「……はぁあぁぁ……緊張したぁ」
  神楽はビブラートを聞かせた溜息と共に、ベッドに倒れ込む。
 2度目の入室にも拘らず馴れ馴れしい行為だったが、冬の心には不快感は一切生まれなかった。
「わざわざお礼なんて良いのに」
「こう言うのはちゃんとしないとね。あ、睦月君のお母さんって茶髪ダメな人?
 あー、黒くしとけば良かった」
「そんなの気にする事か?」
「ま、そ、そうよね。でも印象悪かったら凹むな」
  何故か母の心象を気に掛ける神楽を暫く眺めていた冬は、徐々に落ち着きをなくしている事を
 自覚しつつ、こっそり息を吐いた。
  2人きりと言うのはこれまで幾度となくあったシチュエーションだが、自室となると初めてだ。
 そもそも、冬の人生設計の中に17歳で女子とこう言った状況になるなどと言う場面は全く存在せず、
 当然ながらその時の心構えなど身に付いていない。
 神楽も神楽で慣れていないのか、不穏な空気を醸し出していた。
「あ、そうだ、勉強! テスト勉強しない? ホラ、病院では夜に出来ないから」
「良いけど、用意してるの?」
「勿論。で、ヤマとか張ってくれると助かるかなー、なんて」
「あいよ。ん、今日で結構100円玉溜まったな」
「……本気なんだあれ」
  重苦しい空気が少し薄まった事に安堵しつつ頷く。
「……本当に、取る?」
「取るか」
「良かった。今月苦しくて」
  苦笑しつつ、本日2度目の勉強会が開幕。
「――――数Uは教科書の例題をちょっと捻って出して来るから、例えばこの例題と……
 この参考書の……あ、これな。これ解いといた方が良い。mの範囲を求めるんだけど、
 結局接線の方程式を求めるのと一緒だから、図を描いて……」
「ストップ! 早いって!」
  2度目と言う事もあり飛ばしまくる冬に対し、神楽はスタートボタンを押した。
「睦月君、教えるの下手」
「うるさいな。友達いなかったんだから仕方ないだろ」
「もう一杯いるじゃない」
  その神楽の言葉に――――冬の瞳孔が開く。
 神楽のその認識は冬にとってかなり意外なものだった。
 そして同時に、神楽を唯一の友達と言う位置付けにしていた事に羞恥心が芽生える。
 その気持ちが何を意味するのかは、今の冬にはわからない。
「睦月君」
  そんな動揺を見透かすかのように、神楽が真剣な目で冬を射抜いた。
「何?」
  これからどんな言葉を掛けられるのか不安で胸を一杯にし、言葉を待つ。神楽は――――
「睦月君は……苛められた事、ある?」
「は?」
  全く冬の頭にない疑問を投げ掛けて来た。
 一瞬頭を真っ白にした冬は、慌てて記憶の扉を開く。真実を話す為に。
「……ない、と思う」
「そっか」
  特別な回答を期待していた訳でもないのか、静かに呟く。
「私はあるんだ」
  そして、全く同じ音量でそう告白した。
「中一の時に両親が離婚して、そのショックで一週間くらい学校休んだのね。
 それで、久しぶりに登校したら、机の上に花瓶が置いてあって」
「ベタだな」
「黒板に『神楽未羽はゲームオタク』とか書かれてて」
「……」
  それは――――今の神楽未羽の人格を形成する上で相当な影響をもたらした出来事。
 他人とRPGの話など一生出来ないと思うに至るには十分な理由。
 そんな心的外傷をサラリと話す神楽に、冬は尊敬の念すら覚えた。
「その後も『ゲームばっかしてるから親が気持ち悪がって逃げた』とか、
 そんな感じのコソコソ話されて……もう気が狂うったら! あーもうまた思い出しちゃった! もう!」
「気持ちは痛い程わかるけど、俺に切れられても困る」
「兎に角、そんな事があったから余計にゲームが好きな自分に抵抗が出来てさ。
 一時期は本当にゲームも親も嫌になって、一回ユートピアぶっ壊しちゃったんだよね」
「ぶっ……本当かよ」
「あの時でも、お母さんは怒らなかったな……悲しそうにしてた」
  自分の買え与えた高価な物を明確な意思の元で壊されば、普通は怒る。
 しかし、自分が子供と接する時間が少ないと言う引け目や罪悪感がそれを上回る場合、
 親は怒る事を出来ずに途方にくれる。親にとって最大の弱点は常に子供が握っているのだ。
「そう言うの、結構堪えるよね。怒鳴られた方がすっきりするって言うか……何か、ずっと壁があるの。
 お母さんとは」
「とてもそうは見えなかったけどな」
「昨日はあんたがいたから。今日は早速ちょっと気まずかったし」
  神楽は、普通なら言い難いような事を割かしあっさりと口にする。
  にも拘らず傷付き易い。
『あの子、気さくに見えて実は凄く難しい子だから』
  佐藤のそんな言葉が冬の脳裏に浮かんだ。
「……何? 人の顔ジロジロ見て」
「いや。難しいな、と思って」
「ホント。人間関係って難しい。あんたのとこもそうなんでしょ?」
  解釈は間違っていたが、会話の進行には影響ないので冬は敢えて指摘する事なく次の言葉を紡ぐ。
「あー。実は家、ちょっとだけマシになった」
「え?」
  苦笑交じりにここ数日の事を説明。
「……って感じ」
「そうなんだ。良いな。羨ましい」
「お前のおかげ」
「へ?」
  寝耳に水な神楽に、冬は感謝の理由を述べる。
「お前とぶつかって、何と言うかその……友達、になって……それが、今の流れを作った。
 だから、お前のおかげ」
「違うよ。私何もしてないもん」
「友達いない歴16年11ヶ月の男と友達になろうと言う発想が凄い。それに救われた。
 情けないけど、俺が自分から……ってのは絶対無理だから」
  冬は言いながら、自分が何故こんな事を語っているのか疑問に思う。
 感謝の気持ちを表すのは、人として大事な事だ。
 しかしそれを伝えるのは相応のタイミングがないと中々に難しい。
 それがこのタイミングで自分の口から自然に出て来た事には何か理由がある――――
 そう自己分析した。 
「だから、これからも宜しくお願いします」
「あ、いえ、その……こちらこそ」
  しかし、それが何なのかまではわからないまま、気が付けば2人して頭を下げていた。

 


 

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