「どうして……?」
  泣きながら問う。
  その答えはわかっていると言うのに。
  この世界が、理不尽の豪雨に晒されていると知っているのに。
  それでも、呟かずにはいられない。
  例えそれが、我侭な子供の傲慢極まりない欲求だったとしても。
  例えそれが、不相応な男の身勝手な夢だったとしても。
「……どうして、こんな事に」
  嘆かずにはいられない。
  涙を流さずには、いられない。
  そして、問い続ける。
  誰に対してでもない。
  他ならぬ、目の前の現実に。

 ★       ☆     ★    ★      

「よう」
「あ」
  学校帰りの待ち合わせ、と言うと聞こえはいいが、この後に待っているのは
 へんちくりんな試験。
  それでも、最近は何故かそれが少しだけ楽しみだったりする。
  ……気も紛れるしな。
「さて、今日は何を試すんだ? 腕力か?」
  僕はすっかり筋肉質になった身体でマッチョのポーズを取る。
「それは……秘密です」
「秘密?」
  あっさりと流された事より水崎の言葉が気になって
 思わずオウム返しで聞き返した。
「はい。今回はオフレコでやれと言われたんで」
「誰にだよ?」
「上司です」
  上司……すっかり忘れてたが、いたなそんな奴。
「ゴーストアリババか」
「……全然違いますけど」
「いいんだよ。その辺は適当で」
「……?」
  水崎はやっぱりわからないと言う顔をしていたが、正直
 こんなどうでも良い話を続ける気はしないので無視する事にした。
「で、秘密なのはわかったけど俺は何をどうすりゃいいんだ?」
「あ、はい。これから転送する先に貴方の家があるんですけど」
  僕の家?
「そこにいる貴方の奥さんと……」
「ちょと待てい!」
「何ですか?」
「何故に僕が結婚した事になってるんだっ!」
「ああ、仮定ですよ、仮定」
「家庭なんて持ってないっつーの!」
「いや、家庭じゃなくて仮定です」
「?……ああ、仮の定め、ね」
 こう言う時に日本語は面倒くさいと本心から思う。
「今回はそう言うシチュエーションなんです。で、その奥さんと
 一晩過ごしてください」
  な……
「なななな何ぃぃぃっ!? マ、マジかぁぁぁっ!?」
「マジです」
  なんと言う……なんと言う事だ。
  それはつまり、《自動削除》を《自主規制》して《ピィィィィィィ!》しても
 いいって事だよな。
  そう言えば、昔こんな言葉を耳にした事がある。
 『捨てる神あれば拾う神あり』
  そりゃ、失恋したばっかなのにこんな事でテンション上げるのは
 人としてどうかとは思うが、健全な男子たるもの、いつ如何なる時も
 雄としてのサガを(以下略)。
「……何してるんですか?」
  両目から涙を流し天に向かって拝んでいる僕に水崎が冷えた視線を送っている。
  いかんいかん。つい取り乱してしまった。
「気にするな。それより一晩過ごすって事は、そう言う事なんだよな?」
「そう言う事?」
「だから……」
  待てよ。
  さっきは舞い上がってそっちの方向にばっか頭が行ってたが、現実に
 そんな上手い話がある訳がない。つい先日思い知ったばかりじゃないか。
「……一晩過ごすって具体的にはどういう意味なんだ?」
「ですから、ご飯を食べてお風呂に入って、その後……」
「その後?」
「……とにかく、一晩過ごしてください。そうさせる様に言われたんですから」
  水崎は顔色こそ変えないがいつもより若干荒れた語調でそう捲くし立てた。
  機嫌が悪いのか? それとも照れてるのか?
「何ですか?」
「いや、わかった。一晩過ごせばいいんだな。オールオッケー。ノープログラム」
「……確か受験生でしたよね?」
「ああ。それが何か?」
「いえ……」

 ★       ☆     ★    ★      
 
  ……で、試験開始。
  期待というものは、常に不安という影を引きずっている。
  冷静に考えればわかる事なのだが、その冷静さを欠いている場合、
 不安は見えなくなってしまうものだ。
  例えば、クリスマスの前日。
 自分の欲しいゲームを買って貰えるだろうと確信していたが、次の日枕元にあったのは
 光る地球儀だったという少年時代。
  自分の欲しい物を欲しいと伝えてないんだから当然文句は言えない筈なのに、
 涙を流して『どうして! どうしてこんな事に!』と叫んだんだっけ。
  ……そんな事はどうでもいいんだが、つまり期待は期待であって、
 それが現実と異なる可能性は多々あるという事だ。
  自分の家(正確には自分の家という設定の家)の玄関の前で
 僕は三分ほどそんな事を考えていた。
「……よし」
  これだけネガティブシンキングしとけば、展開的に美味しい方向に転がる筈だ。
  意を決して……と言うか保険をかけて、玄関を開ける。
  鬼が出るか蛇が出るか――――
「ただいまっ!」
「おかえりぃぃ」
  ……聞き覚えのある声た。
  それも決していい方向の記憶されてない声。
  足音の音量と比例して、悪寒が増してくる。
「早かったわねぇ」
  そう言って僕を迎えてくれたのは……いつぞやのバカップルの女だった。
 ……登場人物の使い回しは良くねーよ。
  大抵は製作者の怠慢だと思われるぞ、チクショウ。
「どうしたのぉ? 早く上がってぇ」
「…………」
  僕は抹殺された期待と魂を置き去りにしたままフラフラとした足取りで
 家の中へと入っていく。
  家の中はごくありふれた、一般の家庭といった感じの間取りだった。
  が。
  何なんだ、これは。
  紫色に無地のカーテン、どどめ色のテーブルクロス、薄紫色の絨毯、
 赤紫色のクッションと青紫色のソファー、そしてどうやって見つけてきたのか
 サーモンピンクで統一された家具たち。
  サブもアクセントもない色彩は統一感のみを主張している筈なのだが、
 むしろ混沌とした歪みを感じる。
「……」
「ねえぇ、あなたあぁ」
  絶句していた僕にバカップル女が話かけてくる。
  ……まさかこんなのに『あなた』と呼ばれる日が来るとは。
「お風呂にするぅ? お食事ぃ? それともぉ……ア・タ・シィ?」
「……!!」
  鼓動が早まり、身体中のありとあらゆる細胞がわなわなと戦慄を覚える。
  これが……恐怖?
  ジャングルの獰猛な猛禽類やすさまじい程の温度差、そして半年間の孤独に
 耐えた僕が、こんな小娘に恐怖していると言うのか?
「どうしたのぉ?」
「ひぃっ!」
  殺気は微塵とも感じない。
  だが、それを問題としない、圧倒的な何かを感じる。
  それが何なのかはわからないが、僕の目を覚ました本能がこう告げている。
 『この女には逆らうな』と……
「ねぇってばぁ」
「はっ! 小生僭越ながら湯殿を堪能させて頂き申す!」
  僕は震える身体にムチ打ってどこにあるかも知らない風呂場へと向かった。
  お。思いの外早期発見。これなら五年生存も可能だな。
  キュッ、ザー、……、シャリシャリ、ザー、……ゴシゴシ、ザー、キュッ。
  一分で頭と身体を洗い、湯槽につかる。
「ふい〜っ」
  身体が温まると同時に、それまでの恐怖がゆっくりと消えていった。
  どうやら一時的にパニックに陥っただけのようだ。
  よし、上がってからはいつもの僕だ。僕のターンだ。
  必ずやあの擬似生命体を消滅させてみせる。
「……」
  そんな決意が一瞬で揺らぐ。
  フロの後はメシ。
  これ基本。
  しかし、これは……
「どうしたのぉ? 早く食べないと伸びるわよぉ」
  食卓に並ぶ食器……いや、丼は一つ。
  他には何もない。
  ついでに言えばお茶どころか水もない。
「……」
  こめかみの辺りを押さえつつ椅子に座り、丼の中身を見る。
  予想通り、インスタントラーメンだった。
  とんこつ味なのか、白いスープの中にしなびた麺が見える。
  野菜も卵もない。
  誰でも三分あれば作れる、日本の食文化に改革と怠慢をもたらした食物だ。
「どうぞぉ、召し上がれぇ」
  バカ女はさも『手料理』を食べさせる新妻のような甘えた口調でそう言ってくる。
  料理もできない奴は女じゃないとは言わんが、最低限栄養の事を考えてくれよ。
  ……などと口にする事もなく。
「……いただきます」
  僕はカロリーだけでも摂取するべく箸を取った。
「…………」
  既に冷めてしまったのか、湯気がほとんど立っていない。
  それと何だろう、何か違和感を感じる。
  まあ、いくらなんでもインスタントラーメンをおかしく作るなんて事は
 できんだろう。
  人間の固定観念とは怖いもので、それが後に悲劇をもたらすとしても
 決して消し去る事はできない。
  僕は気付くべきだったんだ。
  世の中に『絶対』はない事に。
  そして、とんこつの割には油脂が全然浮いてない、という事に。
「…………ぶ¥△×*○は@#☆%っ!?」
  麺をすすった瞬間、今までに体験した事のない味に遭遇し、一瞬意識を断たれた。
  どう表現すればいいんだろう、悲しいかな発想が現状に追いつかない。
「な、なんじゃこりゃっ!?」
「ど、どうしたのぉ? 美味しくなかった?」
「一体どんな作り方したらこんな一撃で意識持ってかれそうな味になるんだよ!」
「そんな筈ないわぁ。ちゃんと隠し味に牛乳とハチミツを入れたのにぃ」
「そりゃカレーだろーがっ! インスタントラーメンに隠し味なんていらねーんだよ!」
 待てよ? って事は……
「一つ聞いていいか?」
「なあにぃ?」
「このラーメン、元は何味だ?」
「えっとぉ……みそ味ぃ」
  ……くはっ、道理で足に来る訳だ。
  ベクトル真逆の濃い味の三重奏とは……
「もう食べないのぉ?」
  しれっとそんな事を言い放つバ女に温厚な僕もさすがに殺意を覚えたが、
 こんなとこで殺人事件を起こしてもしょうがない。
  こんな日はとっとと寝てしまおう。
  つーか、寝てしまえば一晩過ごすというノルマを達成する訳で、
 この悪夢から開放されるんだ。
  僕は無言で箸を置くと、膝の震えが止まらない足を引きずりながら寝室へ向かった。








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