繰り返しになるが、冬の部屋は人を招き入れる仕様にはなっていない。
よって、座布団やクッションなどと言った気の利いた品物は一切置いていない。
結局、小さめのテーブルを囲んでフローリングの上に四人が座り、冬は自分の机に腰を下ろすと言う
スタイルで行う事になった。
「取り敢えず、宿題を消化しよ。来週提出の古典と数Bと地理と……」
「私達のクラスでは、英語と物理と……」
「まあ待てって。まず俺んトコの大物を……」
初っ端から全くまとまりがなかった。皆が自分の都合を主張する中、一人蚊帳の外にいる冬に
神楽の白い視線が突き刺さる。
「優等生、ボーっとしてないで場を仕切ってよ」
「何で俺が」
「そうだ、お前のクラスもうここ終わってんだろ。ノート見せろよ」
如月の身勝手な要求に対し、冬は軽く嘆息しながら自分の意見を頭の中で整理した。
「宿題なんて、自分でやらないくらいならやらなきゃ良いのに」
しかし、その意見は余り受け入れられなかったらしく、あからさまな嫌悪感を抱かれる結果に。
「おま……そんな正論」
「これだから優等生は……」
理不尽なブーイングに対し、冬は反撃を試みる。多人数に対して積極的にコミュニケーションを
取ろうとする自分の感情に少し狼狽えつつ。
「でも実際、自分でやらない事には身に付かないだろ? 後でわざわざテスト勉強するくらいなら、
ここで覚えておいた方が時間的に得だろうに」
「何言ってんの? テスト勉強なんて、記憶力が持続するテスト前日にやらなきゃ何の意味もないじゃない」
議論は平行線を辿るばかり。そんな中、比較的無口な秋葉がおずおず口を開いた。
「……私は、皐月君に賛成です」
「睦月っす」
「あ……すいません」
特に親しい訳でもないので仕方ない事ではあるが、冬は少し傷付いた。
「えっと、取り敢えず自分でやってみて、わからない所は聞けば良いのでは」
「ま、それが無難かな」
「チェーッ、楽出来ると思ってたのに」
若干バツの悪そうな目で唱えた秋葉の意見が通り、ようやく建設的な展開に。
「って言うか、あんた仕事ないの? こんな週末の夕方に」
「……い、今は充電期間なんだよ。何せもう直ぐ初登場一位確実の曲出すから、その時
引っ張りだこになるに決まってるんだ」
「それは無理だって言ってあげた方が良いのかな」
「放っとけ」
時折そんな会話も交えつつ、真面目に勉強する。
尚、宿題に関しては既に学校で済ませている冬はサポート役に徹する事となった。
「睦月君、ちょっと良い?」
「うい」
神楽の呼び掛けにフランス語で答える。ノートを覗いてみると、割と基礎的な積分で引っ掛かっていた。
「それは……まず部分分数に分解して」
「ああ、そっか」
「私もちょっと」
「はい」
冬の苦手な佐藤さんは英語の文法に苦戦していた。
「そこはカッコの前にコンマが付いてるから、wicth」
「へー」
特に感謝の言葉もない。それが冬にとっては嬉しかった。
「……なあ、何で今はもう使わない昔の言葉を今俺は勉強してんだ?」
「知るか」
そんなこんなで、一時間経過――――
「終わったあ!」
土日を挟んでいる為大量に出されたその宿題を、女子三名はこの場で全てやり遂げた。
「うはー、一時間も掛からないで終わっちゃったね。いつもの半分」
「これで週末気分的に楽ねー」
神楽と佐藤がハイタッチで喜びを分かち合っている。冬には良く理解出来ないノリだ。
「失礼します」
そんな中、妙に他人行儀な声色で睦月家の母がドアを開く。
その顔には大量のファンデーションと口紅が塗られていた。
「お茶ですー。どうぞー」
「あ、わざわざどうもありがとうございます」
「いいえー。ごゆっくりー」
お盆で口元を隠しながら去って行く。登場に一時間を要した割には余り納得出来なかったらしい。
「……」
微妙に気まずい空気が部屋を濁らせる。
「そ、それにしても睦月君頭良いね! 二百七十二点はフロックじゃなかったんだ。
いつもどんな勉強の仕方してるの?」
「まあ……」
どさくさに紛れて当初の目的を果たそうとして来た神楽に、一応自分の勉強方法について語る。
それには他の女子二名も興味を示し、食い入るように話を聞いていた。
「うわ、やっぱ優等生は違うね。私そんなのムリ」
「家ではどれだけ時間を使っているんですか?」
「家に勉強は持ち込まない主義なんで」
冬の正直な回答に、空気が凍る。
「……マジで? 学校だけ?」
「ん」
肯定すると、作戦会議の様相で女子三人はコソコソ話を始めた。
「どうなのそれ」
「そう言えば、休み時間とかずっと机に向かってるような……」
「暗いですね」
ちなみに余裕で聞こえていた。
「お前らな、俺の友達を悪く言ってんじゃねーよ! どうだ言ってやったぜ! だからここ!
ここマジ教えて下さいマジで」
未だに一人悪戦苦闘していた如月に自身のノートを見せる。嘆息する冬を尻目に、如月は
必死の形相でそれを写し出した。
そして――――
「うあうあああうあうああおわったああ」
特殊な攻撃で身体を溶かされたかのような物言いで、終戦を宣言。既に外は暗くなり始めている。
「もうこんな時間か」
「そろそろお暇しましょうか。余り長くいては迷惑になりますし」
「その気使いはここに来る前にして欲しかったんだけど……」
冬の呟きに神楽が苦笑を浮かべた。
「お母さんにも悪い事したね」
お母さん――――その言葉に、冬の記憶が刺激される。それをそのまま、何ともなしに口に出した。
「そう言えば、神楽の家ってこの時間には親いないって言ってたっけ。何してる人なの?」
刹那。異変は起こる。
「……」
神楽の顔が、露骨なくらいに沈んだ。その様子に、隣の佐藤もまたこれまでに見せた事のない
慌てた顔で神楽の肩をポン、と叩く。冬は、唯々呆然としていた。
「じゃ、じゃあもう帰ろうっか。ね」
「そうですね」
女子二人に押し出されるように、その場にいる全員が一気に玄関口まで駆け下りる。
まるで、逃げるように。
「今日はありがとうございました」
「じゃあな」
明らかに重い空気の中、一人、また一人と帰って行く。神楽は終始無言だった。
「難しいでしょ?」
最後に残った佐藤が苦笑交じりに告げる。何処か真面目さに欠ける表情の裏に何があるのかを
知らない冬は、先入観と状況を飲み込めない自分自身の焦燥も相成り、少し苛立った。
「後でちゃんとフォローしといた方が良いんじゃない? それじゃー」
そんな冬の感情を嘲笑うかのように、マイペースな口調で別れの挨拶を投げ付けてくる。
その背中と入れ違いで、妹の千恵が現れた。
「……」
今抱えている感情と、妹に対して抱いた感情は、良く似ている。得体の知れないものに対する怯えと、
かつては良好だった関係を狂わせた事に対する焦燥や後悔。
そして――――壊れたものを見続けなければならない現実への、どうしようもない嫌悪感。
何度逃げても生まれて来るそれらの感情は、ゲームをしている時だけは大人しくしてくれる。
だから、そこへ逃げる。好きなものを逃避の為のツールとして用いる。便利だと認識してしまう。
そんな事、絶対にしたくはないのに。
何も語らず、千恵は冬の横を通り過ぎる。しかし、兄が友達を見送ると言う情景に驚きは
隠せないようで、不自然に大きいその目を更に見開いていた。
「……」
夕食時にも珍しく視線が合った。偶然以外では、それこそ数年振りの事だ。
しかし、そんな切欠があっても、言葉の交換はない。それが睦月家の現状だった。
(……メール……送るか)
部屋に戻った冬は、震える思考をさするような心境で携帯を手に取る。購入以降殆ど
手付かずだった通信機器が、今は頼もしくて仕方がない。世の中が携帯至上主義になっている理由を
冬はようやく理解していた。
『さっきはすいませんでした』
二時間考え、それだけの文章を送る。他の言葉は蛇足にしかならないと判断したからだ。
それは合理的なようでいて、実際の所はそうではない。しかし今の冬にはそれはわからない。
経験が圧倒的に不足していた。
待つ事、二分。
『大丈夫 気にしないで』
絵文字も句読点もない、平坦な返事。
それでも冬はホッとした。週明けからはまたこれまで通り接する事ができると、そう思っていた。
三日後、現実を思い知るまでは――――