「く、くそっ」
  運動神経の差なのだろうか、怒りのパワーを付加していたにも拘らず
 あっさりと一哉に逃げられた。
  おのれ、受験生の癖になんちゅー体力だ。
「はぁーっ……」
  大きく息を吐き、動悸を鎮める。
  少し落ち着いてきた。
  と同時に、先程の実にでき過ぎた展開がフラッシュバックする。
  まさか、向こうから話し掛けてくるなんて!
  こりゃ思わず顔も緩むってなもんだ。
「あの」
  どう言う用件かなんてこの際どうでも良い。
  会話――――そんなミッション15ぐらいに予定してたものを
 一日にして達成してしまったのだから。
「あの、ちょっと」
  しかも苗字とは言え呼ばれた。自分を呼ばれてしまった。
  いける! 僕はこの恋を遂行できる!
  僕はこの奇跡的な展開を神に感謝し……
「あの」
「うぉっ!?」
  いきなり目の前に人の顔が現れた。
  思わず身体を仰け反らせる。
「あ、ようやく気付いてくれましたか」
  抑揚のない声でそう言い放つその人物は、女性だった。
  ショートカットで、冷めた目が印象的な同じ位の年齢の娘。
「な、な、な」
「名? そうですね。まずは自己紹介」
  こちらの意図とは無関係に話は進んでいく。
  なんか最近こんなんばっかだ。
「これを」
  そう言ってその女は名刺を差し出してきた。
  名刺?
  なんかつい最近同じような事があったような……
「あの」
「あ、ああ」
  僕は取り敢えずそれを受け取って、表記された文字を確認した。


 椛蜷l検定委員会事務所
 非常勤役員
 水崎 杏奈               



「夢……じゃなかったのか?」
「はい。現実です」
  僕はその名刺を見た瞬間、昨日見た夢(ではなかったが)をハッキリと思い出した。
  そのふざけた会社名もさる事ながら、それ以上にふざけた男の言った言葉を。
『では、明日にでも試験官を派遣しますので』
  って事は。
「……試験官?」
「はい。水崎杏奈(みずさきあんな)と申します」
「……」
  言いたい事はたくさんあるが、取り敢えず一番気になる点を聞いてみる事にした。
「昨日のあの男の名前は本名なのか?」
「はい?」
「だから、シャーマン・カーンとか言う奴の」
「ああ。代表の事ですね。ええ、本名だと思いますが」
  ……ま、まあ世の中って僕らが思ってるより広いだろうし
 そう言う名前の一人や二人、いる事もあるだろう。
「それでは早速ですが説明を始めさせて貰ってよろしいでしょうか?」
  試験官の女……水崎とかいう名前の奴は、こちらの様子に一瞥もくれず
 杓子定規に話を進めようとする。
「ちょっと待った」
「何ですか?」
「何ですかもなにも、こっちはまだ事態を全然把握できてないんだが」
「ええと、昨日の段階で代表がある程度説明してるはずですが……?」
「いや、夢だと思ってたし、ちゃんと聞いてなかったから」
「そうですか。では基本的な事から先に説明します」
  水崎はさしたる感情の揺らぎも見せず、まるで初めから
 用意してあったかのような段取りで説明を始めた。
「それでは、私たちの会社の概要を小一時間ほど……」
「えっ……?」

  …………小一時間後。

「……という訳です」
「お、終わったか……」
  おそらくこれまでの人生の中でもトップ5に入るほどの
 無意味な時間がようやく終わった。
  ちなみに一位は、小学生の頃の深夜、もしかしたら新聞に載ってない
 宇宙人の演説的な番組があるんじゃないかと眠い目を擦りつつ砂嵐になるまで
 テレビに噛り付いていた時間だ。
  あの頃は若かった……などと、思わず感慨にふける。
「では、本題に入りますね」
  感慨は一秒で消去された。
「本題?」
「はい。具体的に貴方が何をするのか、それによってどのような結果が
 もたらされるのかなど」
「その前に質問してもいいか?」
「はい、なんでしょう」
「さも当然のように僕を顧客として扱っているけど、契約した覚えはないよ?」
  会社の説明が始まって五分ぐらいした辺りからずっと言いたかった
 その言葉をようやく口にできた。
「……と言われましても」
  水崎は手に持っていたバッグから何やらゴソゴソと取り出す。
「この通り、契約書もありますし」
「な、何故僕のサインが!?」
  水崎の持っていた契約書には僕のサインが入っていた。
  子供の頃、何を勘違いしたのか芸能人の書くようなサインに憧れて
 練習しまくった結果身に付けた、僕専用のサインだ。
  他の人間が偽装できる筈もない。
「納得されましたか?」
「余計に疑問が増えたんだが……」
「では予定通り説明を始めます」
  ……なんか最近、自分の言葉が相手に通じてないのではという懸念を
 抱くようになったのは、決して僕の考え過ぎではあるまい。
「時間が押してますので手短に話しますね」
「……あい」
  僕は無駄な抵抗は諦めて、大人しく説明を聞く事にした。
  ……流されてるなあ。









  前へ                                                      次へ