――――5分後。
戻って来た神楽は缶ジュースを2本抱えていた。
「来てくれるって」
「サンキュ。そっか」
それを受け取り、二人で同時に飲む。既にロビーからは人がいなくなっており、
ジュースが喉を通る音だけが両者を包み込んだ。
「ご馳走様」
空き缶をゴミ箱に捨て、再び同じ場所に座る。話す事がなくなり、喧騒もない院内は沈黙に包まれた。
(話題、話題……)
沈黙は不安を煽る。冬は出来るだけそれを避けようと、少ない引き出しの中を奥まで覗いて
会話の種を探した。
しかし――――
「……ずっと無視してたでしょ。何で?」
先に口を開いたのは神楽の方だった。それも、冬にとって一番厄介な話題で。
「あー……ちょっと色々あって」
「色々って?」
こんな時に『お前とその友達が陰口叩いてるの聞いたんじゃボケ』とは言える筈もなく。
冬はなけなしの人生経験を機軸に機転を利かせてみる事にした。
「……メモリーのデータが消えた」
この程度のものだった。
「え?」
「それで、塞ぎ込んでた」
「そうなんだ」
それでも、通常の精神状態ではない神楽は納得したらしく、安堵の表情――――とまでは
行かないが、小さな満足感を小さな吐息で表現した。それに伴い、真実は墓場行きとなった。
「もう話せないと思った」
少し非難めいた語調で呟く。無論、冬にとってそれは嬉しい事だ。
「でも、お母さんが倒れた時、最初に浮かんだのはあんたの顔だったのよね。何でかな?」
「知るか」
極地的な体温の上昇に耐え切れず、冬はそっぽを向く。
すると――――その視界に若い看護士の姿が映った。
「神楽さんの御家族の方、こちらへどうそ」
心臓が脈打つ。直接的な繋がりのない冬ですらそうなのだから、神楽の精神状態は推して知るべし。
冬が反射的に隣を見ると、案の定ここに付いた時と同じ顔色で硬直していた。
「わかりました。神楽、行こう」
親戚の人はまだ着いていないが、医者を待たせる訳にも行かず、そう促す。
神楽は――――それに頷くでもなく、しっかりと立ち上がった。
「ゴメン、一緒に、良い?」
「ん」
頷き、看護士の指示に従って診察室に入る。そこには三十代と思しき医者がリラックスした表情で
待っていた。患者とその家族の手前、彼らには常にこのような表情が要求されるのだろう――――
そう思い、冬は楽観視する事なく入り口の傍で待機した。
「お母さんは急性胃粘膜病変、と言う病気です」
医者と正面から向き合う神楽に、母親の病名が告げられた。冬の知識の中にはない病名だったが、
癌、腫瘍と言う言葉が出て来なかった事に取り敢えず安堵する。
「胃の粘膜に出血性の『びらん』が出来ています。これが吐血の原因ですね」
(……びらん?)
余り馴染みのない言葉に、消えかけた不安が蘇る。神楽に至っては平常心を完全に失い、
目を見開いて全身を強張らせていた。
「あ、あの……! 命は……」
「ああ、心配ないですよ。命に関わる病気ではありません」
瞬間――――肺の中の空気が全て溜息として漏れる。
神楽は目に涙を浮かべ、母の無事を喜んでいた。
「とは言っても、吐血自体が命に関わる重大事項ですから。応急処置は貴女が?」
「え? ええと……はい」
「的確な処置でしたね。一つ間違えば窒息と言う事態もあり得なくはないですから」
医者の褒め言葉に、神楽が後ろを向いてニコッと微笑む。共有財産のようなものだった。
「出血については、内視鏡を使った治療で既に止血しておりますので大丈夫です。
今後は薬での治療を行う事になりますが、取り敢えず経過の観察も兼ねて一週間程
入院して貰いたいのですが、宜しいですか?」
「あ、は、はい。ええと……」
「もう直ぐ親戚の者が到着しますので、詳細についてはその方に御説明して頂けますでしょうか?
子供だけでは判断しかねますので」
冬は成績上位故に教師との会話はそれなりに経験している。その為、目上の相手に対する対応は
割とスムーズに行えたりする。その様子を神楽は呆然とした面持ちで眺めていた。
「はい、わかりました」
丁寧な言葉遣いに好感を覚えたのか、医者はニッコリと微笑んで了承の意を唱えた。
暫くして、神楽の親戚が到着した。
小太りの中年女性で、表情はやや堅かったが全体から受ける印象は温和そのものだった。
彼女が説明を受けている間、冬は神楽の隣に立っていた。
特に言葉をかわす事はなかったが、そこにいる事はそれなりに意味がある――――と良いな、
などと思いつつ神楽の横顔をこっそり眺める。まだ多少の緊張感は残していたが、
血色も目も通常の神楽に戻っていた。
その顔が教えてくれる。
(友達って……こう言う事なんだな)
――――と。
一通りの説明が終わり、着替えなどを取りに一度家に戻ると言う事になったので、
冬はそこでお役御免となった。
「それじゃ、俺はこれで」
「あ、送って行きますよ」
「いえ、近くなので大丈夫です」
実際は歩いて一時間以上掛かる距離なのだが、初対面の人に気を使わせる訳にも行かないので、
丁重に断りの言葉を述べ一礼する。
「神楽の事、宜しくお願いします。それでは失礼します」
最後に少し格好を付け、睦月冬はクールに去――――
「あっ、ちょっと待って!」
れずに立ち止る。振り返ると、神楽がそれまで見せた事のない奇妙な表情で、
真っ直ぐ前を見つめていた。
笑っているのか、はにかんでいるのか、困惑しているのか、それとも他の何かか――――
冬にはわからない。
「ありがと」
「ん」
だから、素直に受け取った。
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