六月二十六日――――火曜。
  冬の視界には、平日の日中に毎日眺めている風景がそのまま広がっている。
 黒板の文字は白く、現国の教師の声は甲高い。空は蒼いし机は冷たい。
 変化などなにもない。
 あるのは――――冬自身、それだけだ。
  眠らずに過ごした昨晩から、冬の心の中では尋常でない数の蟻が這い回っていた。
 皮膚と筋肉を突き破ってその中を掻き毟りたい衝動に駆られ、胸を鷲掴みにしてもみた。
 無論、そこに蟻などいない。
 形なき蠢動に弄ばれ、何度となく吐き気を催した。
  現実は辛辣だった。
 それに対し、冬はどうする事も出来ずに、学校を休む事すら出来ずに、今ここにいる。
 逃げる事すら恐ろしくてたまらない――――そんな心境で。
「ではここを……睦月」
  自分の苗字が教師に呼ばれている。認識する速度は普段と変わらない。
 しかし、起立するまでの時間は教師を苛立たせるくらい掛かった。
 自分と言う存在が他者から注目される状況が、やたら怖かった。
「鈴木の話は、そこにいる全員を沈黙させた。そして――――」
  教科書の文字だけを追う目に、自分の四つ前の席に座っている神楽未羽の姿は見えない。
 しかし人間は奇妙な生物で、そこにない姿を映写機のように映し出す事が出来る。
 望もうとも、望まなくとも。
『ウザい? って言うか。そんな感じだよね』
  あの時の声の主は佐藤だった。
 しかし、冬の目の前には、同じ科白を蔑んだ目で吐き棄てる、神楽の姿が見える。
『あはは! そんなはっきり言っちゃダメだってば。そりゃ、キモいって思うけどさ!』
『そーだよね。ウザいし、キモいし。うわ、ひっど!』
『ウザい』
『キモい』
  ウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモいウザいキモい――――
「……!」
  悲鳴は――――声にならなかった。
  自身が勝手に生み出した幻聴と幻覚は、まだ視界の隅っこと鼓膜の端の方にこびり付いている。
 まるで、除去し損ねたガン細胞のように。
「良し、次は……」 
  教科書を読んでいる意識は全くなかった。しかし、脳がそれを勝手に実行していた。
 考える事を止めて、命令された事だけをこなしていた。思いを生む心から回線を切って。
  冬は、虚ろな目を机に向け、席に付いた。
  そして――――その視界のまま、昼休みを迎えた。
  教室が喧騒に包まれる中、一つの足音が迫って来る。それが誰であるか、判別は出来ない。
 しかし、冬は迷う事なく、思考の余地なく、教室を飛び出していた。
 それは、偉大なる敗走とはまるで対極にある、恐怖からの離脱。
  結局、冬休みは中庭で過ごした。
  昼食も買わず、地面ばかりを見ていた。

 ――――放課後。

  普段なら、進路指導室へ足早に向かう時間。しかし冬は動かない。
  そもそも――――
(普段……そんな認識が、そもそもおかしかったんだ)
  浮かれていた。自覚していた。
 冬はこの一ヶ月、明らかに浮ついていた。
  初めての友達は、それまで持っていた概念や信念など、まるで四角いブロックを叩くかのように
 簡単に壊した。
  ラスクリVは面白い。プレイしていて楽しい。
 けれど、思い起こせば純粋に楽しんでいなかった。
  神楽未羽とその話をする事が、何よりも楽しかった。その為に敢えて進行のペースを遅らせていた。
 余り早く進み過ぎて、話が合わなくなる事を恐れた。
 少しでも話題の引き出しを多くする為、一度クリアしたダンジョンを丹念に調べたりもした。
  明らかに、浮かれていた。
  でもそれは仕方がない事だった。
 自分の好きな事を、それを好きな相手と話す。
 楽しいに決まっている。
 それに勝るものはないくらいに――――
「睦月……君?」
「!」
  つい数日前までは、声を聞くだけで心が躍った。今はその声が――――怖い。
「ど、どうしたの?」
  神楽の声で、神楽の思っている事が言葉になる事が、何よりも恐ろしかった。
  だから、冬は逃げる。家のベッドまで最短距離で、振り返りもせずに、下しか見ずに。
  雑音より更に聞き取り辛い背中からの声からも耳を塞いで。
  何もかもから、全てを塞いで。


 

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