翌日――――快晴。
「っくしゅん!」
 抜けるような青空。
 五月晴。
 雲ひとつない蒼空。
 まさに蒼空のフロンティア。
 そんな感じの、兎に角気持ちの良い朝。
「っくしゅっ! くしゅっ! うーっ! うーっ!」
 しかし、どれほど自然が人類に握手を求めても、
 中にはその手を握ろうという気になれない者もいる。
 例えば、前の日の自然の狼藉に真っ向勝負を挑み、思いっきり敗れてしまった者。
 具体的に述べると、滝のように降る雨の中、傘もささずに数十分歩き続け、
 その後に家の鍵を落とした事に気付き、慌てて探そうと来た道を引き返し、
 実に2時間もの間、苦行のように打たれ続けた者。
 当然、待っているのは体温と体力の低下。
 抵抗力は0勝15敗の前頭の次回場所並に転落し、ウイルス君よこんばんは。
 と言う訳で、未羽は窓から差し込む光に目を細める事も無く、
 ベッドの上で自身の体温と格闘していた。
「熱は……38.4℃。やっぱり病院行こっか?」
「大丈夫だってば。子供じゃないんだから、こんな風邪なんて事ないの!
 ホラ、早く仕事行った行った!」
「もう……苦しくなったらちゃんと救急車呼ぶのよ?」
 明らかな風邪で救急車を呼ぶ機会などある筈もないが、未羽は
 適当に首肯し、不安顔の母親の背中を視線で押した。
 身一つで子を育ててきた母親に対し、微妙な心境を持っていた時期は過ぎ、
 現在の未羽は心から母を慕っているのだが、ちょっと世間とズレた感覚を
 持っている故のズレた発言に対しては、時折頭を抱えている。
 今もその最中だが、熱による不快感の方が遥かに強く、ふーっと息を吐いて
 枕に頭を落とした。
(学校、休みか……)
 社会人と違い、学生は38℃以上あれば、大抵は休む。
 風邪のような感染の恐れがある病気は、本来家で治癒するまで過ごすよう
 指導すべきなのだが、どうも日本の社会はそう言った意識が薄い。
 学生の方が余程、本来のあるべき社会のシステムに即した行動を
 取っていると言うのは、歪みと言っても過言ではない。
 だが、そんな事は関係なく、未羽はただ単に登校する気力も体力もなく、
 ベッドに潜り込んで目を瞑っていた。
 たかが風邪。されど風邪。
 未羽は、密かに大きな不安を抱いていた。
 人間の体温は、朝より昼の方が高くなる。
 朝に38.4℃あるならば、昼には39℃に達するかもしれない。
 そうなると、流石に辛いだけでは済まされない。
 未羽の生涯において、39℃に達した風邪を引いた経験は一度のみ。
 その時はまだ小学校低学年で、母親が付き添ってくれていたので、
 恐怖はなかった。
 だが、今は一人。
 万が一、40℃にまで達そうものなら、それはもう完全に未知の世界だ。
(うー……どうしよう……)
 余計な事を考えてしまい、眠れない。
 そもそも、まだ朝だ。瞑目した所でそうそう睡魔は訪れない。
 こう言う時――――人と言うのは、結構意外な行動を取る。
 その不安を取り除こうと、努力するのだ。
 その努力と言うのは、不安を忘れる努力。
 そして、その努力は――――自分の楽しい事をする、と言うもの。
「……」
 未羽は意を決したように布団を身体から剥ぐ。
 余り寒気はしない。寧ろかなり暑かったので、布団は何気に苦痛だったのだ。
 だが、それは楽しい事ではない。
 未羽の行動理念は、その具現化へ向けて、どんどん意欲を高めていた。
(ふ。ふ。ふ……)
 何かおかしなアドレナリンでも出てきたのか、未羽は心中で不気味に
 微笑みつつ、目的の場所へ向かう。
 と言っても、実際には数歩歩いたのみ。そこに、未羽の欲望の全てが
 詰まっているからだ。
 家庭用据え置きゲーム機、ユートピア2。
 ユートピアの後継機であり、グレードアップされたそのハードは、
 しかしながら現在普及率が伸び悩んでいる。
 圧倒敵なグラフィック処理能力の向上を初め、様々な改良がなされて
 いるのだが――――今ひとつ魅力的なソフトが出てきていないのと、
 値段が妙に高いのとで、ライトユーザーだけでなく、割とヘビーな
 ユーザーからも距離を置かれているのが現状だ。
 携帯用ゲーム機の飛躍も、その不調の要因と言われている。
 尤も、未羽にはそんなメーカー側の悲鳴など関係ない。
 重要なのは、現在推し進めているゲーム【ジエンド オブ グロース】の更なる進行だ。
【ジエンド オブ グロース】は、ジエンドシリーズ最新作であると同時に
 初のユートピア2用ソフト。
 最大の売りは、これまでにないグラフィック。
 まるでアニメの世界をそのままRPGとして楽しめるかのような、
 まさに夢の実現を達成したソフトとなっている。
 だが、未羽の興味はそこにはない。
 いや、実際には感心もしているのだが、それ以上に関心があるのは
 そのストーリーだ。
【ジエンド オブ グロース】は、発症を境に成長が止まる、
『アングロース・シンドローム』と言う病気が蔓延した世界のお話。
 その症候群は、25年前に初めて患者が核にされて以降、常に13歳以上16歳以下の
 若者にだけ発病し、その結果、世界は41歳以上の中高年と、16歳以下の若年層
 のみの人間が存在すると言う、極めて異常な状況になってしまった。
 発病の際には必ず5〜7日間高熱が続くなど、独特の症状があるので、
 発症時期はイヤでもわかる。
 その中で、主人公リーヒラーティ(通常リーヒ)は、唯一17歳になっても
 その兆候が見られない存在として、治癒魔法や医学の世界的権威が集う国
『ヤクンイタ』に連れて行かれて――――
 と言うお話になっている。
 常に悲壮感が漂う世界観の中で、時に胸を打つようなイベントもあり、
 また明るいコメディ調のイベントもあり、パーティーは絆を深めていく。
 その症候群の要因を作った敵にも、敵なりの壮大な思想があり、
 テンポも良く、戦闘もスムーズ。
 未羽は、シリーズ最高傑作とこの作品を位置づけ、このゲームに
 のめり込んでいた。
 尚、睦月も既に購入済みで、プレイ中との事だが、未羽はこの
【ジエンド オブ グロース】に関する話題全てにプロテクトをかけていた。
 要するに、『先の展開を喋ったらコロス。と言うか何か喋ったらコロス』
 と言う事で、この作品に関する話題は完全シャットアウトを約束させたのだ。
 無論、プロテクト解除は未羽がクリアするまで。
 それくらい、この作品に未羽は入れ込んでいる。
 凄まじい手応えだった。
 通常、RPGのような感情を揺さぶるゲームと言うのは、ゲームを始めて
 間もない頃にプレイした作品が一番心に残りやすい。
 客観的な評価をしようとしても、最終的には思い出の一作に愛着を持つものだ。
 だが、その規定観念すら、未羽の今の心境の前では形無しとなっていた。
 このゲームはスゴイ。
 化け物だ。
 未羽は、そう感じていた。
(ようし……今日はトコトン進めよっと。でも進め過ぎるのは勿体無いし……)
 38.4℃の熱を出しながら、未羽はテレビの前の座椅子に腰を下ろした。
 起動音が鳴り、タイトル前のアニメーションが流れる。
「ふふっ」
 思わず笑みが零れる。
 この時の未羽の顔は、もし他人が見ていたら、果たしてどう思っただろうか。
 ピリオドの向こうに行った人に見えたのではないだろうか。
 それくらい、脳内麻薬が出まくっていた。
 そして、熱気の中、未羽は冒険に出かける――――


 

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