初夏の午後は、柔らかな日差しに紅茶のような清廉とした匂いを含んでいる。
 窓から差し込むその光に包まれた部屋は、アロマテラピーなどに頼らずとも、
 心地よい空間となって快適な生活を提供してくれる――――筈なのだが。
「……ゲーム、ねえ」
 神楽家の一人娘、未羽の部屋には、不健康極まりない病人一名と、
 マスク姿の首を傾げた女子高生の姿が、どこか淀んだ様相で存在している。
 特に、病人の方――――要するに未羽は、風邪と言う理由以外の部分で
 ずーんと落ち込んだまま、ベッド上でうなされていた。
「別に良いんじゃない? って言うか、隠す程の事? それ」
 佐藤は特に気を使う性格ではないので、ストレートな感情でそう呟く。
 だが、当の未羽の表情は一向に晴れない。
「ま、確かに? このアニメみたいな絵とか、何かちょっと……
 って感じだけど。オタクって言うんだっけ? こう言うの好きな奴」
「ぐはっ」
 未羽は死んだ。
 オタク。
 それは未羽にとって完全無欠のNGワード。
 フ女子より順位は上かもしれない。
「お、オタク……じゃ……」
「ふーん、未羽ってこう言うの好きだったんだ。あ、って事はアレでしょ、
 旦那の睦月も同じ趣味なんじゃない? そう言う感じだもんね、アレ」
 佐藤の鋭い推察に、未羽は唸るようにオタクである事を否定し続けるばかり。
 完全に色んなところが失調していた。
「オタク……じゃない……ちょっとゲーム……が好きなだ……け」
「あー、もう喋らない。つーか熱測った? わ! 何このあっつい額!
 マジヤバイよあんた!」
 と言う訳で、改めて体温測定。
 結果。
「……うげ」
 未羽の脇から体温計を抜いた佐藤が、未羽の趣味を知った時の10倍くらい
 ドン引きしていた。
「な……何度?」
「聞かない方が良い。心折れる絶対」
 寧ろ佐藤のその発言に、未羽は更に具合を悪くする。
 と言うか、心はとっくに折れていた。別の案件で。
「取り敢えず病院行った方が良いか。保険証は? タクシー呼んどくから
 ちゃっちゃと着替えて。あんたのお母さん、夜遅いんだよね? 書置きしとこっか」
「え? ちょっ……大げさ……」
 佐藤のテキパキした指示に面食らいつつ、未羽はタクシー会社の電話番号を探す
 佐藤を慌てて止める。
「大丈夫だって……ちょっと興奮して一時的に熱が上がっただけだから」
「そう? でも、この熱はちょっとヤバイよ?」
「そう言われても……何℃だったのか私知らないし」
「よ……あ、何でもない。それじゃ、解熱剤でも買ってこよっか」
「よ!?」
 大台突入を予感させる良い淀みに、未羽の顔面が赤から白に一瞬変化する。
 その間にも、佐藤は携帯で誰かと連絡を取っていた。
「あ、鈴音。うん、もう着いた。ちょっとこっち来る前に解熱剤買って来て。
 あっちじゃない方ね。うん、はい、はーい」
 と言う訳で、30分後。
「……アニメ?」
 到着した秋葉鈴音が、マスクをつけながら呟く。
 病人の前でマスクをつける行為は、場合によっては余り歓迎されないが、
 風邪を移されて相手に気を使わせ、両方とも損するよりは余程良い。
「アニメじゃ……うーっ、ゲーム! はいそーですよ! 私はゲーム好きの
 変な女ですよ! あうー……はーっ」
 2年以上守り通した自身の趣味。それが、あっさり2人の友人にバレてしまった。
 尤も、鈴音のリアクションも、特に引いた様子はない。
「ゲームなら私もします。クロスワードとか」
 一般人の『ゲーム』に対する認識は、こんなものだ。
「違うってば。ホラ、こう言うのなんて言うんだっけ。ファなんとか」
「わからないです」
 既に20年以上前の骨董品となったハードが、未だに据え置きゲーム機の代名詞的な
 言われ方をするのは、何もバラエティや情報番組の影響だけではない。
 ファースト・インパクトには、それだけの力がある。
 とっくに現役から退いたキングやミスターが代名詞の国民的スポーツも然り、だ。
 とは言え、先程まで未羽が動かしていたハードはファのつく名前ではない。
 その誤認識を訂正したくなるのは、ゲーマーの性だった。
「これは……ユートピア2って言うの……」
「ユートピア、ですか。理想郷であり、無何有郷ですね。素敵な名前です」
「あっそ。それより、この解熱剤、内服薬じゃん。座薬なかったの?」
「ぶっ!」
 思わず錠剤を噴出した未羽の傍らで、秋葉はゆっくりと首を横に振る。
「探したけど、見つかりませんでした」
「探すなよ……」
 座薬の解熱剤は、子供用以外は余り普通の薬局には売っていない。
 病院で診察を受け、調剤薬局で貰うのが一般的だ。
「あんたら……随分と病人を辱めてくれるよね……」
「最近付き合い悪いからよ。はい、寝た寝た」
 マスク越しに苦笑しつつ、佐藤は身体を起こしている未羽を横にさせ、
 額に冷やしタオルを当てる。
「ふやぁー……」
 その瞬間は、風邪の際に得られる割と多い特典の中の一つ。
 平常時では、例え真夏でもここまでの爽快感はない。
「それじゃ、私は夕飯作るから、鈴音はこいつ見ててやって」
「わかりました」
 何ともさりげなくそう宣い、佐藤は部屋を出て行く。
 佐藤がパティシエを目指していると言うのは既に2人にとって
 既知の情報だったが、普通の食事も作れると言うのは初耳だった。
「あいつ、何気に万能型なんだ……」
「口は悪いですけど、結構優しいですしね」
 秋葉が余り見せない笑顔で答え、未羽の額からタオルを取る。
 僅か1分の間で、タオルはかなり熱を持っていた。
 それを氷水入りの洗面器に浸け、絞り、再び未羽の額にピトッ。
「ふやぁー……」
 何一つ相違ない声で、未羽は爽快感を口にした。
「……それにしても、呆気ないもんよね。ずっと秘密にしてたのに……」
「ゲームの事ですか? そもそも、どうして秘密に?」
「ま、あんた等にはわからない事よ。色々あんの」
 実際のところ――――色々あるのは、未羽の心の中だけだったのかもしれない。
 コンプレックスなんて言うものは、そう言うものだ。
 確かに、中にはそれを嘲笑する者もいる。どのような分野においても。
 それでも、知識のない人間にとっては『大した事のない話』だし、
 それを恥と認識する者も、それ程多くはない。
 例え特殊な、超少数派な趣味であってもだ。
 そもそも、未羽自体、既に負い目にも似た劣等感は昔ほど持ってはいなかった。
 もし2年前にバレていたら、今頃病気である事も忘れ、どこか遠くへ逃亡していたかもしれない。
「そうですか」
 案の定、秋葉も特に食い付く事もなく、少しの間ハードやソフトを眺め、
 直ぐに視線を未羽の方に戻していた。
「それにしても、変な時期に風邪を引きましたね」
「まあ……昨日ちょっとね」
「振られたんですか?」
「え!? ち、違っ! あれは唯のケンカだし! そもそも振られる振られないで風邪なんて……」
「?」
 秋葉のキョトンとした顔は珍しい。
 それを目撃した未羽は、自分の頓珍漢な解釈を理解して、熱以上に赤面する。
「雨、ね。そうよ。雨にザーッと降られたの」
「取り乱した理由は良くわかりませんが、一先ず落ち着いて下さい。身体に障ります」
 秋葉は宥めるように未羽の額のタオルを取り、冷水に着け、額に返す。
「ふやぁー……」
「……可愛い」
 緩和する未羽の様子に、秋葉は満足げだ。
「そう言えば鈴音、『りお』は元気?」
「息災です」
 未羽の言う『りお』とは、色々あって秋葉が飼う事になった猫だ。
 既に買い始めて2年近く。当時は子猫だったが、今では立派に愛嬌ある
 大人の猫に育っている。
「睦月さんも、良く気にかけてくれます」
「……そ、そう」
 何気ない秋葉の一言に、未羽が声の音量を極端に落とす。
「……どうかしましたか? あ、睦月さんと言えば、今日メール貰ったんです」
「…………へー。どんな?」
「決まっているじゃないですか。未羽を心配して、ですよ」
「……」
 沈黙。
 未羽の顔は天井を向いていたので、この時の表情は誰にも把握できない。
 自分も含めて。
「折角ですし、お見舞いに来るようメールしましょうか」
「げほっ! ごほっ! 何ゆってんの! ヤよヤ!」
「そうですか。この機会に勉強教えてもらおうかと思ったのですが」
 その声に、なんとなく意地悪な響きを感じ、未羽は状態をムクリと起こす。
「……からかってるでしょ」
「冗談です」
 秋葉は小さく舌を出していた。
 彼女も、この2年でかなり変わった。
 正確には、素を出し合える関係に変わった、と言ったところだ。
「勉強なんてウザい言葉使うなってば。マジ凹むから」
 扉越しに佐藤の声がして、部屋の扉が開く。
「はい、おじや。まだちょっと夕飯には早いけど」
「はああ……ありがと、佐藤。今日から名前で呼ぼっかな」
「あー、そういう言い方聞くと、なんとなくオタクっぽいわアンタ」
 苦笑する佐藤からお盆に乗った御椀を受け取り、中を確認する。
 薄く卵が浮かんだ半透明な汁の中に、白いもの、赤いもの、緑のものが見える。
「これ、雑炊じゃない?」
「どっちでも良いでしょ。早く食べろって」
「はーい。いただきまーす」
 未羽は受け取ったレンゲで御椀の中の米をすくう。
 先程までは大分弱っていたが、秋葉とのやり取りもあって、今はあまり病院っぽくはない。
 病は気から。
 実際、メンタル面が占める割合はかなり大きい。
 風邪のような然程強い症状のない病気は、熱を測って実際に熱があるとわかって、
 初めて本格的に体調が悪いと感じるものだ。
 解熱剤も効いているのだろう。
「んむっ……ん、ん? んん?」
 笑顔で含んだ一口目から数秒。
 未羽の顔色がサーっと変わる。
「さ、佐藤さん……? これ何……?」
「あれ? やっぱりおかしかった? いや私、おじやって作った事も食べた事もなくてさ。
 見た目はなんとなくわかってたから適当に作ってみたんだけど」
 その味は、例えるなら温めたスポーツ飲料水のようだった。
 あと、具もピーマンとかトマトが入っている。
「何だろう……食べられない程じゃないトコが凄く微妙……」
「味付けはどうやって?」
 秋葉の問いに、佐藤は自慢げに笑みを漏らす。
「塩。あと、病人に合うようグレープフルーツとライチの果汁」
「その発想は、いかにもスイーツ専門のパティシエです」
「そう? 照れるね」
「うう……なんか体調が」
 結局その日、未羽の風邪が癒える事はなかった。



 

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