翌朝。
接着剤特有のカピカピな感触がまだ残る顔を洗い、パンを焼き、
ティッシュとトイレットペーパー、台所用品の切れがないか確認し、
テーブルを軽く拭いて、制服に袖を通す。
母親は今頃部屋でグーグー寝ている。
なにせ、夜中の二時まで働いているのだから、当然なのだ。
僕ができる事は、家での負担を少しでも和らげる事しかない。
できれば食事も毎日自炊と行きたいのだが、どうも性格的に
凝り性のようで、下手に自分で作ると外食以上に金が掛かってしまう。
一時期は香辛料一式全て揃えたりしたからな……我ながら間抜けだった。
「良いじゃん。お前の数少ない長所だろ? 料理は」
「男が料理できてもなあ」
そして、男二人で登校。一哉は特定の彼女を作らないので、登下校の
パートナーは僕と言う事になる。
僕としては、男と登校しても嬉しくないのだが。
「それじゃさ、お前が腕を振るうところを酒井さんに見て貰えば?
家庭科室に呼び出して『僕、料理上手。君も料理する』とか言ってさ」
「何でお前が女受け良いのかわからなくなる時がある。今がまさにそうだ」
「?」
一哉は天然だった。
「あ、おはよう」
そんな馬鹿話を爽やかに浄化してしまうような、美しい声。
えっ……この声は、まさか……
「お、噂をすれば、ってヤツか」
「え?」
全力で振り向くと、そこには我がプリンセスの酒井優歌嬢がっ!
キャー! また話しかけられたよ! 挨拶されちゃっちゃ! はほー!
「どうでも良いが、頭の中で噛むなよ」
……どうして僕は心の中をガンガン読まれまくるのだろう。
そう言う役どころなのだろうか。
「えっと。春日くん」
「なんでっしゃろ!?」
「わっ、それ何語?」
「何語だ一哉! さあ言え!」
「知らねーよ」
僕のテンション上がりまくりの姿に一哉が若干引き気味になっている。
でもそんなの関係ねぇ! でもそんなの関係ねぇ! でもそんなの関係ねぇ!
オッパッピってる場合でもない。
酒井さんが積極的に僕とコミュニケーションを取ろうとしているのだよ!
これ、恋じゃね?
若しくは愛じゃね?
そんなんっぽくね?
「どうよ! 一哉!」
「いやだから知らねーって」
チッ、いらん時にばっか心読みやがって。
「えっと……」
ああっしまった。変な方向にテンション上げすぎて酒井さんが引き気味だ。
ここは大人しく彼女の用件を聞こう。
「ゴメンゴメン、ちょっと昨日良い事があって、気分がハイなんだ」
「灰なのか」
「それは何よりだねー」
一哉の糞ボケ解釈など無視し、酒井さんは微笑みかけてくれる。
これマジでヤバくね?
僕18歳で結婚できるんじゃね?
「それで、ちょっと聞きたいんだけど……」
「う、うん。何でも聞いて。隠し事は良くないよね」
自分でも暴走気味だと自覚しつつ、話を――――
「春日さん」
聞こうとした瞬間、別の人物からお呼びが掛かった。
どこか冷めていて、それでいて丸みを帯びている女声。
それは……
僕は確信に近い疑惑を抱きつつ、後ろを振り向いた。
「な、何で……?」
声の主は、やはり水崎だった。
と言うか、何故ウチの学校の制服を着ている?
「おっ。知り合いか?」
一哉が興味深げに聞いてきた。
何しろ、自慢じゃないが僕には女の子の知り合いは殆どいない。
……まずい。からかわれるな、絶対。
「俺、一哉っての。ねえ、これから暇?」
「いきなり口説くな!」
からかわれた方がマシだった!
「何だよ。もしかしてお前の彼女?」
「違う! ぜんっぜん違う!」
こいつは……頭の中そればっかか?
しかも、よりによって酒井さんの前で何つー事を……
「あの」
「あ……」
一哉の所為で水崎の事ほっぽったまんまだった。
「それじゃ祐一、邪魔しちゃ悪いから先行ってんぞ」
「おい! 人の話を聞け! つーかそう言う健全な身の振り方は
もっと別の場面で発揮しろ!」
僕のその魂の叫びすら無視して、一哉はさっさと歩いて行った。
「……あっ」
しかし。
しかししかししっか〜し!
酒井さんはその場に残っていてくれた。
くーっ! さすが我が心の癒し系!
違いのわかる女性って素敵!
「だめだよ、春日君。ちゃんと彼女の事構ってやらなきゃ」
…………………………………………………………………はい?
「さ、酒井さん? 僕の話聞いて……」
「それじゃ、彼女によろしくね」
な、何をよろしくしろと……?
そんな事を思っている間に、酒井さんは皆の後を追って行ってしまった。
「あの」
「……」
「もしかして、私の所為で余計な誤解が生じました?」
「……いや、良いよ、もう……」
怒りの矛先すらままならないこの現状をどうしてくれよう。
「でしたら、早々に試験の日程を確認をしましょう。朝は余り時間がありませんから」
「……はあ」
単なる溜息だったが、水崎は了承の意と取ったらしく、半ば強引に
引っ張られて行く。
ははは、まるで僕の人生は未来永劫こんな感じだよと
言われているかのようじゃないか。
「気のせいか、幽霊を引っ張っているようです」
「うらめしやー」
「気のせいでしたか」
「……」
会話が噛み合わないまま、中庭で話し合いとやらが始まる。
まず、一番のサプライズは水崎が同じ学校だったと言う事。
そして、同学年だったと言う事
しかしそう言ったプライベートな部分は殆ど話題に出さず、
今後の日程についてばかりが淡々と語られた。
どうやら水崎は秘密っ子ちゃんらしい。
「……何ですか、その秘密っ子と言うのは」
「不満か、秘密のあんなちゃん」
「そう言う名前ではありません」
完全拒否された。
凹むなあ……
「では、放課後にまた」
相変わらず抑揚のない声で締め、水崎は校舎に吸い込まれて行った。
はぁ……また酒井さんの話を聞けずじまいか。
って言うか、誤解されたままじゃん!
ど、どうしよう。このままじゃ僕はマンマークされて動けないFWも同然じゃないか。
そんなの、エースでもない限りパス貰えねーよ。
恋のエースなんて無理だっての。殆ど経験ないのに。
「春日あっ! お前なんてもんは廊下で立っとれぃ! 一人で立っとれぃ!
よーソロ! ヨーソロー!」
……結局、遅刻してしまったとさ。
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「……で、今回は何なんだ?」
放課後、昨日と同じ公園で夕日を背に問う。
実際はまだ日なんて暮れてはいないが、そう言う気分だった。
「えっと……主に体力ですね」
「主に?」
「それじゃ、移動しますよ」
水崎は僕の言葉を無視して転送回路を起動させやがった。
「おい、人の……っと」
空間がぶれ、視界が著しく乱れる。
水崎はすぐ慣れるっつってたけど、この感覚だけは慣れないな。
ブ――――ン――――
景色が波打ち、次第に一本の線となる。
そして再び波が現れ、織り成す景色は……
「……ジャングル?」
見た事のあるような、やっぱないような植物が縦横無尽に生い茂り、
何色もの緑が視界の隅々を彩る。
虫なのか動物なのか、あるいは未知の生物なのかわからないモノの鳴き声が
交響曲のように幾重にも耳にまとわりつく。
「そうです」
例によって無表情、無感動な応え。
まるでそれが当たり前のようなその言動には、この現実が誰にでも
遭遇するかのようにさえ感じる。
しかし。
「何故、ジャングル?」
日本人でこんな辺ぴな所に行くような物好きが何人いる?
まして、自然の淘汰にも生物の分布にも文明の相違にも全く関心がない
一介の高校生が来る場所では、断じてない。
「もちろん、試験のためです」
「試験……体力……」
ま、まさか……
「ここで半年ばかり生活してくださ」
「できるかあああぁ!」
おそらく自己最速の反応速度でそう答えた。
「死ぬぞ! 間違いなく死ぬぞ! これは自殺幇助じゃないのか!?」
「そうなったら試験不合格ですから、死なないでください」
「ンな問題じゃねーだろ!? 半年と言わず一週間ももたねーっての!」
「しょうがないですよ。体力の測定と言えばサヴァイヴァルしかないですし」
「何だそのツッコミどころ満載な発言は!?」
「あ、それと……これを」
僕の意見に取り合う気はハナからないらしく、水崎は淡々とした動作で
何時の間にか手に持ってたリュックから何かを取り出して、僕に差し出した。
「い、石斧……?」
人の頭大の大きさの石器が木の棒に括り付けられただけの、なんとも粗雑な武器。
ボタン一つで大陸を消滅させるような核爆弾が存在するこの現代に
なんつー時代遅れな物を……
「多分、いやきっと猛禽類に襲われるでしょうから、これで追っ払ってください。
あ、それと動物は大抵火を怖がりますから、火を起こす練習が有効じゃないかと」
「いや、棒読み口調でそんな事言われても……」
「それでは」
「ちょい待て! 至極当然って感じで行こうとするな! 大体僕は受験生なんだぞ!?
こんなとこに半年もいれるかっ!」
「あ、それは大丈夫です。この空間は本来貴方がいる時系列ではないので、ここでの
時間の経過は実生活には反映しませんので」
「……そうなのか?」
「はい。では半年後にまた」
「あっ!」
と言う間に、水崎は姿を消してしまった。
取り残された僕は、為す術もなく呆然と見送るだけだった。
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