そして、その夜。
「なあ、母さん」
久々の親子水入らず。良い機会なので、以前から聞きたかった事を
聞いてみる事にした。
「なに〜?」
軟らかな口調で質問をし易くしてくれる。
最近、そう言う小さな心使いを多少はわかるようになってきた。
「母さんはさ、親父をどんな風に恋したの?」
「…………」
一瞬、絶句。
無理もない。
こんな事を聞くのは勿論、『恋』なんてこっぱずかしい単語を
母さんとの会話で口に出したのだって初めての事だ。
でも、母さんはすぐに思慕の表情になった。
思い出しているのだろう。
幸せだった日々を。
「そうねえ……父さんと最初に会ったのは」
「いや、そこまで遡らなくていいから」
母さんはガッカリという擬音がバックに入りそうな顔をした。
「つまり、どのように親父を好いたのか、と」
「難しいねー。どのように……そうねえ、好きになっちゃった、って感じかな」
母さんの語彙はあまり多くないようだ。
「なっちゃった? どゆこと?」
「口で説明するのはちょっとねえ……要するに、理屈とか抜きにして
好きになったって事よ」
「ふむ」
言いたい事はわかる。
それが実感として僕の内部にある以上、共感せざるを得ない。
けれど――――
「じゃ、何で離婚したのさ」
触れてはいけない過去。
僕は、自分の父親がここにいない理由を知らない。
幼き日の記憶が余りない所為もあるが、何より母さんが語りたがらない。
僕も、これまでは極力話題に出さないよう努めて来た。
――――何故、僕は問う?
今ここで聞く必要は、あるのか?
……多分、あるのだろう。
終わってしまった恋の片付け方を知りたい、今の僕には。
「だって、好きなら別れるなんておかしいだろ?」
「何でそんな事急に……ははーん」
そんな僕の複雑な心境を察知したのか、母さんの目が光る。
危険。危険。危険。
直ちに脱出の状態に移行……
「待てや息子」
ミッション失敗。
「好きな子でも出来たんでしょ〜?」
「母よ、そんな野暮な事は聞くでない」
まして、既に失恋しましたなどと言いたくもない。
「あらあらこの子ったら、照れちゃってか〜わ〜い〜い〜」
母は語尾を上げて若者のような物言いをした。
非常に腹立たしいがここは我慢。
「照れてない。そんな訳ないさ」
必死にクールさをアピールする。
「で、相手は誰? 同級生? どんな子なの?」
聞いてなかった。
「だから……」
「誤魔化しても無駄無駄。何年あんたの母親やってると思ってるのよ。
あんたの考えてる事なんて目玉焼き作るのよりも簡単なんだから」
「以前作ってもらった目玉焼きはフライパンから離れなくて
黄身だけ食った記憶があるが」
「で、相手は誰? 同級生? どんな子なの?」
聞いてなかった。
ここで『だから……』と言ったら無限に会話がループしそうだった。
仕方ない、本音で語るとしよう。
実際、母さんに嘘ついて見透かされなかった例はあまりにも少ない。
伊達に母親じゃないんだ、このご婦人は。
「……てな訳で、見事に失恋したんだ」
「あれまー」
母はあちゃー、と額に手を当てて嘆いていた。
「んでまあ、その過程でだな、人を好きになるってどう言う事なのかな?
とか思った次第で」
もしかしたら母さんがこの答えを持っている――――そんな気がしたから。
「……さあ、どう言う事だろうねえ」
そんな気は二秒で抹殺された。
「人それぞれ、なんじゃないかなー」
「そ、そうなの?」
「人を好きになる事に決まった形なんてないだろうからねえ。
あんたが『好き』って告白した相手が、あんたにとって
好きになった人なんじゃないの?」
「……そんなんでいいのかな」
「いいんじゃない?」
母さんはそう言って破顔した。
いいのだろうか、本当に。
でも、確かに。
今まで好きになったと思われる人たちは何人かいるが、
結果として告白にまで至った相手は一人しかいない。
それはきっと、特別な事なんだろう。
例え、一哉のボケに背中を押されたとしても。
「あんたはかなり人見知りするからねえ。他の人より『好き』の敷居が
高いのかもね」
母さんの言葉を聞きながら考える。
人は人、自分は自分。
価値観は様々。
そう、十人十色。
こんなありふれた四字熟語で解決してしまう問題なのかもしれない。
そう思うと、少し気楽になった。
「やーれやれ、久々に母親らしい事したらお腹空いちゃったよ」
「へいへい、作りますよ」
礼を言うのがこっぱずかしい僕への配慮だった。
至れり尽せり。
今夜はただただ母親に感謝。
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