冬は一日に三度食事を取る。当然、朝食、昼食、夕食の三回だ。
朝食を抜く人間が多い世の中においては健康的と言えるのだが、冬にとっては必ずしも
そうとは限らない。何故なら、家での食事の時間は地獄に等しいからだ。
挨拶もなければ会話もない。
ただ食器と箸を動かす際に生じる悲鳴のような音と、テレビから漏れる白々しい声だけが響くだけの、
極寒の地。
家族故に気まずさはない――――そんな一般常識もその場所には通用しない。
時間の経過だって関係ない。
いつまで経っても、食卓に腰を下ろす度に胃が歪む。脳が割れる。
心が荒む。
それがたった一度の例外もなく、5年以上続いている。
そんな中、何の苦しみもなく食事が出来る唯一の時間が、昼休みだった。
冬は購買を利用している。そのメニューはと言うと、惣菜パン一つ――――
以上。
飲み物は水道水。
よって、昼食は100円強で賄える。
親から貰っている食事代は一日300円なので、一日辺り200円近くが浮く。
一月に4000円前後が冬の手元に残る計算だ。
無論、このお金はゲームの購入に使われる。
月に一度支給される小遣いでは新品のゲーム一作も買えないので、この収入は
かなりの助けになっている。
そんな事もあって、冬は今日も今日とてカレーパン一個を中庭で一人ひっそりとかじっていた。
夕凪高校の中庭は手入れの行き届いた植物で埋め尽くされており、ベンチも清潔に
されているのだが、生徒が集う事は余りない。その理由として最も有力なのが、二階の職員室から
常に生活指導主任のグラシアス岡野(37)が見張っているからだとされている。
しかし優等生の冬には全く脅威ではなく、昼食の場所としては寧ろ快適だった。
(……あ)
2口目に突入し、いよいよ具のカレーに接触した所で、その口が動きを止める。
2年の教室のある一号館と購買部のある二号館を繋ぐ通路を友達らしき二人と話しながら横切る
神楽の姿が一瞬目に入ったからだ。
冬と神楽が友人関係を築いて1週間が経過していた。その間、2人が休み時間や昼休みに
顔を合わせる事はなく、当然会話もない。話をするのは放課後のみだ。冬はこれまで一度も
神楽へ自分から話し掛けた事はなく、全ての会話は神楽主体で、その神楽が放課後以外には
接触してこない。神楽にしてみれば、クラス内で誰とも話す事のない男子と接する場面を
クラスメートから見られる事に抵抗を覚えているのだろう――――と言うのが冬の分析だった。
実際、一度妙な勘繰りをされているのだから無理もない話だと納得しつつも微かな寂寞感は拭えず、
空を仰いだ。
「何してんの?」
「うわっ!?」
よって、神楽が最接近している事にまるで気が付いていなかった冬の驚愕は尋常ではなく――――
まだ具の9割5分を残したカレーパンは冬の手を離れ、小さい弧を描いて土の上にダイブした。
「あ……あああ……」
「そ、そんなに驚かなくても」
最初は呆れた目で冬を眺めていた神楽だったが、その尋常ではない様子に冷や汗を浮かべる。
「……」
「ま、まあパンの一個や二個、気にしない気にしない!」
「……」
「ご、ゴメンなさい……えっと、もしかして、今の一個だけなの? 昼ごはん」
「……」
「べ、弁償? 無言で弁償しろって訴えてる? でも今日は持ち合わせが……あ、やっぱりない」
「……」
「ちょっ、ちょっと待ってて。借りてくるから。大丈夫だから。だから落ちたカレーパンをいつまでも
凝視してないで! 明日を見て!」
「何かあったの?」
絶望の淵で彷徨う冬の耳に、僅かに聞き覚えのある声が届く。しかし記憶の糸を辿る
ゆとりもないので、そのまま下を見ている事にした。
「あ、佐藤、鈴音、どっちでも良いからお金貸して! えっと……カレーパンって幾らだっけ」
「120円です」
先程とは違うその声は、更に記憶を刺激した。さすがにいつまでも下を向いている訳にも
行かないので、それをモチベーションに顔を上げる。冬の視界に飛び込んで来たのは、
数日前にそれぞれ別々の場面で見た二つの顔だった。
「あれ、あの時の男子じゃん」
「……!」
一人は気さくに、一人は驚きをもって、冬の顔をまじまじと眺めて来る。
自分の顔を三人の女子から同時に見られる経験など冬にとっては当然初めてなので、
思わず赤面してしまった。
「鈴音?」
そして、そう呼ばれた女子も何故か赤面。小柄で眠たげに見える程くっきりした二重のその子は、
冬が子猫を撫でている様子を電信柱の影から怨めしそうに眺めていたあの女子だった。
「あれ? 鈴音とも知り合いなの?」
「初対面です」
神楽の質問は冬に向けてのものだったが、答えたのは鈴音と呼ばれた女子だった。
しかも問答無用の虚偽だった。
「ホントに?」
合わせるか否か――――日頃空気を読む機会のない冬にとっては難しい選択だったが、
当時の映像を脳内で振り返ってみた所、おのずと答えは出て来た。
「実に間違いなく圧倒的確率で合ってるんじゃないかな。多分」
「……」
折角合わせたと言うのに、それを間接的に強いた本人は不服そうにしていた。
「良くわかんないけど、一応紹介しておくね。この二人は私の親友で、この生意気そうなのが
佐藤夏莉(さとうなつり)。こっちのちっこいのが秋葉鈴音(あきばすずね)」
「で、この男子が神楽の初めての男、と」
「だーかーらー!」
佐藤さんは御学友を冷やかすのが大好きでいらっしゃる御様子。
そのノリに付いていけない冬は漠然とした意識の中で視線を秋葉に向けた。
「……」
無言で笑顔。冬はそれを先程の発言に対する皮肉返しかと思い一瞬硬直したが、
剣呑とした空気は微塵もない。
単に『しょうがない子達でしょう?』と言うニュアンスだったようだ。
「ったくもー……で、この人は睦月冬君。友達。後同じクラス」
「只今御紹介に預かりました睦月冬です。どうぞよしなに」
深々と一礼。
「こちらこそ。で、話戻すけど何かあったの?」
佐藤の指摘でようやく本流に復帰。泥の付いたカレーパンに二人の視線が集中する。
「あ、忘れてた。弁償……」
「良いよそんなの。って言うか、落としたのは俺の不始末だし」
「でも、これだけだったんでしょ? 昼食」
「一食抜いたからって死ぬ訳でもないから。そんじゃ」
「あっ」
数日前程ではないが、やはり居心地の悪さを感じた冬は早々に逃げた。
臆病――――そんな言葉が脳裏を過ぎる。決して不愉快な事をされた訳ではないと言うのに
心の割と浅い所から湧き出て来る嫌悪感が、とにかく醜くて仕方ない。その根源に在るのは、
自分に対する自信のなさ。成績が良いと言うのは通常それを払拭する武器になり得るのだが、
冬にとっては余り意味のないものだった。
「……」
二階にある自分の教室に戻った冬は、席に付くと同時に頬杖を付いて窓の外を眺めた。
グラウンドでは昼休みを満喫する男子の姿が多数見受けられる。
その中でも特にサッカーゴールの前は活気に満ちていて、重さ400g強のボールを求めて
ハイエナのように群がっている。
その中にあって――――ゴールから大分離れた所に一人、ポツンと突っ立っている男子がいた。
明らかに浮いているのだが、それは仲間外れや疎外感に拠るものではない。
自分はそのポジションの主であると、そう主張してあるかのような存在感があった。
その証拠に、遠巻きに眺めている人間の多くはボールではなく彼の方に視線を注いでいる。
そして――――こぼれ球がその男子の近くに転がると、ゴール前にいる全員が一斉に
その動きを止めた。
その理由は直後に明らかになる。
地面を這うボールを助走もなしにダイレクトで蹴り放つその姿を、皆食い入るように見ていたからだ。
それはまるで、旧約聖書の中の一場面のようだった。
美しい弧を描いたボールがネットの右端を揺らした瞬間、二階にいてもわかる程の歓声が
グラウンドに響き渡る。昼休みの一風景としては余りに異質なその時間を、冬は気が付けば
身を乗り出して体験していた。
(色んな事があるんだな)
これまでは、視界の中に収めてはいても、それを脳の中に留める事はしなかった。
ただ流れて行くだけの日常の風景にどんな輝きがあったとしても、それに興味を抱く事はなく、
自分の好きな世界だけをひたすらに追っていた。ある意味強迫観念のような衝動を胸に。
では、今はどうかと言うと――――それ程何かが変わった訳ではない。
友達は出来たが、友達と呼べる程親しいとは思えず、心を許しているとはとても言えない関係だ。
寧ろ過度な緊張感を生んでいるだけで、気分が優れない日の方が多くなったくらいだ。
先程にしろ、危うく薄い接点の二人と会話を交わさなければならなかった。それはとてもしんどい事で、
一つ間違えると脳がショートしかねないくらいの危機的状況だ。しかしそれも、一つの経験として
受け入れなければならない。現実を把握し、認識しなければならない。
そうすれば、日常に沢山転がっているこのグラウンドの光景のような素晴らしい場面に
何度でも遭遇出来る。後は、今より遥かに嫌な思いをするかもしれないと言うリスクを
背負えるかどうか――――それだけだ。
「はい、これ」
いきなりの声。そして、いきなり机に置かれるピロシキパン。
冬は沈黙のまま振り返り、その声の主の顔を確認した。記憶通りの神楽の顔は、記憶にはない
何処か不安げな色を覗かせている。
「鈴音が貸してくれたから。カレーパンは売り切れてたから買えなかったけど、別に良いでしょ?」
良いと言ったにも拘らず、少し強引に貸しを返そうとする。しかも、そのパンは冬が惣菜系で
一番苦手に思っているパンだった。
「……ダメ?」
それでも、その全てがどうでも良いと思える日がいつか来ると良いな――――そんな事を思いながら、
冬は苦手な笑みを浮かべてみた。
「いや。ありがとう」
色んな事を無駄にしない為に。