神楽の母が搬入されたのは、睦月家から車で十分の距離にある中央病院だった。
この界隈で最も大きな病院と言う事もあり、ロビーはかなり広い。
しかし外来受付時間を既に過ぎているので人気は少なかった。
「……神楽」
そんな中に一人、長椅子に腰掛けて床を見つめている茶髪の女子高生――――神楽未羽の姿を
見つけ、冬はゆっくりと近付いた。
「今、検査中、だって」
顔も視線も動かさずに呟く。その顔は驚く程青ざめており、目は虚ろで、唇は微かに震えていた。
冬は面識のない神楽母の容態以上に神楽のその様子を不安に思いつつ、その隣に腰掛ける。
自分が出来る事を模索しようにも、その雰囲気が思考の邪魔をして考えがまとまらない。
沈黙が続く。
延々と、時が過ぎる。
夜の病院を支配するのは、秒針が動く時計の音と、蛍光灯の安定器が発する音のみ。
そんな中、一体どれほどの時が流れたか――――
「お母さん、ね」
不意に、神楽が口を開いた。
「お母さん、一人で私を育てたんだ」
顔も目も動かないままで、淡々と、兎に角淡々と。
「あの人がずっと帰ってこないから、ずっと一人で、夜遅くまで働いて、私を食べさせてたんだ」
あの人――――神楽は自分の父をそう表現した。
その意図は想像に難くない。繋がりを拒否していると言う事だ。
「子供の頃はね、嫌いだったの。家にいなかったから」
母親に対するを切々と語る。冬は神楽の話を黙って聞いていた。
「一人で学校に出かけて、一人で帰って来て、一人で晩ゴハン食べて、一人で寝て……そんな私に
買い与えられたのがゲームだったの。それもRPGよ? 女の子がどう言う物を喜ぶのか、
全然わかってないよね。」
苦笑は混じらない。ただ、声が少し揺れていた。
「気が付いた時には、周りに私と話が合う人は一人もいなくなってたなあ。それに気が付いた時、
もうゲームなんて一生しないって思ったんだけど……止められないんだよね」
そこまで一気に話し、自嘲気味に微笑む。ようやく表情を動かしたものの、目は虚ろなままだった。
「……お母さんが目を覚まさなくても、私はゲームをするんだろな」
「今もお母さんの事、嫌いなのか?」
半ば反射的に冬の口が開く。負の方向に向かう神楽の感情を少しでも引き戻す為だった。
「嫌いな訳、ない」
それは功を奏した。神楽の顔に抑えられない気持ちがどんどん溢れてくる。
「でも、どうして接したら良いかわかんない。だって! だってずっと喋れなかったんだもん!」
感情は、普段静寂を義務付けられる病院の廊下に大きな波となって響き渡る。
冬は、それをただ聞いていた。
大声で叫ぶ事を許されない病院内で、それでも神楽の感情は爆発した。
それがないを意味するのかは、想像に難くない。
「それなのに急に今日に限って早く帰って来て、ゴハン一緒に食べよって……嬉しかったのに!
何でこんな……こんな……」
神楽にとって、母親と言う存在は歪だったのだ。
真夜中まで働いて自分を育ててくれる人間を好きになれない――――これ以上の不幸はない。
そして、その不幸をもたらす存在を嫌いにもなれず、どうすれば良いかわからなくなる。
混沌の中で、それでも血と言う絶対的な結び付きが存在すると言う、どうしようもない歪さが
神楽を苦しめている。
「お母さんが死んじゃったら、どうしよう。私一人じゃ何も出来ない……」
親が病気になった場合、子供はその安否を気遣わなければならないその一方で、自分自身の
今後についても不安を覚えてしまう。寧ろ、後者の方が強い事だってある。
そして、それが自分自身を苦しめる。
親の安否よりも自分の事を優先的に考える自分本位な生き物なのだと自分を責めてしまう。
今、神楽は様々な面で歪な思いに苦しめられている。
それに対し、冬はその全てを理解出来る訳ではない。同情する事も難しい。
そこまで高度な経験も知識も思慮もない。
それでも――――いや、だからこそ――――
「その時は、家に来れば良いよ」
自然に、そんな言葉が出ていた。
「え……」
「と言っても、ウチもボッロボロなんだけどな。殆ど会話ないし」
嘆息交じりに呟く。それはやるせない不幸自慢だった。
「お母さんは普通の人だったじゃない」
「あの時はな。でも、いつもイライラしてるよ」
ただし、単なる不幸の披露ではない。自分自身を語る、初めての機会だった。
「俺の所為なんだ」
神楽未羽に、初めての友達に、本心を見せたい――――そんな思いの結晶だった。
「俺が父親に逆ギレして、それからずっと家族の雰囲気が悪いまま。もう5年になる」
「5年……長いね」
「どうすれば良いんだろな」
一区切り。自分自身を曝け出す行為に、こっそりと震えながら笑う。
「お前のお母さん、知らないかな。答え」
「わかんないよ」
「じゃ、直接聞こう。多分今日は無理だけど、明日なら大丈夫だよな」
それは、希望の言葉。どうやってそれを言おうか、冬はずっと心の隅で悩んでいた。
自然に言えた事に少し満足しながら反応を待つ。
「……でも、血を吐くなんて絶対怖い病気でしょ?」
「胃潰瘍だって血くらい吐くんだから。それに、一回だけだったんだろ?」
不安がる人間を励ます――――誰でも一度や二度は経験した事のある行動なのだが、
冬にはそれがない。苦労しながら、どうにかしたい一心で言葉を綴る。
「こう言う時、ゲーとかマンガとかドラマだったら絶対助かるんだよな」
このようなヘマもしつつ。
「……ドラマ見ないから知らない」
「本当にギャルに憧れてたの? お前」
「るさいゲーム脳」
それでも、虚ろだった神楽の目に光が宿ったので、取り敢えず安堵する。
「そう言や、親戚とか職場に連絡したのか?」
「え?」
「説明とか受ける時に大人がいないと色々困るだろ。
後、どう考えても明日は仕事行けないんだから断りの電話入れないと」
「そ、そっか。職場はわかんないけど、取り敢えず叔母の家に連絡してみる」
院内での携帯電話使用が禁止されているので、神楽は外へ向かった。
こう言う時間はやる事があると言うのが最も気分的に楽になれるのか、その足取りは
然程重くはなかった。
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