六月二十八日――――木曜。
六月二十九日――――金曜。
六月三十日―――――土曜。
七月一日――――――日曜。
七月二日――――――月曜。
朝起きて、夜寝る。
その繰り返しの中で磨耗して行く日々を、冬は言葉一つ発する事なく呆然と見送っていた。
それでも、人間にとって時間の経過は何よりも薬となる。
少しずつ、自分を蝕んでいたものと向き合う事が出来るようになって来た。
自分に対する中傷や非難――――それ自体もショックではあった。
ここ数年ずっと経験していない事だからだ。
しかし、何よりも苦しかったのは――――その場に、自分にとって初めての友達がいた事だ。
神楽の口から直接冬を詰る言葉は聞こえなかった。
しかし、友人とそう言う話をしていると言う事は、それが日常的に行われている可能性が極めて高い。
冬は『ウザい』『キモい』などと言った表現がとかく苦手だった。
通常では軽い意味として使われるのだが、逆に重く感じてしまう。
他人から見た自分がそうであったとしても、言葉として聞くのは避けたかった。
そして――――その言葉を友達が発しているかもしれない、発しているに違いないと言う思いが、
冬を沈ませていた。
七月三日――――火曜。
この日も、昼休みは中庭で過ごしていた。
昼食を取らなくなって、もう一週間になる。少し前までは学校での食事が一番楽だったのに、
今は食欲がまるで湧かない。胃が潰れているような錯覚すら抱いていた。
何も入っていないポケットの上に手を添え、校舎の壁に寄り掛かり、時が過ぎるのを待つ。
携帯も持ち歩かなくなっていた。もうその意味もないと、そう認識していた。
そして、放課後。
もう足音は聞こえなくなっていた。それは冬にとって望むべき事でもあり、悲しい事でもあった。
教室を出て、進路指導室のある西側の廊下を眺めながら、自覚する。
(もう、完全に元に戻ったんだな)
約一ヶ月。
冬にとってその毎日は、生涯で最も楽しい時間だった。過ぎ去ってようやくそれに気が付いた。
聞かなかった事にいていれば――――
家族の事を聞かなければ――――
もっと普通に接する事が出来れば――――
後悔が雪崩のように押し寄せてくる。
人生にはリセットはない。ゲームと現実を比較する際に最も良く言われる言葉だ。
起こった事は全て自分の責任として、その後の人生の中で背負って行く。
(結局……何一つ活かしきれなかった、って事か)
荷物は抱えているだけでは重石でしかない。活かすには、それを開いて中身を見なければならない。
冬にはそれが出来なかった。
「……!」
会談の踊り場に佐藤がいた。冬は当然のように逃げる。
自分を『ウザい』『キモい』と表現した人間に対し、冬には成す術はない。逃げるしかなかった。
中央階段を降り、下駄箱に手を入れ靴を取り、玄関を出て、門まで走る。
余りにも滑稽で、情けない姿だと自覚していた。
何一つ事情など知らない他人に見られるのすら、辛かった。
「おお。睦月様」
そんな時に限って、自分を知る人間が現れる。
冬は逃げてしまいたい気持ちを抑え、目上の人間に対する礼を尽くした。
「どうされたのですか? もしや、ウチのスカがまたおかしな誘いでも?」
「いえ……」
「そうですか。いえ、最近どうも貴方の名前を口にする機会が多かったもので。
先日は勉強会に紹介して頂いたとか。どうにかして人並みの成績を収められるよう努力してみてはと
進言しても一向に首を縦に振りやがらず苦労していた矢先……この不肖来生、感謝の極みです」
自分より遥かに年上の男性に深々と頭を下げられ、冬は戸惑いを隠せずにいた。
それを覆い隠す為に、湧き出て来た疑問を思わず口にしてしまう。
「……芸能界にいると、周りが勝手にもてはやしてくれるんじゃないですか?」
「最初はそうです。しかし、まだまだ七流の域を達していないスカ芸能人故、売れていないと言う
レッテルの元、付き合っても利なしと判断されれば逆に蔑視される対象となるのです」
「はあ」
そう言った心理に疎い冬は、生返事を返すしかなかった。
「そのような事もあって、元々は社交的な人柄だけが取り得だったのですが、もう学校には
友達いらねーなどと宣言した次第でして。ですので貴方と言う存在は、あのスカにとって、
そしてそのマネージャーである私にとっても重要なのです」
再び自分に対する肯定的な言葉を受け取り、冬の内部に恐縮の気持ちが生まれる。
何しろ、今の冬にはとてもじゃないが自分の価値など見出す事は出来ない。
「……そんな大層な存在じゃないでしょう」
「それは、私達が決める事です」
しかし、紳士は頑なな言葉で強調する。そして、自虐的な冬の顔から視線を外し、
グラウンドの方を見やった。
「おお、練習試合のようですな」
そこでは、夕凪高校サッカー部が二手に別れ、試合を行っている。
その中――――ちょうど中心にあるセンターサークル付近に、冬の数少ない見知った顔の中の
一つがあった。
「あの人……柊さん?」
先週無理矢理連れて行かれた合コンに一人遅れて来た、爽やかな笑顔が印象的の
男性――――柊文也。その彼が、スポーツマンらしい短髪を汗でびっしょり濡らし、大きな声を出している。
「はい。ちなみに私の甥です」
「そうなんですか?」
「この前は多少無理を言って賑やかな場に呼んだのですが、やはり彼にはこの場所が良く似合います」
遠い目をして見つめる来生の横で、冬も同じように試合を眺める。二色のユニフォームが
二つのゴールの間を間断なく動き回っている中で、一人だけ殆ど停止状態の選手がいる。柊だった。
「あんまり動いていないですね」
「ええ。彼は……走れないのです」
冬はそれを聞いた瞬間、神楽との会話の内容を思い出した。
『怪我したんだって。膝かどっか』
その情報を思い出した冬の頭の中を見透かしたかのようなタイミングで、来生が口を開く。
「去年の冬でしたか。左足の半月版を損傷してしまいまして。日常生活を送るまでには回復しましたが、
走るのは難しいようです」
「そんな状態で出来るものなんですか?」
冬はたまにスポーツ番組を見る事があるので、サッカーに対する知識も多少は持っている。
少なくともその中において、走れない人間が出来るスポーツと言う認識はなかった。
「フットボールはチームあってのスポーツです。フォワードであっても守備に奔走し、全員で連携して
ボールを奪う。そして、ボールが来ないとわかっていても、パスコースを広げる為にサイドへ走る。
それを九十分延々と繰り返す競技なのです。高校生は七、八十分ですか。当然、走れない選手が
一人いれば、膨大な損失となります。実質一人少ない状態と言っても良いでしょう」
それはつまり、いないも当然――――出来ないと言う事だ。
「なら、何であの人は……」
「それだけの価値がある選手、と言えば美しいのでしょうが……そのような選手は世界的に見ても、
片手で数える程度です。パスやセットプレー、キープ力が圧倒的に優れているとしても、
それだけでは賄いきれませんね」
「だったら」
「人望ですよ」
言葉を紡ぎながら柊選手を眺める来生マネージャーの顔は何処か誇らしげだった。
「元々、一年の時からチームの中心を担うだけの力を持っており、実際戦術の中心でした。しかしながら、
彼の膝の怪我によって全てが壊れてしまいました。本来なら、とっくに新しいチームを作らなければ
ならないでしょう。それでも、せめて夏の大会だけは彼と一緒に戦いたいと、部員全員が監督に
訴えたそうです」
そして、その結果が眼前に広がっている――――そう言う事なのだろう。
「……それこそ美しい話じゃないですか」
「しかし、彼にとって、自分が残ると言う事は、チームを栄光から遠ざける事になるのです」
その事実が本人にどのような感情をもたらすのか――――冬には想像出来なかった。
「結論は見ての通りです。彼は残る事を選択しました。何故それを選択したのか……貴方ならば、
どう解釈しますか?」
「……」
その問いに、冬は答えられない。純粋にわからなかったからだ。
自分なら――――そう置き換えてみても、まるで実感が湧いて来ない。
友達一人満足に作れない人間が、あんな場所にいる姿など想像できる筈もなかった、
「おーい、来生っちー!」
沈黙を労わるように、玄関の方から大きな声がする。その方に目を向けると、如月幸人が笑顔で
手を振っていた。その様子に、来生は目を細めて微笑む。それだけで、彼のタレントに対する
愛情の深さが感じられた。
「フム……ウチのスカにしては珍しく空気を読んだようですな。キャメラの回っている所でも
これくらい気が利けば良いのですが」
言葉は飾りでしかない。真意を示すのは、表情であり、状況であり、そして日常の態度だ。
来生の背筋をピンと伸ばした紳士そのものと言える姿に、冬はそれを痛感した。
「立ち話、失礼しました。何があったのかは存じ上げませんが、好転を願っております」
小さな会釈と全てを見透かしたかのような言葉を残し、紳士は去った。
時間が押しているのか、如月は冬の方を一瞥して大きく手を振り、直ぐに車の中に乗り込んで行く。
大変な筈の生活の中で、彼の明るさは冬にとって余りに眩しい。自分が逆立ちしても手に入れる事の
出来ない類のものだ。来生の言葉を借りれば、そんな人間が自分を必要としていると言う。
冬にはとても信じられなかった。
(……あ)
暫くその場で立ち尽くしていた冬の鼓膜に、高らかな笛の音が届く。
それに伴い、試合を終え疲労困憊の部員達がそれぞれの健闘を讃え合いながら部室に戻っていた。
ふと、湧き上がる衝動。
冬はこれまでは幾度となくそれを無視して来た。時には無理矢理押さえ込んでいた。
何故なら、それを満たすには人と接しなければならないからだ。
疑問に思った事を他人に聞いてみる――――それは余りに自然な要求であると同時に、
大きな壁だった。
それを出来る人間と出来ない人間とは、別の世界の生物と言っても過言ではないくらいに違う。
人の言葉を知り、それを自分の内部で消化して栄養とした人間は、ちゃんとしている。
逃げるにしても、ちゃんと逃げる。冬はちゃんとしていなかった。
(俺は……)
ちゃんとしていなくても、楽しみはある。今はまだダメージが回復しきっていないが、直ぐに元に戻る。
そして、またこれまでの日常を過ごす。そのサイクルの中に足を踏み入れれば、周りの声なんて
聞こえなくなる。楽な生き方だ。
冬は――――グラウンドから背を向けた。
『だから毎回毎回逃げるなってば!』
「!」
思わず振り向く。そこには――――誰もいなかった。だから気が付く。
それは過去の神楽の声であり――――自分の声でもあると。
自分の要求であると。
そう自覚した瞬間、冬はグラウンドに向かって全力で駆け出した。
前へ 次へ