人間の歴史は常に、性善説と性悪説の闘いでもある。
 人は生まれながらにして、善なのか?
 それとも悪なのか?
 汚れを知らない子供が、アリを踏み潰して喜んでいる姿は善なのか?
 足の取れたバッタを見て、かわいそうと呟くのは、悪なのか?
 弟を力で屈服させて、泣き顔を見て笑うのは善なのか?
 泣き止まない弟の頭を撫でて、ゴメンねと言うのは悪なのか?
 ……そんなの、知ったこっちゃないね。
 生まれながらに善だろうと悪だろうと、人間は死なない限り成長するし、大人になる。
 その大人になった時点で、善か悪か、それが全てだ。
 そして、この世の中には、善も悪も溢れ返っている。
 そんな中で生きていくんだから、他人の悪行に対して、鬼の首を取ったように
 ネチネチ指摘する趣味はない。
 だから。
 だから――――お前等が俺にした、最低最悪の悪行も、今更蒸し返しはしない。
 親が子を見放す。 
 子の人生の足を引っ張る。
 デタラメだ。
 まともじゃない。
 親になんてなっちゃいけない人種だ。
 でもな、俺はお前等の事を、別に怨んじゃいない。
 お前等は俺に、未来をくれたから。
 希望を与えたからだ。
 お前等がいなけりゃ、俺はいない。
 そこには、決して覆る事のない真実がある。
 だから、謝罪の言葉なんて、永遠に要らない。
 お前等を更正させようとは思わないし、復讐しようとも思わない。
 ただ……俺から逃げたお前等を、『見つけようと思えばいつでも見つけられる力』は
 身に付けておくつもりだ。
 俺は、お前等に翻弄されている訳じゃない。
 やろうと思えば、いつでも糾弾できる。
 いつでも身柄を確保して、ボコボコにする事ができる。
 そう言う自分でい続けるつもりだ。
 それが、俺が探偵である理由。
 探偵であり続ける理由なんだから――――


「……」
 気付けば、背中は馴染みのある感触に包まれていた。
 重い瞼を上げて光を引き入れると、その粒子の束が天井を形成する。
 そこが事務所のソファーの上だと言う事を把握するのに、時間は必要なかった。
 寝起きは、身体の感覚が鈍重になる。
 今、自分の体調が良いのか悪いのか、全く把握できない。
 病気の時は、ある意味この瞬間がチャンスでもある。
 体調が悪化する前に、着替えでもしておこうか。
 ゆっくりと状態を上げると――――額に置かれていたタオルが、胸元へと落ちた。
 こんな物を頭に添えた記憶はない。
 ふと、視線を上げると、直ぐ傍にパイプ椅子があった。
 更に目線を上へと向けると――――今度は胡桃沢君の姿が見えた。
 ボーッとした視界に移る彼女は、俯いたまま動かない。
 すやすやと寝息を立てて、寝ていた。
 このタオルも彼女が用意したんだろう。
 足下には、水を張った洗面器も見える。
 ずっと、看病してくれていた……みたいだ。
 思わず、胸が熱くなる。
 いや、既に高熱で熱い事は熱いんだけど、別の種類の熱というか。
 兎に角、感激だ。
 彼女にはこの三日間、ずっと看病を受けている。
 ただ、学業も併行して行っている彼女に負担を掛けさせるのは気が引けるんで、
 意識がある間は、出来るだけ自分の事は自分でやって来た。
 慣れたモンさ。
 子供の頃から、高熱が出ようが、咳が出ようが、吐き気がしようが、
 俺は自分の事は全部自分でやって来た。
 そうするしかなかった。
 親が何もしてくれないんだから。
 だから、病気って理由で一日中寝込むと言う発想は、俺にはない。
 勿論、しんどい時は休むけど、少し動けると判断すれば、生活の為に動く。
 それが、当たり前だった。
 だから、自分が寝ている間、看病されていた――――なんて経験は、
 生まれてこの方、初めての事だった。
 少し、むず痒い。
 こんな、同世代の女の子に看病されるって言うのは。
 でも、悪くないね。
 果報者って言葉が脳裏に浮かぶ。
 ただ――――彼女の方は、どう思ってるのやら。
 助手になる、と言いだしたのは、この子の方。
 でも、あの時は一刻も早く家から抜け出したいと言う思いがあっただろうし、
 頼れる人間が俺しかいなかった、と言う事情も重なっていた。
 でも今は違う。
 友達いないと言っていたけど、その要因となっていた事件は解決した事だし、
 そろそろ学友の一人や二人、出来てもおかしくない。
 彼氏だってそうだ。
 強姦未遂にまで遭った女子が、直ぐに男を作れるとも思えないが、何しろこの器量だ。
 真っ当な人生に戻れる日も、そう遠くはない筈。
 その時は――――ここを卒業する事になるんだろう。
 少し寂しい気もするが……
「……あ」
 俺の視線を感じたのか、胡桃沢君が目を覚ます。
 いや――――寝てなかったのかもしれない。
 意識の混濁もなく、直ぐに心配そうな顔で近付いて来たから。
「所長、大丈夫ですか? やっぱり病院に行った方が……」
「心配かけて済まないが、大丈夫だよ。それに、今は時間外だし」
 時刻は既に18時を回っている。
 保険証もないのに、こんな時間に病院へは行けん。
「熱は……」
 体温計を受け取り、脇にセット。
 頼むぜ体温計。
 彼女をこれ以上不安にさせないような数値を――――
「……40度?」
「え、ええっ!?」
 測り間違いの可能性を考慮し、再度測定。
 40度1分。
 上がってるやんけ。
 って言うか、40度って!
 生まれてこの方、39度も初めての経験なのに……40度!?
 これって、生きてて良い体温なん!?
「しょ、所長……」
 常軌を逸した状況に、胡桃沢君がこの上ない不安な瞳を向ける。
 俺だって不安だ。
 人間、体温計の数字の支配からは逃れられない。
 40度と知った途端、急激に体調が悪化したような気がした。
 睫毛がチリチリして、気をまとったかのような感じがするし、手足は痺れて感覚が薄い。
 38度台は、フワフワと浮いているような感覚なんだが、40度に行くと、逆に何もないトコに
 固定されてる感じだ。
 一方、ケツには尋常じゃない熱が籠もって、火傷しそうなくらい。
 そして、体力はビックリするほどなく、寝返りを打つだけで息切れする。
 まるで、超能力者が興奮の余り力を暴走させているかのような、ヘンな感覚だ。
 別の生き物に生まれ変わったような、異様な高揚感すらある。
「さ、流石に解熱剤くらいは使った方が良い、かな。はは……」
「買ってきます!」
 フットワークの軽い胡桃沢君が近所のドラッグストアで買ったバファリンを飲んで、
 ソファに横たわる。
 動悸が止まらない。
 俺……死ぬのか?
 死なないにしても、このまま体温が下がらないと、後遺症とか残りそうな気がするぞ。
 怖い。
 人生で死を意識したのは、今回が初めてかも知れない。
 動悸が尋常じゃなく早まっていく。
 な、何か、別の事を考えないと。
 別の事……別の事……別の事……アレしかないか、俺には。
「胡桃沢君」
「はい」
「君はさっき……あの白鳥和音は、嘘を吐いているようには見えなかった、って
 ニュアンスの事を言ってたよね」
「は、はあ……なんとなく、言ったような」
「俺も同意見だ。あの子はきっと、本当の事を話してる。嘘を吐く人間特有の、少し余裕を
 演出するような不自然な動きや話し方は見られなかった。語尾は変だったけど」
「変でしたね」
 同調するのか、そこを。
「だから、彼女が記憶喪失なのは、本当だろう。ま、これは明日にでも、彼女の治療を
 してるって言う医師に確認を取れば済む話だ。そもそも、そんな簡単にわかる嘘は
 吐かないだろう」
「そう思います」
 と、なると――――
「引き籠もりって言うのは、嘘。記憶喪失は本当。だったら何故、そんな嘘を夫妻が吐く必要が
 あったのか……」
 俺の呟きは、沈黙を生んだ。
 緩やかに、時間が流れる。
 高熱に踊らされる俺は、その時間を、まるで温水プールに漂っているような感覚で過ごした。
 無論、あんなに気持ちよくはないが。
「あの……」
 暫時の後、胡桃沢君が恐る恐る、手を上げる。
「私……私なりに考えてみたシナリオがあるんですけど、良いですか?」
「それでこそ探偵の助手」
 俺の返答に少し恥ずかしそうにしつつ、胡桃沢君は持論を展開した。
 その内容は、言ってみれば陰謀論だ。
 幼少期から、白鳥夫妻によって日常的に虐待されていた白鳥和音は、
 ある日何らかの拍子で頭を打つなどして、記憶を失う。
 当然、原因は夫妻にあるのだが、もし夫妻の目の行き届かない所で記憶が戻れば、
 その事実が和音の口から外部へと漏れてしまう。
 よって、自分達の目の前で、記憶を取り戻して貰う必要がある。
 そこで、記憶が戻るまで、自分達の監視下に置いておくと言う生活スタイルを
 確保する事となった。
 医師の治療には常に同行。
 一方で、登校はNG。
 この二つの行動を自然なものとするには、『過保護な親』である事が不可欠となる。
 だが、そうなると、過去の和音の事を根掘り葉掘り聞かれた際に、答えられないと言う
 矛盾が生じる。
 その矛盾を解決する為の設定が、『引き籠もりだったから、わからない事も多い』と言うもの。
「実際、あの時に夫妻は、これを言い訳にして、深く立ち入る事を暗に拒絶していました。
 所長が尋ねてもいないのに、そんなネガティブな事を進んで話したのは、不自然だと思います」
「成程ね」
 やっぱり、俺の目に狂いはなかった。
 この子は優秀だ。
 俺も、全く同じ事を考えていた。
 ……ホントだよ?
 人間、自分を責める時には大抵、何かしらの予防線を張ってるもの。
 その典型的な発言だったから、引っかかっていたんだ。
「と、なると……今回の依頼は、犯罪者が自分の犯行を隠蔽する為に、探偵である俺を
 利用しようとしている、って構図になるな」
「そうだと思います。所長はどうお考えですか……って、すいません! 40度も熱がある人に
 こんな事を語ってしまって……」
 深々と頭を下げて反省する助手。
 悪くないね。
 体調は最悪だけど、気分は悪くない。
 ただ――――
「引っかかるのは、かつて虐待を受けていたにしては、あの部屋は妙に風通しが良いというか、
 そう言う人間が住んでいた部屋には見えない、って点だな」
 若葉色の薄いカーテン。
 これが引っかかる。
 もし、娘を虐待している親がいるとしよう。
 その親が、そんなカーテンを用意しているだろうか。
 その娘が、そんなカーテンで生活できるだろうか。
 観葉植物にしても、そうだ。
 一見、癒やし効果があるそれは、あっても不思議じゃないように思える。
 けど、虐待に遭っている人間が、部屋から出て、水道から水を汲んで、
 それを植物に与えると言う作業を、定期的に行えるだろうか?
 水道なんて、台所かトイレにしかないんだ。
 そこは親との居住空間。
 わざわざ、鬼がいる空間に足を運ぶだろうか。
 引き籠もりって言うのは、部屋からほぼ出ない事を指す。
 これは、恐らく嘘。
 でも、虐待があるとしたら、部屋から出ないか、『家に近寄らない』かのどっちかが
 自然な行動じゃないだろうか。
 恐らく、彼女は後者を選択している。
 家の中にあった『香水』が、そう語っている。
 他は兎も角、香水は外出しない人間には必要ない。
 そうなると、あの観葉植物の瑞々しさはは不自然だ。
「それは……あの両親がカムフラージュの為に用意したんじゃ」
「それなら、自分らの言動との整合性を図るさ。引き籠もりじゃない事を悟られないようにね」
「あ、そうですよね」
 つまり、あの部屋は彼女――――白鳥和音の本質が詰まっている空間って事だ。
「でも、そうなると、あの彼女の印象と、香水やインテリアグッズがちょっと結びつかないです」
「それは、俺も思った。記憶を失って、子供っぽくなった……?」
 そう言う事例は、ままあると言う。
 ただ――――あの語尾の印象とは裏腹に、彼女の質疑応対は、年相応にしっかりしていた。
 そんな彼女が、動揺した箇所があったな。

「それじゃ、更に質問。『ここが自分の部屋だ』って事は覚えてた?」

 この質問の時だ。
 これは、俺の用意したブラフ。
 記憶喪失であっても、本来なら忘れてしまうと言う事はないものだ。
 これに対し、白鳥和音はしっかりと『正解』を答えた。
 よって、俺は彼女が真実を語っていると判断したんだが――――
「少し作為的なモノを感じたんだよな」
 少し間を置く程度なら自然だが、驚くのは不自然だ。
 まるで、事前に用意していない回答を迫られたかのような感じ。
 それも含め、彼女には不自然な点が多い。
 ぬいぐるみと香水と言う、奇妙な取り合わせ。
 冷静な対応と、子供じみた語尾。
 そして、虐待を受けていたかもしれない過去と、記憶を失った現在――――
「……まさか、な」
 俺の中に一つ、突拍子もないストーリーが一つ、浮かんだ。
 探偵モノでは、割と良くある設定。
 でも、現実にはまず、お目にかかれない設定だ。
 今の俺だからこそ、着想できたってのもある。
 病気中の俺だからこそ。
 とは言え……流石にそれを口にするのは憚られた。
「ま、何にしても、胡桃沢君には明日色々動いて貰うよ。宜しくお願い」
「わかりました。所長は早く、病気を治して下さいね。でも本当、何の病気なんでしょうね。
 40度も熱が出るなんて……」
 全くだ。
 俺は一体、どうなっちゃったんだろう。
 ああ……思い返すとまた、動悸が……
「兎に角、もう三日も何も食べてないんですから、水分だけでも補給しましょう。
 アクエリアス沢山買ってきてるから、しっかり全部飲んで下さいね」
「ぜ、全部……?」
 微妙に世間とズレている彼女は、一本2リットルのアクエリアスを
 人間一人が一日で30本も飲んだらおかしくなる、と言う事を知らないらしい。
 ま、確かに水分は必要だ。
 どんどん摂取して、汗掻いて、新陳代謝を高めて、熱を下げる。
 今日はこの作業に集中しよう。
 まだ俺は死にたくない。
 やるべき事は、まだある。
 やりたい事は、まだまだある。
 そう簡単に、死んでたまるか――――


 それから、二日後。
 俺の体調はと言うと、驚くほど呆気なく、快方へと向かっていた。
 解熱剤と水分補給が効いたのか、あの日をピークに体温はどんどん下降。
 今は37度台前半だ。
 しかしながら、高熱と引き替えに、今は別の症状に苦しんでいる。
「ふぅ……」
 本日、12度目のトイレタイム。
 けれど、出た瞬間にはもう、腹がグルグル言ってる。
 そう。
 この五日間、俺を苦しめていた原因は――――胃腸炎だった。
 原因は、恐らく複合的なモノ。
 フクロウの一件で疲労もあったし、ストレスもあった。
 けど、一番の要因は、その餌として購入したラットだ。
 そこから、細菌を貰った可能性が高い。
 つーか、間違いなくそれだろう。
 熱が下がって、冷静になったところで考えた結果、その結論が出た。
 胃腸炎で40度の高熱なんて、正直信じ難いものがあるけど、どうやら別に珍しくもないらしい。
 手洗いを怠った事で、実に四日間も寝込むハメになってしまった。
 しかも、今尚動けないし。
 トイレのない場所へは、とても移動できない。
「所長、ただ今戻りました」
 何より、そんな今の俺を彼女に見られるのが、余りに辛い。
 トイレの主だぜ?
 そんな所長、嫌だよなあ……
「病院に確認をとった所、最初はプライバシーに関わるので、患者の事は一切話せないとの
 事でしたが、親戚を装ったところ、あっさりと教えてくれました。記憶喪失は間違いありません」
「個人情報のセキュリティって、案外その程度なんだよな……」
 実際には、もっとちゃんとしてる所が多いとは思うが。
「あと、町長さんに頼んでいた件ですけど、回答を貰ってきました。メモを取っています」
「見よう。トイレの中で」
 と言う訳で、トイレタイム。
 今やすっかり、ここでの推理が定着している。
 便所探偵、W.C.トイロ。
 ……死にたい。
 とは言え、死んでても仕方ないんで、早速確認。
 何々……『虐待の噂は、和音が小学生の頃まで。以降は寧ろ、和音が夜な夜な外に出かける
 事が噂になっているようだ。       P.S. わーいゲリP探偵こっちくんなえんがちょー 静葉
 後半は、後で事務所のグラッジノート(怨みごとを記録する帳簿)に書いておくとして。
 こっちも、裏が取れた。
 胡桃沢君(と俺)の推理は、ある程度正しかったようだ。
 後は、白鳥和音の不自然さを探るだけだ。
「と言う訳で、尾行をお願い。探偵の初歩だから、この機会に覚えておいで」
「わっかりました! 胡桃沢水面、尾行、行きます!」
 嬉々とした顔で、胡桃沢君は出て行った。
 ……ちょっとあの子の性格、掴み辛い。
 心に抱えていた闇が晴れて、探偵の助手って言う非日常に身を置いて、
 少しハイになっているのかもしれないな。
 ま、なんにせよ――――
「しょぼん……」
 初日で成功する筈もなく。
「……すいません、失敗しました。見失いましたぁ……」
「そう簡単に上手く行く筈ないんだから、気にしなさんな」
「所長〜……ううう、挽回のチャンスを〜次は必ず上手くやりますっ!」
 まあ、夜な夜な外出している所を抑えてる時点で、一応は裏付けとしては十分な成果に
 なってるんだけど、出来ればもっとしっかりした真相を知っておきたい。
 それに、胡桃沢君の尾行スキルを上げるには、格好のシチュエーションだ。
「引き続き、頼んだよ」
「任せて下さい!」
 その後、俺の体調がある程度回復するまで、尾行が成功することはなかった。


「……で、俺が直々にやって来た訳だが」
「すいません……私、才能ないみたいで」
 赤面しながら背中越しに俯く助手に苦笑しつつ、通販で買った尾行セットを
 フル装備している俺はと言うと、今目の前にある光景に、暫し目を疑っていたりする。
 ここは、街のとあるコンビニの前。
 まあ、若者のたまり場としては、スタンダードなスポットだ。
 そこに、他の同世代の女子に混じって――――彼女はいた。
 茶髪に染めて、シックな色合いの服装にまとめ、タイツを履いたその姿は、
 実年齢より若干大人びて見える。
 周囲の女子が学生服だけに、まるでOGのようだった。
 ま、ここでこうしてても仕方ない。
「ちょっとゴメンねー」
 俺は気さくに、その集団に話しかけに行った。
「所長、スゴい……女子だけの不良の溜まり場に声かけるなんて、一番ハードル高いのに」
 後ろで妙な感心のされ方をしている一方で、前方からは露骨にメンチ切られている。
 人生経験の希薄さが露見した、表現の弱い睨み。
 怖い筈もない。
 現実の理不尽さや、胃腸炎の恐怖とは雲泥の差よな!
「そこの君。白鳥和音さんで、間違いないよね」
「はぁ? 何いきなり名前呼んじゃってんの?」
「ナンパじゃね? そのナリで。マジ受けるんだけど」
「……言い回し古」
 あ、つい本音が。
「ハァ!? 何ワケわかんねーコト言ってんだよコイツ! マジムカツクんだけど!」
「うっせーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 胃腸の不調から脱した俺は、有り余る元気を大声に乗せた。
「……な、何なんだよコイツ。意味わかんねー。コワ過ぎ」
「コワいのはお前等の将来だっつーの。で、どうなの。違うの?」
 微妙に傷付いたっぽい周囲を無視し、だんまりのターゲットへ再度問う。
「それとも、君には別の名前が付いてたりするのかな?」
「……」
 反応があった。
 畳みかけるなら、今しかない。
「ま、ここでどうこうって気はないよ。じゃ、後日また」
 とは言え――――『彼女』には、『彼女』の生活がある。
 それを壊すわけには行かない。
 俺は颯爽とその場を去ろう――――
「テメー……まさか、このまま帰れるとか思ってねーよな?」
 とした所、キレてる不良の皆様に囲まれてしまった。
「しょ、所長!?」
「胡桃沢君は先に帰ってて。尾行の見本は大体わかったでしょ」
「そ、そんな訳には! 所長のピンチは私のピンチ! 私も闘います! きやがれアバズレ!」
「……アバズレ」
 その前時代的、かつ秀逸な表現に、俺は思わず吹き出してしまった。
「て、テメーら……殺すぞ」
「いや、マジ受けただけだから、気にすんなって。お前等も直ぐマジ受けるじゃん」
「意味わかんねーんだけど!?」
 本格邸にブチキレした女子数名が、いよいよ掴みかかろうとして来た、まさにその時――――
「止めなさい!」
 鶴の一声が、コンビニ前に響き渡った。
 それは――――
「ったく……良いようにあしらわれて。だらしない」
 ずっと沈黙を保っていた、白鳥和音の――――まるで『別人』のような声だった。
 

 幼少期に、虐待を受けるなどして、心に大きな負荷を受けた人間は、その記憶を遮断する為、
 人格ごと切り離す事がある。
 それは、人間の防衛本能であると同時に、疾患でもある。
 その、ある種『故意に行われる患い』の名は――――解離性同一性障害。
 俗に言う、二重人格だ。
 白鳥和音は、幼少期に受けた虐待によって、別の人格を生み出していた。
「名前は……一応、『三和(みか)』。付けたのはあの子だから、あたしが笑われても困るんだけど」
「全然笑ってないだろ」
 その人格が、白鳥三和。
 彼女は既に、小学生時代から存在していた人格らしい。
 元々、おっとりした性格の和音とは異なり、彼女は明るく快活な性格だった。
 そうなれば当然、親を初めとした周囲は訝しがる。
 とは言え、現実に『二重人格』を疑う事はなく、無理をして明るく振る舞っていると
 判断され、親の虐待はエスカレートした。
 しかし、一人ではどうしようもなかったが、二人なら何とかなる。
 知恵を出し合い、見出した解決策は――――家に極力近付かない、と言うモノ。
 外出時は『三和』が主導権を握り、直ぐに友達を作ったと言う。
 それが、先程までピーチクパーチク言ってた彼女ら。
 三和いわく、『みんな良い子』らしい。
 オジさん、良くわかんね。
「どう見ても同世代なんだけど……」
「気にするな。社会に出ると、誰もがフケるんだよ」
 そんな俺の発言に胡桃沢君が敏感に反応している中、三和の回想は続く。
 中学に上がった頃には、外出作戦が功を奏し、虐待はほぼ止んでいたと言う。
 しかし――――それが最近になって、再び起こり始めた。
 原因は、実に身勝手なモノ。
 更年期障害だ。
 様々な体調不良が押し寄せたコトで、夫妻はお互い、常に不安定な精神状態になった。
 その捌け口に、娘を選んだと言う訳だ。
 世の中には、こう言う『子供を道具にする』親が、確実に存在する。
 親でなくとも、親戚の子を性の対象とする人間もいる。
 それも、当たり前のように存在している。
 これが現実だ。
 で、その新たな対処法として、彼女等が考えついたのが――――記憶喪失だった。
 記憶を失えば、自分達が『爆弾』を抱えているのと同じ状態になる。
 いつ『暴露』という名の爆発をするかわからない、禁断のボム。
 案の定、白鳥夫妻は虐待の手を止め、保身に走った。
 そう言う意味では、優れた手法だったのかもしれない。
「記憶喪失のフリって、あたし達にしてみれば、簡単。基本、自分の人格が表に
 出てない時の記憶なんて、敢えて聞いた事以外は知らないんだから。本当に知らない事を
 知らない、って言うだけだから、フリですらない」
「確かにな」
 部分健忘なら、それで十分通る。
 ある意味、嘘を吐いている訳でもない、って事だ。
 道理で、俺もアッサリ騙されたワケだよ。
 特定の医師に、どちらかの人格のみが対応すれば、その時点で立派な記憶障害者の
 出来上がり。
 それが、今回の事件の真相だった。
 二重人格――――それなら、あの部屋の腑に落ちない点にも合点がいく。
 二人の人間の趣味が混在した部屋だったんだ。
「なんか、ゴメンね。ウチのゴタゴタに巻き込んじゃって」
 三和は、俺じゃなく胡桃沢君の方に謝った。
 和音の方から、彼女の心証について話が行ってるんだろう。
 明らかに、俺に対してとは態度が違う。
「ううん、そんな事……それより、どうしても一つ、聞きたい事があるの。良い?」
「何? 両親の事?」
「和音ちゃんのあの、語尾なんだけど……あれって、ボロが出ても目立たない為の工夫、とか?」
 俺もその可能性を考慮していたが――――三和はその首を横に振った。
「あたしも、アレに関しては全然わかんないって言うか……ちょっとそこの探偵、調べてくんない?」
「報酬くれるんなら、喜んで」
 返ってきたのはアカンベーだった。
 こうして。
 一つの謎は残ったものの、無事に事件の真相は明らかとなった。
 ただこの場合、彼女の記憶を取り戻した事にはならないし、それは不可能だ。
 記憶は、最初からあったりなかったりなんだから。
 つまり、最初から成功する可能性ゼロの、詰み依頼。
 病気を押してまで取り組んだのに……当然、報酬も出ることはなかった。
 で。
 その後はどうなったかと言うと。
 まず白鳥家に、市の立ち入りが行われた。
 町長が呼びかけたらしい。
 一応、探偵である俺のお墨付き。
 で、白鳥和音の証言もあって、白鳥夫妻は逮捕……こそされなかったものの、
 夫妻と和音(三和)は離れて生活するように、と言う通告が出された。
 夫妻はそれを不服とし、無効となるよう訴えているようだ。
 ま……仮にそれが受理されるとしても、その頃には、彼女は高校を卒業してるだろう。
 寮のある大学にでも入れば、一人暮らしをする上で、何の支障もない。
 つまりは、一件落着だ。
「探偵は何処だ! あのクズ探偵は何処だ!?」
 ……俺の自治会費の支払いの件を、除けば。
「あ、町長さん。おはようございます」
「ああお早う。で、探偵のバカは何処へ行った! 今日という今日はこの鬼包丁で
 刺身のツマにしてやるつもりだよこっちは!」
「しょ、所長ならついさっき、依頼主に会いに……」
「どっちに!?」
「あ、あっち、かなー?」
 胡桃沢君の指した方向へ、町長はザザザーッと走って行った。
 包丁を持ってない方の手が、ナチュラルにアイアンクローになってて超怖い。
「所長……」
「あ、胡桃沢君。いつも悪いね。居留守なんて使わせて」
「いえ。でもその……疲れませんか、その体勢」
 ちなみに俺は、玄関の真上にある角で、忍者のごとく潜んでいた。
 探偵たる者、これくらいは出来ないとな。
「全く、町長の集金はヤクザの数倍怖いな」
「でも、会費はちゃんと払わないとダメだと思うけどなあ……」
 あの記憶喪失事件から数日。
 町長の猟奇的集金以外にも、幾つか変わった事があった。
 まず、胡桃沢君の態度。
 二人の時は、以前よりちょっとだけ、フランクになった。
 看病効果、とでも言うのか。
 悪い気はしないよね。
 で、もう一つ――――
「こんにちは」
「あ、和音ちゃん。いらっしゃーい」
 休みの日等に、白鳥和音が遊びに来るようになった。
 友達の多い三和とは違い、その三和以外は知り合いすら殆どいなかった
 彼女にとって、胡桃沢君は良い話し相手らしい。
 あのオオカミ耳が、琴線に触れたとか。
 ま、別に良いけど……探偵事務所って、こんな女子の溜まり場みたいな空間だったっけ?
 なんか今の姿、以前解決した『ハーレム案件』の彼には、見せられないなあ……
「所長。これから和音ちゃんとお買い物に行くんですけど……」
「ああ、良いよ。行っといで」
「いえ、その……」
「探偵さんも一緒に行くにょん」
 なんとも間延びした声が、室内に響く。
「は?」
「えっと……お食事、一緒にどうかなと思って」
「当然、奢りにょん」
 時刻は11時。
 確かに昼時だ。
 基本、お金のない時は、一日一食廃棄弁当限定な俺だが……
「……今日だけだぞ」
 親や親類に恵まれない者同士の親睦を深める為の、交友費。
 嘆息しつつ、そんな名目を頭に浮かべ、俺は事務所の経費から2,000円ほど抜き取った。

 この2,000円の出費が、後に事務所を揺るがす大問題を引き起こすのだが――――


 それはまた、別の話。






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