人間、17年程度生きていただけでは、経験した事のない事項の方が圧倒的に多い。
 冬にとって、動物病院と言う施設は、中は勿論、外から眺める事もはじめての体験だった。
 丸みを帯びたフォントで『こまり動物病院』と書かれた山吹色のプレートが小首を傾げる
 かのように設置されたその建造物は、ちょっと大きめのパン屋さんと言ったサイズで、
 病院と言う重々しい雰囲気は微塵も感じされない。
 駐車場の回りには観葉植物が多数植えられていて、見た目とても暖かい空気が漂っている。
「こっちです」
  秋葉はハンカチで包まれた猫を抱いた冬に対し、明らかに平常心を失った様子で
 入り口に誘導した。
  偶然なのか、或いは必然なのか――――幸いな事に、動物病院に覚えがあると言う
 秋葉に従い、3km程離れた場所にあったこの『こまり動物病院』に着いたのは、
 空が徐々に白みを帯びて来た時間だった。
  負傷した猫は、殆ど嫌がる素振りを見せず、冬の腕に収まっている、
 それだけ弱っていると言う事だ。
「早くして下さい。早く」
「は、はい」
  思わず敬語で返答してしまうほど、秋葉の焦燥と動揺は色濃く、これまで見せた事のない
 必死な表情で冬を促す。無論、冬も猫の状態が芳しくない事は承知している為、急いで
 入り口に向かう。
「揺らさないで下さい。人間には微々たる振動でも、猫には大きな刺激になります」
「す、すいません」
  色々と理不尽を抱きつつも、猫を抱いた冬は動物病院の中に足を運んだ。
 中は個人経営の小病院に近い雰囲気だったが、窓口がとても大きく、病院特有の辛気臭さは
 微塵もなく、獣臭のようなものも感じられない。
 秋葉が率先して窓口にいた女性スタッフに話し掛ける間、冬は何となく神楽の母親の件で
 深夜の病院を訪れた時の事を思い出していた。
「睦月さん、猫を」
「ああ」
  秋葉に呼ばれ、冬は窓口に歩を進める。その間に秋葉は何か書類のような物に
 記載を行っていた。
  その後、交通事故である事を告げ、そのまま猫を連れて診察室に向かう。
 幸い他に診て貰っている患者はなく、待合室で待つ事なく診察が行われた。
「良く連れてきてくれた。早速不詳箇所を見せて頂けるか?」
  大人びた物言いで、獣医が指示する。
 それ自体は何ら問題はないのだが――――冬はその獣医に思わず目を丸くした。
 明らかに小学生のような風貌と体型ではないか!
 長い髪の毛は、毛先を軽く巻いており、アダルティックな雰囲気を出そうと
 頑張っているのだが、如何せんとことん童顔な上に身長が低い。
「どうした? 獣医として一刻も早い診察と治療を望むのだが」
「は、はい、すいません」
  自分はこんな何度も誤らなければならない事をしているのかなあ、と思いつつ、
 冬は猫を獣医に預けた。
  その後、診察は問題なく進む。
 猫はやはり骨折していた。左前足骨折と、数箇所の裂傷。全治1ヶ月との事だ。
「幸い、神経は壊死していない。切断の必要もなさそうだし、それほど酷い折れ方でもない」
「せつ……」
  生々しい言葉に、冬は思わず顔をしかめる。
 その傍らで、秋葉は小刻みに震えていた。
 実際、交通事故で傷付いた動物はそう言った処置を行うケースが少なくないらしい。
「それにしても、久し振りに見る顔だな。君の飼い猫……と言う訳ではなさそうだが」
  まだ真っ青な秋葉に、獣医は優しく微笑みながら話し掛ける。
 何となく冬も察知していたが、どうやら秋葉はこの病院を訪れた事があったようだ。
「野良です。偶然、現場に居合わせました」
「そうか」
  会話はそこで途切れる。ただ、気まずさと言う雰囲気ではない。
「だが手術は必要だな……取り敢えず、今晩は預かろう」
「わかりました。宜しくお願いします」
  獣医の話によると、折れた前足をプレートを使い接ぎを行うと言う
 比較的簡単な手術が行われるらしい。
  その後、幾つかの説明を受け、冬と秋葉は『こまり動物病院』を後にした。
 その帰り道――――冬はその説明を受けてからずっと、絶句していた。
 その原因は治療費にある。
 なんと、7万円は見ておいて欲しいと言う事を言われたのだ。
 7万円なんてお金、勿論冬の財布には入っていないし、今後入る予定もない。
 ゲーム用のへそくり(?)を足しても、全く届かない。
 そもそも7万と言う数字は、現存する据え置きゲーム機をほぼ網羅できる値段だ。
「……誤解しないで欲しいのですが、あの値段は破格なんです」
  そんな冬の様子を察してか、秋葉は突如口を開く。
「普通、猫の骨折治療の相場は10万円を越えます。手術費だけで10万円から20万円くらい
 かかる所も少なくないんです」
「……そんなに?」
  秋葉の横顔が縦に傾く。
「これにレントゲン撮影や経過診察、ギプスやプレートを外し、抜糸をし、となると、
 安くても12万円。高い所だとこの倍かかります」
「……本当に破格なんだな」
  人間に対しての治療と違い、動物への治療は基本的に保険が利かない。
 基本的に、と言うのは、ペット保険と言うものが存在しているからだ。
 ただ、加入者は国民健康保険と比較にならないほど少ないだろう。
 しかも医療法人のような取りまとめる機関が存在しないので、
 基準となる値段と言うものが存在しない。
「独占禁止法で、そういった規定を設ける事が禁止されているんです」
  秋葉は淡々と語る。
 基準となる値段がなければ、治療費は動物病院が個々に設定する事になるのだが、
 動物治療と言う分野は競争原理が極めて働きにくい為、他にあわせる必要性が
 薄く、結果的にかなり病院ごとの差異が生じるというのだ。
 加えて保険が利かないということで、非常に多額の治療費が発生するケースも多い。
 逆に言えば、良心的な病院であれば、他よりかなり安い治療費が設定されている
 とも言える。『こまり動物病院』はその範疇に入る病院のようだ。
「それでも7万だもんな……」
  冬は思わず呟きつつ、今後について真剣に悩む。
 まさか17歳で金銭トラブルを引き起こす事になるとは夢にも思っていなかったのだから
 無理もない話ではあるが。
「あの」
  そんな冬を、秋葉は立ち止まって呼び止めた。
 数歩先んじた格好の冬は、ゆっくりと振り返り、秋葉の姿を目に納める。
 丁度橙色を帯び始めていた空を背に、秋葉の小柄な身体がどこか哀愁を帯びて見えた。
「治療費は私が負担するので。睦月さんは何も心配しなくても良いです」
「……」
  冬は心の何処かで、そう言われるのではないかと思っていた。
 率先して病院を紹介した秋葉には、少なくともそれを言うだけの条件は存在している。
 治療費の事を知っていたのならば、余程性格的に問題がない限りは、そう言うだろう。
 冬は動物病院の存在を頭に浮かべてはいたものの、それを口に出してはいない。
 秋葉に言われた通りに野良猫を連れて行っただけなのだ。
 まして、あの猫は冬にとって特に執着する対象ではない。
 それで7万円と言う治療費を負担するのは、余りに割に合わない。
 だから、そう言われるのではないかと思ってはいた。
 だが、不思議な事にそれは期待感ではなかった。
「そう言う訳には行かない気がする」
  だから、冬はそう答えた。自分でどうしようもなく奇麗事だと自覚しつつも。
「あの猫の怪我を最初に……って言うか直接その瞬間を見たのは俺だし」
「それは関係ありません。睦月さんは何も知らなかった訳ですから」
  確かに、冬は猫の治療費がこれほど高額である事は知らなかった。
 そもそも、治療費と言う存在すら希薄だった。
 どこか、動物病院を交番のような意識で捉らえていたのかもしれない。
 善意で落ちていたお金を届けに行ったような感覚で、動物病院に向かったのかもしれない。
 それは余りに安易だと、今更ながらに気付いていた。
「もし、秋葉さんがいなかったら……多分、もっとマズイ事になってた気がする」
  神楽に動物病院の場所を調べてもらい、そこに向かう。
 もしその病院が、高額の治療費を要求する所であれば、冬は今頃絶望の淵にいた事だろう。
 日常の何気ない善意が、時に奈落の底の入り口となっている事を、冬は初めて知った。 
「だから、折半って事で良いんじゃないかな。3万5千円……なら、用意できない事もない……かな」
  言いながら脳内で計算する。
 現在の所持金、売れる物、前借りできそうな金額――――結果、7万円は無理だが、その半分なら
 どうにかなるという結論に至った。
 現在最も高いハードである『プラットフォーム3』を購入したと思えば、大体釣り合う値段である。
「それでは、私が騙して治療費を折半させたような気がします。夢見が悪いです」
  秋葉も譲らない。
 傷付いた猫を見た瞬間から、全て覚悟の上で行動に出ている彼女のその言葉は、ぶっきらぼうながら
 冬への思いやりと猫への確かな愛情に満ちている。
「……猫、好きなんだな」
「何ですか突然」
「いや、野良にそこまで出来るなんて凄いと思って」
  冬はそう言いつつも、何処か理解を覚えていた。
 7万円と言う金額を覚悟の上で、躊躇なく病院へ連れて行く行為。
 それを、クソゲーかどうかわからないソフトを10本購入する事と同義とするのは、余りにも
 品性に掛けている行為かもしれないが、冬はそう解釈していた。
 要は、リスク承知で大金を掛けるだけ好きな物が存在するかどうかと言う事だ。
 冬にはそれがある。そして、秋葉にもそれがある。それだけの事だ。
 とは言え、秋葉のそれは余りにも見返りが少ない。
 自己満足以外に、果たしてどれだけの物が代償として得られるのか。
「無償の愛、って奴か?」
「そんな……訳じゃ」
  秋葉も、冬のそんな思考を一言の指摘によって理解していた。
「野良とは言っても、最近ようやく懐いてくれていたので」
「情が移ったってだけで払うような金額でもないと思うけどな……」
「それは、価値観の相違です」
  秋葉は淀みなく言い切る。
 それに納得できない者もいるだろうが、冬には別のカテゴリーながら、覚えがあった。
 理解するには十分だ。
「わかる気がする」
「わかるんですか?」
「何となく」
  徐々に闇を帯び始めた空を仰ぎ、冬は息を一つ吐いた。
「でも、治療費は折半。こう言うのはワリカンが一番トラブルが少ない」
「割り勘……って言うのはどうかと思いますが」
「俺だって、あの猫と全く接点がない訳じゃない」
  真面目な顔で、冬は呟く。
 同時に、実は少し自覚している部分がある。
 まるで、敢えて効率や実益のない選択肢を選ぶような、そんな感覚。
 後戻りが出来ない事は理解しているが、そうすべきなのだと己を諭す感覚。
 勿論、他人にこんな行動理念は決して口には出来ないだろう。
 だが、これが長年ゲームに身を委ねて来た冬のパーソナリティなのだ。
「……わかりました。実は私も余り持ち合わせがなくて、困っていたところなんです」
  そして秋葉は堂々と無計画振りを披露した。
 それは流石に予想外。
「え? マジで?」
「マジです」
  秋葉はすまし顔で自身の財布を開いてみせる。
 そこに万札は2枚しかなかった。
「……全財産?」
「です」
  冬は数秒首を傾け、眉間に指を当てる。
 決してこの女子生徒の性格を全て理解していた訳ではないが、心のどこかで
 秋葉鈴音と言う人間はきっちりしているのでは、と言う憶測を立てていた。
 それは普段の言動からの推測だったのだが、どうやら必ずしも動物に関しては
 当て嵌まらないらしい。
 そう言えば、初対面時にその兆候が少し合った事を、冬は今更ながらに思い返していた。
「取り敢えず……金策、練ろうか」
「はい。そうしましょう」

  ――――取り敢えず。

  この言葉は、ある意味最も危険なのだと、冬は17年の生涯に一つ教訓を上乗せした。

 

 

 

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