幸いな事に、自分への圧倒的な嫌悪感は、来生の言葉のお陰で少し和らいでいる。
足取りは思いの外軽かった。
目指していた対象が近付いて来る。
一秒、二秒――――声が聞こえる距離まで、あと少し。
その一歩を踏み出せずに来たこれまでと、どうやって決別すれば――――そんな事を考える間もなく、
口が開く。
「あ、あのっ」
冬は声を出していた。そうさせたのは、多少の危機感と、勇気と、好奇心と、そして――――経緯。
一ヶ月と言う、一生の中では余りに短い期間における小さな小さな積み重ねが、
冬の堅い背中を押していた。
「やあ、先日はどうも。どうしたの?」
柊の反応は柔らかかった。初対面時の印象と変わる事のないその姿に、全身で安堵を覚える。
そして、勢いのままに口を開いた。
「ちょっと、お聞きしたい事がありまして。時間は取らせません」
「構わないよ」
周りの人間が訝しげに眺める中、柊は足を止めて冬の言葉を待った。そんな紳士的な姿勢に
冬の心が少し痛む。
「失礼を承知でお聞かせ願いたく存じます」
その理由を前に置いて。
「自分の事を他人がどう思っているとか、影でどんな事を言ってるとか、そう言う事を考えた事は
ありますか?」
聞き手次第では激昂しかねない、失礼極まりない質問。予め断っておけば良いと言う問題ではない。
対人会話の経験が少ない冬にでもそれは十分にわかっている。自分の要求を満たす為に
他人を蹂躙した格好だ。
「来生さんから聞いたんだね。膝の事」
「はい」
それでも、温和な顔を崩す事なく、柊は真摯に言葉を編んでくれた。
「他人がどう思っているか……うん、勿論あるよ」
肯定した事で、話は続けられる。冬は最も聞きたい事を、剥き出しのまま提出した。
「……逃げたくなりませんでした?」
殆ど面識のない相手に聞く事ではないと、そう思いながらも問う。これまでの冬の人生とは
まるで相容れない行動だ。
「逃げたよ。怖くて仕方なかった。本当なら声出しだけでもしなきゃいけないのに、リハビリ期間中は
ずっとここに顔を出せなかった」
だからこそ、一つ一つの言葉が耳に残る。冬の真剣な目に釣られるように、柊も饒舌に
自分の思いを語った。
「だけど、どうしても諦められない自分がいて、それを正当化する自分もいて。その一方で、
奇麗事を言って自分を良く見せたい自分もいたかな」
何処までも優しい声が、小さく波打つ。それが冬の心の中に波紋のように広がり、
そして染み渡って行く。
「色々考えた結果、それを全部ぶつける事にしたんだ。余す所なく、全部」
「それが受け入れられたんですね」
「恵まれ過ぎだよね」
そんな事はない――――そう素直に思えた冬は、それでも敢えて口にはしなかった。
今の自分が言えば、途端に安っぽくなると思ったからだ。
「それに甘えた形で今がある。だから、僕はこの足で少しでもチームに貢献したい。今はそれだけだね」
「……」
現実に打ち勝つ、自分に打ち勝つ、そう言うフレーズが溢れる世の中で、柊は果たして
何に勝ったのか。そして、冬は何に負けたのか。そんな疑問が冬の心に生まれる中、
柊は少し困った顔で微笑を浮かべて冬の様子を窺っていた。
「何か参考になったかな?」
「……わかりません」
冬は本音で答える。自分を飾る事は、この場では相応しくない。
「そっか。それじゃ、僕はこれからミーティングがあるから」
下級生から失礼な質問をされたにも拘らず、柊の顔は最後まで温かい。
それと対極の名を持つ冬だったが、その姿に尊敬の年を抱かずにはいられなかった。
「あのっ!」
それを今度は形にすべく、叫ぶ。
「夏の大会、応援に行きます! ありがとうございました!」
柊は手を挙げ、それに答えた。
冬は暫く頭を下げていた。そして、上げると同時に踵を返す。
満足感があった。決して凄い事をした訳ではないのだが、今まで得た事のないものを得た気がしていた。
尤も――――それだけで何が変わる訳でもない。
意識改革など、一つの切欠でそうそう行えるものではない。
まして、本人の中でもそれを望む声はまだまだ弱い。
それでも、踏み出した一歩の感触を胸に、その足を家の方向に向けた。