携帯で時間を確認すると、時刻は既に十時を回っていた。
家に帰る頃には十一時。今日一日がほぼ消化された格好だ。無論、何一つ悔いはない。
冬にとって最も充実した日だった。
そして――――病院を出た所で、その一日を締め括る出来事に遭遇した。
「……!」
冬の目に一人の男性が映る。
彼は、冬にとって、特別な存在だった。
そして、その場にいる事が誰よりも信じられない、そんな人だった。
「何で……」
睦月家の主――――睦月康生。冬の父であり、この五年間は同じ家に住みながら
殆ど顔すら合わせずにいた男。
そんな人間が、目の前にいる。
「ああ」
五年振りに聞く父親の声は、少し記憶とは違っていた。
萎れていた。
「迎えに来た。車はないけどな」
顔は赤い。アルコール臭もしている。当然、車など出せる状態ではない。
そもそも、彼はこの時間にはまだ家にはいない。当然、迎えになど来れる筈もない。
ならば、何故――――?
「母さんが電話をくれたんだ。お前が友達の付き添いでここに来ているから、迎えに行ってくれってな」
そんな息子の疑問を見透かしたかのような言葉と共に、ほっそりとした顔が小さな笑みを浮かべる。
それは、何処にでもあるような普通の顔。冬自身もそうであるように。
「友達のお母さんは大丈夫だったのか?」
狼狽の中で冬は頷く。頭の中は未だに状況を理解出来ずにいた。
「そうか。良かったな」
しかし父親はマイペースに踵を返し、一歩踏み出す。
また、離れる――――
「どうした? 帰らないのか?」
そんな『懸念』をそっと払い除けるような父の言葉に、冬は自然と歩を進めた。
「……」
沈黙のまま夜道を並進する。未だに現実感のないその光景に、冬は唯々翻弄されていた。
「冬」
突如、名を呼ばれ、立ち止る。
隣を歩く酔っ払いの男は、何処か嬉しげに、そして誇らしげにその赤いを綻ばせた。
「偉かったな」
「――――!」
何もかも――――
何もかもが、壊れやすい訳ではない。
ずっとそこに在った。
見なかっただけだ。
背けていただけだ。
逃げていただけだった。
本当は――――
「…………ごめんなさい」
ずっと、この言葉を言いたかった。
冬は、ずっと謝りたかった。
「あの時は、生意気な事を言って」
ずっと、そう言いたかった。
それなのに、逃げていた。
何もかもから逃げていた。
ようやく、言えた。
「俺も大人気なかった。あの時も、これまでも」
そう。言いたい事を言うだけで良かったのだ。それだけで、こんなにも簡単に元に戻る。
壊れてなどいなかったのだから、当然だった。
「さあ、帰ろう。家に」
「ああ」
息子が頷くのを確認し、父は歩き出す。刹那――――その足が傾いた。
「飲み過ぎじゃないのか?」
「いつもの半分だ。無理矢理呼び出されたんでな」
「そっか」
建設的とは到底言えない、藻屑のような会話。それを交わす事が、嬉しくて仕方ない。
そんな中、再び父が足を止めた。
「お前、まだゲームをやってるのか?」
「やってるよ」
その質問の意図がわからず、冬は顔をしかめる。
「寄って行こうか。久々に」
そんな息子に優しく微笑みながら父が視線を送ったのは――――
【芸夢触富 遊凪】
かつて、父親に連れられ、生まれて初めて訪れたゲームショップ。
冬をゲームと出会わせてくれた、大切な場所。
冬の脳裏に、今よりも遥かに低い視界の記憶が蘇る。
『……買ってくれるの?』
まるで御伽噺の世界を裸足で駆け回るような、純粋なだけの思いが、時を越えて重なった。
「誕生日……プレゼントやってなかったろ?」
その時とはまるで違う、余りに弱々しい声と言葉。冬は思わず吹き出してしまった。
「良いよ。今欲しいのないし、そもそもそんな余裕ないんじゃないの? 小遣い的に」
「ははは」
親子は笑い合う。今までの冷戦が嘘のように。
「お互い、逃げてばかりだったな」
「うん」
「しかも、歩み寄ったのはお前からだ。情けない父親だ」
「全くだ」
そして、分かち合う。
「でも、来てくれて嬉しかった」
「そっか」
家族の未来を。
「……うん」
そして、今を――――
3rd chapter ”FAMILY ”
fin.
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