「……臭い」
 酷い目にあった翌日の朝は、やっぱり酷い目覚めだった。
「春日あっ! お前なんてもんは廊下で立っとれぃ! お前が立っとれぃ!
 お前が舵を取れぃ!」
  未だに臭いの取れない顔に辟易しつつ、鬼のように洗顔を試みた結果、
 遅刻と相成った。
  ちなみに、ウチのクラスの担任は色々とイタい。
  何かと僕に絡んで来るし。困ったもんだ。
「いや、お前可愛がられてる方だろ。家庭の事情ってヤツを
 結構気にするからな、あいつ」
 昼休み、解放された僕に一哉が近付いて来た。
「人情派ってか」
  その臭いはする。確かに。
「つーかお前微妙に臭いんだけど、風呂入ったのか?」
  臭っていたのは僕だった!
「くそっ、あれだけ洗ったのに……こんな状態で酒井さんに
 声でもかけられた日には……」
「春日くん?」
「Wow!」
  動転して訳のわからないリアクションになってしまった。
  しかしそんなのはどうでも良い。問題は、問題は……
「あ、ゴメンね。脅かしちゃった?」
  今の僕に酒井さんが近付いて来た事だ!
「一哉! よこせ!」
「いや、そんなアイコンタクト的な要求の仕方されても、ここピッチじゃないし
 わかんねーよ」
  チッ、使えねー親友だな。
「お前ジゴロだから臭いを消すスプレーとか持ってんだろ! それ貸せ早く貸せ!」
「へいへい」
 生返事と同時にスプレー缶が手元にピッタリ投げ付けられて来た。
「あ、酒井さんちょっと待ってね。すぐ終わるから」
 キュートな仕草で頷く酒井さんに目を細めながら、スプレーをシューッと……
「!?」
  吹きかけた瞬間、僕の顔はガッチガチに固まった!
  何ぞ!? 何ぞ!?
「あ、ヤベ。それスプレーのりだった」
「@◆Ψ∀б♭∽!?」
「最近のスプレーのりって妙に缶のデザインが凝ってんだもんなあ。悪ぃ悪ぃ」
「〇∇#$! ¥%Θ〒!」
「いや、口塞がってから何言ってっかわかんねーし」
「><」
「あ、今のはわかった」
  顔面のほぼ全域を乾いた接着剤のごわごわした感じが覆っている。
  瞼と口は完全に塞がり、鼻の穴も一つやられた。
「え、えっと……取り込んでるみたいだから、また今度ね」
  酒井さんはドン引きの声と共に離れて行った(見えないので推測)。
「あー、また邪魔しちゃったか。まいったな」
「……」
  もう起こる気力も残っておらず、項垂れながら
 付着しまくりの接着剤を落としている所にメールが届く。
  水崎からだった。ちなみにメルアドを教えた記憶はない。全くない。
『放課後 川原の土手にて待ちわび候』
  ……良くわからん。
「おっ、果たしメールか?」
「そんなメールはこの世にない」
  取り敢えず、無視しても後が面倒そうなので行く事にした。

 ★       ☆     ★    ★      

  で、あっという間に放課後。
「……どうかされたんですか? 顔色が」
「気にしないでくれ」
  生まれて初めてタワシで顔を全力でこすった弊害をスルーし
 一応用件を聞いてみる。
「フッ、一人でノコノコとやって来るたぁ良い度胸してるぜ、ねーちゃん」
「聞いてるつもりなんですか? それで」
「人の心を読むな。揚げ足も取るな」
「揚げ足ではないような……まあ、良いです。それでは試験の続きを行いましょう」
  大方の予想通り、そう言う事になった。

 ★       ☆     ★    ★     

  本日赴いた所は夕方の公園。
 と言っても、実際に家の近くにある公園とは似ているようでちょっと違う。
  具体的に言うと、滑り台の角度とかジャングルジムのサビの進行度とか
 鉄棒の高さとか砂場の面積とかが、ちょっとだけ違っている。
  ここは夢の世界――――そう割り切るしかなかった。
「で、今日は何をやれば良いんだ?」
  半ば自棄の僕は、感情のない声でそう言ってみる。
  幻想的に漂う夕日の美しさがこの荒んだ顔と心を癒してくれるかと
 期待したが、どうやら見込み違いに終わりそうだ。
「あそこを見て下さい」
  昨日と全く同じ口調で言う水崎の視線の先には――――
「ねえぇ、今日はどこに行くぅ?」
「どこでもいいよぉ。キュミさえいれば」
「やだぁ! もう、マモルったらぁ!」
  ほう。
「あれに因縁吹っ掛けるんだな?」
「いえ、今日は違います」
  ちっ。
「今日は『道徳心』のテストです。間違いを正してください」
「了解」
  昨日よりはるかに建設的且つ有意義なその申し出に即答し
 僕はベンチでいちゃつくカップルを睨み付けてみた。
  美男美女とは対極にある連中が人目はばからずイチャつく姿は
 嫌悪感どころか殺意すら覚える。
  間違いは正す。これ、常識。
「穏便にしてくださいね。あと、気の利いた例えなんかも交えれば
 高ポイントは確実ですよ」
「……そ、そうか」
「ちょっとぉ、アレ見てよ、マモルぅ」
  水崎の言葉に耳を貸している間にカップルに気付かれたらしい。
「何かあの男の人ぉ、さっきから私の方ジロジロ見てるよぉ」
「ははは! 仕方ないさぁ、あの男の連れよりキュミの方がずっと
 魅力的だからなぁ!」
「やぁだもう、マモルったら、ツォー正直ぃ!」
「大丈夫だよ、ミチコ。あの男が言い寄ってきても、ボゥクが一瞬で
 追い払ってやるから」
「きゃあぁ、マモルってツォー素敵ぃ!」
  意味不明な言語の羅列が終わり、再びイチャつき始める。
「…………」
  僕は無言で足を進めた。
  そして、カップル(便宜上そう呼ぶが、んー、どうだろう)の前に
 仁王立ちする。
「おい、そこのバカップル」
「きゃぁっ! 本当に来たわよぉ!」
「任せときな、ミチコ。お前は俺が命がけで守ってやっから。
 やっから。ややややっから。YAHOOOOO!」
「まっ、マモルぅ……もう、このデスジョッキ♪」
  ビールを入れる器で殴り殺したくなるようなそのやり取りで、僕の、
 と言うかこの空間全体の不快指数は飽和値を超えた。
「おうおうおう何だテメェ! ミチコは俺の……」
「やかましゃああああああああああ!?」
「ひいぃ!?」
「このダボハゼがっ! 糞暑い夏の真っ只中だってのにベタベタしやがって!
 アイスバーか! テメーらは!」
  僕は全力少年で怒りつつ、してやったりの顔で言ってやった。
  我ながらうまい例えだ。非の打ち所がない。高ポイントゲットだぜ!
「……何言ってんだぁ、テメェ?」
  あ、あれ?
「アイスって何ですか?」
  いつのまにか隣に来ていた水崎からナイフのような問いが飛んで来た。
「だ、だから、夏にベタベタ……」
「例え下手ですね」
  うわっ! 刃が、刃が僕を襲う!
「ぐ……う、うるせえ! だったらお前ならどう言うよ!?
 見本を見せてみろってんだ!」
「わかりました」
  水崎は躊躇なく頷き、僕を押しのけてバカップルの正面に立った。
  気のせいか、珍しく目に感情が灯っているような……
「こ、今度は何よぉ。って言うか、あんたたちいったい……」
「口を慎みなさいこの有害物質」
  水崎の声はそれだけで周りの温度を二、三℃低下させる程の冷たさだった。
「ゆ、ゆうがいぶっしつぅ?」
「そうよ。この暑いのにベタベタベタベタ……ヘドロですね、まるで」
  ヘドロ……
「ちょ、何を……」
「本来なら八〇〇℃以上の熱で完全処理するところなのですが
 今回だけは見逃してあげます。即刻立ち退いてください。
 最近はヘドロの有効利用の研究も進んでるから、貴方たちの居場所も
 きっとある筈です」
  表情はないものの、水崎の言葉はどこまでも辛辣で、そのか細い
 体からは未だかつてない重圧を発している。
 ……もしかして、怒ってるのか?
「ね、ねぇマモルぅ、もう行こうよぉ。なんかこの人たちキモいぃ」
「そ、そうだなぁ。ったく、うぜぇんだよ、テメーらぁ」
  水崎の迫力に気圧されたのか、完全な及び腰で負け犬の遠吠えを残して
 ヘドロカップルは去って行った。
  間違いは訂正されなかったが。
「……」
  静まり返った夕方の風景は、心持ち先程より哀愁を漂わせていた。
「ところで、水崎」
「何ですか?」
「お前、さっき怒ってたろ。あの男の言った暴言が原因か?」
「暴言?」
「お前よりあの馬鹿女の方が魅力的とか言ってたヤツだよ」
「……そんな事ないですよ」
「でも怒ってたじゃん」
「怒ってないです」
「怒ってたって」
「怒ってないです」
「さっきすげ―怖かったじゃん」
「……春日祐一(18)、表現力だけでなく聞き分けもデリカシーも乏しい、と」
「こらこら! それは道徳心とは全然関係ないだろ!」
  なんとなく、水崎との距離が縮まったような、そうでもないような。
  色々あった一日の終わりは、そんな感じだった。









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