外に出ると、空は既に薄闇をまとっていた。
 冬にとって、夕食時に帰らないのは初めての事だ。しかし家に電話を掛ける気にはなれず、
 脱力系の若者に習い地べたに腰を下ろす。これもまた初めての経験だった。
  そんな冬の隣に、神楽も同じように座る。それだけの事だったが、冬は何故か心が跳ねた。
「神楽、大丈夫?」
「微妙……こう言うトコ苦手なの……」
「右に同じ」
  苦笑する二人の前に、柊が現れる。見下す形だが、その視線には嫌味な色など微塵もない。
「君達、知り合いなんだね」
  それだけで人となりがわかるくらい、穏やかな笑みを浮かべる。冬はそんな柊に対し、
 焦りにも似た心境で立ち上がった。
「ありがとうございます。連れ出して頂いて」
「何であんたがお礼言うのよ」
「いや、俺も早く脱出したかったから」
「はは」
  小さく笑う。そして、そのままの顔で二人を交互に見やり、少し目を細めて言葉を紡いだ。
「僕だけ遅れてきたから自己紹介まだだったね。柊文也。夕凪高校の三年生です」
「え? 柊……先輩?」
「知ってんの?」
「……あんたはホント学校の事には無知なのね」
  体調が戻ったのか、神楽の声に普段の力が戻っていた。そのやり取りを暖かい目で見守っていた柊が
 足の向きを変える。その方向にカラオケボックスの入り口はなかった。
「それじゃ、僕はこれで」
「え? 帰るんですか?」
「君達と同じで、僕もこう言う所は苦手なんだ。来生さんに頼まれて顔を出しただけだから」
 さよなら、と最後に告げ、柊は去った。
「……で、あの爽やかな先輩はどう言ったお人?」
「サッカー部のキャプテンよ。物凄く優秀な選手だったんだって」
 神楽の説明に引っ掛かりを覚えた冬は、最寄の電信柱に身体を預けつつその部分を指摘する為に
 口を開く。普段は家にいる時間、それも繁華街と言う事もあり、吸い込む空気に妙な違和感を覚えた。
「だった? まだ夏も終わってないのに?」
「怪我したんだって。膝かどっか」
「試合出られないくらい悪いの?」
「さあ。でも、こう言う場に来るくらいだから、やっぱり……ねえ?」
「俺らも他人の事は言えないけど」
  二人して笑う。先に真面目な顔に戻ったのは神楽だった。
「ホントに無理矢理だったの?」
「当たり前だろ。もし相手が知り合いじゃなかったら確実に三度は吐いてるよ。緊張し過ぎて」
「大袈裟……でもないのかな?」
「多分」 
  冬にとって、天敵の巣とも言える合コン会場に出向くと言うのは、空気のない宇宙に何の装備もなく
 飛び込む行為に等しい。そして神楽もまた、それに近い感覚を抱いていた。
「ヤな用事ってのはこれの事だったのか。付き合いって大変なんだな」
「まーね。あの子達には恩もあるし」
  カラオケボックスの方を眺めながら、呟く。その顔は何処か愁いを帯びていた。
「私ね、一時期ギャルって言うか、ああ言うノリに憧れてたの」
  衝撃の告白が冬の心臓を突き抜ける。それが比喩ではない事の表れを顔に出し、驚愕を露わにした。
「そんなに驚かなくても」
「驚いたと言うか、アレって憧れの対象か?」
  天敵に憧れる神楽を信じられないものを見る目で眺める。神楽はそれに同調するような、
 自嘲的な笑みを零して言葉を綴った。
「女子高生って言うと、大抵世の中のイメージはああ言う人達だと思うの。でも私は……
 その真逆って言うか、ちょっと見下されるって言うか、そう言う意識があったから」
  開き直ってしまえば楽になれると良く言われるが、大抵の人間にはそれすら許されない環境が
 周囲にはある。神楽もまたその中の一人だった。
「で、高校生になってそう言うグループに入ってみたは良いんだけど……」
「けど?」
「全っ然合わなくて。もう全っ然合わなくて。全っ然合わなくて」
  三度言った。
「言葉はわかんないし、話はわかんないし、考え方はわかんないし……え、ここ外国?
 って感じになっちゃって。これもーどうしよーって思ってた時に、佐藤が助けれくれたの」
 冬の脳裏に、先程ファミレスで対峙した女子の顔が浮かぶ。神楽にとっては恩人と言う事らしいが、
 冬はその女子に苦手意識を抱いていた。
「女子のグループって抜けるのが凄く大変ってテレビで見た事あるけど、実際もそうなの?」
「女子はグループ内の権力が絶対だから。抜けたその時点で、仲の良かった子も回れ右。そして右へ倣え」
「……怖」
  人間の持つ闇の極一部を垣間見た冬は思わず震えた。
「私もそうなりかけたけど、佐藤が掛け合ってくれて。そのお陰で、無視とかイジメはされなくて済んだんだ」
「怖い世界だ……」
  再び震える。冬は友達こそいなかったが、苛められた経験はない。
 要はその水準にすら達していなかった。集団無視を本人も含めた全員が当たり前の事として
 敢行している――――そう言う構図のまま16年近くを過ごしていた。
「今日いた中で、一人ギャルっぽい子いたでしょ?」
「っぽいと言うか、まんまだな」
「あの子も佐藤に助けられたクチ。だけどまだギャル気質が抜け切れないと言うか、諦められないと
 言うか……たまーにこう言う所に行きたがるみたいなの。佐藤はあんまり乗り気じゃないみたいだけど」
「だからお前もたまに付き合うって感じか。もう一人の女子も?」
「あの子は全く別。私も仲良いし」
  つまり、もう一人のギャルとはそれ程仲が良くないと言う事らしい。
「友達が多いとそれはそれで大変なんだな」
「私も相当少ない方だと思うけどね。携帯のメモリー登録、20人くらいしかいないし」
「凄いな。俺の10倍か」
「……」
  神楽は若干引いていた。
「あー、大分楽になった。私はもう帰るけど……あんたはどうするの?」
「凄く帰りたいけど、黙って帰ったら何されるかわからないからな。頑張ってみる」
「そ。じゃ、私は帰ったって言っといて」
「ああ。にしても、親とか心配しないの? こんな時間に帰って」
  特に重要でも何でもない、他愛ない疑問。しかしそれを聞いた瞬間、神楽の顔に闇とは違う影が落ちた。
「この時間には、いないから」
  そして、その影を引きずったまま、踵を返す。冬はそれを見送るしか出来なかった。
「また明日」
  声は変わらない。それは気丈なのか、単にそれだけの事なのか――――今の冬では判断はできない。
 神楽が去り、一人取り残される。ブラウン管とは違い、自分の目だけに映る夜の繁華街は想像以上に
 心を掻き乱す。
  蟻と同じ筈の通行人一人一人が、やたら眩しく見え、目が痛くなる。ここが自分の居場所ではない事は
 余りに明らかだった。
「……頑張るか」
  それでも、いつかと同じ科白を枯れかけた声で呟き、冬は腰を上げた。
  心境としては、一度挑んで手も足も出なかったダンジョンに同じレベルで挑むのと良く似ている。
 決して楽な気持ちにはなれない。しかし、こう言う所での逃避が積もり積もって
 今の自分があるのなら、少しでもそれを改善したいと言う気持ちが心の中央で芽吹いていた。
  何より――――初めて出来た友達をなくさない為にも。
(っと、忘れてた)
  所用を思い出し、自分を拉致した車の方へ向かう。そして用事を終え、
 再び苦手な空気の中に入った。
  空はとうに暗い。闇の中で足掻く自分が天から覗かれているようで、何処か気恥ずかしい。
  それでも、冬は一歩踏み出した。
  誰の為でもない。自分の現在と、ほんの少し先の未来の為に。


 

 

                                        2nd chapter  ”MIHANE KAGURA”
                                        fin.



  前へ                                                             次へ