六月二十七日――――水曜。
  学校は『これまで通り』詰まらなかった。
 それでも、授業中自分のやりたい教科をコソコソやる間は冬にとって楽だった。
 勉強と言う、世間的に褒められるべき事をやっている時間が一番気楽だった。
 何より、教師以外の誰からも見られる事がないと言うのが大きかった。
 昼休みと放課後は、兎に角逃げる事に終始した。
『ウザい』
『キモい』
  家に帰ってベッドに寝転がっても、聞きたくない言葉は中耳にこびり付いて離れない。
 それを振り払うかのように、ユートピアの電源を入れる。
 効果音と共にロゴが表示され、次にゲームのオープニング画面が広がる。
 いつもならば、心が躍る瞬間。
 しかし今の冬にはまるで入って来ない。それでも、空虚なままの目で画面を眺め続けた。
  ラスクリVの進行状況はと言うと、既に後半まで進んでいる。
 佳境に近付いているシナリオは時に歓喜を、時に切なさを提供し、相変わらず秀逸なゲームバランスと
 相成って心地良い緊張感をもたらしてくれる。
 この辺りまで来ると少し飽食気味になる戦闘シーンに関しても、覚える呪文や技によって
 与えるダメージ数の大幅に上がり、爽快感を生ませている。
  今、画面上では、これまでずっと敵対していた勢力と友情が芽生えるシーンが壮大な音楽と共に
 映し出されている。命を賭して戦った主人公達の行動に対し、古いしがらみに囚われていた一国の王が
 応えると言うものだ。
 とは言え、その代償として国民は危機に晒され、結果として王は糾弾されてしまう。
 それでも主人公を信じ、世界の平和を託す――――そんなストーリーが丁寧に、そして感動的に
 綴られている。一人一人のキャラがそれぞれの個性をぶつけ合い、時に詰り、時に涙を流し、
 そして手を取り合って行く。
 シリーズ屈指の名場面と言っても過言ではない程に素晴らしい出来だった。
  が、しかし。
  冬の心にはまるで何も響かない。
 好みなどの問題ではなく、感受性の著しい失調によるものだった。
  クリエイターは様々なプレッシャーの中、ユーザーである冬の期待に最高に近い形で応えた。
 しかし、冬はそれを自身の気持ちの問題で無碍にしている。
  その行為は、自身の愛して止まないゲームと言う媒体に対する冒涜――――
「っ……」
  反射的に、冬の指がユートピアの電源を切っていた。
 セーブしていない状態で消した為、今日プレイした時間は全て無駄になってしまった事になる。
 それでも、そうするしかなかった。
  虚ろな意識の中で、再びベッドに横たわる。天井の小さなシミに視線を固定させ、
 そこから湧いて出て来る自分の感情をじっと見つめた。
  一度――――冬は今と同じような心持ちになった事がある。それは、五年前の事だ。
  その頃、家庭は概ね平和だった。
  もう直ぐ中学生になる長男、二つ下の大人しい長女、温和で働き者の母、
 そして、寡黙な父の四人家族。平凡だが、そこには何の軋轢もない、安らぎの空間があった。
  崩壊の切欠は、本当に些細な事だった。
  何気ない行動。何気ない一言。親の威厳を保つべく父が放った戒めの言葉に、
 背伸びをしたい年頃の息子が皮肉を返しただけ。
『呼ばれたら直ぐに来い。ゲームなんてやっていないで』
『セーブしないと終われないんですー。そんな事も知らないの?』
  本当に、詰まらない、些細な出来事。
 それが父の埃のように積もっていた不満を爆発させ、食卓は地獄絵図と化した。
  冬はその日、初めて父親から殴られた。
  以降、冬と父はこれ以降殆ど話をしなくなった。冬が一方的に無視したからだ。
 それに伴い、父は冬が寝静まる時間まで家に帰らなくなった。
 家には常に重苦しい空気が漂うようになった。
 その要因である兄と父を妹は忌み嫌うようになり、母もまた、家に帰る時刻が極端に遅くなった父に
 大きな失望と不満を抱いた。
  壊れてしまうのは余りに呆気なかった。
  そして、それは修復する事なく今日に至る。
  冬は、天井に並べられた感情の呼称を心中で読み上げた。
  不安。
  焦燥。
  悲哀。
  畏怖。
  狼狽。
  困惑。
  諦念。
  悔恨。
  憤怒。
  嘲弄。
  気分が悪いのはこれらの所為だと錯覚した冬は、天井から目を逸らした。
 瞼を閉じ、手を当てる。何も見えなくなるように。そうすれば、少しは楽になれるかもと言う期待を込めて。
  けれど、当然それは叶わなかった。
  結局、同じ事を繰り返してるのだ。
  何一つ出来ないまま、周りの景色から目を逸らし、見たい景色を見つめるだけ。
 しかし、その景色にすら内面を投影し、自分で勝手に台無しにする。
 五年前も、冬は一月程コントローラーに触れずにいた。そして今もまた、その状態に陥っている。
(また、そんな日が続くのか……)
  経験は生かされず、ただトレースするだけの日々。
 それでも、その先には時間によって癒された自分自身がいる。
 周りがどう変わってしまっても、変わらずにいる自分がいる。
 またゲームを好きな自分に会える。それ以外は要らない。必要ない。
  冬は、そんな結論を心中で唱えつつ、眠りにつく。自分が一つ歳を重ねた事すら知らずに。
  今日は冬の誕生日だった。

  今年もまた、誰に祝って貰う事なく過ぎて行った。




 

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