帰宅後――――
夕食を取って一息吐いた冬は、この一週間放置していた携帯に触れる事にした。
ずっと逃げていた神楽との接点をその目に入れる為だった。
(……うわ、何だこれ)
届いていたメールは6通。通常の感覚なら別に多い方でもないのだろうが、
冬にとっては異常事態だった。
少し緊張気味に指を這わせ、中身を確認する。待っているのは絶望かもしれないが、
その恐怖よりも今は唯自分の目で見なければならないと言う思いでいっぱいだった。
08/06/26 22:20
『ちょっと! 今日の態度何アレ? 何か急いでたの?』
08/06/26 23:19
『もしかして、怒ってる?』
08/06/26 23:25
『あの勉強会の事だよね?』
08/06/27 07:08
『ごめんね。強引に押しかけておいて、空気悪くして。謝るから、返事ちょうだい』
08/06/29 20:38
『もうダメ? 顔も見たくない? 返事待ってます』
08/07/02 07:11
『ごめんなさい。これで最後です。いつでもいいので声をかけてください。待ってます』
最後のメールは昨日の朝だった。
もっと早く見ておけばと言う後悔と同時に、ここまで自分の所為で思い悩んでいる神楽と言う存在に
戸惑いを覚え、冬は狼狽した。
佐藤主導の下で行われていた自分への陰口を聞いた瞬間、神楽も同じように思っていると推測し、
勝手に確信していた。しかし、それが正解である可能性は、この六通のメールを見る限り、
客観的に見ても低い。ならばどう思っているのか――――それはわからなかったが、少なくとも
気持ち悪がられてはいない、と言う結論に至った。
ならば――――
「わっ!」
突如手に持っていた携帯が電子音を奏で出し、冬は思わず自分以外に誰もいない部屋で
声を出してしまった。
驚いた理由はタイミング以外にもある。今鳴っている電子音はメールではなく通話の着信音だった。
神楽がこれまでメールではなく直接掛けてきた事は一度もない。メールに全くリアクションが
なかったからと言う理由が最も妥当だが、冬の脳裏には微かな不安が過ぎっていた。
兎にも角にも、通話ボタンを押す。文字通り話はそれからだ。
「……もしもし」
「……」
緊張を帯びる冬の声に、応える声はない。不安は少しずつ大きくなって行く。
全く具体的な形が見えない、不明瞭な不安。
「な、何?」
それを半ば確信し、そう問う。すると――――
「お母さんが……どうしよう……わかんない……」
明らかに混乱の中にいる神楽の震えた声が、電話越しに聞こえた。
「落ち着け! お母さんがどうかしたのか?」
「お母さんが……血……血を吐いて……」
血を吐いて――――通常ならば焦燥を生む筈のその言葉が、逆に冬を冷静にした。
一つは余りに非現実的で、実感が湧かないから。
そしてもう一つ、冬には神楽の母親との面識がないから。絵が浮かばないのだ。
「どうしよう? 私……どうして良いか全然わかんなくて……」
「今お母さんは倒れてるのか?」
努めて穏やかに問う。精神状態に多少のゆとりがあった事も幸いした。
「うん」
「それじゃ、一旦電話切って救急車呼べ! 呼んだらもう一回掛けろ! 早く!」
「ば、番号……」
「119!」
冬の叫びから数秒後、電話は切れた。取り敢えず指示に従う事は出来たようだ。
それを確認し、次の電話を待つ間、冬は今すべき事を懸命に考えた。
自分に出来る事――――それは決して多くはない。人生経験が圧倒的に不足している冬に、
緊急時の応急処置の知識などない。ならば、知っているかもしれない人に聞くしかない。
それが今自分に出来る唯一の事だと判断した冬は、足をもつれさせながら部屋を出て一階へ向かった。
切迫した状況――――その中で、冬の頭には幾つかの思考が入り混じっている。
その中には、打算と呼ばれるものもあった。
ここで良い対応が出来れば――――
感謝して貰えるような指示を出せれば――――
(自分の手で壊した初めての友人関係が修復出来る……ってか?)
その余りに情けない声もまた、自分自身の偽りなき声なのだと自覚し、思わず嘆く。
しかし、そんな内なる声も直ぐに消えた。
「母さん!」
母を母と呼ぶのは実に五年振りだったが、抵抗を感じる余裕はない。
「な、何? どうかしたの?」
「吐血して倒れた時の応急処置ってどうすれば良いの! 教えて!」
「え?」
「早く!」
最初は当然のように狼狽していた母も、直ぐに緊急を要する状況である事を把握し、
少し待つよう言い残し自室に走った。
それとほぼ同時に再び電子音が鳴る。
「神楽か!? 救急車は呼んだな!?」
「うん。でも……」
「良く聞け。まずはお母さんがどう言う状況なのか俺に教えて。詳しく」
「わ、わかった」
多少は落ち着いたのか、神楽の声は明瞭になっていた。
「えっと……血を吐いたのは一回で、とにかく苦しがってるの。お腹が痛いみたいで……」
「意識はあるんだな」
「うん」
「冬!」
神楽の返事を聞いた瞬間、母親が戻って来る。名前を呼ばれたのも五年振りだった。
「えっとね、血を飲み込まないように横向きに寝かせろって」
「神楽、お母さんを横向きに寝かせられるか?」
「や、やってみる」
意識があるとは言え、仰向けやうつ伏せでは吐瀉物で喉が詰まり呼吸が困難になる可能性がある。
それを回避する為の処置だ。
「後、咳をしてるかどうか聞いてみて」
「了解。神楽、お母さんは咳してる?」
「してない」
その旨を母に伝える。
「それなら、上腹部を氷のうで冷やす」
「氷のう若しくは氷と水をビニールか何かに入れて、お腹の上の方を冷やせ」
神楽は電話越しに了承の意を唱え、駆け出した。携帯を持ちながらでは作業に支障を来たすと
判断したのか、受話器の向こうから人の気配が消える。暫くして――――遠くからサイレンの音が
聞こえた。
「もしもし! 救急車来た! どうしよう?」
「ドア開けて直ぐ搬入出来るようしとけ!」
「わかった! あ、電話切らないでね? このまま……」
「わかってるから早くしろ!」
再び受話器の向こうから気配が消える。それと同時に、今度は女性の微かな唸り声が聞こえて来た。
それが神楽の母親のものである事は明白で、かなり苦しそうなその声に冬の顔が歪む。
そんな冬の様子に、母が心配そうな視線を向けた。
「……お友達?」
「うん。友達のお母さんが血を吐いて倒れたって」
「まあ……」
切羽詰った状況を解した母は暫く絶句していたが、その後迅速な行動で固定電話の受話器を
手に取った。
「タクシー呼ぶから、行ってあげなさい」
その声に、冬は思わず目を見開いた。長年見る事のなかった蝋燭の炎のような情景が、
一瞬とは言えそこに広がったからだ。
が、それに浸っている場合ではない。冬は直ぐに顔を引き締めた。
「わかった。ありがと」
「ちゃんと元気付けてあげなさいね」
その言葉に冬は頷き、携帯を手に玄関へ向かった。
そして、祈るような気持ちでタクシーの到着を待った――――
前へ 次へ