「……気持ち悪ぃ」  
  起床と同時に呟いた言葉が自分の脳を抓る。
  こんな目覚め、あるかよ。
  しかも熱っぽい。
  まあ、それは当然なんだけど。
  あの翌日、僕は思いっきり風邪を引いてしまった。
  あれからもう二日も学校休んでる。
  一哉とも会ってない。
  勿論、酒井さんとも。
「……ん?」
  時計に目をやると、既に夕方の時刻を指していた。
  二度寝どころか四度も五度も寝てたらしい。
  カーテンの隙間から茜色の空がチラチラと見えて、少し幻想的な気分になる。
「…………」
  相変わらず身体が重い。
  そして頭が痛い。
  どうも簡単には治ってくれないらしい。
  それだけ、弱っているって事なんだろう。
「うぁ……」
  欠伸をすると、奇妙な声が漏れた。
  喉が少し痛い。
  水を飲もう。
  いや、その前に確認する事が……
「あ、起きてるじゃねーか」
「一哉?」
  声のしたほうを見ると、一哉がコップを片手に部屋に入ってくる所だった。
「よお」
「……あれ? 鍵してなかったか?」
「ああ。お前合鍵隠してるって言ってたじゃん」
「…………」
  確かに隠しているが、場所は言ってないぞ。
「お前の隠しそうな場所は大体予想つくからな」
  してやったりの表情。
  ……野郎、ムカつくじゃねーか。
「具合はどーだ?」
  その事はここまで、と言わんばかりに一哉が聞いてくる。
「見ての通り風邪だ。症状は……ごく一般的な風邪のそれだ」
「……そか。ホレ」
「うい」
  一哉の差し出すコップを受け取り、一気に水を飲み干す。
「ふぃ〜……サンクス」
「しかし、なんでまたこんな時期に風邪ひくんだ? 流行ってねーだろ?」
「……最近頑張りすぎてなー。過労が原因だと思う」
  あながち嘘でもない。
「そーいや休み時間も勉強ばっかしてたもんな。いきなりやる気出しすぎたってか」
「三者面談で下手な事言われたくねーし」
「なーる」
  それっきり会話が止まる。
「……」
「……」
  外の紅が次第に色濃くなり、黒ずんでいく。
  聞かなきゃならない事が、その色に溶け込んで行く。
  僕は、どうすれば良いんだろう?
  怒るのも筋違いだし、聞くのも野暮だ。
  僕の気持ちを知っていながら……なんて滑稽な台詞を吐く気にもなれない。
  僕は一哉の性格を知ってるから。
  こいつは、特定の彼女は絶対に作らない。
  それには理由もある。
  だから、こいつが酒井さんと付き合う事はない。
  つまりは……そう言う事なんだろう。
「ん、コップ」
「ああ」
  僕が差し出したコップを持って一哉が出ていく。
  いつからだろうか。
  病気をした方は健康な方を顎で使っても良い、ってのが暗黙の了解になっていたのは。
  あいつには、言えば看病してくれる女なんていくらでもいる。
  でも、あいつを看病するのは母親か僕。
  そう言う決まりだった。
「ほれ」
「うい」
  戻ってきた一哉からコップを受け取る。
「飲みたくなったら自分で注げ」
  ペットボトルもついでに持ってきてくれたようだ。
  さすがに気が利く。
「……」
「……」
  再び沈黙。
  一哉はその辺に散らばってるマンガを読み漁り、僕は静かにベッドの上で横になる。
  ……ラフな時間だな。
  受験生とは思えない。
「オフクロさん、元気にしてるか?」
  沈黙を破ったのは一哉の何気ない一言だった。
「ああ。相変わらず病気もせずに」
「大したもんだよな。大変なんだろ? 仕事」
「そうかもな。そっちのは?」
「最近愚痴ばっか。『上司がカス』だの『上司がクズ』だの」
「どこも一緒だな」
「はは」
「ははは」
  乾いた笑い。
「そういやさー、お前覚えてっか? 昔俺が初めてここに着た時の事」
「忘れた」
「んだよ、相変わらず記憶力のない奴だな」
  ……確かに、僕はどうも記憶力がない。
  子供の頃の記憶なんて普通の人の五分の一も覚えてないくらいだ。
「じゃ、俺はもう行くぞ」
「おう、帰れ帰れ」
「へいへい」
  軽口を叩き合う。
  そして、そのついでのような口調で、一哉が切り出した。
「俺、何か酒井さんと仲良くなっちった。どーも気に入られてたみたいだな」
「……あっそ」
  お互い、努めて素っ気無く。それが一番心地良いと知っているから。
「でもま、また直ぐに離れて行くんだろうけど、な」
「決め付けんなよ」
「それは無理だ」
  力なき小さな笑みを浮かべ、一哉は玄関を出た。
「じゃーな」
  そして、いつもと変わらない口調で別れの挨拶を唱える。
  一哉は謝らない。そして隠さない。
  それが、親友である事の証だった。
  それだけに、辛いものがある。
  同時に、救われる。
  結局のところ、酒井さんの想いが成就する事はない。
  僕はそれを黙って見ているしかないのだ。
「なんだかな……」
  気が付けば、病状は納まっていた。
  明日は学校に行ける。
  だから、僕は決心した。
  一哉の正直な情報提示が、警告である事を知っているから。
  僕は、明日、踏み出す。
  例え無謀だと知っていても――――


「ごめんなさい」


  あっと言う間に失った恋は、それでも死ぬほど辛かった。







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