『事実は小説より奇なり』
  こんな言葉がある。
 『実は時に創造物を凌駕するような事象が起こる』という意味で使われる、
  割とよく聞く言葉だが、実際そのような事象に遭遇する事は滅多にない。
  例えばこの現実。
  今僕は、人生の中でも間違いなくトップクラスの『世間的に稀有な体験』をしている。
  だがそれでも、こう言うシチュエーションを全く想像もした事が無いかというと、
 そうでもない。
  尤も、僕が実際に考えてたのは『ある日突然可愛い女の子が現れて、
 ドラえもんばりにいろいろな要求を満たしてくれる』というものだから、
 カスってる程度と言われればそれまでだが。
  つまり、全く想像の片隅にも置いたことのない、『事実は小説より奇なり』と言う
 言葉を使いたくなるような出来事というのは滅多な事ではありえないのだ。
  おそらく、僕がこれから生きていく中でも一、二回あるかないかだろう。
  だったら、できればそれが良い方の出来事であって欲しい、と思うのが
 傲慢な人間の欲求というものであって。
  その分に漏れず、僕もそう思っていた。
  できるなら、想像を絶するような幸せを届けてください。
  そんな風に思っていた。
  そう。
  思うだけなら誰でもできる。
  そして、それが現実になるのは、限られた……
「祐一ぃ」
「ん?」
  一哉の気の抜けた声をきっかけに、それまでぼやけていた視界が形を取り戻す。
「ボケーっとしてないでとっとと帰ろうぜー」
「ん? もうホームルーム終わったん?」
「とっくに終わってるっての」
  そう言われて僕は周りを見る。
  あ、見事なまでの放課後の風景。
  考え事に夢中になってた所為で気付かなかった。
「行くぞー」
「ああ、ちょい待ってろ」
  先に教室を出ようとしている一哉に一声かけつつ、僕は下校の準備を始めた。

 ★       ☆     ★    ★      

「痴漢?」
  痴漢。
  男として、それだけはどうしてもやっちゃいけない犯罪の一つ。
「そう、痴漢」
  通学路を下る途中、一哉はいきなりそんな事を言ってきた。
「最近、ここいらに出没してるんだとさ」
「ふーん」
「……なんだよ、ノリ悪いな。『何でンな事知ってんだよ』、とか
 『ほうほう、どんな奴なんだろうな』とか、もっとこう、あるだろ?
 話し手をその気にさせるような相槌の仕方が」
「知らん。そもそも痴漢なんて他人のケジラミくらいどうでもいい。興味ない」
  男として産まれて来た限り、被害者になる可能性はない訳で。
  世の女には申し訳ないが、痴漢がその辺をウロウロしてるからと言って
 僕には全く関係ない話だった。
「まあ聞けって。それがさ、妙なんだよ」
「痴漢なんて皆妙な奴だろよ」
「そうじゃなくてな……痴漢がいるって噂はウチのクラスでもチラホラ
 出てるんだけど、何故か警察や学校には届出が全くないらしいんだ」
「……別に妙な事でもないだろ? 大体痴漢の被害届なんて恥ずかしがって
 なかなか出されないもんじゃないのか?」
「いやいや、そうでもないって。これだけ噂が広まってるんだぞ?
 結構な数の被害が出てる筈だ。一人くらい警察なり何なりに
 言いに行く奴いるって、絶対」
「そんなもんかね」
「そんなもんなの」
  一哉はまるで自分が女の気持ちを完璧に理解しているかのように宣った。
  僕が女だったら痴漢にあったなんて他人には言えないけどなあ……
  などと思ってるうちにいつものファミレスの前に着いた。
「さて……今日はどうする? 寄ってくか?」
「いや、今日はやめとくわ。買い溜めといた卵が賞味期限ギリギリだからな」
  冷蔵庫の中にある食材を腐らせるのはプライドが許さない。
  それが例え一パック二円で買った卵だとしても、だ。
「相変わらず自炊してんのか。偉いやっちゃなー」
「別に偉かないっての」
  自分以外の人間が稼いだお金で食べている事に変わりはないのだから。
「そっか。じゃ、俺はここで食ってくから。またな」
「おう」
  ってな訳で、ここで一哉と別れた。
  そして、家へと向かう道中。
「……?」
  後ろから視線を感じ、振り向いてみる。
  誰もいない。
  なんか前にも何回かこういう事があったような……
  結局、その日も視線の主を視界に捕らえる事は出来なかった。

  ★       ☆     ★    ★      

  で、翌日。
「結城……は休みか。ろくなもんじゃねぇ」
  僕の斜め後ろにある、本来そこに一哉が座っている筈の机は空席だった。
  風邪……?
  昨日はあんなにピンピンしてたのに。
  仕方ない。電話でもしてみっか。
  ホームルームが終わったのを見計らって、滅多に使わない携帯を
 ポケットから取り出す。
  基本的には携帯の所持は学則違反なんだが、ンな事真面目に
 守ってる奴なんて殆どいない。
  授業中に平気で着信するのはバカのやる事だと思うが、所持する事自体には
 何の問題もないだろう、というのが僕の弁。
  まあ、臭い物には蓋をするが現在の日本の教育理念なのだから、
 そういった弁は通用しないのだろうが。
「電話帳……ポチっと」
  ちなみに僕の携帯、短縮に登録してるのはたったの三件。
  残念ながら、酒井さんのデータはまだ僕の手の元にはない。
  オフクロと、一哉と、半年前に会った従兄弟だけ。
  そもそも電源をオンにする事自体滅多にない。
  ウチは基本的に放任主義だからオフクロからは電話なんてかかってくる事は
 まずないし、一哉とわざわざ電話で話す事なんてない。
  もう一人に至っては音信不通だ。
  要するに、一応持ってはいるが、基本的に僕には携帯なんぞ不要なんだ。
  別に友達が最少人数だからと言う訳じゃない。
  暇だからっていちいち野郎相手に電話なんてするような行為が理解できないだけだ。
『女の友達は……?』
「……色々とほっとけ」
  天からのツッコミに心の声で答えつつ、一哉が出るのを待つ。
  ……
  …………
  ……………………
  出ない。
  もしや、起き上がれない程の重病?
  それとも、車にでも撥ねられて今頃病院のベッドの上……?
  無機質かつ規則的な呼出音が嫌な予感を増幅させる。
  そう言えば、僕の嫌な予感は……
  ピッ。
「……もしもし」
  ……全くもって当たらんのだ。
「一哉か?」
  なんか腑に落ちない気分を一瞬で払拭して、二十四回目のコールで
 ようやく出た親友の名を呼ぶ。
「……祐一」
  声のトーンが低い。
  音量も。
「おう。どうした? 病気か?」
「……」
  沈黙。
「おい、聞いてんのか?」
「……うわああぁぁああ!!」
「な……なんだ急に!?」
  電話口から聞こえてきたのは一哉の慟哭。
  いい歳こいた男が号泣かよ、おい。
「祐一ぃ……俺は! 俺はもう駄目だぁぁ!」
「お、落ち着け! 何があった?」
  そう言いながら、僕自身かなり動揺していた。
  こいつがこれだけ取り乱す事となると、考えられるのは……
「おい! 返事しろ! まさかおばさんがどうにかなったんじゃないだろうな!?」
  一哉の家は僕のとこと同じく母子家庭だ。
  母親に何か会ったのなら、一哉のこの様子も理解できる。
  色々あって決して仲良しではないのだが、それでも親は親。
  これくらい取り乱してもおかしくはない。
  だが。
「……かーちゃん? かーちゃんは仕事だよぉ」
  おばさんは無事らしい。
「だったら何なんだよ! 何が駄目なのか言え!」
  先程より語調を強めて言う。
「もう駄目だよぉぉぉ」
  しかし帰ってくる言葉はこんなんばっかで、全く話にならない。
  キーンコーンカ〜ンコーン。
  うわ、予鈴だ。
「と、とにかく放課後になったらそっち行くから!
 ってお前今何処にいんだよ!」
「……家」
「わかった! 変な気起こすなよ!」
  それだけ言って僕は携帯を切った。
  取り敢えず家にいて話が出来る状態にある以上、重い病気や怪我ではない筈だ。
  だが、そうでないのに学校を休むとは……
  受験生が学校をサボるとは考え難いし、そもそもあいつは
 そういう事をする奴じゃない。
  いくら考えても答えが出る訳ではないので、僕は携帯をしまうと、
 まだざわめきが残る教室へと入った。
  ……その日の授業はやたら長く感じた。

  学校から二キロほど離れた住宅街の一角にある、中規模クラスのマンション。
  そこの一室が一哉の家だ。
  と言う訳で、今僕は一哉の家の前にいる。
「かーずやー」
  ドンドンドン!
  呼べど叩けど返事がない。
「おーい、いねーのかー?」
  ドンドンドンドン!
  やはり返事はなかった。
「しょうがねーなー……」
  鍵のかかったドアを前に、僕は大きく息を吸い込む。
  そして。
「ホアチャアッ!」
  金属のひん曲がる音と共に、ドアが目の前から消失した。
  サーベルタイガーを一撃で仕留めた、必殺のホーネットキック。
  この程度のドアなんて粉砕する事は今の僕には造作もない。
「入るぞー」
  器物破損に対する若干の後ろめたさを『非常事態』と言う
 免罪符で打ち消しつつ、中に入る。
  もう何度となく足を運んだ、勝手知ったる家の中。
「一哉〜。いるなら返事しろー」
  居間、キッチン、風呂場、トイレ等を探すが何処にも見当たらない。
 そして、最後に一哉の部屋に入る。
「かず……や?」
  一哉はベッドの上で体育座りをしていた。
  手入れされていない、ボサボサの髪。
  不精髭を生やした生気のない顔。
  死んだ鯉のような濁った瞳。
  いずれも、普段のこいつからは想像できない姿だ。
「おい! 一哉!」
  何処を見ているか、目の焦点が合ってるのかどうかすらわからない
 一哉を揺さぶる。
  すると。
「…………ゆ……う……いち?」
  ようやくこっちの世界に戻ってきたのか、微かな光を帯びた目で返事した。
「そうだ! しっかりしろ!」
「ゆういち……ゆ、祐一ぃぃ!」
  そう叫びながら僕に抱きついてくる一哉。
  それを華麗な体捌きでかわす。
  ドカアッ!
「ぐわああぁぁ!」
  一哉は誰もいない床に頭からダイブした。
「いってえええぇぇぇ!」
  一哉は顔面を押さえながらゴロゴロとのた打ち回る。
  出血は無いようだが、結構痛そうだ。
「なんで避けるんだよぉ」
「男に抱き付かれるなんて死んでもゴメンだからな」
「ううぅ」
  情緒不安定なんだろう。
  誰かにすがりたくてたまらない、捨てられた子犬のような目をしている。
「で、何があったんだ?」
「…………」
  一哉は応えない。
「言えコラ」
「アウアウア〜」
  胸座を掴んで脅してみるが、一向に進展を見せない。
  何なんだ、一体……
  グキュルルル〜ッ。
  一哉の腹の虫がなる。
  よく見ると、げっそりした面をしていた。
  ったく。
「……待ってろ」

  ……十分後。

  鶏胸肉による棒棒鶏和風和え。
  鶏肉のダシで作ったソーメン。
  一人前百円以下で出来る、一人暮しで自炊する人間なら大抵はレシピにある料理だ。
「ガツガツガツ」
  一哉はそれを一分で平らげた。
「あああ……二十九時間振りの食事」
「昨日から何も食ってないのか」
「ああ、食欲湧かなくてな」
「ふーん。で、何があった?」
「…………」
  沈黙。
「……言わないなら今の食事代五万円払えやコラ」
「な、何で五万もするんだっ! そもそも食材は全部家のだろ!?」
「テメーの行き付けの店は食材費だけでメシ食わせてくれるんか? あ?」
「うぅ……」
  もはや意地だった。
「言え」
「…………………………………………痴漢」
「あん? 何だって?」
「痴漢にあったんだよっ!」
  置換?
  ちかん【置換】
(1)置き換える事。
(2)相異なるn個の物の順列を、他の順列に移す操作。
   また、一般に一つの集合MからM自身の上への一対一の写像。
(3)ある化合物の原子または原子団を、他の原子または原子団で置き換える事。
   また、その反応。 
 英語ではSubstitution。
  ……違うか。
  と、すると。
「……痴漢?」
「……」
「お、お前、まさか……?」
「…………ぐはっ」
  一哉は死んだ。









  前へ                                                      次へ