコツ調査機構の二人は各々机の下に避難していた。
「その人は多分、緑川の上司だ」
「ふむ……何故、上司が先に襲撃を?」
「それは……」
鈴木の当然とも言える疑問に答えようとした刹那。再び、教室の空気が変わる。ただ、今度は、音による刺激じゃなく、一人の女の子が現れた事への――――感情の混線。俺を含めた全員が、扉の滑る音と同時に、見えた緑川日向の姿を視認した。
「話している余裕はないの。有沢! 都築の傍まで下がれ!」
「……」
その鈴木の指示は、当然のものだった。事前に村崎先輩も確認した、対緑川の基本陣形。が――――有沢は動かない。そして、俺の位置からは、有沢の表情を確認する事も叶わない。
「日向……」
有沢は、その位置から緑川に話し掛けた。当然、シナリオにはない行為。だが、先輩も、鈴木も、それを止めようとはしなかった。そして、俺も。その有沢の声色が――――そうさせたんだと思う。
「どいて下さい、かりんちゃん。私は、かりんちゃんを傷付けたくありません」
が――――緑川の一声は、そんな有沢より遥かに、求心力を帯びていた。まるで真冬の鉄のように、冷たい。これが本当に、あの緑川の声なのか……?
「何言ってんのよ! アンタ、本当は誰だって傷付けたくないんでしょ!? そう言う子じゃない! アンタは!」
俺の知らない所で、二人がどんなやり取りを交わして、それぞれにわかり合っていたのかは、知らない。だから、俺は有沢の言葉の本当の意味は、きっとわかってないんだろう。
でも、わかる事は一つある。有沢の発言は、圧倒的に正しい、って事だ。あり得ないような出会いから、何度か登下校を共にし、独自に調査までした俺がそう思うんだ。きっと、それは間違いじゃない。
「……どいて下さい」
それでも、緑川は声も言葉を変えず、告げた。
「有沢、下がれ。殺し屋が標的を前にして、冷静に耳を傾けると思うな」
その緑川を背面に捉えた村崎先輩の声が飛ぶ。位置関係で言えば、ほぼベスト。今、背後にいれば、警戒される。視界に入るギリギリの位置。そこが、これから緑川の後ろを取る最高の場所だ。だけど……有沢は、やはり動かなかった。
「私ね」
そして、ポツリと呟く。
「私……前に、都築を一人で殺そうとした事あったでしょ? でも、殺せなくて。その時、日向に言われた事……今も、覚えてるよ。それをそのまま言うから、聞きなさい」
その時、緑川の能面のようだった表情が――――
「優しい人が人殺しなんて、そう簡単に出来る事じゃない」
少しだけ、揺らいだ気がした。
ただ、それも、少しだけ。
大勢に――――影響はなく。
「……どいて、下さい」
「日向!」
「どいてっ!」
火花のような、そのやり取りが――――合図となった。
緑川の身体が、跳ねる。
さっきの鈴木と、どっちが速いのか、俺には判断すら出来なかった。
「やらせはせぬ!」
その鈴木も跳ぶ。規則正しく並ぶ机を軽々飛び越え、同じく宙を舞いながら有沢に迫る緑川の側面に向かい、頭から突っ込む!
「邪魔しないで下さい!」
緑川は、直進する身体を強引に捻り――――机の一つを蹴って急ブレーキし――――側面の鈴木に向き合う大勢を作った。それを察知し、鈴木はとっさに机を掴み、前宙の要領で一回転。緑川の左手の突きを交わす。暗殺者として鍛えられているからか、その攻撃も相当に鋭い。暗殺技能は兎も角、格闘技術はかなりのもの……なんだろう。
「破っ!」
鈴木の咆哮。机の上に着地し、即座に蹴りを狙うが――――緑川は、それより早く、その蹴りに合わせるように――――身体を屈め、回転した。
「な……!」
それは、実績十分の組織【タナトス】でエースと呼ばれていた鈴木一途をも凌ぐ、天賦の才の成せる業なのか。カウンターを合わせるかのように、その回転の勢いで足払いを敢行。鈴木の身体はバランスを崩し、机の下に落下。大きな音と共に、周囲の机も崩れた。
勝負あり……だ。
有沢が支援出来る位置にいたとしても、果たして役に立ったかどうか。実際、二人の刹那の戦闘を、村崎先輩は一歩も動けずに傍観していた。それくらい、一瞬の攻防。それを無傷で制した緑川は、もう……止められそうにない。
「だ、ダメだよ、日向。アンタ、そうじゃないでしょ? アンタはもっと、朗らかで、バカみたいに能天気で、それで、それで……」
力なく、それでも説得を続ける有沢に、緑川は視線を一度も合わせなかった。そして、そのまま素通りし――――俺の方に歩を進める。必然的に、村崎先輩が死角に入ったが――――先輩は動かない。いや、動けないのか。恐らく、あの身体能力を見せられては、例え背後を取っても、まるで意味を成さない。
手詰まり。その口惜しさを、先輩は珍しく顔に出していた。いつも飄々としていた、あの村崎先輩が。
「……都築柘榴」
そして、二人の同業者と一人の元同業者を置き去りにし、緑川は、俺の前に立った。
「貴方に恨みはないけど、これも仕事なんです。悪く思わないで下さい」
あの時と、一語一句違わない科白。そして、突き出される、白い刃のナイフ。ただ――――あの時とは明らかに違っていた。俺の目に狂いがなければ、確かに。
「その前に……一つ聞きたい」
だから、俺は問う。あの時とは違う質問を。あの時には出来なかった質問を。
「お前は、人を、殺せるのか?」
あの時は、緑川の事を何も知らなかった。今は知っている。そして、俺の知っている緑川は、人どころか、何者も殺せそうにない女の子だった。
「……殺せますよ。だって、それが仕事だから。それに、そうしないと、私の家族に危険が及ぶんですから」
ああ、そう言えば……そんな事を言ってたっけ。
でも――――それは、妙だ。何故なら、今もまだ床に寝ている緑川の上司は、こいつが人殺しをする事なんて、望んでない筈なんだ。何より、ここにその上司がいるのが、最大の証拠。
なら――――試す価値はある。
「お前が殺しをしないと、家族が危ない……か。それは、初めてお前が組織の人間に会った時に言われた事だな」
「……どうしてそれを!?」
やっぱり。明らかに顔色が変わった。正解だ。でもこれは、ほぼ100%勝算あっての事。恐らく、挨拶代わりの発言だ。それくらい厳しい世界なんだと、素人に教え込む為の。
実際には、そんな事にはならない。
でも、それを緑川に納得させるのは、極めて困難だろう。俺がどれだけ理屈を捏ねても、家族が被害に遭う可能性が一%でもある限り、それを否定する。緑川なら、多分そうする。
言った張本人に否定して貰うしかない。
が、肝心のその上司の爺さんは、未だに目を覚ましてくれない。それに、仮に爺さんが目を覚まし、俺がここで『本当の事を言って欲しい』と頼んだところで、それを叶えてくれるとも限らない。寧ろ、今起こすのは危険だ。緑川は組織のマスコット。家族の足枷がなくなれば、彼女は組織を去るかもしれない。マスコットがいなくなる事は、組織の人間は望んでいないだろう。だから――――緑川が俺を殺す前に、自分で始末しようとココへ来たんだ。目覚めれば、俺に飛び掛ってくるかもしれない。
俺が、切り抜けるしかない。『無傷』でこの騒動を収束させるには。
「緑川日向。合格だ」
その為の武器――――それはやっぱり『言葉』だった。
「……?」
当然、こんな事を突然言われれば、キョトンとなるだろう。さっきまで泣きそうな顔をしていた有沢も、村崎先輩も、呆けた顔でこっちを見ている。それを確認するくらいの余裕は、俺にはあった。
「ふぅーっ……正直、ここまでとは思わなかったよ。大したもんだ。まさか鈴木一途まで撃退するとは……十分だ」
「どう言う……事じゃ?」
自身を埋めていた机をようやくどかしきったのか、鈴木がムクリと起き上がる。その鈴木を見る事なく、俺は緑川を凝視し、告げた。
「俺は、お前を試す為に派遣されていた、吉田さんの友人の孫だ」
完全なる、嘘を。
「……へ? 吉田のお爺ちゃんの、お友達のお孫さん?」
緑川は、更に目を丸くする。当然だろう。要するに、これは――――
「ああ。吉田さんは、お前が殺し屋として、どれだけ使いものになるのかを量りかねててな。それを試す為、俺が一役買った。俺を標的にしてくれれば、それを査定するってな。当然、本当は俺を殺すよう依頼した人物はいない。これは、お前の殺し屋としての腕を見るテストだったんだ。そして、お前はそれに合格した」
口からデマカセ。チョーテキトー。
懐かしいフレーズが頭を過ぎる中、俺は緑川の反応を待つ。尚、察しの良い村崎先輩は呆れ気味の顔を、察しの非常に宜しくない有沢は、鈴木に解説を求めていた。
「え、えっと、ゴメンなさい。何が何やら……え? ええ? ええええ!?」
そして――――緑川は錯乱していた。既に殺気は消えている。後は――――仕上げだ。
「勿論、突然こんな事を言っても、信用出来ないだろう。今から証拠を見せる」
「ふえ? しょ、証拠?」
「ああ。お前の持っているそのナイフで、俺を刺してみろ」
「はあ!?」
そんな俺の言葉に――――有沢が大声をあげた。
「あ、アンタ何言ってんのよ! そんな事……! 日向、ダメっ!」
緑川に殺人をさせたくない――――その一心なのか、有沢は駆け出し、緑川の身体にしがみ付く。が――――緑川は動かない。避けるどころか、振り解く素振りすら見せない。
「日向……?」
「ダメですね、私。頑張って、都築君を殺そうって決めて来たのに……」
そんな緑川の様子で、俺の命の危険が去った事を確信したのか、有沢はそっと手を離した。
「テストって、言われた時……ものすごく、ホッとしました。私はきっと、都築君を殺せなかったと思います。ううん、絶対殺せなかった。だって……とってもお安いお米屋さんを紹介してくれた恩人なんですから、都築君は」
「緑川……」
村崎先輩も、緑川に歩み寄る。俺を狙う殺し屋が三人並ぶその光景は――――美しかった。俺を殺せない理由はやっすいモノだったけど。
「テストは不合格です。だから……また、ご指導ご鞭撻のほどを、よろしくお願いします!」
「……良いのか? 俺は合格だっつったんだぞ?」
「はい。きっと私は、まだまだ修行が足りないんです。もっと頑張って、都築君が本気で私に殺されるって思うくらいにならないと」
そんな緑川の科白は、俺をドキッとさせた。こいつ……俺が『自分は絶対死なない』って思ってたのを看破してたのか? それとも、ただの言葉のアヤか? いずれにしても……やっぱり、コイツはトリックスターだった。
「かりんちゃん、ゴメンね。いっぱい止めてくれたのに、聞かなくて」
「バーカ。私はね、私より先にアンタが都築を殺すのが許せなかっただけで……」
「えへへー」
じゃれ合う二人を尻目に、鈴木と村崎先輩が嘆息しながら俺の方に近付いてくる。
「やれやれ、じゃの」
「全く、大した名演技……と言うほどでもなかったが、君のその機転には頭が下がる」
この二人は、俺の嘘をあっさり見破っていたらしい。勿論、こいつ等にバレても何ら問題はないけど、ちょっと悔しい。
「とは言え、最後の挑発は感心しないぞ。あれでは、万が一と言う事も……」
「ところが、そうでもないんですよ」
ダメ出しする村崎先輩に、俺はニカッと笑ってみせる。
そう――――俺が『自分は絶対死なない』って確信していた訳。
それは、あいつの武器にある。
「緑川のナイフ、すり替えておいたんですよ。玩具のナイフと」
あれは、【くのいちカフェ
みずの】に初めて足を運んだ時の事。厨房へ続く抜け穴のフタを開ける際、緑川からナイフを受け取り、それを玩具のナイフとすり替え、玩具の方を返したんだ。ズルいとかセコいとか言うなかれ。あんな簡単に標的に得物を渡す方が悪い。
「抜け目のない男じゃ。やはり男はいけ好かん。次の職場で上司となるのが男かと思うと、気が滅入るの」
鈴木が呆れ気味に肩を竦める中――――その背後の緑川と有沢の会話が聞こえて来る。
「にしても、日向のナイフって綺麗ねー。コレ、高いんじゃない?」
「えへへ。実は一回失くしちゃったんです。それで、昨日再支給して貰って」
……なんですと?
つまり、今、緑川が持ってるナイフって……
「相変わらず、ご都合主義じゃの」
「この場合、果たしてそう言って良いものか……いずれにせよ、命は大切に、だぞ。都築」
「はは、ははは……はは」
俺の命狙ってる先輩にそんな事言われたくない、なんて軽口叩く余裕もなく。
俺は、ドッと湧いてきた冷や汗に、季節にそぐわない寒気を感じていた。
「うぐぐ……誰だよ、机の下が安全なんていった野郎は……大惨事じゃねーか」
「光海じゃありません……光海は野郎じゃないですから……かくっ」
取り敢えず。
そんなこんなで、俺を振り回すだけ振り回した大騒動は、一応ここで一つの区切りを迎えた。
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