おはよう。
若しくは、こんにちは。
或いは、こんばんは。
最近ようやく経営の危機を乗り越えたばかりの狭間十色だ。
といっても、探偵家業と貧乏は切っても切れない関係。
人手が足りない程の数の依頼が舞い込んできて、てんやわんや……
なんて事は流石になく、慎ましやかに、穏やかな一日を過ごしている。
ただ――――この日は違っていた。
「……ありがとうございます。では明日から調査を行いますので。
そうですね、一週間くらい見て頂ければ、ハッキリした結論を
出す事が出来ると思います。はい。では失礼します」
一通り、依頼主の話を聞いた俺は、小さく息を吐き、
右側に置いていたノートに目を向けた。
少しだけ憂鬱。
とはいえ、これも仕事なんだから、仕方がない。
「所長……随分長い事話してましたね」
助手の胡桃沢君が、いつもの獣耳をもふもふさせながら、
ゆっくりと近付いてくる。
今日の彼女の服装は、淡い青色のワンピース&チュニック。
休日なんで、制服姿じゃない。
午前中からここで待機し、優雅に紅茶を嗜んでいる。
そんな中、突然鳴り出した電話。
最初は彼女が対応したけど、仕事の依頼という事で、
俺が代わって話を聞き、今に至る――――という訳だ。
「これ、さっきの依頼のメモ書きですよね。こんなにビッシリ……って、
もしかして、会話内容全部メモしてるんですか?」
「ああ。今回だけはね。ちょっと必要性を感じたから」
そう。
さっきまで話していた依頼主との会話を、俺は全てノートに書き込んでいた。
速筆のスキルは、探偵には必須。
勿論、最初から身についていた訳じゃない。
天才的な推理は出来ないんだから、こういう努力くらいはしないとな。
ただ――――大抵の依頼は、この技術の出番はない。
電話での対応の後、直接落ち合うケースが多いからだ。
でも、偶に電話だけで解決できる案件もある。
若しくは、電話での会話の時点でその全容が明らかになる事も。
今俺の隣にいる、胡桃沢君との一件も、その最たる例だ。
そして、今回も。
けど、理由はそれだけじゃない。
「胡桃沢君。今回の件、君に任せようと思うんだ」
「……え? 所長、今、なんて言いました?」
「いや、だから、今回の件を君に――――」
「任せて貰えるんですね!?」
恐らく、一度目の時点でちゃんと聞こえてたんだろう。
胡桃沢君は食い気味に、興奮した様子で身を乗り出してきた。
うーん……もっと胸元が開いてる服ならなあ。
「本当に良いんですね? 私、やっとこの事務所のお役に立てるんですね?」
「いや、これまでも十分役立ってたんだけど、そろそろ経験積ませるべきかなー、と」
以前のステマ騒動の時、彼女が『助手としての自分』の確立を求めている
という事が、明確に判明した。
こっちとしても、彼女に任せられる案件が増えれば、色々心強い。
「これで私も、このもこもこ耳以外で個性を発揮できるんですね!」
それ以上に、胡桃沢君はキャラが薄い事を気にしているらしい。
そんなの、俺だってそうなのに。
そもそも、探偵の仕事に強烈な個性なんぞ要らん。
「まあ、そういうのは置いといて……取り敢えず、これを見て」
「あ……もしかして、私の為に全部メモしておいてくれたんですか?」
胡桃沢君の顔が、パァッと明るくなった。
固定電話に関しては、一応常に録音している。
よって、単なる二度手間防止。
それだけで感激されると、少し嬉しくなる。
一人の時には感じる事の出来なかった、確かな温もりだ。
「それでは、早速拝見」
嬉々とした胡桃沢君は、ノートを手に取り、初めて担当する
案件の依頼内容にじっくりと目を通し――――
「ほー……」
目を通し――――
「……」
目を通し終える頃には、目が死んでいた。
「読み終わった?」
「……あの、所長。本当に私で良いんですか?」
「一応、吟味した結果なんだけど……どう?」
「なんか、自信がなくなって来ました……」
泣きべそをかきながら鳥肌を立てている胡桃沢君は、
手にしていたノートを放り投げる勢いで机に置いた。
そこに書かれている内容は、というと……
俺(以下H)「もしもし。お電話代わりました。
はざま探偵事務所所長、狭間十色と申します」
依頼者(以下C)「あ、はい。あの、御相談したい事が」
H「承ります。どのような御用件でしょうか」
C「はい。実は、私……ストーカー被害に遭っていまして」
H「ストーカーですか。つまり、何者かにつきまとわれている、という事ですか?」
C「そうです。いつも後から尾けられているんです。監視されているんです」
H「成程。監視ですか。わかりました、詳しい話を聞かせて頂きますが、宜しいですか?」
C「はい、大丈夫です」
H「ありがとうございます。では、まずは貴方のお名前、年齢、お仕事、
お住まいの地域を教えて下さい」
C「木村文子と言います。アヤは、文章の文です。年齢は、26です。仕事は……
今は職に就いていません。住まいは共命町の一丁目です」
H「わかりました。あと、これは依頼された方全員に確認している事ですので、
気を悪くされないで頂きたいのですが、性別の確認をさせて下さい。
女性で間違いないでしょうか?」
C「はい。間違いありません」
H「すいません。稀に、声の印象と性別が異なるケースがありますので」
C「いえ、大丈夫です」
H「ありがとうございます。では……木村さん。貴方が監視されているという
状況をお話して下さい」
C「状況……と言いますと」
H「どういった状況で、監視されていると気付いたのか。出来れば、その経緯も
お話し頂けると、より的確な初動調査が出来るかと思います。具体的に言いますと、
最初におかしいと感じた頃のお話から始めて頂ければと」
C「わかりました。最初に私の行動を監視されていると感じたのは、
今から5年前の事です」
H「5年前、ですね」
C「はい。その時は、私は会社勤めで、毎日夜遅くまで残業していました。
正直、かなり辛かったです。体調も崩しました」
H「体調を崩した期間はどのくらいですか?」
C「少しの間です。その後、一時期残業が減って、大分楽になったんですが、
その後にまた酷くなって。本当に辛くて、死にそうでした」
H「帰宅時間はかなり遅かったんですね?」
C「はい。入社当初から暫くは弟に車で送って貰っていたんですが、ある程度慣れてきて、
大丈夫かなと思って。体調も一時回復しましたから、そこからは自分で」
H「電車を利用されて?」
C「はい。家からオフィスまでは、三つの駅しかないので、乗車時間は
10分程度でしたけど」
H「駅からオフィスまでと、駅から家までは、徒歩何分くらいでした?」
C「駅からオフィスまでは20分、駅から家までは30分くらいです」
H「成程。では、監視というのは、そのどちらかで行われたという事ですね」
C「はい。駅から家までの帰り道です。ある日、突然後ろから付いてくる人の気配が
あって、その時には怖くなって振り向かずに走って帰ったんですけど、
翌日も全く同じ視線を感じたんで、勇気を出して振り向いてみたんです」
H「すると?」
C「誰もいませんでした。ただ、その道には電信柱や自動販売機が沢山
あったんで、そこに隠れてたんだと思います」
H「確認はしなかったんですね」
C「はい。怖くて……仮にそこに誰かいて、刃物でも突きつけられたらと思うと」
H「その後は?」
C「同じです。毎日視線を感じていました。でも、振り向いても誰もいない。
そんな状態が、ずっと続いていました」
H「具体的には、どれくらいの期間ですか?」
C「2年です。流石にもう無理と思って、帰り道を変える事にしました」
H「それで、状況は変わりましたか?」
C「最初は。降りる駅を一つ前にしたんです。その分、帰宅時間は遅くなりましたが、
ストーカー被害もなくなって、安心してたんですが……」
H「再び気配がした、と」
C「そうです」
H「道を変えて、何日くらい経って?」
C「一週間くらいです。きっと、最初私が降りてた駅で待ち構えてたけど、
私が一向に現れないから、別の駅を探したんだと思います」
H「その後も状況は変わらず?」
C「はい。だから、今度は時間をずらしました。一時間遅くしてみたんですけど、
やっぱり一週間後には尾けてくる気配がして」
H「振り向きましたか?」
C「はい。でも、同じように誰も見せませんでした」
H「自販機や電柱は?」
C「ありました」
H「わかりました。それで、その後は?」
C「このままだと、いつか襲われると思ったのと、私自身が参ってしまっていたので、
会社を辞めて引っ越す事にしました」
H「引っ越したんですか。その最初の被害に遭った際には、この近辺には
住んでいなかったという事ですか?」
C「はい。別の県でした。その後も三度、転々として、ここに来たんです」
H「そうでしたか。という事は……他の場所でも、同じような被害に?」
C「はい。引っ越して暫くは大丈夫でしたけど、その後もまた尾けてくる
男が現れて」
H「その連続という事ですか?」
C「はい。県を変えても尾けてくるなんて、異常だと思って、警察に相談したんです」
H「警察はなんと?」
C「ハッキリとした証拠がないと、動きようがないと言われました。
脅されたり、家まで尾いて来たりしない限りは動けない、と」
H「家までは尾けて来なかったんですね?」
C「わかりません。ただ、家に着くまでは気配があって、家に入った後で
窓から外を覗いてみても、誰の姿もありませんでした」
H「という事は、家を覗いてはいなかった」
C「だと思います」
H「休日は?」
C「休みの日は、特に気配は感じませんでした」
H「外出していても?」
C「はい。夜に出歩く事はなかったので、それでじゃないかと……」
H「そうですか。では、もう少し突っ込んだ質問をします。良いですか?」
C「構いません。どうぞ」
H「この5年間、尾行している人の姿を見かけたことは?」
C「一度もありません。ただ、絶対に誰かが尾行しています」
H「ならば、尾行される心当りは?」
C「……ありません」
H「全くありませんか? ここは非常に重要な所です。もし、ご自身の
プライバシーに抵触する事で何か心当りがあるなら、具体的な説明は
しなくても良いので、あるかどうかをもう一度考えてみて下さい」
C「あの……かなり前になりますけど、良いですか?」
H「勿論です」
C「高校生の時、付き合っていた男子がいて」
H「はい」
C「その人とは疎遠になったんですけど、その時の別れ方が少し……」
H「ケンカ別れだった、と」
C「はい。少し強く言い合って」
H「では、彼がストーカーである可能性が存在すると感じていますか?」
C「いえ。それ以来一度も会ってないですし、突然彼が何も告げずに
尾行するのは、不自然だと思います」
H「確かに。それは正常な判断だと思います」
C「でも、他には心当りは……」
H「全くないですか?」
C「……はい」
H「わかりました。では次の質問です。貴女は一人っ子ですか?」
C「いえ。先程も申しましたが、弟が」
H「おっと、失礼しました。弟さんは何歳でしょうか?」
C「私より4つ下です。今年で22になります」
H「22ですね。親御さんはご健在ですか?」
C「はい。二人とも」
H「そうですか。それで、今は一人暮らしなんですか?」
C「そうです」
H「弟さんは?」
C「一人です。昔はとても良い子だったんですが、変わってしまって……
両親も手を焼いていたんだと思います」
H「以前は仲の良い姉弟だったんですか?」
C「はい。年齢も離れてるので、いつも一緒という訳ではなかったんですが、
休日には、弟の趣味に付き合う形で、一日中ジグソーパズルを作ったりしていました」
H「わかりました。では、場合によっては実家に身を寄せる事も視野に入れて下さい。
最初にストーカー被害にあった地域ですか? 実家があるのは」
C「そうです。ここからは遠いですけど……」
H「それでも、現在もストーカー被害が続いているというのであれば、
危険性という面でここより上がる事はないですし、実家に戻る事も
考えておいて下さい。御両親がおられる分、安心でしょう」
C「でも、両親に迷惑をかけたくありません。この事も言ってませんし……」
H「そうですか……まあ、両親を不安にさせたくはないですよね」
C「はい……」
H「ちなみに、高校を卒業されてからは、直ぐに社会人に?」
C「いえ。短大を出て、20歳から会社に入りました」
H「大学は、実家の近くでしたか?」
C「そうです。高校からもそれ程離れてはいません」
H「わかりました。では、最後の質問です。ストーカーに対して、
貴女はどういった感情を抱いていますか? 先程の話を聞く限りは、
恐怖を感じているという印象を受けますが」
C「それは、勿論です。後は……兎に角、止めて欲しいです。
監視さえ止めてくれれば、それ以上どうこうする気はありません。
きっと、精神的におかしくなっているからだと思いますから」
H「……ありがとうございます。では明日から調査を行いますので。
そうですね、一週間くらい見て頂ければ、ハッキリした結論を
出す事が出来ると思います」
C「あ、わかりました。宜しくお願い致します」
H「はい。では失礼します」
……以上。
結構長めの電話だった。
「ストーカーを一人で捕まえる自信、ありませんよー……」
その記録の一部始終に目を通した胡桃沢君が、怯えた声で首をプルプル
左右へ振っている。
そこまで過激な案件じゃないんだけどな……もっと酷いの結構あるし。
それに――――
「捕まえるのは、俺等の仕事じゃないの。それは警察」
「でも、調査するんですよね? その段階で、襲われでもしたら……」
「その可能性はないな」
「え?」
まだ半泣きの胡桃沢君は、恐る恐るといった顔で聞き返してきた。
ストーカー、苦手なのか。
浮気に過剰反応、ストーカーに過剰反応……つくづく探偵に不向きな性格だな。
「君に、外に出て調査して貰うつもりはない。ここで、この事務所内だけで
この事件を解決へと導いて貰う」
「それって……まさか、安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)!?」
「何故一回日本語で言って、英語でもう一回言ったのかは知らないけど、
まあそんな感じかな」
「所長が私を救ってくれた時と同じ事を、私にやれと、そういう事ですね!?」
胡桃沢君は急にテンションが上がり出した。
この子、清楚系なのか、元気系なのか、イマイチよくわからん。
キャラが薄いってより、定まってないんじゃないか?
「わかりました。私……やります! この事件を事務所だけで解決してみせます!」
怒り笑いの顔で、声高にそう宣言した胡桃沢君は、俺の記述したメモと
壮絶なにらめっこを始めた。
さて、俺は紅茶でも飲むか。
探偵と言えば紅茶。
これは譲れない。
いや、コーヒーも探偵には似合うとは思うんだ。
タバコとコーヒーの匂いは、ハードボイルドには必須。
でも、俺はそっち系は目指してないし、どっちかってーと紳士な感じが
自分には合ってる気がする。
そんな訳で、ダージリンティーのティーパックをイン。
なにしろ、100パック入って398円。
1パック4円以下。
それで優雅な一時を楽しめるんだから、なんて経済的なんだ。
そんな庶民の味方とも言える飲み物に感謝を示しつつ、暫しの時を過ごし――――
2時間後。
「……謎は全ていつも一つ!」
なんかごっちゃになった決めゼリフと共に、胡桃沢君が立ち上がった。
「所長。私なりの見解をまとめてみました」
「いいね。聞かせて貰おう」
こっちはこっちで、一回言ってみたかった、このセリフ。
ドヤ顔が一時期流行ったけど、これは所謂『ドヤ台詞』だ。
そんな俺の挑発的な言葉に、胡桃沢君もドヤ顔を返してくる。
ノリノリだ。
仮に、こういう場面を他人に見られると、真面目に仕事してないとか、
依頼者に対して真摯じゃないとか言われそうだけど、どうか見逃して欲しい。
推理モノっぽい展開、久々なんです。
燃えざるを得ないんです。
探偵なんてやってても、滅多にないんですから!
「それでは、結論から言います」
「……え? もっと勿体ぶっても良いんだよ?」
「犯人は……」
いかん、テンションが上がり過ぎて巻き入ってる。
俺の言うコト聞いちゃいない。
「弟です!」
ビシィ〜っと、そんな答えをドヤ顔で言い放った胡桃沢君の目は、
自信に満ちていた。
「弟、か。取り敢えず解説を聞こう」
「はい。まず、所長と依頼者とのやり取りから、彼女のストーカーとなり得る
人物像を抽出しました。考えられるのは、弟、元彼、そしてそれ以外の男性です。
犯人が男性である事は、彼女が断言していますから」
つまり――――
1.弟
2.元彼
3.この二人以外の男性
という三択。
実際、彼女の話の中の登場人物は二人だけしかいないから、
この三択は妥当といえば妥当だ。
「まず2ですが、これは彼女の言葉通り、あり得ないと思います。
元彼が彼女を怨んでて、それでストーカー行為に及ぶという事になると、
高校時代から21歳までのタイムラグが解せません。実家があった場所から
離れてないのであれば、尚更です。高校時代は当然、実家から通ってたでしょうし」
「同じ地域に住んでて、3〜5年経って突然のストーカー化。ない事もないんじゃない?
元彼が引っ越してて戻ってきたとか、偶々依頼者が他の男と歩いてるのを
目撃した、とか」
「でも、現実的とは言い難いです」
ま、確かにね。
実際問題、可能性はゼロじゃないけれど、限りなく低い。
彼女自身が否定しているんだから。
怪しいと思っているのなら、もっと濁した言い方をしただろう。
つまり――――俺には話していない、本人の中で確信となる部分があるという事。
だから、俺も電話での会話で依頼者を支持した。
そんな事を考えながら、胡桃沢君に続きを促す。
「第三者による犯行の可能性も否定は出来ません。ただ、仮に第三者の男性が彼女を
尾行しているのであれば、目的は『性的なもの』か『金銭』、或いは『依頼者の
自覚しない怨み』となります。いずれも、ただ尾行する状態が5年継続されるという
類の目的ではありません。どの目的でも、いつかは攻撃性が発揮される筈です」
「同感だ」
性的衝動にしろ、強盗にしろ、怨みにしろ、尾行だけをずっと続けるのは不自然。
例えば、怨みによる嫌がらせなら、電話番号を調べて無言電話や、中傷ビラを周囲に配る……
などがお決まりのコースだ。
よって、可能性は限りなく低い。
「ですので、消去法で言えば、弟さんが犯人、という事になります」
「目的は?」
「おそらく、心配だったんじゃないでしょうか。お姉さんが」
胡桃沢君の見解は、こうだ。
最初は、依頼者の送り迎えを弟が行っていた。
しかしその後、依頼者は一人で帰宅するようになった。
女性が夜の道を一人で帰るのは、心配。
だから、毎晩こっそりと後を付けて、何もないか見張っていた……という訳だ。
「これなら、彼女が引っ越した後も尾行が続いた事の説明にもなります」
「成程。身内だから、直ぐに引っ越し先もわかる、と。でも、何で5年も黙って
そんな事する必要があるんだ?」
俺の当然とも言えるツッコミに対し、胡桃沢君は自信ありげに一つ頷いた。
「きっと、シスコンなんです!」
「……」
ミもフタもない、たった一つの謎が、そこにはあった。
「それも重度のシスコンです。弟一人、姉一人の家庭ではあり得る話。
社会人になった姉を送り迎えする時点で、その素養はタップリです。
シスコンなら、お姉さんにヘンな虫が付かないよう、5年間ずっと
見張り続ける事も、十分に可能性があります。どうですか、所長。私の推理は」
「確かに、一つの可能性として全否定は出来ない」
俺のその答えに、胡桃沢君は微妙な表情になった。
あんまりポジティブな回答じゃなかったから、当然といえば当然か。
「って事は……所長はそうは思ってない、という事ですか?」
「ま、ね」
「では、聞かせて下さい。所長の推理を」
推理――――それは俺が苦手とする分野。
だから、俺は推理はしない。
するのは、分析。
いつだってそうだ。
俺は、人の話を聞き、そしてそれを細かく分解する。
その中に、必ず確定的要素が潜んでいる。
それを拾い集める作業は、どこかジグソーパズルにも似ていた。
きっと、名探偵と呼ばれる人達は、予め完成図を頭の中に描き、
『このピースの絵柄はこの辺だろう』という推測の元で、パズルを埋めていく。
でも俺は、ピースの一つ一つの形を吟味して、それと合っている部分に
ピースを当て嵌めていく。
時間は掛かる。
でも、誰にでも出来る。
それが――――新米探偵、狭間十色のやり方だった。
「まず、彼女の発言には、幾つか不審な点がある」
「不審……ですか?」
不穏な俺の言葉に、胡桃沢君が緊張感をまとった。
「彼女は26歳。5年前にストーカーが現れたという時期は、21歳。入社当時は20歳だ。
弟さんは4つ下。つまり、当時は16〜17歳。車の運転が出来る年齢じゃない」
「あ……でも、無免許運転……という可能性は?」
「ゼロじゃない。ただ、弟の年齢を聞いた時に、特に動揺した素振りはなかった。
その場合考えられるのは、作為的か……若しくは無自覚か」
他の受け答えの心象から、彼女が天然であるという可能性はない。
そう考えると、作為的、要は『嘘』という事になる。
――――普通なら。
でも、俺は作為的ではないと睨んでいた。
つまりは、無自覚。
それが意味するところは――――とても、難しい問題だった。
「それに、道を変えるのが遅い。2年もずっと、後ろから尾けられ続けるのは
幾らなんでもおかしい。普通は何日かで変える」
「それは……確かに」
「途中で、尾行している相手が男に限定されたのも、妙だ」
「え? でも、女性を尾行するのは男だと断定しても、おかしくは……」
「なら、最初から俺に対して『きっと男です』とか『男の犯行でしょうか?』と
言ってくる。尾行者が男か女かは、とても重要な事だ。それによって、追跡される
動機が大きく変わる。不安の種類も変わってくるし対抗策も変化する。
そこを確認せず、自己解決するのは明らかにおかしい」
仮に、ストーカーの目的が嫌がらせであるならば、寧ろ女性の可能性が高い。
職場の女性が、彼女を気に入らず……といったように。
この可能性は、結論から言えばかなり低い。
ただ、性犯罪目当て、金銭目的――――といった可能性よりは、僅かにだが高い。
『犯人=女性』の可能性を消し去るのは、余りに乱暴だ。
「これらの事から、確かな事が一つがある。胡桃沢君、君ならわかる筈だ」
「私なら……?」
「弟に目を付けた事は、決して悪くない」
俺は、思いつく限りのヒントを、彼女へ贈った。
そう。
弟の存在は、決して軽くはない。
何故なら、彼女が率先して明かした唯一の人物だからだ。
「……弟さんが犯人じゃないのなら……あっ」
胡桃沢君は、『何か』に気付いた。
そう。
犯人は、3択の中にはいない。
そもそも――――
「最初から……ストーカーなんて、いなかった?」
「それが、俺の見解だよ。胡桃沢君」
パイプも葉巻もない口元で微笑み、俺はそう断言した。
調査報告書
依頼者の証言に基づき、調査班は一週間、依頼者の周囲を観察。
その結果、怪しい人影は一切見当たらず。
また、依頼者の弟、および高校時代の交際相手と接触し、確認。
彼等にはいずれもアリバイがあり、犯行は不可能と判断。
結論。
依頼者を恐怖に貶めている尾行者は、依頼者が妄想によって生み出した
想像上の存在である。
以下に、はざま探偵事務所としての見解を記す。
依頼者は5年前、社会に出て間もない時期であり、また残業も多く、
かなりストレスを抱えていた。
そんな中、精神に失調を来たし、誇大妄想を発症する。
このケースにおける誇大妄想は『自分がこんなに弱っているんだから、
必ず弟が助けてくれる』というもの。その為、弟が車で送り迎えをしてくれる
という妄想を抱く(弟は、車による送迎は一切行っていない。本人に確認済み)。
だが、妄想の中の弟は突然、姿を消す。
残業が楽になって、ある程度病状が改善した事による回復と思われる。
しかしその後、再び残業が増え、ストレスの増大に伴い、症状が悪化。
今度は追跡妄想、および注察妄想を発症する事になる。
これらの妄想が、彼女の今回の依頼である『ストーカー』。
すなわち、彼女が尾行されていると思い込んだモノの正体と思われる。
追跡妄想、注察妄想によって、何者かに尾行、監視されているという妄想を
抱いてしまい、その思い込みが固定化してしまった事によって、場所を変えようが、
時間を変えようが、ストーカーは常に彼女の背後に存在する事となった。
また、依頼者の妄想によるストーカーの正体は、『弟』であると推測される。
弟が自分をつけ回していると、彼女は思い込んでいる可能性が極めて高い。
依頼者の中で、弟は当初『自分を助けてくれる存在』だった。
実際、弟の証言でも『姉弟仲は当時、良好だった』という。
だから、依頼者の妄想の中で、弟は車での送迎を行ってくれたのだろう。
しかし、精神疾患の再発、悪化後、彼女の中で『こんなに私が苦しんでいるのに
弟は助けてくれない』という認識に変化した。
弟が自分を助けないのは、弟が変わってしまったから、と。
その複合的な妄想が結びついた結果、彼女の中で『ストーカー=弟』の図式が
定着してしまったのだと推測される。
『精神的におかしくなっているから』という依頼者の証言から察するに、
彼女は『弟がおかしくなってしまい、ストーカーとなって自分を尾け回している』
という妄想に取り憑かれているものと思われる。
場所を移って一週間後に再び現れるのは、『弟ならこれくらいで居場所を
突き止め、尾行を再開するだろう』という無意識下における推認に
基づくもの、と考えられる。
そして、実家へ身を寄せる事に消極的だった事も、これが原因と考えられる。
親に対して、『弟が自分のストーカーになっている』という事は言えないので
相談する事も出来ず、また弟と接触する事も怖いと思っていると推測される。
休みの日に追跡妄想、注察妄想が現れなかったのは、
『弟は休日、趣味のジグソーパズルに興じている』という思い込みが前提にあるから。
この事からも、過去の弟の行動パターンを妄想内に定着させている可能性が高い。
なにより、5年間もの間、何度も場所を移動しているにも関わらず、
常にストーカー被害に遭っていながら、犯人との一切の接触がないというのが
最大の決め手と言える。
よって、この件は『依頼者の精神疾患による妄想』と判断する。
はざま探偵事務所 所長 狭間十色
調査報告書の作成を終えた俺は、少しだけ寒気を感じながら、
そのファイルを印刷し、依頼者の家族の住む実家へと送付する予定の
大型の封筒へと入れた。
実は最初、俺は彼女の虚言を疑った。
暇潰し、退屈しのぎに、作り話で相談を持ちかけるというケースは、
決して多くはないものの、何度かあったからだ。
だから、カマをかけてみた。
『貴女は一人っ子ですか?』
――――と。
年齢の件もあって、少し胡散臭かったからだ。
でも、彼女は『弟の存在』も即座に肯定した。
その反応を見る限り、弟は実在する事を確信。
そうなってくると、虚言の可能性だけではなく、『弟自体が彼女の妄想の産物』
という可能性も消える。
だから、今回の結論に至った訳だ。
「さて……と」
椅子の上で伸びをしながら、一息吐く。
後は、『解決方法に関する見解』も作成しないとな。
本当に大事なのはコッチだ。
といっても、周囲に出来るのはせいぜい、精神医に診て貰うように
依頼者を説得する、くらいの事だが。
実際問題、それが解決の大きな第一歩となる。
「所長……」
ずっと力なく俯いていた胡桃沢君が、顔を上げる。
その表情には、確かな活力が戻っていた。
「残りの書類、私に作らさせて下さい」
「……続けられる? この仕事」
探偵っていう仕事は、必ずしも自分の頭が有効な武器になるとは限らない。
彼女は今回、それを思い知っただろう。
その時のやるせなさや無力感は、かなりのモノ。
だけど、彼女は直ぐに立ち直った。
それは――――探偵の助手として、最も必要な能力の一つでもある。
「もちろんです。好きですから」
力強く頷く胡桃沢君に、俺は席を譲った。
そんなに、探偵助手って仕事が好きだったのか。
知らなかった。
彼女なりに、この仕事を愛してくれた事は、素直に嬉しい。
「……」
「ん? 何?」
「いえ、なんでも」
暫く、俺の方をじーっと眺めていた胡桃沢君は、ふいっと視線を外し、椅子に座った。
微妙に機嫌が悪いのは、何でだろう。
相変わらず、推理は苦手だ。
「……所長は、こういう依頼を何度も経験して来たんですよね?」
何度も、って訳じゃない。
ただ、探偵に依頼する人達の多くは、本当に切羽詰まった人達。
必ずしも、健常な状態とは限らない。
そして、いつも笑って終われるとも限らない。
後味の悪い案件なんて、幾らでもある。
分析や調査が、根本的な解決にはならない事も、珍しくはない。
今回のように。
それでも、俺はこの仕事を辞めたいと思った事はない。
「辛くはないですか……?」
小さい頃からの夢、という訳じゃない。
きっと、天職でもない。
この先に大きな成功が待ってる訳でもない。
それでも。
「生きるってのは、そういう事だよ。胡桃沢君」
その実感がある限りは、追い続けたい。
この、森の中のように複雑に入り組んだ、難解な日常を。
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