翌日――――
「ごほっ! うう……」
未羽の熱は一向に下がる気配がない。
しかも、喉もがかなり痛んできた。くしゃみも咳に移行している。
流石にこれはマズイと言う事で、結局病院へ向かう事となった。
何しろ、40℃(推定)以上の高熱。
インフルエンザやウイルス性の肺炎など、重めの病気も疑われるような状況だった。
もしそうなれば、受験生なのに入院生活を余儀なくされる。
それがどんなに痛手か、言うまでもない事だろう。
『一日練習を休むと、取り戻すのに三日かかる』
そんな、スポーツ界の名言が、そのまま受験勉強にも引用される事はままあるが、
実際、この時期に長期休養となると、取り戻すだけで相当な時間がかかる。
まして入院となると――――
「一足早い夏風邪ですね。解熱剤と喉の炎症を抑える薬、その副作用の緩和の為の胃薬を
出しておきます」
とっても困った事になるが、そうはならなかった。
「あー、良かったー。これで安心して会社に行けるってもんよね。
お昼は冷蔵庫のお粥を暖めて食べなさいね。夜は奥の冷やし中華。
ちゃんとフルーツとサラダも食べなさいよ。じゃ、あでゅー」
未羽の母は、言動に若干の若作り友好性が見られるが、基本的にはしっかりもの。
夜の食事まで栄養面をきっちり計算して作り、いつもより数時間遅れつつ元気に出勤していった。
やはり、昨日はかなり心配していたのだろう。
「ふう……」
それは未羽も同じで、ただの風邪と診断を受けた事で、安堵感はかなりある。
ただ、この時期2日も学校を休むのは、やはり気掛かりだった。
(何か、どんどん気まずくなっていくような……)
と言っても、勉強の事はまったく頭になかったのだが。
既に風邪でリタイヤ中と言う事実は、睦月の耳には入っている筈。
しかし、朝のメールチェックにその名前は引っかからなかった。
やはり、一昨日の件が尾を引いているのだろう。
とは言え、ここで自分から『風邪引いちゃったよー(TΔT)』なんてメールを送るような
積極性は、未羽にはない。
流石に病人からそんな連絡をするケースも、そうはないだろう。
(……バーカ)
言葉にならない声は、喉を刺激しない。
今の未羽には、それが丁度良かった。
風邪と言うものは、常に一定の病状であるとは限らない。
時間経過に伴い、変化するものだ。
例えば、最初は熱と喉・間接の痛みくらいだった症状が、急に咳、鼻水、
頭痛や腹痛などを追加注文してくる事はままある。
「ごほっ! ごほっ!」
正午を回った辺りから、未羽の身体に偏重が訪れた。
熱は38.4℃。解熱剤が効いているようだが、それでも高い。
喉と関節の痛みに咥え、咳が徐々に頻度を増し、頭痛もしてきた。
そして、極めつけは寒気。
熱を抑えているにも拘らず、昨日よりも更に寒い。北欧から南極に移動したかのようだった。
こうなると、流石にゲームの事など考えられなくなる――――というのが、
普通のゲーマーの感覚だろう。
だが、未羽は違う。
筋金入りのロールプレイングゲーマーだ。
流石に直接プレイはできないが、妄想の中でこれまでのストーリーを巻き戻す事は可能。
そこで更に、劇中語られていないエピソードを勝手に追加したりして、
時の経過を待っていた――――
ホブゴブ村を出たリーヒラーティとラナは、最寄の貿易街『エミル』で
まず情報を入手する事となった。
だが、裏の世界と関わりのなかった2人に、情報屋を見つける手立てはない。
『どうすれば良いのかしら……』
途方に暮れるラナの頭上では、日も暮れている。
『取り敢えず、今日はもう宿を取ろう。疲れを癒さないと』
『そ、そうね』
そんな中、リーヒラーティの提案に、ラナは狼狽えている。
それはそうだろう。
幾ら似た境遇、仲間とは言え、まだ出会ったばかり。
そんな信頼関係も希薄な状態で、男と宿に泊まるというのだから、
平常心でいられる筈がない。
しかし、リーヒラーティはそんなラナの不安に全く気付かず、
ごく普通に宿へ向かい、ごく普通に言われた料金を払い、
ごく普通のRPGの宿屋の使い方で就寝を試みた。
『あ、あの! お部屋は別々……ですよね?』
『ああ、そっか。すいません、あと一部屋追加で』
『すいません。今日はもう空き部屋がなくて』
が、お約束の展開。
2人は同じ部屋で夜を過ごす事になる。
ベッドの隅で蹲るラナ。
それを所在無さげに横目で見つつ、床に座るリーヒラーティ。
『えっと……仕切り、作ろうか。布でも借りて』
『いえ、その、そこまでしなくても……信用していますから』
無論、それは気遣いと言う名の警告。
結局、その夜はそこまでで場面転換され、何事もなく次の日を迎える――――
と、ここまでが本編。
しかし、未羽のレムってる脳内には、その続きが再生されていた。
『なあ、ちょっと良いかな』
静まり返った宿の二階。
リーヒラーティは、怯えた瞳のラナに、落ち着いたトーンで話しかける。
『は、はい?』
『どうして、俺と一緒に来る事にしたんだ?』
その言葉に、ラナは顔を上げる。
その表情には、驚きと、蔭りが見え隠れしていた。
『それは……あの村の人達が、怖くなったから』
和やかな、朴訥とした村だった。
しかし、それは皮だった。
上っ面だけだった。
一皮向けば、そこにいるのは、他者を受け入れない、心貧しき生き物達。
ラナは、絶望していた。
自分の信じていたものの真実に。
『でも、俺と一緒の方が怖いんじゃないか?』
『!?』
そんなラナの背筋に、戦慄が走る。
リーヒラーティの顔は、いつしか表情を失っていた。
『俺だって、男だ。夜に同じ部屋に同世代の女がいれば、そりゃ……』
『そ、そんなっ! 嘘です!』
『ラナさん……』
そして、ゆっくりと立ち上がる。
リーヒラーティの身体は、ラナよりかなり大きい。
もし、ここでその体格差を駆使した行動に出れば、ラナに防ぐ手立てはないだろう。
『いや……いやっ!』
ラナは顔を覆い、その可能性から目を背ける。
しかし、それは解決にはならない。
現実は、否応なしにやってくるのだ。
そう――――
『ははっ。冗談だよ。幾らなんでも、出会って直ぐの女の子にそんな事は――――』
『きゃーーーっ! 従業員のみなさーん! 襲われます! 私、身も身体もボロボロにーーっ!』
解決するには、実行力が必要だ。
その場合、これがベスト。
『え? いや、だから冗談だって……』
『この宿に強姦魔が出没しただとおっ! 良い度胸だ! 寧ろテメェをファックしてやる!』
『うわ、待って、話を聞いて下さい! 僕は何も! 何もーーーっ!』
ただ、相手をリラックスさせようと言う心遣いで鬼気迫るジョークを遂行した者に対しては、
最悪の対応だった……
(……あれ)
何か、最後の展開に決してやってはいけない重大なミスをしでかした事に気付き、
未羽は目を覚ました。
あれほど毛嫌いしていたフ女子思考を、ネタとは言え夢の中で――――
「ち、違う! これは違うの!」
「何が」
「だから、私はそう言うのは好きじゃない……!?」
反応的な覚醒と意識的な覚醒とでは、若干のタイムラグがある。
その合間に、妙な事を口走った未羽を待っていたのは――――佐藤だった。
昨日と同じくマスクをしている。
「なな、何で……」
「ロビーインターホンは自動録画機能でパス。扉の鍵は締め忘れ」
「……お母さん、迂闊」
嘆息しつつ上体を起こすと、カーテンの隙間から夕日が差し込んできた。
既に夕刻。結構な時間寝ていたようだ。
ただ、体調は依然として最悪。
起きて最初の1分くらいは結構何ともないのだが、直ぐに咳と喉の痛みが襲ってくる。
「ごほっ! うーっ……」
「寝とけって。ほい、冷やしタオル」
佐藤は苦笑しながら未羽を押し倒す。
そして、その額にキンキンに冷えたタオルを乗せた。
「ふやぁー……」
「今日はちゃんと夕飯の用意してるみたいだし、私はフルーツでスイーツでも作ろうかね」
「佐藤のスイーツ、食べたぁい」
「はいはい。じゃ、寝とけ」
ピタ、と未羽の頬を軽く押し、佐藤はその部屋を出た。
その背中には、恐ろしいほどの頼り甲斐がオーラのように滲み出ている。
そして、僅か40分でそのスイーツとやらは完成した。
「抹茶ミルク寒天のパフェと、はちみつミルクのグラニテ。食べやすいでしょ?」
「はむはむ……ひやや」
喉の痛い病人にも食べられる、サッパリとした味。
決して難しいメニューではないが、何種類かの果汁を上手く使用し、
いちごやキウイを絶妙な甘さに調整している。
佐藤の腕前は、既に高校レベルではなかった。
「ごちそうさまー。それにしても、あんたも面倒見良いよねえ。
2日連続で着てくれるなんて」
「頼まれただけ。あんたのお母さん、片っ端からメールしたみたいよ?
あんたの交友関係に」
未羽母は基本、過保護だった。
「お母さん……風邪だってのに」
「ま、親一人子一人だしね。秋葉も来るって」
「私の交友関係、以上ってか」
未羽は決して非社交的ではない。
だが、ゲーム好きと言うオプションがその精神に宿って以降は、
交友関係は意図的に抑制している。
本当にウマの合う人間とだけ、懇意にしていた。
「あと一人いるじゃん。ってか、来ねーの? 白状な奴」
「……」
未羽は沈黙しつつ、その目を細め、眉間に小さく皺を寄せる。
そのまま上体を起こし、透明のテーブルに置いたケータイを手に取った。
メール着信――――2件。
「……お、ちょっと嬉しそう」
「うっさい」
開いた結果、母と秋葉だった。
「あちゃー、残念」
「うるっさいなー!」
マスク越しにケラケラ笑う佐藤を他所に、未羽は再びベッドに入る。
悪態は吐きつつも、風邪を引いた人間相手に全く嫌悪感を抱かずに接する佐藤に、
感謝の念を抱きつつ。
「ところでさー、あんた試験どうすんの? 今回の、三者面談にモロ響くみたいだけど」
「……え?」
この時期、受験生には三者面談と言う難関が待ち受けている。
生徒にとっては、地獄といっても過言ではない。
何しろこの時期になってくると、模擬試験の合格判定が急激に悪くなることが多い。
何故なら、予備校生が本腰を入れ始めるからだ。
2年までの合格判定など、まるで意味を成さないのだ。
ただ、それでも、現実を見据え、志望校を絞るという意味では、必要な儀式と
言えなくもない。
「ヤバ! 私、この前の模擬サイアクだったのに! ってか、いつだっけ試験!」
「まあ、病気で寝込んでたから仕方ないけど……明日じゃん」
この時期、試験は毎週のようにやってくる。
とは言え、明日あるのは実力試験などのちょこっとした試験と違い、全国模試だ。
ケンカだの風邪だので完全にその事を失念していた未羽は、熱で真っ赤な顔を
一瞬青ざめさせた。
「試験勉強できない……うわ……どうしよ……ごほっ!」
「試験受けなきゃ良いじゃん」
「だから、前の模試サイアクだったんだって! あれが最新の結果で
三者面談ごほっ! 三者面談はダメ! ごほっ! お母さんが倒れる!」
未羽は口を押さえながら上体を起こす。
「ちょっ、何してんの!」
「勉強……ごほっ!」
「バカ、そんな体調で頭に入るか! 寝てろってば!」
頭にハチマキでも巻きそうな勢いの未羽を、佐藤が必死で止める中――――
「遅くなりました」
秋葉が到達。
そして、その手には一冊のノートが持たれていた。
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